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【3】自我[1]

 ああ、僕らの運命は決まっているのに、なぜこんなにも遠いんだ。

 果てのない回廊の先に待つ逃走が、この手が届くことを拒んで目を閉ざしている。

 虚しいだけの空を舞う蝶が、耳鳴りとともに嘲っている。

 僕を侮るのも大概にしてくれ。もう我慢ができないんだ。

 ああ、なんて厄介なんだ。僕からあの子を奪わないでくれ。

 業火に焼かれて焦げる匂いが鼻につく。蓋を開ければ服従し、降伏するだけのこの心。

 照準の合わない銃声が、すべての終わりのようで、何かの始まりのようで。

 ただ、雑音と雑踏に紛れた歌を聴いていた。






 ――……






 気が付くと、暗闇の中に立ち尽くしていた。目を開いているのか閉じているのかもわからないような暗闇。何も見えない。不安感が胸中に広がり、小さな手足が震える。立っていられないほどの恐怖。蹲っていると、不協和音が鼓膜を震わせた。

『この子はやっぱりどこかおかしいみたい』

『なぜお前は普通の人間になれないのだ』

『それがそんなに難しいことなの』

 耳を手で塞いでも、不快な混声は耳の奥に突き刺さる。抗いようのない重圧に、体が押し潰されてしまいそうになる。

 ――ここにいてはいけない。

 何重にも聞こえるような責め立てる音の中、凛と澄んだ声が響いた。

 ――善悪を区別するんだ。

 不意に脚に力が入り、その場から駆け出す。それが正しいことのように思えた。

(どこに行けばいいの?)

 誰にでもなく問いかける。誰が応えてくれるのかもわからない。

 ――どこへだって行ける。その足があれば。

 信じていいのかどうかわからない。だが、いまはその声に導かれるしかなかった。

 ――なんだって掴める。その手があれば。

 きっとこれが正しい。なんの根拠もない確信が、この足を突き動かした。

 ――決して立ち止まらないように。振り返らないように。

 いつ、どこへ辿り着くかわからない。それでも、足を止めるわけにはいかない。止めてしまえば、それですべてが終わるのだ。






 ……――






「――そうですか、わかりました」

 その声に誘われるように目を覚ます。シリルが身動(みじろ)ぎしたことに気付いて、誰かがベッドに腰掛ける。まだ陽も射し込まない暗い部屋の中。その顔を確かめることはできない。

「酷い汗だ」

 柔らかいハンカチがひたいを拭う。優しく頬をなぞり、耳まで流れる汗を掬った。

「……誰……?」

「それは毎回、説明しないといけないのか」

「…………」

 黙り込むシリルに、影は呆れたように息をつく。

「僕はシドニー・グレンジャーだ。いつもそう言ってるだろ」

「……そうだね……」

 ハンカチが肌から離れる。汗を拭いきれたようだ。

「どんな夢を見た?」

「……わからない……」

 まだ頭がぼんやりする。視界は滲んだまま、また閉じてしまいそうになる。

「いま……誰かいたの……?」

「気にしなくていい。お前は何も気にする必要はない」

「…………」

 優しい指が目元を撫でる。それがまた眠気を誘うようだった。

「……ねえ、シドニー……。アリアを覚えてる……?」

「アリア? どのアリアだ?」

「……ううん……なんでもない……」

 指が汗で張り付いた前髪を掬う。ゆったりとした微睡(まどろみ)に、またゆっくりと目を閉じる。

「もう少し眠るといい。そのうち賑やかなのが起こしに来るだろう」

「……うん……大丈夫」

 ベッドが軋む。静かに窓が閉まる音を最後に、また意識は眠りの世界へと落ちていた。






 ……――






 忘れたくなかったのです。でも、忘れてしまったのです。

 忘れたかったから忘れました。でも、忘れたくなかったのです。

 これは罪でしょうか。罰せられるべきなのでしょうか。

 けれど、もう何が正しいかわからないのです。

 忘れたくなかった。でも、忘れてしまった。

 忘れたかったから忘れた。でも、忘れたくなかった。

 そんなわがままは、許されないのでしょうか。






 ――……






 星屑が天井で回っている。一緒になって目も回りそうな光景に目が眩んで、頭がぐらぐらと軋む。三半規管が狂いそうな感覚に、胃の中がからでよかった、とそんなことを思った。

 これが満点の星空であったなら、きっと、虹がかかって、雨が降って、キラキラと輝いていたのだろう。雲に包まれて眠れたら、灰色と赤い色の支配下に置かれることもなかっただろう。

 灰色の花嫁衣装に不躾な赤い色が飛び散って、紙のように千切れて塵になって、風に乗って……――

「シリル。そろそろ起きなさい」

 優しい声に瞼を持ち上げると、勢いよくカーテンが開かれた。突然に白んだ視界にまた目を細める。そうして起き上がるのを拒むシリルの目の前に、呆れた様子のメリフが飛び込んで来た。

「もう八時よ。領地の代表者がこちらに向かっているはずだわ」

「え、本当……?」

「ええ。早く朝ご飯を食べましょ」

「うん、わかった……」

 シリルがもたもたしているうちにアイレーがメリフを追い出し、素早くシャツとジャケットを持って来る。シリルがぼんやりしているあいだに手早く身支度を整えた。そうして寝室を出る頃には、シリルもようやく起きていた。

