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【0】おやすみ、九十九人目の僕

 表向きは何でも屋、ということでよろしいですか?

 ――・――代理のニコル・フォン・ターナーです。

 ――は意識が混濁してはっきりしないときがあります。

 単刀直入に言います。彼の――……






 ……――






 冷たい雨が肌を突き刺す。(けぶ)る景色の中、ふと顔を上げると、喉を引き攣らせながら泣きじゃくる小さな背中が見えた。

 いったい何処から来たのだろう。いったい何処へ行くのだろう。いったい、何処に行けるのだろう。

 ――どうだっていい。僕には関係ないことだ。

 ここでじっとしていよう。目を閉じていれば、それでいい。

 ――そういえば昔、知らない場所で泣いていることがあった。あれはなんだったのだろう。

 何も知らない。何もわからない。

『――様はやっぱりおかしいみたい』

 窓の隙間から気配がする。それは混沌にも似た悲哀。

 ――どうして……

『見える物が見えなくて、見えないものが見えているみたい』

 目を背けていたはずなのに、重くて拒むことができない。

 ――どうして、僕は……

『聞こえないものが聞こえて、聞こえる物が聞こえないみたい』

 ――どうして僕は、おかしいの?

 いくら耳を塞いでも、不躾な囁き声は手を擦り抜けて。介入する意思は真実を閉ざし、鐘は虚しく鳴り響く。

 何もわからない。わかりたくもない。

 そうして身動きが取れなくなる。もう少しも歩けない。

 悠然とした微睡(まどろみ)の中、騒然とした散開星団が、混濁した意識と踊って消えて逝く。

 あの流星は最期の煌めき。棺に収まったむくろの行進。

 澄んだ月明かりに伸びた影が、冷え切った手を優しく握る。

 ――わからない。僕には、何もわからない。






 ……――






『この者の罪は許されざるものである』


 ――違う、僕じゃない。


『命を以って償ってもらう』


 ――違う、僕じゃないんだ。


『斬首に処する』


 冷たい声と、木槌の音が、不吉に響き渡る。


 ――ああ、そうか。

 ――もう真実か真実でないかは、関係ないんだ。


 急き立てる嘲笑に、意識は攫われていく。


 ――これで九十九回目だ。

 ――次の僕は、百人目の僕。


 もう、どうでもいい。


 ――誰も僕を愛さない。


 魔法はなんの奇跡も産みはしない。

 祈りはすでに、意味を為さない。

 ただ、この魂が尽きる日を、待っていることしかできない。

 すべてを忘れよう。憶えておく必要はない。

 おやすみ、九十九人目の僕。






 ……――






 それは遠く儚きもの。切望とともに散った新実。

 どろりと溶けた散開星団を見上げても、その向こうの安らぎは目に映らぬまま。

 煌めきは微かな命を飲み込んで、昔日の虚構を打ち消すように。

 足元に落ちた赤を掬い上げ、これは虚実だと首を振る。

 だから、目を閉じて。もう一度。

 星屑は、手が届く日を待ち侘びている。






 ……――






「ねえ、もう寝ちゃった?」


 鈴を転がすような子どもの声にも、目は開かない。


 ――まだ起きてるよ。でも、もう眠いんだ。


「ゆっくり眠っていいよ。ボクが見てるから」


 懐かしいような。近いようで、遠い声。


 ――僕はどこへ行くのかな。


「どこへでも行けるよ。ボクがいるんだから」


 その声は、まるで子守唄を歌って聴かせるように、朗々と


 ――きみは誰?


「ボクはきみ」


 ――僕は誰?


