【2】何でも屋は夜が遅くて朝が早い[1]
逃げなければならなかった。だが、何から逃げているのかわからなかった。
なぜ逃げなければならないのかも、どこへ行けばいいかも。
何もかもがわからない。もう何も見えない。
遠くなる耳鳴りを聞きながら、朧気な月が沈む時を待っている。
……――
朝の目覚めを確かめるために薄っすらと瞼を持ち上げると、カーテンから漏れる陽の光を遮る影がある。身動ぎしたことに気付き、優しい指が前髪を撫でた。
「おはよう、よく眠れたか?」
優しく問う声は、ずっと昔から聞き覚えのある音色。少しだけ顔を上げてその姿を確認する。逆光に目を細め、それが誰であるか、今日はすんなりと認めた。ゆったりとした微睡の中、顔はよく見えないのに、それが誰であるかすぐにわかった。
「何でも屋を雇ったらしいな。なんの依頼をしたんだ?」
「……わからない……。それはニコルに訊いてもらわないと……僕には何もわからない……」
ぼんやりした頭のまま言うと、困ったように小さく笑うのがわかる。曖昧な返答を咎める様子はない。
「ニコルが正直に話すかな」
「……どうかな……」
朝陽が眩しくて瞬きを繰り返す。するりと目元を撫でる指先は繊細だ。
「……ねえ、シドニー……」
「ん?」
「僕は……何を信じればいいのかな……」
静かに問いかける。誰に投げていいかわからない問い。ここで口にするのが正解なのか判然としない。それでも、問いかけずにはいられない。問わざるを得ない。
「誰も信じられないなら、誰も信じなくていい」
確信を持った声がそう告げ、温かい手が優しく頭を撫でる。その答えを待っていたような気がする。
「お前にはニコルとルビーがいる。それだけで充分とも言えるかもしれない」
「……そうだね……」
「もう少し眠るといい。そのうち誰かが起こしに来るだろ」
最後にもう一度だけ頬を撫で、影は立ち上がる。窓が閉まる音を最後に、意識はまた、悠然とした微睡の中に落ちた。
* * *
「ああ、腹立たしい。あのふたりは何者なんだ」
赤の執事が苛立たしげに言う。その声は騒がしく、やかましくて仕方がない。その怒りはわからないでもないが、そんなに声を荒らげる必要はないのに。
「また人員を増やして。管理をするのは結局、私なのだろう」
「そんなこと、どうだっていいわ」
赤いドレスの侍女が嘲笑う。執事の苛立ちは何ひとつとしてわかっていない。わかろうともしていない。
「脅威となるなら、また首を落とせばいいのだから」
堪えきれない地団駄にシャンデリアが揺れる。落ちた埃は払われて、澱んだ空気に散って消えた。
「それは私の役目になるのだろう」
騎士が真っ赤な口で大きく笑う。それは確かめる必要のない事実。
「また面倒事を増やしてくれた」
それがまたおかしくて、穏やかな歓笑が場を支配する。助けを乞う必要などない。いまはまだ、その時ではないのだ。
鳥も飛び立つような激しい音がした。ああ、と感嘆を漏らした侍女が、ようやく重い腰を持ち上げる。
「あの人が目を覚ましたみたい。話はあとね」
なんて厄介な寝覚めだろう。少しくらい静かにできないものか。真っ赤な朝陽はまだ昇り始めたばかりだと言うのに。
首から吊るされた骸があまりに滑稽で、床に垂れた赤い汚水が悪臭を放っている。星屑を纏った刃が語りかけるのは、答える必要のない問い。そんなことに意味などない。すべて、目覚めればそれでいいのだから。
――……
ベッドからはみ出た手首から、灰色の鮮血がだらしなく垂れて床に水溜りを作っている。枕から外れた役立たずの脳みそが、ぼんやりと鈍い朝を感じ取った。
目覚めたくない。このまま、深い眠りに落ちてしまいたい。
無価値な自分に相応しい世界へ堕ちたい。
そうして、そのまま……――
「シリル! 朝よ!」
右手に何かが触れる感覚とかけられた声に目を開けると、視界いっぱいにメリフの顔があった。ぼやけた視界でも、呆れているのがよくわかる。
「……ああ……早いんですね……」
布団から飛び出していた右手は冷えている。寝相は良いほうなのだが、たまにこうして枕から離れてしまうことがあるのだ。