「おはようございます」

 ダイニングに到着したシリルの声に、すでに着席していたロスが、ああ、と短く答え、メリフは頬杖をついて愛らしく、おはよう、と微笑んだ。

「何か新しい情報はありましたか?」

「シドニー・グレンジャーを軽く探ってみた」ロスが話し始める。「ウォード薬学研究所の研究員。年齢は二十六歳。爵位を継ぐ予定はないため、王立魔導学院を卒業後、ウォード薬学研究所に入所」

「周囲の評判は非常に良し」と、メリフ。「胡散臭いくらいよ」

「いずれ父親と同じく伯爵家の事業に就くため、紡績に関する研究をしているようだ。長くは在籍しないようだな」

 ロスとメリフが窺うようにシリルを見遣る。シリルは小さく頷いた。

「そうですか。優秀な研究員なんでしょうね」

「そうね」メリフが頷く。「シリルには悪いけど、普通なら調査をしようと思う隙もないほど善人よ」

「……そうでしょうね。彼は良い人です。探っているなんて……夢にも思わないでしょう」

 手元に視線を落としたまま言うシリルに、ロスとメリフは不審とも言える様子だった。調査の依頼を出したのはシリルで、そのシリルが標的であるシドニー・グレンジャーを「善人」と認めるのだ。その矛盾にもシリルが平然としているため、怪訝に思っているのだろう。

「でも」と、メリフ。「シリルは何か疑っているのよね」

「うん……そう、だね……」

 シリルは曖昧に頷く。いまはまだ、自分の考えを表す言葉を知らない。少なくとも、いまの頭の中にはない。

「……ねえ」メリフが重々しく口を開く。「あたしの個人的な考えを言ってもいい?」

「ん。うん、どうぞ」

「グレンジャー男爵がラト家の事業に温情で雇われたとき、シドニー・グレンジャーはまだ学生だった。そうよね?」

「うん、そうだったと思う」

「その時点で、シドニー・グレンジャーが学院を卒業するまで、まだ二年くらいあったわ。どういう経緯かによるけど、ラト家の事業で父親と同じ仕事をしようと決めるには早すぎると思うの。グレンジャー男爵は能力を買われて初めからある程度の地位を与えられていたようだけど、グレンジャー男爵が事業に多くの貢献をしたのはシドニー・グレンジャーの卒業後。シドニー・グレンジャーは元々、ラト家の事業に携わる予定だったの?」

「えっと……父からそういった話を聞いたことはない、かな……」

 メリフの説明をすべて理解するのは難しいが、シリルはそれより、ひとつだけ引っかかっていることがあった。

「…………」

「どうしたの?」

 黙り込んだシリルに、メリフが不思議そうに問いかける。シリルは、自分の考えを表す言葉を慎重に選びながら言った。

「えっと……シドニーが爵位を継がないことは、知らなかった……」

 徐々に自信を失くして声をすぼめながら言うシリルに、ロスとメリフは顔を見合わせている。まさかとも思っていなかったであろうことはシリルにもわかっていた。

「シドニーは起きると必ず寝室にいるのよね? 話をすることはないの?」

「うーん……どうかな……」

「学生の頃は? そんなに話をしなかったの?」

「ううん。僕も王立魔導学院に一緒に通っていたし、毎日のように顔を合わせていたよ」

 そのときの記憶は曖昧だが、それでも毎日のように会っていたことは覚えているほどにはシドニーと行動をともにしていた。どんな会話をしたかはほとんど覚えていないが、爵位を弟に譲るという話を聞いていれば、それくらいならこの空っぽの頭でも記憶しているはずだ。忘れたのだとしたらだらしない頭である。

「えっと……爵位を継ぐと嘘を言われたわけではないけど……ラト家の事業に携わると考えていたのは、知らなかった」

「では」と、ロス。「前伯爵もそのつもりはなかった可能性があるのか?」

「それはわかりません……。でも、ふたりの調査で、初めて知りました」

 ロスとメリフの纏う空気が変わったことは、相変わらず視線を落としているシリルにもよくわかる。シリルを責めるものではないが、叱られた子どものような居辛さを感じた。

「シドニーは、シリルにとってどんな存在なの?」

「…………」

 シリルはまた答えに詰まる。自分の言語化能力では頭の中を説明しきれないとわかっているため、慎重に言葉を選んでいると何も言えなくなる。このあいだに質問を重ねられると、責められているような感覚になる。ロスとメリフはそれをわかっているのか、シリルの言葉を待っているようだ。何をどう話せばいいかわからなくなるため、必要な情報を質問してくれたほうが助かる場合もある、と思うのはシリルの我儘である。

「お食事のご用意ができました」

 アイレーがワゴンを押して来る。お話はそれまでに、という合図のようにシリルには感じられた。ロスとメリフもそれに気付いているのか、それ以上に依頼の話をすることはなかった。メリフはシリルの緊張を感じ取っている様子で、依頼とは関係のない世間話をする。そうして、食事は和やかに進んだ。



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