◆食物連鎖
奏ちゃんは泣いていた。
「はなちゃん、食われるのか!? 食われてしまうのか!?」
テレビ画面は暗青色に染まっていた。
皇帝ペンギンのドキュメンタリー映画だ。暗い海のなかを、ミサイルみたいな黒い影がチラチラと横切る。
──不穏な静寂。
「はなちゃん、はなちゃん!」
「もうっ、いまいいところなんだから黙っててよう!」
深い海の遠くから、潜水艦みたいな白い影が近づいてくる。
「はなちゃん助けてくれよ、あいつペンギンを食う気なんだ!」
「奏ちゃん。アザラシも、生きていくためには食わねばならないんだよ」
「もうみてられないよ……!」
奏ちゃんは、握りしめていたタオルを両目にあてた。
彼は動物ものにめっぽう弱い。
「目つむってていいから黙っててね」
目をふさいだまま、奏ちゃんは鼻をすすった。
「はなちゃんは鬼だ……」
アザラシが、逃げ遅れたペンギンに襲いかかる。
悲鳴が聞こえた気がした。
帰らなくてはならないのだ。冬の嵐に耐えて、夫と子どもが自分の帰りを待っている。
帰らなくてはならない。
彼らのもとへ。
帰らなくては。
生きて帰らなくては。
水面に一瞬だけ顔を出して、ペンギンは声もなく海に沈んだ。
弱肉強食。自然は過酷だ。弱い者は生きてはいけない。
生まれた瞬間から死んでゆく瞬間まで、食うか食われるかの瀬戸際にさらされている。それでもペンギンたちは、決まった相手と静かな愛のダンスを踊り、凍える冬の洗礼を浴びながら大切に卵をあたためる。
弱い者は生きてはいけない。でも……
アザラシに食われるペンギンは、弱いのかな?
命を賭けて生きるペンギンは、アザラシよりも弱いのかな?
だったら命を食べて生きる人間は、ほかの動物よりも強いのかな?
「奏ちゃん。弱肉強食って、なに?」
わたしは強くない。なのにわたしはいろんな生き物を食べている。
わたしの命は、ほかのいろんな生き物の命の犠牲のうえに成り立っている。
この世界は弱肉強食。
だけどわたしは強くない。強くないわたしは、ほんとうなら、食べられてしまう立場のはずなのに。
「奏ちゃん。人間って、ほかの命を犠牲にしてまで生きる価値はあるのかな?」
ソファの上で窮屈そうに体育座りをしていた奏ちゃんは、不思議そうな顔をして首をかしげた。
「罪悪感でも芽生えたの?」
「うん。わたしが生きていくってことは、そのためにほかの命を犠牲にするってことでしょう?」
奏ちゃんは、抱えた膝のうえに頬をのせ、虚空をみつめてなにかを考えていた。黒い髪がなめらかに横に流れている。
やがてわたしに視線を移すと、やわらかに微笑んで言った。
「命があるのは動物だけじゃないだろ。肉も野菜も果物もぜんぶ命だよ。どうする? なにも食べずに餓死する?」
「奏ちゃん、すこし意地悪だね」
「そう? はなちゃんがなにも食べなくなったら、そのかわり、はなちゃんの命がなくなってしまうだろ? それこそ命を粗末にするってことにつながるんじゃないの?」
やさしく語りかけられて、わたしは押し黙った。
奏ちゃんは正しい。
思考が偏るのはわたしの悪い癖だと思う。
「すくなくともおれはね、はなちゃんの命が大事」
奏ちゃんは、恋人に言うようなことをさらりと言ってのけた。不意をつかれて、わたしはどぎまぎしてしまう。
「奏ちゃんって、恥ずかしい」
わたしの照れかくしの言葉をうけて、奏ちゃんは心外だと言いたげに柳眉をあげた。
「恥ずかしい? いまので感動できないってどういう感性してるのさ。はなちゃん、あんたもうすこし感性を磨きなよ。へんな思想に目覚めてる暇があるならさ」
奏ちゃんはたまに毒舌だ。これ以上の毒をくらわないように、わたしは死んだふりをするしかない。
奏ちゃんは、この家にいつも独りだ。共働きの両親は、夜遅くまで帰って来ない。
だけどわたしは、この家に夜遅くまでいたことがない。奏ちゃんはいつも、外が暗くなるころには「帰りなさい」とわたしを見送るのが常だった。
お隣さんなのに、むしろお隣さんだから?
奏ちゃんは節度のかたまりのような人だ。
「ラムネあるけど、飲む?」
返事もしていないのに、奏ちゃんは冷蔵庫からラムネの瓶を二本取りだした。ビー玉の栓をあけながら、なにか食べる? ときいた。
「おなかすいてるんだろ。はなちゃんは空腹になるとロクなこと考えないんだ」
ラムネをテーブルに置き、ふたたび冷蔵庫をあけると卵のパックを出してみせた。
「おれがオムレツを作ってあげよう」
「きのこオムレツが食べたい」
かがみこんで野菜室をごそごそ探りながら、奏ちゃんは楽しそうに呟いた。
「贅沢なお姫さまだ」
ニワトリとしめじに感謝しなよ、と笑った。