何もしなかった悪役令嬢が、聖女候補の物語を壊してしまった話
目を開けた瞬間、天蓋付きのベッドが視界に入った。
絹のカーテン、金糸の刺繍、薔薇の香り。少し頭が重い。
昨夜は遅くまで領地の会計報告を確認していたせいだろう。
「お早うございます、エリザベート様」
侍女のマリアが、いつも通りカーテンを開ける。
朝日が部屋に差し込む。
私はエリザベート・フォン・ヴァルシュタイン。
公爵家の一人娘として生まれ、十七年を何不自由なく過ごしてきた。
特に変わったこともない、貴族令嬢の日常だ。
「今日は待ちに待った王立学園の入学式ですね」
「ええ」
私は身支度を整えながら、今日からの学園生活について考える。
王立学園は貴族の社交場であり、学問の場でもある。
私には領地経営を学ぶという明確な目的がある。それ以上でも以下でもない。
鏡に映る自分を見る。プラチナブロンドの髪、紫がかった瞳。
母譲りの顔立ちだ。特に気に入っているわけではないが、不満もない。
「行きましょう」
馬車に揺られながら、私は入学に際しての心構えを整理する。
他人とは適度な距離を保つこと。不要な争いに関わらないこと。学ぶべきことを学ぶこと。
シンプルで、明確だ。
入学式は滞りなく終わった。
講堂には数百人の新入生が集まっている。その中で、私は一人の少女に目が留まった。
蜂蜜色の髪、露草色の瞳、小柄で華奢な体躯。
平民の服装だが、清潔で丁寧に整えられている。
彼女は壇上で紹介されていた。ルミナ・アルフェリア。
聖女の素質を見出されて特待生として入学した、とのことだった。
珍しいケースだが、聖女候補なら納得できる。
この国では聖女は身分を超越した存在として尊重され、優遇される。
式典が終わり、新入生たちが歓談を始めた頃。
私は周囲の貴族令嬢たちと、当たり障りのない挨拶を交わしていた。
「エリザベート様、本日もお美しゅうございます」
「ありがとう。あなたも素敵よ」
社交辞令。必要最低限の礼儀。それで十分だ。
そして——ふと後ろに視線を感じた。
振り向くと、先ほどのルミナ・アルフェリアが、こちらを見ていた。
彼女の表情は、明らかに怯えていた。目を見開き、わずかに身を引いている。
私は軽く会釈をした。初対面の相手への、ごく普通の挨拶だ。
だが彼女は、さらに後退した。
そして近くにいた金髪の青年——確か王太子レオンハルトだったはずだ——の背後に隠れるように移動した。
「……?」
理解できなかった。
私は彼女に何かをしただろうか。
話しかけたわけでもない。会釈をしただけだ。
だが彼女は、まるで私が何か恐ろしいことをしたかのような顔をしている。
王太子が彼女に何か声をかけているようだった。
彼女は小さく頷き、こちらをちらりと見てから、視線を逸らした。
私は首を傾げたが、すぐに気を取り直した。
今日は登校初日だ。初めて見る顔ぶれに緊張しているのだろう。深く考える必要はない。
そう結論づけて、私はその場を離れた。
それから一週間が経った。
学園生活は何も問題なく、順調だった。
授業は興味深く、図書室には領地経営に関する貴重な資料が揃っている。私は毎日、充実した時間を過ごしていた。
昼休み。私はいつものように学園の庭園で、一人で紅茶を飲んでいた。
静かで、心地よい時間だ。
「あの……エリザベート様」
後ろから声をかけられた。
振り向くと、ルミナ・アルフェリアが立っていた。俯き加減で、か細い声だった。
「あら、ルミナさん。ご機嫌よう、何かご用かしら」
私は穏やかに微笑んだ。
彼女が何か困っているなら、助言くらいはできるかもしれない。
「あの……先日、廊下で私とすれ違った時……」
廊下?
確かに一度、廊下で彼女とすれ違ったことはあった。
その時も軽く会釈をして、そのまま通り過ぎた。特に何もない出来事だったはずだ。
「ええ、覚えているわ。それがどうかしたの?」
「あの時……私を、睨んでいらっしゃいましたよね……?」
睨んだ?
