夢か現か(後編)
「さて、にしのゆうり。私は六羽家の当主で、六羽 尭央という。この奏の国では、王家を補佐し、また、監視する役割を担う羽家と呼ばれる家が十ある。我が家は六番目の羽家――という事だ」
解ったか?――と、問う彼に、私は小さく頷いた。それを見た彼は、満足そうに口端を上げた。そこでふと、“ろくうたかお”とはどんな字を書くのだろうか気になった。なので素直にそれを訊いたら、和紙のような紙に、≪六羽 尭央≫と流れるような筆捌きで書いてくれた。
津和野さんの時もそうだったけれど、こちらの文字は漢字(日本語)なのでホッとする。私の名前もどういう字を書くのかと問われたので、彼の名前の横に≪西野 夕梨≫と書いた。あまりにも稚拙な文字に、恥ずかしくて顔が赤くなる。小学生の頃、近所の書道教室に通っていたのだけれど、教室内の静寂に耐え切れず、たった一年で辞めてしまったのだ。こんな事になると判っていたのなら、辞めたりなんかしなかったのに………。
「お前の話を聞き、まさかとは思った。こんな事は、絶対に起こりえない事だ――と」
私の向かい側のイスに座っている彼は、そう言うと深々と溜息をついた。
「これは当家の主が代々つけている記録書の一部だ。これによると、どうやら百年~二百年程度に一度の割合で“こういう事”が起こっている」
「こういう事?」
「お前のように、異なる世界からこちらへと渡ってくる者がいる――という事だ。それは一人であったり、複数であったり……その時々で違っている」
「は?」
私の頭の中に、某異世界トリップの逆ハーなゲームが浮んだ。まさかあれみたいに、私ってば「〇〇の巫女」とかっていうやつなわけ!?
「あの、それって……その人達は元の世界に……」
「帰る方法がない故、皆、こちらで天寿を全うしている。王の側妃になった者もいれば、高官となった者もいる」
「……」
ちょっと待てよ。あのゲームじゃ確か、使命を果たしたら元の世界に帰れるはず。今、彼は何て言った? 帰る方法がないって言ったよね? 帰れないって……帰れないってそれって………。
「嘘……」
ぽたぽたと手の甲に涙が落ち、噛み締めた唇が戦慄く。いきなり泣き出した事に驚いた彼は、急いで私の横へ座ると、胸もとから取り出した布で涙を拭ってくれた。
「泣くな――とは言わぬ。だがな、夕梨。お前は現実を受け入れ、一日でも早くこちらに慣れなければならない」
「嫌、嫌だ。こんな所に居たくない。帰りたい……帰りたいの……私、帰りたい……家に帰してよっ!!」
これは八つ当たりだと解っていても、今の私にはそれをぶつける相手は彼しかいない。この人にしてみれば、それはとても迷惑な話なのだろうけど。
「夕梨……」
聞き分けのない小さな子供みたいに、帰してよと泣き叫ぶ私を宥めるかように、彼は抱く腕に力をこめ頬を頭に擦りつけた。
「解った……解ったから……気はすすまぬが、他の羽家にも問い合わせてみよう……。もしかしたら我が家の記録書に書かれていない事が、他家には書かれているかもしれない。だが夕梨、あまり期待はするなよ? 恥ずかしい話だが……我ら羽家は、政意外では、あまり交流がないのだ。問い合わせた所で、それに応えてくれるかどうか……」
「うっ……ううっ……」
「協力は惜しまない……本当だ。私は嘘は言わぬ。夕梨、今は泣きたいだけ泣けばいい。それで心が少しでも軽くなるのならば、今は好きなだけ泣きなさい」
激しく嗚咽する私の手を握り、彼は「お前が帰れるその日まで、私がお前の傍にずっといてやる」と、この場限りの嘘とは思えないほど優しい声でそう言ってくれた。
私の涙腺は倒壊した。
彼の胸に縋りつき、わあわあと大声で泣く私を、彼はずっと抱き締めていてくれた。
この後、約束を守り彼は他の羽家に問い合わせてくれたけれど、「そのような記録はない」と、なんとも素っ気ない返事が返ってきただけだった。
◆◆◆
元の世界に帰ることを諦めるのに、そう時間は長くはかからず……私はこの世界で生きていくしかないのだと腹を括った。そんな私を、尭央さんは常に気にかけてくれていて、津和野さんを私に付けてくれた。なので私は、彼女からこの国の事を色々と教えてもらったので、こちらの一般常識は身についたと思う。
こちらに来て一年後、尭央さんは“宰相”となった。
十ある羽家が順番に宰相を務める決まりになっていて、任期は三年なのだそうだが、場合によっては縮んだり延びたりするとの事だった。
宰相になってからといもの、尭央さんは王城に泊まる事が増え、それまで毎日一緒に食事をしていたのに私一人だけとなった。
そこで漸く、私は自分の気持ちに気づいた。
私は彼が好きなのだ。
そしてこの想いは、けっして報われない。
何故なら私は、こちらの人間ではないからだ。
