吾輩と下僕
自分が主人だと思っているお猫様と、下僕だと思われている飼い主の女性のお話。
本文中に出てくるブランド猫とは、ペットショップやブリーダーさんから買う猫ちゃんのことです。
吾輩は猫である。
名を“雪之丞”という。
白く美しい長い被毛と、宝石の如く青く澄んだ瞳の美猫であるが故に、吾輩を見た人間共の多くはブランド猫だと思うらしい。皆吾輩の下僕に、吾輩が何の種類かを聞いている。そのたびに下僕は困った顔になるのだ。
吾輩は先祖代々由緒正しい“雑種”だ。どこかでブランド猫の血が入った可能性はあるが、結局は雑種だ。「野良猫が産んだ子なんですよ。この子だけが真っ白な長毛で、他の兄弟達は短毛なんですよ」と言っても、半分くらいしか下僕の言う事を信じてくれない。本当はペットショップで買ったのだろうと、陰で下僕を嘘つき呼ばわりする者までいた。
それもこれも、吾輩が美し過ぎるのが原因だ。
ああ、美しいとは罪深い。
下僕の朝は遅い。
自宅でできる仕事をしている為、決まった時間に起きる必要がないからだ。それだけではない。日付けが変わって一、二時間してから寝る所為でもある。
ちなみに吾輩の下僕の名は、“宮原 莉乃”という。今年で二十八歳になる独身の雌だ。猫の吾輩から見ても、下僕はなかなか可愛い部類に入る。実年齢よりもかなり若く見られるのが悩みらしいが、それが贅沢な悩みだという事をいい加減理解した方がいいだろう。
「おはよー、ゆきのじょ〜」
「にゃーう」
「今日も朝から美しいね」
下僕の枕に顎を乗せている伏せている吾輩の頭を撫で、狭い額にチューっとおはようのキスをされた。これは下僕に引き取られてから、毎朝されている事である。
だが、この行為は朝だけではない。
好きな時に好きなだけ、下僕は吾輩の額やら頭やらにチュッチュチュッチュするのだ。
それだけならまだ良い。
肉球を揉み揉みしたり匂いを嗅いだり、柔らかな吾輩の腹に顔を埋め、スーハースーハーしながら、『雪様尊い』『雪様良い匂い』とか言っている。
も、もしや……吾輩の下僕は、“変態”とかいうやつなのか?
そうなのか?
しかも“とうとい”とは何だ?
美味いものか?
だとしたら吾輩にも食べさせろ。
今のカリカリはもう飽きたぞ。そろそろ違うやつにしてくれ。
吾輩の下僕が特別なのか、それとも下僕とは皆こうなのか……室内飼いの吾輩には分からないが、まあそれほど嫌ではないので今は放っておく。
「さて、と。洗濯もしたし、雪之丞そろそろ行こうか? よいっしょっと。少し重くなったかな」
吾輩が専用のクッションで寛いでいると、下僕に抱き上げられてしまった。そのままキャットタワーの横にある、長方形の箱の前へと連れて行かれ、それの蓋をパカリと開けて吾輩を中へ下ろし蓋を閉じた。
最悪だ。
最悪だ。
最悪だ。
ここに入れられたという事は、吾輩はあそこへ連れて行かれるという事だ! 緊急事態である。何故あのような所へ、吾輩が行かなくてはならないのだ‼︎
ギロリと下僕を見上げる。吾輩の視線に気がついた下僕は、透明な蓋を指先でトントンと叩いた。
「そんな目で見たってダーメ。年に一回だけなんだから、これくらい我慢しなさい」
「なあああああう‼︎」
年に一回でも嫌なものは嫌なのだ。盛大に抗議の声を上げた。
「はいはい。行きますよ〜」
吾輩の抗議を無視し、下僕は吾輩を連れてあの場所へと向かった。
動物病院である。
吾輩が下僕とこの街に来たのは二年近く前で、待合室で一緒だったチワワによると、じーさんとおっさんと若造でやっている。家族経営というやつなのだそうだ。じーさんは現役は退いたらしく、滅多に病院には来ないそうだ。来たとしても、必要ならおっさんと若造の助手をするが、そうじゃなければ待合室にいる犬や猫を愛でているだけだとか。