私は眉を寄せた。
「…睨んだつもりはないのだけれど」
「でも、あの目つきは……」
「私の目つきが、そう見えたのなら申し訳ないわ。でも、睨むつもりはなかったの」
彼女は唇を噛んだ。目が潤んでいる。
「私……平民ですから……貴族の方々にとっては、目障りなのだと思います……」
私は紅茶のカップを置いた。
「ルミナさん」
「は、はい……」
「私はあなたを睨んでいないわ。
それに、あなたが平民であることと、私があなたをどう思うかは関係ない」
「……」
「あなたは聖女候補として、この学園に招かれた。
それは身分を超えた資質を認められたということ。誇っていいことよ」
彼女は目を見開いた。
「そして…私はあなたに興味がないの。良い意味でも、悪い意味でもね」
「……興味が、ない……?」
「ええ。だから安心して。私はあなたに何もしないから」
それは事実だった。
私には彼女を害する理由がない。彼女もまた、私に何かをする理由はないはずだ。
ルミナは数秒間、呆然としていた。
そして何も言わずに、その場を離れた。
私は彼女の背中を見送りながら、小さく首を傾げた。
奇妙な子だ…。だが、まあいい。これで誤解は解けただろう。
だが、誤解は解けていなかった。
それから二週間。
ルミナ・アルフェリアは、私の周囲に頻繁に現れるようになった。
図書室で勉強していると、遠くから視線を感じる。
振り向くと、彼女が本棚の陰から覗いている。
食堂で食事をしていると、彼女が隣のテーブルに座る。
会話をするわけではない。ただ、座っている。
庭園を散歩していると、偶然を装って彼女とすれ違う。
全てが「偶然」で片付けられる範囲内だ。だが、偶然にしては…多すぎる。
私は侍女のマリアに相談した。
「あの子、何がしたいのかしら」
「さあ……もしかしたら、エリザベート様に憧れているのかもしれませんね」
「憧れ?」
「聖女候補とはいえ、平民出身ですから。
公爵令嬢であるエリザベート様の立ち振る舞いを学びたいとか」
なるほど。それなら筋は通る。
「なら、話しかけてくればいいのに」
「恥ずかしいのでは?」
そうかもしれない。
私はそれ以上深く考えることをやめた。
彼女が何かをしてくるわけではない。ただ観察しているだけなら、害はない。
事態が変わったのは、その一週間後だった。
「エリザベート・フォン・ヴァルシュタイン」
廊下で呼び止められた。振り向くと、王太子レオンハルトが立っていた。
金髪碧眼、整った顔立ち。いかにも王族らしい外見だ。
「何かご用でしょうか、殿下」
「貴様、ルミナに何をした」
単刀直入な質問だった。
そして、不当な質問でもあった。
「何も?」
私は即答した。
「嘘をつくな。彼女は君に怯えている」
「私は嘘をついていません。事実を述べただけです」
「では、彼女が怯える理由は何だ」
「それは私にはわかりません。殿下が彼女に直接お聞きになったらいかがですか?」
レオンハルトは眉を寄せた。
「……お前は、本当に何もしていないというのか」
「ええ。そもそも、私が彼女に何かをする理由がありません」
「理由?」
「私は公爵令嬢として、学園で学問を修めに来ています。聖女候補の彼女と関わる理由も、必要もありません」
それは紛れもない事実だった。