彼に釣り合うだけのモノを、私は何一つもっていない。
けれど私の存在は、彼が奥さんを迎える時に妨げとなるだろう。迷惑をかけてしまう。だったらその前に、早々にここから出て行くべきだ。
ここを出て、一人で生きて行く――そのために必要な事は何かを考え、私でもできる仕事はないかと、身支度を手伝ってくれていた津和野さんに相談すると、彼女は何故か酷く困った顔をした。
どうしてそんな顔をするのか解らない。それが顔に出ていたのか……彼女は「考えておきますね」と言って、話題を別のものへと変えてしまった。
考えておく――そう言ってくれたものの、数日経っても津和野さんはその件に関して、何も言ってはくれなかった。
やはり異世界人の私に、こちらでできる仕事など、無いのだろうか?――と、蓮のような花が浮ぶ大きな池の石橋をのろのろと歩いていると、反対側から尭央さんが猛烈な勢いで走ってくるのが見えた。久しぶりに見る彼は、なんだかとっても慌てているらしい……私は彼が慌てた所を、今まで一度も見た事がないので、珍しい事もあるものだと思っていると、彼は私の前で足を止め私の両腕を強く掴んだ。
「夕梨、お前、ここを出て行くつもりなのか!!」
「え? あ、はい。だって私、いつまでもこちらにお世話になっているわけには……」
「駄目だ!」
「え?」
「ここを出て行くことは許さぬ」
「え? いや、でも……」
「私が言った事、お前は忘れたのか? 私が傍に居てやると、あの時言ったであろう?」
「あ、でも、それは……」
帰れないと判った今、そうしてもらう必要はない。それを彼に言った途端、物凄い力で抱き締められた。
「た、尭央さん?」
「駄目だ……駄目だぞ夕梨。私の傍から離れるなど、そんな事は絶対に許さぬ」
喉の奥から絞り出すような苦しげな声でそう言って、彼は私を抱き上げると早足で石橋を渡っていった。そして私に宛がわれた部屋へ入ると奥へと向かう。そこにあるのは寝台で……彼は私をそこへ下ろすと、少し潤んだ瞳で私を見ながら優しく頬を撫でた。
「夕梨、津和野に聞いたが……お前は自分にでもできる仕事を探しているそうだな。あるぞ……お前にできる仕事が。否、これはお前にしかできない仕事だ」
「私にしかできない仕事?」
「ああ」
「何です? それ?」
「知りたいか?」
この状況下で考えられる事は一つだけれど、私はあえてそれを自分から言わずにこくりと頷いた。だって、嫌だもの。自分で「愛人」なんて言うのは。
「お前にしかできない仕事というのは、それは私の“妻”だ」
「……へ?」
てっきり“愛人”だと思っていた私は、驚きのあまり目を見開き、顎が外れるんじゃないかと思うくらい大口を開けた。ついこの間、彼には奏王の妹との結婚話が持ち上がったばかりで……だから私は“愛人”なのかと思ったのだ。
「あ、あの……王妹殿下と結婚するんじゃ……」
「は? そんなものは断ったに決まっているだろう。私にはお前がいるのに、何故王妹なんぞと結婚しなくちゃいけないんだ」
心底嫌そうな顔をして、尭央さんは前髪を指先で軽く払った。王妹殿下って、一体どんな女性なんだろう? 尭央さんに、こんな顔させるなんて……寧麗さんみたいなのかな?
「愛しているよ、夕梨。二年前、お前を初めて見た時から……私はお前が欲しかった」
「え? え?」
「お前は夕梨? お前は私が嫌いか? 私を欲しくはないか?」
この二年……私に気がある素振りなど、これっぽっちも見せなかったのに……それなのに、この急展開はどういう事よ!?
「た、尭央さんは、その、私が好き……なんですか?」
「いや、好きではない。愛しているんだ」
「……は?」
尭央さんが、私を、愛している? これって自分に都合の良い夢なんじゃないだろうかと、私は私の頬をおもいっきり抓った。
「痛い……」
ということは、これは夢じゃなくて………現実?!
「何をやっているのだ、お前は……」
「あ、いや、夢かなぁと思って」
「夢って……」
はあっと大きな溜息をついて、尭央さんは「夢ではなく現だ」と言う。
「夕梨、私の妻になるか?」
私の頬に触れている彼の手の上に、そうっと手を重ねる。言葉にしなくても、私の気持ちが通じたのか、彼の口もとが綻んだ。
「そうか。なるか」
そう言って尭央さんは、彼を見上げる私の唇に、そっと触れるだけのキスをした。
こちらへ来た当初は、これは私が見ている夢の世界で、朝、目が覚めたら現実世界に戻るのだと思っていた。
そうであってくれと願っていた。
でも、目が覚めても様子は変わらず……これが夢などではなく、現実であるのだという事を私に突きつける。
それがどんなに悲しかったか……どんなに切なかった………。
でも今は、これが夢じゃなくて良かったと思う。
うん。
夢じゃなくて良かった。




