その朝彼女に恋をした(前編)
いつもと違う時間の電車に乗った男の子が恋に落ちるお話。
2007.08.30自サイトに掲載。これが初めて書いた短編だったりします。
いつもより三十分早い電車に乗ったのは、高校に入って初めてのことだった。いつも乗る時間帯は、通勤ラッシュと通学ラッシュが重なる魔の時間――ぎゅうぎゅうに押しつぶされながら、俺は高校のある駅までの約一時間をその中で過ごす。でも今朝は珍しく目覚ましが鳴る前に起きてしまったから、こうしていつもより早い電車に乗ることができたというわけだ。さすがに座れるほどガラ空きではないけれど、立っている人達の間隔に余裕があった。
沢野木町駅で、かなりの人が降りていく。ここは他線と乗り換えのできる駅だから、降りる人が多い分、乗ってくる人も多い。運が良いことに、俺の目の前の人がここで降りたので座ることができた。鞄から数学の教科書を取り出し、昨夜解けなかった問題に再度チャレンジしていると、控えめな綺麗な声が頭上から降ってきた。
「ねえきみ。悪いんだけど、あそこの妊婦さんに席を譲ってあげてくれないかな?」
「え?」
教科書から顔を上げた俺の目の前に、聖鈴女学院の制服を着た女の子が立っていた。ドキリと俺の心臓が跳ねる。すっげぇ可愛い………。
「い、いいけど、どこ?」
俺は平静を装って、彼女にそう言った。
「あっち。ホラ、連結部分に近い所にいるあの人。ね、なんか具合悪そうでしょう?」
彼女の指差した方に、ハンカチで口もとを押さえている女性が立っていた。どう見ても妊婦には見えない。俺の考えが分かったのか、彼女は「バックに付いてるストラップを見て」と言った。そこには卵の殻の中にヒヨコのようなキャラクターが入っている、可愛らしい絵が描かれたモノが付いていた。
「あれね、妊婦さんのマークなんだよ」
アーモンド形の目を少し細めて、彼女は俺にそう説明した。
「そうなの?」
「うん。お姉ちゃんが同じ物を持ってたから、間違いないよ」
お姉ちゃんね、今、妊娠三ヶ月なの――そう告げた声は、とても嬉しそうだった。
「そっか、わかったよ。なあ、ここまできみが、あの人を連れてこられる?」
「大丈夫。ちょっと待ってて」
彼女はにこり笑うと、立っている人の間を上手に擦り抜けていった。そして目的の女性の所へ辿り着き、言葉を交わし、その女性を俺の方へと連れて戻ってきた。俺は数学の教科書をしまい、席をその女性に譲った。
「ありがとう。助かります」
「大丈夫ですか?」
俺の言葉に、女性は小さく頷いた。その顔色は悪く、とてもじゃないが大丈夫そうには見えない。
「無理そうでしたら、次の駅で一緒にわたしも降りますから」
彼女の申し出に、女性は軽く首を振った。
「軽い貧血だから、大丈夫です。妊娠初期だから、よくあるの……。今朝はまだ良い方なのよ」
「そうなんですか?」
妊娠すると、女の人は色々と大変のようだ。俺はちらりと横の彼女を見た。心配そうな顔で、彼女はその女性を見ている。
何年生だろう? 鞄の具合からいって、俺よりも上なのは確かだ。今時珍しく髪は染めてないし、ピアスだって化粧だってしていない。確か聖鈴はお嬢様が多いって話だけど、彼女もそうなのかな?
「っ!!」
左右に分けた髪の隙間から見える、白いうなじが眩しくて……俺の心臓がドキっと大きく跳ねた。ドキドキ……ドキドキ……異常なくらい心音が加速していく。うるさいぞ俺の心臓!!
ああでも、どうしよう?
どうしたらいい?
もうじき彼女の降りる駅だ。このままでいいのか俺ぇ~っ!!
車内アナウンスで、次に停車する駅名が告げられた。そこは彼女の通う高校のある駅だ。ゆっくりと電車が停まり、彼女は女性に会釈してから、俺に「じゃあね。ありがとう」と言って降りていってしまった。
背後でドアが閉まる音がして、電車はゆっくりと動き出す。
俺の目の前には、俺に腕を掴まれて驚いた顔の彼女がいて、改札に向かう聖鈴の生徒達がこっちを見ながら通り過ぎていった。
「えっと、何かな?」
「うあっ、ご、ごめん!」
慌てて掴んでいた手を離し、俺は制服の内ポケットから、自分の名前とスマホの番号とメルアドが印刷された名刺を出した。
「桜台高校一年の小山 譲です」
俺の出した名刺を受け取った彼女は、俺と名刺を交互に見てから勢い良くふきだした。なんとなくその理由はわかるよ………。
「嘘、凄い。こ、小山って……あはっ、なんか合ってない~」
そこまで笑わなくてもいいじゃないか。まあ、認めるよ。俺と俺の苗字が合っていないことをさ。身長百八十cm……まだまだ育ち盛りだよ。母さんは平均的な高さだけど、ウチは父さんがデカイんだ。兄貴の涼なんて百九十はあるし、妹の朋はまだ中二なのに百六十七もあって、最近じゃ牛乳を飲むのを止めたくらいだ。関係ないんだけどね、牛乳。でも朋は、牛乳がいけないって信じているんだ。
「ご、ごめんね」
ようやく笑いが止まった彼女は、こほんと小さく咳払いをして俺を見上げた。
「えっと、大山 美鶴です。大きい山に美しい鶴って書くの。見て判るとおり、聖鈴女学院高校の三年です」
えっ? 嘘だろ!? 彼女、俺より二コも年上なの!!
「わたしこそ苗字負けなの。百五十六しかないもの。笑っちゃたりしてごめんね。さっきは本当にありがとう。じゃあね」
踵を返し改札の方へ向かおうとする美鶴さんの手を、俺はとっさに掴んでしまった。目を見開いて俺を見る彼女は……やっぱすっげぇ可愛いんだよ。
「電話でも、メールでもいいから……俺、待ってるから。美鶴さん、俺のこと嫌じゃなかったら連絡ちょうだい」
「え、小山君……」
「ユズル、名前呼んで。じゃあ、俺も行くね」
タイミング良く電車が入ってきたから、俺はそれに飛び乗る。ドアが閉まり、ホームで呆然としている美鶴さんに笑って手を振った。
あとは俺の運次第。美鶴さんは俺に連絡をくれるかな? くれなかったらどうしよう? 俺、立ち直れないかもしれない。もし彼氏がいたら? どうする、俺?
「大丈夫。その時は奪ってみせる」
ドアの窓ガラスに、不適に笑う俺がいた。
「美鶴さん」
俺はズボンのポケットに手を突っ込み、携帯を握り締める。できるだけ早く、これが鳴ることを祈りながら。そしてそれが彼女からであることを願いながら。




