◆七色の庭
奏ちゃん一家が隣に越してきたのは、五歳の誕生日を迎えたばかりの夏だった。
同い年の子がいるから仲良くしてあげなさい。
お母さんに言われるまでもなく、わたしはまだみぬその子と友達になりたいと思っていた。近所には年の近い子どもがおらず、ひとりっ子のわたしには遊び相手がいなかったからだ。
わたしの家と隣の家は、芝生の庭が地続きになっていた。白い木の柵がこちらとあちらを区切っているけれど、背の低いそれは区切り以外の役目は果たしておらず、柵越しに会話もできれば物の受け渡しも簡単にできた。
わたしは毎日、この柵のまえで待った。同い年の男の子と出逢うときを。
子どものころの奏ちゃんは、いまと違って体が弱かった。
初めてみたときはびっくりした。こんなに色の白い子どもをわたしはみたことがなかった。陽射しにあたると、透けて消えてしまいそうだった。
手も足も体も細くて、絵本でみた妖精によく似ていた。
――静かで綺麗な子だった。
わたしがみていることに、奏ちゃんは気づいていなかった。水色のちいさなジョウロで、庭の芝生に水をまいていた。
白いひたいに浮かんだ汗をそっとぬぐう、その儚げな姿に気おくれして、友達になりたいと思っていたのに、声をかけるのをためらった。
夏の陽射しはつよく、濃い影が足もとから伸びていた。
話しかけたいのにできなくて、わたしは太陽に背中を灼かれながら、奏ちゃんが庭にまく水のシャワーをもどかしくみていた。
糸のように細い銀色の水が、きらきらと放物線を描いて地面に吸いこまれてゆく。芝生は生き生きと陽射しを照り返し、鮮やかな緑を放っていた。
虹をみたのはそのときだった。
水の糸の束のなかに、七色のひかりがきらめいた。それはちいさな、ほんとうにちいさな虹だったけれど、生まれて初めてみた本物の虹だった。
「にじ!」
思わず叫んでいた。
奏ちゃんはわたしの声に驚いて、水をまくことをやめてしまった。
「にじ、つくって」
わたしのおねだりの意味がわからないのか、奏ちゃんは首をかしげて小鳥みたいに目をしばたたいた。
「みず」
わたしがジョウロを指さすと、首をかしげたままで手もとをみつめた。
「みず、だして」
奏ちゃんはようやくわたしの希望を理解して、ふたたびジョウロを傾けてくれた。
水が七色に輝いた。
「すごい、すごい」
手をたたいて喜ぶわたしに、奏ちゃんは初めてはにかんだような笑顔をみせた。
わたしと奏ちゃんは、それから毎日のようにこの庭で遊んだ。
笹の葉みたいなバッタをつかまえたり、重たい石の裏に隠れるダンゴムシをつついて転がしたりした。勤労なアリの行列を観察するときもあったし、お姫さまのようなアゲハ蝶の可憐さに見惚れることもあった。
ままごともよくした。
たいていわたしがお母さんで、奏ちゃんが子どもの役をした。
お母さんのわたしは、おもちゃの茶碗にごはんをよそう演技をして、「さあ、おたべ」と息子の奏ちゃんに渡す。素直に食べるまねをする奏ちゃんをみて、わたしはいつも満足して言うのだった。
「これで、げんきになりますよ」
このころのわたしは、奏ちゃんを守ってあげなくてはいけない存在だと思っていた。
病気がちだった奏ちゃんは、寝こんで遊べない日がたびたびあった。そんな日は、なにかしらプレゼントを持ってお見舞いした。
「おねつ、だいじょうぶ?」
「うん。ごめんね、あそべなくて」
ベッドのなかで雲のもようの布団をかぶった奏ちゃんは、顔を紅くして瞳を潤ませていた。
「きにしないで。すぐかえるからね」
奏ちゃんはだるそうにわたしのほうに寝返りをうった。氷枕が涼しげな音を立てた。
「はなちゃん、ほんとうにごめんね」
奏ちゃんは悲しそうに瞳を揺らした。
「こんなんじゃ、ぼく、なにもできないね」
幼かったわたしは、このとき初めて胸にあふれた気持ちが何なのか、言葉にするすべを知らなかった。
いまになって思う。わたしはあのとき、初めて『愛おしい』という気持ちがこの世にあることを知ったのだ。
わたしはベッドの傍らに膝をつき、奏ちゃんのちいさな頭をなでた。
「そうちゃんは、いろんなこと、できているよ」
奏ちゃんの黒い、小鹿みたいに無垢な瞳をみつめて、わたしは言った。
「にじをつくってくれたよ」
水とひかりで、虹をつくってくれたよ。
いまだって、こうしてわたしとお話ができているよ。
目もみえるし、お耳もきこえているし、手も足もうごいているよ。
「はなが、にじのいしをあげるね。だからげんきだして」
わたしはスカートのポケットから七色にきらめくビー玉を取りだし、奏ちゃんのやわらかいてのひらに握らせた。
「はなの、たからものだよ。そうちゃんにあげる」
窓にひろがる空のひかりにあててみてね。虹みたいでとても綺麗なの。
奏ちゃんは、いまにも泣きだしそうな顔をした。
「たからものを、くれるの?」
「うん。だいじにしてね」
「もらえない」
「どうして? そうちゃんがげんきになるなら、はな、いくらでもあげるよ」
奏ちゃんは、てのひらを握りしめて涙ぐんだ。
「つらいの? おくすりはのんだ?」
「はなちゃん、ごめんね」
ごめんね、と繰りかえして、奏ちゃんは静かに泣いた。
「そうちゃん、『ごめんね』じゃないんだよ」
わたしはすこし得意になって、お母さんの口癖のまねをした。
「こんなときは、『ありがとう』っていうんだよ」
わたしが笑いかけると、奏ちゃんは泣きたいのか笑いたいのかよくわからない表情をして、氷枕に顔をうずめた。そのまま蝉の鳴き声に重ねるように、澄んだ声で、ありがとう、と言った。