「そんなことどうだっていいでしょ」


 温かいものが頬を撫でる。寝かしつけるように。


 ――僕は誰になるのかな。


「きみはきみさ」


 ――僕の願いは叶うのかな。


「ボクが叶えてあげるよ」


 ゆったりとした微睡(まどろみ)が虚空を揺らす。

 このまま、どこへでも行けそうな気がした。


「さ、もう寝た寝た。綺麗な夢を見よう。一緒に」


 ――そうだね。それも、きっと……。


「大丈夫。本当のさよならはないんだよ」


 ――……そうだね。きみが、そう言うなら。


「おやすみ。良い夢を」






 ……――






 星屑が墜ちる。泥にまみれた願いを込めて。

 鮮明な赤が塗り潰す世界で、もがいて、息をして。

 手を触れず過ぎる風が薙ぎ払う希望に捧げる別れは何度目のことだろう。

 この月に届かせまいとして突き放し、掠れた声は星空の彼方に消えた。

 灰色の雨が降り注ぐ中、青褪めた(かんばせ)は遠く。

 せめてこの願いを失わないように。堕ちてしまわぬように。

 手繰り寄せた時間は、花の火と弾けて消えた。





 ……――






 瞼の裏が白む。明るい光が告げる朝に気が付くと、何かが柔らかく前髪に触れた。薄く開いた視界に、誰かがベッドに腰を下ろしているのが見えた。

「おはよう。よく眠れたか?」

 穏やかな声が優しく問いかける。曖昧に頷きながら、数回、瞬きをした。カーテンの隙間から漏れる朝陽に目が眩む。

「どんな夢を見た?」

「……わからない……」

 寝覚めでぼやけた視界に人影が浮かぶ。温かい指がするりと目元を撫でた。

「……だれ……?」

「また僕の顔を忘れたのか?」

 呆れを湛えた声が、溜め息とともに言う。その顔を確かめようと、少しだけ腕に力を込めた。目覚めたばかりの体が重い。

「僕はシドニー・グレンジャーだ。いつもそう言ってるだろ」

「……ああ……うん、そうだね」

 深い逆光に目を細める。顔はよく見えないが、彼は確かにシドニー・グレンジャーだ。何度も確かめているのに、いつもわからなくなってしまう。寝惚けた頭に回転を求めるだけ無駄なのかもしれない。

「……ねえ、シドニー……」

「ん?」

「……どうして……、……ううん、なんでもない」

 頭を枕に戻す。何かを考えたところで徒労に終わる。彼には、何もわからないのだから。

「僕は仕事に行く。体調が良くないなら、もう少し眠るといい」

「……うん……大丈夫」

 彼が曖昧に頷くのを合図に、ベッドが小さく揺れる。陽を遮るものがなくなり、眩さに痛んだ目を閉じる。窓の音を最後に、意識は微睡の中に溶けていった。






 ――……






 重い瞼を持ち上げても、この眼に映るのはただ無意味な世界だけ。

 粗い砂嵐が視界を横切り、横暴な風が体に叩きつける。均衡を崩して瞬きすれば、無数の羽根が埃を立てた。

 不快な雑音が走り、不協和音が響き渡り、不躾な叫びに鼓膜が破れてしまいそうだ。

 あの煌めきは、償いの白昼夢。熱意の陰に押し出され、漏らした溜め息は肺を冒し、目が眩むような罵倒に掻き消される。

 インクの染みは湖となり、濃霧は妖精の囁きに揺れた。くすくすと可笑(おか)しそうに笑う声に心を閉ざし、垣間見えた横顔は、遠い忘却を覗いて堕ちた。

 こんな世界なら、もう眠りを妨げる必要はない。もう目覚める理由はない。

 だからもう、誰も、僕を望まないで。

 誰も、希望の名前を知らないのだから。

 この星屑の世界で、呑まれるように眠れたら……――






 ……――






 重い瞼をようやく持ち上げると、カーテンの向こうはすでに煌々と陽の光に溢れていた。ベッドの上に体を起こせば、眠気に引き摺られているかのように力が抜ける。それでも、そろそろ起きなければならない。

 シリル・ラトは早起きすることができない。だが、その必要がないことは彼自身も他の者も同じ認識だ。早く起きたところで意味がないからだ。

 シリルがようやくベッドのそばのスリッパを見つけると、コンコンコン、と遠慮がちなノックの音が鳴る。静かに開かれたドアの隙間から、若い侍女が顔を覗かせた。

「シリル様、おはようございます」

「おはよう、アイレー」

 シリル付きの侍女アイレーは、手早く朝の支度をする。シリルが顔をゆすいでいるうちに、鏡台の椅子にジャケットとスラックスが用意されていた。着替えはシリルがあくびをしているあいだに終わる。あとは、アイレーが満足するまでシリルの髪を整えれば完了だ。

 耳元にかかる髪を避け、装置を着用する。アイレーが簡単な手直しをした。

「いかがですか?」

「うん、大丈夫」

 邪魔でしかないと思っていた装置も、いつの間にか慣れている。これがないといけないということはないが、これがなければ不便だということは自覚していた。

「今日は来客の予定がありますが、体調はいかがですか?」

「ん……誰が来るんだっけ……」

「シリル様がお呼びになられたんじゃないんですか? あたしたちは詳しくは存じ上げませんけど……」

「ああ……そうだっけ」

 まだ寝起きで頭がぼんやりしている。それはアイレーには百も承知だ。こうして鏡台の前に座っていると、また寝てしまいそうになる。それでも、アイレーが咎めることはないだろう。

「……ねえ、アイレー」

「はい」

「僕が起きたときにいつも居るあの人は誰?」

 逆光の中に見えた人影を思い返しながら言うシリルに、アイレーは不思議そうに首を傾げた。

「どなたのことですか?」

「……わからない」シリルは俯く。「僕には何もわからない」

 アイレーは柔らかく微笑んで、安心させるようにシリルの肩に触れる。

「大丈夫です。いつも通り、あの子に任せておけば大丈夫ですよ」

「……うん……そうだね」

 あの子に任せておけば問題ない。そう確かめると、シリルはまた瞳を閉じた。





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