婚約破棄騒動(前編)
煌びやかな大広間の一角で、それは起こった。
艶やかな薄茶色の髪を品良く纏めている麗しい令嬢と対峙するように、憤怒の形相をした貴族の青年が立っており、彼の腕には涙目のちんまりとした(おそらく貴族の)令嬢が抱きついている。
そんな二人の後ろには、同じ位の年頃の貴族の青年達が並んでいた。皆、怒りの表情だ。
薄茶色の髪の令嬢にはどの顔も多少の見覚えがあった。
「ロクサーヌ、今度という今度は見過ごすことはできない。お前のような悪女は我がラクロワ侯爵家に相応しくない」
右手人差し指を突き出して貴族の青年がそう言い放つと、事の成り行きを見ていた周囲がざわりと揺れた。皆、彼がこの後言うであろう言葉が何であるか、想像できてしまったからだ。
何故ならここ最近、それが若い貴族の間で流行っているからだ。
それとは何か?
ずばりーー“婚約破棄”である。
別に婚約破棄をするのは構わない。どうしてもしたい事情があるのだろう。幼いうちから婚約する事は、貴族にとって当たり前の事であり、それは家同士を繋げる為のものである。そこには色々と思惑等があるのだが、家同士の取り決めではあるものの、お互いが納得すれば白紙に戻す事ができるのだ。
大勢の前で婚約破棄をしようとするとは、よほどの事があったからかもしれない。が、よりにもよって何故今日なのか?
どんな意図があって、この国の第一王子が帰国した祝いの夜会を、彼は選んだのか?
王族は当然だが、国内の有力貴族は勿論の事、各国の大使や高官なども居るというのに……理解できない。
阿呆なのか?
阿呆なのだろう。
阿呆としか思えない。
阿呆なら仕方がない。
治す薬がないのだから。
「私ダニエル・ラクロワは、ロクサーヌ・ファビウスとの婚約を今ここで破棄する! そしてロクサーヌからの卑劣な虐めに耐えた、この健気で愛らしいシモンヌ・ゴセック男爵令嬢こそ我が家にふさわしいと判断した。よって私はシモンヌと新たに婚約を結ぶ事を、今ここで発表する!」
「ああ〜んダニエルさまぁ」
嬉しいですぅーーと、ちんまりした令嬢……ではなく、シモンヌは潤んだ目をさらに潤ませ、ダニエルの腕を強く強く抱きしめた。ちんまりとはしているが、その胸は反するように豊満で、それを擦り付けているように見える。敏感なお年頃なダニエルの頬は、誰が見ても分かるくらい赤くなっていった。
「卑劣な虐めと申されましたが……一体何の事でしょうか?」
こてりと首傾げてそう問えば、ダニエルは心底嫌悪しているように顔を歪めた。
「はっ、何のことだと? どこまでも醜い女だ。お前がシモンヌの教科書を隠したり、完成間近の絵を切り裂いたり、私のために刺繍したハンカチにわざとインクをこぼして汚したり、お茶会にシモンヌだけ招待せず仲間外れにしたりしたではないか! 覚えが無いとは言わせないぞ‼︎」
ダニエルを援護するように、後ろの青年達が「そうだ、そうだ」と声をあげる。
「それでも屈しないシモンヌに焦った貴女は、彼女を階段から突き落として殺そうとした。いくらダニエルとシモンヌの仲が良いからといって、嫉妬で人を殺そうとはなんて卑劣なんだ」
「ポネット伯爵子息殿、わたくしがそのような事をしたという、確固たる証拠が有るのでしょうね?」
「勿論です。被害者であるシモンヌが、涙ながらにそう証言したのですから!」
「シモンヌ嬢の証言ねぇ……。ダガン子爵子息殿、確か貴方は上級学院で法律を習っていましたわよね? とても優秀だとベルツ教授が褒めていましたが、その貴方がそれが証拠になると仰るとはねぇ……」
はらりとセンスを広げ、ロクサーヌは口元を覆う。もちろんこれは、笑いそうになっているのを隠す為だ。ちらりとポネット伯爵やダガン子爵を見れば、ワナワナと唇を震わせて、お馬鹿な発言をしている息子を見ている。
可哀想に……どちらも年がいってからできた息子で、とても甘やかしてきたのだろう。まさかそのツケが、今この場で帰ってくるとは誰が想像しただろうか? 誰もいないだろう。
馬鹿馬鹿しくてやってられないと思うものの、ロクサーヌはダニエルにしがみ付いているシモンヌに視線をやった。
シモンヌ・コゼックーー父親であるコゼック男爵が下女に孕ませた子供であり、男爵の正妻が亡くなった事により男爵家に正式に迎え入れられた。それまでは母親の実家で生活しており、貴族の令嬢としての作法等々は何一つ身についていない。
母親は実家に戻ってすぐ、以前から自分に好意を寄せていた幼馴染みの男と結婚した。もちろん男にだけは事情を話してあった。月足らずでシモンヌを産んだものの、近所の人々は誰も疑う事はなく、赤ん坊はこの二人の子供だと思っていた。
母親は男爵家から迎えが来るとは思っていなかったので、娘に真実を告げる気はなかった。なのでシモンヌは、男爵家の馬車が来たあの日まで、自分が貴族の娘であると知らなかった。
平民としての生活が長かったからか、貴族として育ってきた者から見れば、彼女の振る舞いは自由奔放であった。