「何でも屋は夜が遅くて朝が早いのよ。というか、もう八時だから全然、早くないわ」
「……そっか……僕が遅いのか……」
「寝覚めすっきりしないわねえ。早く朝ご飯に行きましょ。お腹が空いたわ」
その声は溌剌としている。目覚めてからしばらく経っていることがよくわかる。八時より前なら何時でも早いことはシリルにも理解できるが、メリフと同じ時間帯に起床するのは、シリルには土台無理な話なのだろう。
シリルがベッドのそばに置いたはずのスリッパを探していると、ずい、とアイレーがメリフの前に顔を捩じ込ませた。
「シリル様の身支度をしますので、メリフ様はお先にダイニングへどうぞ」
「わかったわ」
少々語気の強いアイレーに気圧された様子で、あとでね、とシリルの肩をぽんと叩いてメリフは寝室を出て行く。シリルはと言うと、シャツに着替えているあいだも、鏡台で髪を整えられているあいだも、ずっとあくびをしていた。
いくら寝ても寝足りない気がするのはなぜだろう。シリルはいつもそんなことを考えているが、その答えが出たことは、いままでに一度だってなかった。
ダイニングに行くと、ロスとメリフはシリルの席の斜交いになる席に着いていた。トラインに促されたのだろう。
「おはようございます」
「ああ」
「おはよう!」
ロスの手には書類がある。自分たちで集めて来た情報をまとめているのかもしれない。そうしていると、ロスには知性が感じられるような気がした。とは言えシリルは、自分より知性のない人間はこの世にはいないと考えているのだが。
「何か情報は集まりましたか?」
「家主の情報を集めることほど楽なことはないな」
肩をすくめるロスに同調するように、メリフが口を開いた。
「グレンジャー男爵家。シドニー・グレンジャーはその長男で、弟がふたり、妹がひとり居るようね」
「シドニー・グレンジャーの母親は六年前に事故死している」ロスが次ぐ。「男爵位は次男が継いで、シドニー・グレンジャーはラト家の事業に就くようだ」
「シドニー・グレンジャーは未婚と次男」と、メリフ。「三男は既婚。末妹はまだ学生みたいね」
ふたりの報告は、シリルにとって簡潔でわかりやすいものだった。シリルの理解力が当てにならないことに気付いて、シリルにもわかるようにまとめていたのかもしれない。ロスとメリフならそれが可能なのだろう、とシリルは考えていた。
「これくらい、お前も知っているんじゃないか?」
「……どうでしょう。知っているようで、知らないような……」
曖昧に答えるシリルに、ロスは小さく肩をすくめる。
「さすがに一晩ではこれが限界だ。本格的な調査はこれから行う」
「わかりました」
アイレーが食事を運んで来る。正直なところ、シリルは誰かと食事の席をともにするのが苦手だ。マナーは子どもの頃から習っているため身に付いているが、シリルはとにかくそそっかしい。案の定、グラスを倒した拍子にナイフを床に落として、そそっかしいわね、とメリフが呆れていた。アイレーはもう慣れたもので、さっと布巾を持って来て手早くテーブルを拭き、素早く替わりのナイフを差し出す。シリルが倒すので底の厚いグラスを買い揃えたが、それでもシリルは手を引っ掛けて倒す。自分が倒さないようにするのは無理だろうと考えているため、ロスとメリフにも早めに慣れてほしいとシリルは思った。
「……あの……」
恐る恐る口を開いたシリルに、ロスとメリフは先を促すようにシリルに視線を遣る。
「ついでで構わないのですが……テリー・ノーマンを探してほしいんです」
ロスとメリフは顔を見合わせるが、了承を示すように頷いた。
「どんな人?」
「……わからない」
シリルが俯くと、メリフは怪訝に首を傾げる。ロスは冷静な表情でシリルの次の言葉を待っていた。
「名前しか覚えていないんです。でも……探さなければならないんです」
「ふうん……テリー・ノーマンね」メリフが言う。「わかったわ。人探しは何でも屋の得意分野よ」
シリルはほっと安堵に胸を撫で下ろす。聞き入れられないのではないかと思っていたからだ。何でも屋という肩書きは伊達ではないらしい。ふたりに任せておけば問題ない。ふたりは、そう思えるほどの自信を湛えていた。