【2】何でも屋は夜が遅くて朝が早い[5]
寝室に戻り水を飲み干すと、シリルはトラインに問いかけた。
「ロスとメリフはどうですか?」
「そうですね……。現状では断言できませんが、敵意を感じないのは確かです」
「そう。アイレーはどう?」
「私も敵意は感じません。ただ、何を考えているのかは判然としません」
「デュランはどう?」
「はい。ルビーの存在に気付いていたようですし、単純な力での圧倒はおそらく可能ではないかと。あのふたりだけでこの屋敷を制圧できると考えると、害意はないのではないかと思います」
「そう」
シリルは相手の気配を感じ取ることができない。そのため、三人の感覚に全幅の信頼を置いている。三人がそう思うなら、きっと間違いではないのだろう。
「シリル様はいかがですか?」
案ずるように問いかけるアイレーに、シリルは俯いた。
「僕は……わからない。きっと、みんなの言う通りだと思う。ただ、自分の中を見透かされるような気がして……落ち着かない」
「……そうですね」トラインが頷く。「あとでルビーにもお聞きになられるとよろしいでしょう」
「うん……そうだね」
「シリル様」アイレーが優しく手に触れる。「ご心配はいりません。いつも通り、私たちにお任せください」
「うん。ありがとう」
いつも通りアイレーがトレーを持って来て、水をゆっくりと飲み下す。飲みづらさを感じてむせそうになるのを堪えつつ飲み干すと、むせそうになったせいで喉がいがらっぽくなってしまったため薬を吸うのはやめておいた。ベッドに横になり、布団をシリルの肩まで引き上げると、アイレーはぽんぽんと胸元を叩く。
「何か怖いことがあったら、すぐに呼んでくださいね」
「うん。みんなはちゃんと眠れてるかな」
「ぐっすり快眠ですよ。おやすみなさいませ。良い夢を」
「うん。おやすみ」
シリルの睡眠を司る魔物は、アイレーが部屋を出るドアの音を合図にしているようだった。その瞬間、落ちるように眠りに就く。
宵の悪魔の魔法にかかると不安になる。夜は嫌いではないのに、手品のように心を掻き乱される。そうすると、今度は眠れなくなってしまう。だから、睡魔に支配されることは、シリルにとって恩恵のようなものだった。そうして朝まで静かに眠れるなら、それ以上に良いことはない。
* * *
そろりと静かにドアを開けると、シリルは廊下から漏れる光に反応を見せない。すっかり寝付いたようだ。アイレーが部屋を出た瞬間に眠りに落ちると聞いたときは時間の感覚がずれているのだろうと思っていたが、毎日こうして覗いても、シリルは本当にドアが閉まる音を最後に就寝しているようだった。それはそれで心配になって、毎日こうして様子を見に来てしまう。
シリルは使用人のことを案じていたが、アイレーはシリルのほうが心配である。
(ちゃんと眠れていないのはシリル様のほうでしょうに……)
あまりに静かに寝ているので不安になってつい脈拍を確認してしまうのは、他の使用人には秘密である。
バルコニーを覗くと、花壇のほうで影がもぞもぞと動いている。ルビーは定位置に着いているようだ。
音を殺してドアを閉めるのは得意だ。ほとんど毎晩こうしてシリルの様子を見に来ているうちに身についたスキルだ。初めのうちは音を立ててしまっていたが、シリルがそれに気付く様子はなかった。
ひとつ息をつき、ドアのそばにいたデュランの肩をぽんぽんと叩く。
「お願いね」
「ああ」
生真面目な騎士に声をかけ、アイレーは雑務の片付けに向かった。まだトラインもどこかで仕事をしているはずだ。
グレンジャー男爵邸別館は広い。それでも、ラト伯爵邸に比べれば狭いほうだ。前伯爵が生きていた半年前までは、ラト邸には多くの使用人がいた。シリルの兄は妻と街で暮らしており、現在ではシリルが信頼を置く使用人だけが残った。シリルと使用人が暮らすだけでは、この屋敷は広すぎる。ただアイレーは、しんとした夜の空気も嫌いではない。