私には目的がある。領地経営を学ぶこと。それ以外に興味はない。
レオンハルトは何か言いたげな顔をしたが、結局何も言わずに立ち去った。
私は小さく息を吐いた。なんだか面倒なことになる予感がする。
それから一ヶ月。
状況は奇妙な方向へ進んでいた。
ルミナ・アルフェリアは、周囲に訴え続けていた。
「エリザベート様に睨まれた!」
「エリザベート様に冷たくされた!」
「エリザベート様に無視された!」
だが——その全てに、反証が存在した。
睨まれた、と言うが、その場にいた他の生徒たちは「会釈をしただけ」と見たまま証言した。
冷たくされた、と言うが、公共の場でした私の発言の中に、冷たい言葉は一つもなかった。
というか、そもそも彼女とは庭園の時を除けば会話をしていない。
無視された、と言うが、そもそも彼女があの1度を除いて私に話しかけてきた記録がない。
私は何もしていない。ただ、普通の日常を過ごしているだけだ。
そして——周囲は、気づき始めていた。
「おかしいわね……」
図書室で、そんな声を耳にした。
「ルミナ様、また泣いていらしたわ」
「でも、エリザベート様って、本当に何もしていないのよね……?」
「そうなのよ。私、あの時その場にいたんだけど、本当にただ会釈しただけだったわ」
「じゃあ、ルミナ様は……」
「思い込み……かしら?」
私は本から顔を上げなかった。
だが、内心では理解していた。
彼女は「被害者」になりたがっている。
理由はわからない。だが、彼女の行動にはそういう意図が透けて見える。
しかし、加害者がいなければ、被害者は成立しない。
決定的な事件が起きたのは、入学から三ヶ月目のことだった。
「大変です、エリザベート様!」
侍女のマリアが、青ざめた顔で駆け込んできた。
「どうしたの」
「ルミナ様が……ルミナ様が、殿下の前で倒れられたそうです!」
私は読んでいた本から顔を上げた。
「倒れた?それは心配ね。医師は呼ばれたの?」
「それが……その……」
マリアは言いづらそうに口ごもった。
「倒れる前に、『エリザベート様に呪われた』と……」
私は数秒、沈黙した。
「……呪われた?」
「は、はい……。『エリザベート様が私を呪っている』と仰って、それで倒れられたと……」
私は静かに本を閉じた。
呪い。
それは、睨まれたとか冷たくされたとは、次元が違う告発だ。
貴族令嬢が他者を呪ったとなれば、それは犯罪に等しい。
魔法による傷害罪。証明されれば、私は処罰される。
だが——逆に言えば。
証明されなければ、虚偽告発として、彼女が罰せられる。
「……わかったわ」
私は立ち上がった。
「殿下のところへ行きましょう」
王太子の居室に着いた時、そこには既に五人の男性が揃っていた。
王太子レオンハルト。騎士団長カイル。宰相補佐ルーファス。魔法学院首席セリウス。聖職者ノア。
そして、ソファに横たわるルミナ・アルフェリア。
部屋に緊張が満ちていた。
「……エリザベート」
レオンハルトが立ち上がった。
「お前、ルミナに何をした」
「何もしていません」
私は淡々と答えた。
「また同じ答えか」
「同じ質問には、同じ答えしか返せませんもの、殿下」
騎士団長カイルが剣の柄に手をかけた。
「呪いをかけたと聞いたぞ」
「聞いたのは彼女の証言だけでしょう?