己が知識が普通だと思っているシモンヌに対し、貴族の令嬢達は盛大に眉をひそめたが、令息達にそれはかなり新鮮に映ったようで、シモンヌに興味を持つ者が多く出た。
愛らしい顔立ちと、それに反するような肉欲的な肢体も、少なからず要因となっているだろう。シモンヌは次々と高位貴族の青年達を虜に、貴族として当たり前である義務や政略結婚をおかしいと否定し、自分のしたい事をやり、自分の好きな相手と結婚するのが普通だと言い切った。
その結果、彼女が学院に編入してから半年の間に、数多の令嬢がロクサーヌへ涙ながらに訴えたのだ。
皆、婚約者から身に覚えのない事で責められたり、貶めるような事を言われたり、婚約を破棄されたり匂わされたりしているーーと。
その全てに、シモンヌが関係していたのだ。
このままでは学院の秩序は乱れ、貴族社会にも悪い影響が出るだろう。
大変な事が起こるかもしれない。
これ以上被害者が増えないうちに、原因である彼女をどうにかしなくてはーーと、解決策を考えていたロクサーヌだったが、今夜このような事が己の身に起ころうとは……神様の思し召しかもしれない。これを上手く利用すれば良いのだから。
それにしてもーーと、ロクサーヌの眉宇に深い皺ができる。何故このダニエル・ラクロワは、自分を“婚約者”だと思っているのか? まあ、その勘違いのおかげで、問題を解決できそうなのだが……やはり気持ちの良いものではない。確かに婚約者はいる。いるのだが、自分の目の前にる阿呆ではないのだ。
「一つお聞きしたいのですが……よろしいですか? ラクロワ侯爵子息」
「罪を認めこの場に額付き、シモンヌに謝り許しを乞うなら聞いてやろう」
ふふんと鼻息荒くそう言ったダニエルに、ロクサーヌは緩く頭を振った。
「いえ。それは認めません。していませんから、一つも。第一わたくし、そこに居るシモンヌ・ゴセック嬢と、一度も話しをしていませんもの。クラスだって違いますしね。ましてや虐めなど、する意味も必要も無いですわ」
「ひ、酷い……あたしが元平民だからって……あたしは謝ってくれれば、ロクサーヌさんのした事を全て許そうと思ってたのに……。どうしてそんなにあたしの事が嫌いなんですか? あたしが何をしたって言うんですか?」
両手で顔を覆い、くすんくすんと鼻を鳴らすシモンヌを、青年達が必死に慰め始める。白け切ったその場の空気などお構いなしに。
「シモンヌ、きみは本当に優しい心の持ち主なのだな。それに比べて……ロクサーヌ、貴様という女は屑以下だな‼︎」
キッとダニエルがロクサーヌを睨む。他の青年達も同じだ。だが、そんなものは怖くない。今ロクサーヌがやるべきなのは、彼等の勘違いを訂正し真実を教え、自分達が起こした事の重大さを理解させる事だ。
「ラクロワ侯爵子息殿、婚約破棄と言われても、わたくし困ってしまいますわ。いつ、わたくし達は、婚約をしたのですか? 教えてくださいませ。申し訳ありませんが、わたくしには身に覚えがありませんもの」
「はあ? 何を馬鹿な事を。五年前にしただろうが」
「確かにわたくし、五年前に婚約はいたしましたわ。でも、貴方ではありませんことよ? どなたと勘違いなさってらっしゃるのかしら?」
呆れたような言いぶりに、今度はダニエルが特大の溜め息をついた。
「罪から逃れる為とはいえ、苦し過ぎる言い訳だなロクサーヌ。ファビウス公爵も、どんな教育をしてきたのやら……。切れ者宰相だと言われ称賛されても、娘一人まともに育てられないとはな」
おいおい、そんなこと言っていいのかよーーとは、事の成り行きを見守っている周囲の人々の心の声だ。
いつの間にか国王が入室しており、宰相であるロクサーヌの父は当然王の側にいて、王と共にこの騒動を見ている。そんなファビウス公爵の存在に気がついた者達が、気づかれないようチラチラとそちらを見れば、公爵は薄っすらと唇端を吊り上げていた。
ラクロワ家、終わったなーーと、感じた者は少なくないだろう。ラクロワ侯爵本人ですら、青ざめた顔で己が息子を見ているのだから。
ダニエル一人を家から放り出したとしても、ラクロワ家に下される罰は小さくはないだろう。ロクサーヌに支払う慰謝料だけでも、かなり高額になるというのに………。
どこでどう間違えたのか分からない。侯爵は深く大きな溜め息をついた。
確かに少し思い込みの激しい所はあったが、貴族としての常識はちゃんと教えてきた。侯爵家の後継として、恥ずかしくない立ち居振る舞いも、年相応にはできていたはずだ。それなのに、どうしてこんな事になったのか。
領地を幾つか手放すくらいで済めば良いが、第一王子の帰国を祝う夜会で騒動を起こしたのだ、爵位が下がる可能性は十分過ぎるほどある。
先祖が守ってきたものが、爵位を継いでから自分が守ってきたものが、己の息子の所為で失う事になろうとは……侯爵は倒れられるものなら、今すぐこの場で気を失いたかった。