今日も始めるか、と杖を取り出した。先輩侍女から教わった洗浄の魔法を各所に発動させる。ひとりで屋敷内の掃除をするのは骨が折れることで、いつの間にか少ない拠点で広範囲の掃除ができるようになった。洗浄効果はトラインのお墨付きである。
あとは洗濯を、と歩き出したところで、階段の陰でニコルが退屈そうにしているのを発見した。
「ニコル」
アイレーが歩み寄るのに気が付くと、ニコルは愛らしく微笑んで見せる。初めて会ったときはシリルの幼少期に似ているように思えたが、よく見ると実は似ていない。ニコルの灰色の髪が似ているような雰囲気を醸し出すのかもしれない。
「やあ、アイレー。良い夜だね」
「どうしたの? シリル様に何かあったの?」
「ううん。散歩してるだけ。シリルの眠りがまだ浅いんだ。すぐに戻るから大丈夫」
ニコルの大きな灰色の瞳は明るい。シリルの精神状態は安定しているようだ。
「もしかして、毎晩こうしているの?」
「ううん。たまにだよ。シリルが不安がってるから、僕が探して回ってるんだ」
「探して? 何を?」
「おうちだよ」
ハッとして言葉に詰まるアイレーに、ニコルはあくまで、愛らしく微笑むだけだった。
* * *
「おかえり、お兄ちゃん」
バルコニーからリビングに入って行くと、メリフがソファでくつろいでいた。どうやら先に仕事を済ませて帰っていたようだ。それどころか湯浴みも済んでいるようで、長いピンクブラウンの髪にブラシを通している。
「あいつは?」
「もうぐっすりよ。シリルは夜が早くて朝が遅い、だわね」
話し声を聞きつけたようで、トラインが様子を見に来る。トラインはロスに労いの言葉をかけたあと、お茶を用意すると言うのでロスはそれを謝辞した。湯浴みの用意をしてくれると言う。
「さっきルビーって子に会ったけど、無視されちゃった」
メリフが不貞腐れたように唇を尖らせた。
「あの手合いは人に心を開かないだろ。あいつの護衛を刺激して信用を失うようなことはするなよ」
「わかってるわよ。でも、シリルは何に怯えているのかしら」
紫色の瞳をすっと細めるメリフに、ロスはソファに腰を下ろしながら続きを促す視線を向ける。
「この大きな屋敷に対して使用人が少なすぎるわ。執事のトライン、侍女のアイレー、護衛のデュランとルビー、それから調理場に数人。貴族の屋敷は雇用を生む場なのに、何人も解雇しているんじゃないかしら」
「その辺りは俺たちには関係ない。父親のときと同じだけ使用人がいても、管理しきれないと思ったんだろ」
「本当にそれが理由だとしたら、シリルらしいという感じがするわね」
そう言ってメリフはくすくすと笑う。そうしていると、自分とともに仕事をしているとは思えない年端もいかぬ少女に見える。年齢を聞いたことはないが、個人的なことには興味がない。それはおそらく、お互い様だろう。この仕事をこなすことに、個人的な情報は必要ない。無駄な情報は頭に入れない主義だ。聞いたとしても、すぐに忘れるだろう。
* * *
シリルは突如として目を覚ました。何か、大きな音がした。本が崩れたような、はたまた地団駄のような。ベッドの上に体を起こしても、もちろん室内には誰もいない。廊下にいるデュランが地団駄を踏むことはあり得ないだろう。シリルの寝室には本棚もない。聞き間違いだろうか、と立ち上がり、バルコニーを覗き込む。
「ルビー……」
「おん? どしたの?」
花壇のほうからルビーの声が応える。暗くてよく見えないが、近くにいるようだ。
「いまのはなんの音……?」
「ん。あーごめんごめん、手が滑っちゃったんだ」
「そう……」
「気にしないで。寝てて大丈夫だから」
「うん……わかった」
ルビーとおやすみの挨拶をして、シリルは部屋に戻る。ベッドに潜り込むと、夜のしじまに耳を澄ませた。そのためには耳鳴りがうるさすぎる、と寝返りを打つ。太陽が昇るまであとどれくらいだろう。それまでのあいだ、再び目覚めることなく眠れたらいいのだが。ぼんやりしたままの頭で、そんなことを考えながら、また夢の世界へと堕ちて行った。