私が実際に呪いをかけたという証拠はありますか?」
「……」
私は宰相補佐ルーファスに視線を向けた。
彼は冷静な目でこちらを見ていた。
「ルーファス様。呪いをかけるには触媒が必要です。
髪の毛、爪、血液、あるいは本人が長く触れていた品物…。
私がそれらを入手していた、所持していた記録はありますか?」
「……調べた限りでは、ない」
「ありがとうございます」
次に、魔法学院主席セリウスを見た。
彼は銀髪の青年で、魔法理論の専門家だ。
「セリウス様。呪いは魔力の痕跡を残します。
私の魔力痕が彼女から検出されましたか?」
「……まだされていない」
「では、検出されるまで、私の有罪は確定しないということですね」
最後に、聖職者ノアを見た。
穏やかな表情の青年だが、目は鋭い。
「ノア様。聖職者の浄化を受けても、彼女の症状は改善しましたか?」
「……していない。というより、呪いの痕跡そのものが検出されなかった」
私は小さく頷いた。
「つまり——呪いはかけられていない、彼女はもとより呪われていないのです」
沈黙が落ちた。
「……待て」
レオンハルトが口を開いた。
「では、ルミナが倒れたのは何故だ」
「それは医師に診せるべきでしょう?私は医者ではありませんから」
「診せた。だが、身体的な異常はないと言われた」
「では、精神的なものでは?」
私は淡々と言った。
「彼女は、入学当初から私を警戒していました。
もちろん、私が何もしていないにもかかわらずです。
『睨まれた』『冷たくされた』と訴え続けていた。それは周囲の証言からも明らかです」
「……」
「そして今回、『呪われた』と言い出した。だが呪いの痕跡はない。
つまり——彼女の思い込みが、ここまで肥大化したということではありませんか?」
ソファの上で、ルミナが目を見開いた。
「ち、違います……!」
彼女は身を起こした。
顔は青白く、目は充血している。
「私は確かに呪われています……!エリザベート様が、私を……!」
「ルミナさん」
私は静かに彼女を見た。
「私があなたに何をしたか、具体的に教えていただけますか?」
「あ……あの時、廊下で……」
「会釈をしましたね」
「で、でも、あの目つきは……」
「この目は生まれつきです」
「庭園で、私に向かって冷たいことを……!」
「『興味がない』と正直に申し上げたことでしょうか?」
「それが……それが冷たいんです……!」
「では、どう申し上げれば良かったのでしょう」
私は穏やかに問いかけた。
「私があなたに興味を持ち、親しく接し、友人になれば——あなたは満足でしたか?」
「……」
「それとも、私が最初からあなたを嫌い、嫌がらせをし、いじめれば——あなたは納得できましたか?」
ルミナの顔が歪んだ。
「何を……何を言っているんですか……」
「私は何もしなかった」
私は静かに言った。
「だからあなたには、『被害者』になる理由がなかった。
でもあなたは、なぜかはわかりませんが…どうしても被害者になりたかった。
だから——存在しない加害を、自分で作り出したのではありませんか?」
「違います……!」
彼女は叫んだ。
「私は被害者です……!あなたは悪役令嬢なんです……!
私をいじめて、殿下を奪おうとして、私を追い詰めて……!」
その瞬間——私は理解した。
悪役令嬢。
その言葉は…しかし、今ではない。
「……殿下を奪う?」
私は首を傾げた。
「私が殿下に言い寄ったことがありますか?レオンハルト殿下」
「……ない」
「私が殿下と二人きりで会ったことは?」
「それも、ない」
「私が殿下に手紙を送ったこと、贈り物をしたこと、婚約を迫ったことは?」
「………一度もない」
ルミナの顔から血の気が引いた。
「そんな……でも……でも、あなたは悪役令嬢で……私は聖女候補で……だから……」
「だから、私はあなたをいじめるはずだった?」
私は静かに言った。
「それは、あなたの中にある物語でしょう?私の現実ではないわ」
「……物語……」
ルミナは呆然と呟いた。
「でも……でも、これは……ゲームの……」
「ゲーム?」
レオンハルトが眉を寄せた。
「ルミナ、お前は何を言っている」
「違う……違うんです……私は、ただ……」
彼女は混乱していた。
手が震え、目が泳いでいる。
「私は……前世で……このゲームを……プレイして……」
「前世?」
周囲に動揺が広がった。
だが私は、冷静だった。
「つまり——あなたは、この世界を『ゲーム』だと思っていたのですね」
「……」
「そして自分は『主人公』で、私は『悪役令嬢』だと。
だから私があなたをいじめるはずだと、そう信じていた」