しかもこのじーさん、かなりのテクニシャンらしい。
マッサージをされるとあまりの気持ち良さに、身も心も蕩けるのだとか……。うう、されてみたい。吾輩はこのじーさんに会った事がないのだ。
そうこうしているうちに、動物病院に着いてしまった。
ドアを引けば、カランコロンとドアベルが小さな音をたてる。こんにちはーーと、下僕が診察券を受け付けに出した。壁際に置かれている長椅子に座った下僕は、吾輩の入ったそれを横に置いた。珍しい事に今日は吾輩達の他には誰もいない。すぐに名前が呼ばれ診察室に入った。
「こんにちは。宮原さん、雪之丞君」
声の様子から、どうやら若造のようだ。頭上の蓋が開けられ、下僕よりも大きな手が吾輩を抱き上げた。
「久しぶりだね、雪之丞君。いつ見ても綺麗だねぇきみは」
まずは体重だねと、若造は診察台の側面に表示されている数字を見た。それをカルテに書き込む。
「五kgですね。やっぱりどこかで大型種の血が入ってるのかなあ? 雪之丞君は、全体的に大きいですし、若いからまだまだ大きくなりそうですよね」
「あー、やっぱりそう思いますか? 他の兄弟達と比べても、この子だけ一回り以上大きんですよ」
「毛並みも良いですし、ラグドールとかメインクーンとかありそうですよね」
「先生。流石に野良なのでそれは……」
「人間は自分勝手ですからね。自分の都合で捨てたりしますから、可能性としては無いわけじゃありませんよ」
聴診器で心臓の音を聞いた後、腹やら後ろ脚の付け根やらを丁寧に触診し、若造は吾輩の頭を優しい手付きで撫でた。耳の中や目の状態を確認し、歯に歯垢が無いか歯肉炎は無いかチェックすると、若造はもう一度吾輩の頭を撫でた。それからおもむろに掌ほどの大きさのそれを出し、先端に付いている突起を耳の中に突っ込んだ。ピッと音がしたと思ったら、すぐにそれが引き抜かれる。
「はい熱もないですね。それじゃあ打ちましょうか。岸さん、軽く押さえてくれる」
「はい。雪く〜ん、すぐに済むからね。良い子にしててね」
下僕よりも若い雌が吾輩の正面に立ち、両手で前脚の直ぐ上辺りをきゅっと押さえる。動作がぎこちないので、まだ慣れていないのがバレバレだ。
「っ‼︎」
などと考えていたら、チクンと首の後ろに痛みが走った。
「はい、お終い。良い子だね雪之丞君は」
揉み揉みと、痛みのあった場所を揉まれ、ついでに耳の間を指先でカシカシされた。若造は名残惜しそうに吾輩を見つめ、出した時同様優しい手付きで吾輩を箱の中へと戻す。ああ、これで帰れる。良かった良かった。
支払いを済ませ、来た道を戻っていく。途中にある持ち帰り専門の店で、下僕は自分用の昼ご飯を買った。下僕の食べる物の大半を、吾輩は食べる事ができない。美味そうな匂いを嗅ぐだけだ。酷い話である。
「今日は良い子だったから、帰ったら美味しい猫缶開けてあげるね」
「うにゃあああん」
きっとあの猫缶だ。
早く、早く歩け。もっと早く歩け下僕。ああもう、何をのろのろ歩いているんだ。ったく、二本足はこれだからダメなんだ。これじゃいつまで経っても着かないじゃないか!
走れ走れ走れ走れ!
はーしーれぇぇぇぇぇぇーーーーーー!
「はいはい。お腹空いたね。もうちょっと我慢してね」
残念な事に吾輩の叫びは下僕には届かず、病院に行く時と同じ歩みのままだった。
遅い。
遅いぞ。
遅過ぎるぞーーーーーー‼︎
ウチには3ニャンいるのですが、家族の中で下僕は朔良だけなので大変です。