ルミナは震えながら頷いた。
「でも……でも、そうじゃないと……おかしいんです……
あなたは、私をいじめなきゃいけないのに……」
「いけない?」
私は首を傾げた。
「誰が、そんなことを決めたの?」
「ゲームが……物語が……」
「ここはゲームじゃないわ。物語でもない」
私は静かに言った。
「ここは現実。私たちは、それぞれの意思で生きている。
あなたが思い描く『物語』の通りになんて、動かないわ」
「……」
「あなたは、物語に囚われていた。『聖女』と『悪役令嬢』という構図に。
だから、私が何もしないことに——耐えられなかったのでしょう?」
ルミナは崩れるように、ソファに倒れ込んだ。
涙が溢れている。
「でも……でも、私は……主人公で……」
「この世界に主人公なんていないわ」
私は言った。
「みんな、それぞれの人生を生きているだけ」
その後の展開は、あっけなかった。
ルミナ・アルフェリアの告発は、虚偽であると正式に認定された。
呪いの痕跡がないこと、私に動機も手段もないこと…
そして彼女自身が「ゲーム」という幻想に囚われていたことが、全て記録された。
彼女は聖女候補の資格を剥奪され、学園からも退学処分となった。
最後まで、彼女は泣いていた。
「私は被害者なのに……私は何も悪くないのに……」
その姿を見て、私は——同情はしなかった。
彼女は自分の幻想のために、私を犠牲にしようとした。それは許されることではない。
だが、憐れだとは思った。
物語に囚われて、現実を見失った少女。
「……さようなら」
私はそう呟いて、その場を離れた。
それから半年が経った。
私は相変わらず、学園で領地経営を学んでいた。
授業は充実しており、図書室の資料も役に立っている。
周囲の評価は——変わっていた。
「エリザベート様は、本当に聖女のようだ」
そんな声を、よく耳にするようになった。
理由は簡単だ。
私は誰も傷つけなかった。誰も陥れなかった。
虚偽の告発を受けても、感情的にならず、事実だけで反論した。
それが、人々の目には「聖女」として映ったらしい。
だが、私は何も変わっていない。ただ、普通に生きているだけだ。
「エリザベート様」
執務室でのこと。ノックの音がして、扉が開いた。
入ってきたのは、王太子レオンハルトだった。
「殿下。わざわざお越しいただかなくても」
「構わない。……話がある」
彼は真剣な表情で、私の前に立った。
「エリザベート。俺は、お前を見誤っていた」
「……」
「最初、俺はルミナの言葉を信じた。
お前が彼女を苦しめていると。だが、実際は違った」
「ええ」
「お前は何もしていなかった。そしてそれこそが、彼女の虚言を暴く証拠になった」
私は小さく頷いた。
「俺は……お前に詫びなければならない。そして——」
「殿下」
私は彼の言葉を遮った。
「お詫びは受け取ります。でも、その先は不要です」
「……何?」
「私は殿下に興味がありません。……良い意味でも、悪い意味でもね」
レオンハルトは目を見開いた。
「……それは、どういう……」
「そのままの意味です。私は殿下と婚約する気も、恋愛する気もありません。
私が望むのは、静かで平穏な人生だけですから」
彼は数秒間、呆然としていた。
そして——苦笑した。
「……お前は、本当に変わった女だな」
「よく言われます」
「だが、だからこそ——俺は、お前を尊敬する」
「ありがとうございます。では、お引き取りを」
私は優雅に礼をして、彼を見送った。
その夜。
私は自室で、一人、紅茶を飲んでいた。
窓の外には、満月が輝いている。
「……終わったわね」
私は小さく呟いた。
ルミナ・アルフェリアという少女は、物語に囚われていた。
彼女の前世の記憶にあるゲームの物語に。
彼女は自分を主人公だと思い込み、私を悪役令嬢だと決めつけた。
そして、私が「悪役」を演じることを——無意識に、期待していた。
だが、私は悪役を演じなかった。
いじめもせず、嫌がらせもせず、横恋慕もせず。
ただ、公爵令嬢として、普通に生きた。
それだけで——彼女の物語は、崩壊した。
「結局、悪役令嬢が破滅するのは、悪役を演じるからなのよね」
私は紅茶を一口飲んだ。
「演じなければ、破滅しない。当たり前のことだわ」
机の上には、領地からの報告書が積まれている。
明日も、やるべきことは山ほどある。
私は公爵令嬢として、領地を守り、領民の生活を支える。
それが私の人生だ。
物語の主人公でもなく、悪役でもなく。
ただ、現実を生きる一人の人間として。
「おやすみなさい」
私はベッドに入り、目を閉じた。
静かで、穏やかな夜だった。
【終】




