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ブイモンスター ~ Re:Alive ~  作者: manoru-kun
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第8章 キャピタルからの呼び出し

太陽が山の稜線から顔を出し、境天キョウテンの屋根を本格的に照らし始めたのは、まだ朝の早い時間だった。


吊り庭からは、昨夜の雨がまだ残っているみたいな、湿った土の匂いがかすかに漂ってくる。

水路を流れる水は穏やかで、タービンはゆっくりと回っている。

パン工房の前の通りには、もう焼き立てのパンの匂いが広がり始めていた。


いつもなら、ただの“いつも通りの朝”になるはずだった。


薪窯の前で、アイコは木のパドルを握っていた。

ふと、眉がほんの少し寄る。


耳の奥の方で、しつこいノイズがまだ消えていなかった。

残響施設の一番奥で聞いた、あのひび割れた囁き声の“余りかす”みたいな音。


まただ。


そう思った瞬間に合わせたように、店の入口の鈴が鳴った。


「アイコ、入るよー!」


元気な声が、ひんやりした朝の空気と一緒に飛び込んでくる。


隙間から最初に見えたのは、人の顔ではなく、もふもふした耳だった。


「おはようございます、パン職人さん。今日も早起きですね」


パルスバンがカウンターの上にぴょんと飛び乗り、そのあとから頭をかがめた賢司ケンジが入ってくる。


「……賢司?」


アイコは、一目で“いつもと違う”と気づいた。


寝ぐせだらけの髪も、本の持ち方がちょっと妙なのも、そこまではいつも通りだ。

けれど、目の下のクマはいつもより深く、片手には境天の探索団ギルドで使われる小さな金属製の通信板が握られている。

表面には、まだ淡い光が残っていた。


「今日はずいぶん早いね。それとも……残響施設のこと、まだ考えてる? もう何日も経ったのに、新しい本で気が紛れるタイプじゃなかったっけ」


「“寝た”って言ったら、ほとんど嘘かな」


賢司は疲れた笑みを浮かべ、通信板を少し持ち上げる。

薄い板の表面に、まだ光が脈打っている。


「境天の探索団詰所キョウテンのたんさくだんつめしょ宛てに、中央都キャピタルから直接の通達が来た。優先度・最高。……さっき届いたばかり」


「……キャピタルから?」


その言葉に、パルスバンの耳がぴくりと動く。


同じタイミングで、アイコの頭の奥のノイズも、少しだけ音量を上げた気がした。


「聞く?」


「それ聞いて、『じゃ、パンこね続けまーす』って人、さすがにいないでしょ」


アイコがそう返すと、賢司は小さくうなずき、通信板の中央を指先でなぞった。


金属の表面に一本の光が走り、そこから文字が浮かび上がる。


『特別監査通達


 件名:境天近郊残響施設調査報告書における異常値検出


 担当使役者:探索団A級使役者 黒宮タケル(くろみや・タケル)


 目的:現地確認および関係者聴取


 対象:アイコ、賢司、パルスバン


 期日:即時対応』


「……A級?」


アイコはそのまま口に出してしまった。


A級使役者。

中央の探索団で名前が飛び交うようなクラスだ。

大きな案件に送り込まれる、経験豊富な使役者たち。


境天みたいな小さな村に、わざわざ派遣されるような相手ではない。


「ちょっと待って。“異常値”って何さ」


パルスバンがアイコの肩に飛び乗り、顔を通信板の目の前まで突き出した。


「賢司はちゃんと報告書、書いたよね。残響施設に入って、ライノメガと戦って、中枢コアを回収しましたーって。あとは難しそうな単語並べて、記録ディスクと一緒に……」


「送ったよ」


賢司は乾いた調子で言う。


「でも、それじゃ足りなかったみたいだね」


「どういう意味?」


薪窯のそばの丸椅子に腰を下ろすと、賢司は鼻梁を指で押さえた。


「中央都には、独自の解析班がいる。

 残響施設の中で取れたデータは、全部そっちで洗い直されるはずだ。

 遺跡内部の数値、ボクたちの身体のエネルギーパターン……

 それから、君たちが戦っている最中に、記録ディスクに残っていた波形」


そこまで言ってから、視線をすっとアイコに向ける。


「……特に、君の」


胸の奥が、きゅっと縮んだ。


ライノメガが突進してきて、あの刃が首の後ろすれすれを通り過ぎた瞬間が、頭にフラッシュバックする。

あのとき感じた“何か”も、一緒に記録されていたのだろうか。


「ボク、別に悪いことしてないよ」


自分で言いながら、自信のない声だと分かる。


「ただ……聞こえただけ。あの変な声が」


「そういう“変なもの”が、中央都からすると“異常値”になる」


パルスバンが肩の上でため息をつく。


「ボクだって怖かったんだからね、一応。

 “お騒がせしてすみませんでした券”ぐらい一緒に送ってくれてもいいのに」


賢司は通信板を閉じ、長く息を吐いた。


「まとめるとね。A級使役者が一人、こっちへ向かってる。

 ギルド的には、考え方が二つある」


指を二本立てて、一本ずつ折っていく。


「『田舎のパン屋の娘と図書係が、たまたまとんでもなく危険なものを踏んづけた』か。

 『ギルドでも把握していない何かに、先に手を伸ばした』か」


「……説明が上手すぎると、逆に怖いって知ってた?」


アイコは薪窯から目を離さないまま、握っているパドルの柄に力を込めた。


包帯の下で、腕がずきりと痛む。


そのとき、別の“鐘”の音が響いた。


今度はパン工房の入口ではない。

村全体に響き渡る、あの高い鐘の音。


探索団の鐘──「みんな集まれ、今日は大事な客が来たぞ」と告げる合図だ。


「……うそでしょ」


パルスバンが目を丸くする。


賢司はゆっくりと立ち上がった。


「“即時対応”って、飾りじゃなかったみたいだ」



境天の探索団詰所の前には、すでに人だかりができていた。


水路沿いの石畳の道に、村の人たちがぽつぽつと集まっている。

好奇心と不安が半々、といった表情だ。


「……たぶん、あれだ」


アイコは小さな声でつぶやいた。


水路の向こうから、長い影が近づいてくる。


先頭を歩くのは、黒いロングコートを着た若い男だった。


体にぴったり合ったコートの肩には、探索団の紋章。

胸元には銀色のプレートが下がっていて、光を受けてきらりと光る。

短く整えられた黒髪。まっすぐな背筋。


歩き方は落ち着いているが、一歩一歩に迷いがない。


その横を、小さなブイモンスターが歩いていた。


甲羅は亀に似ている。けれども胸の中央には、金色の星が埋め込まれている。

短い足は、水たまりを軽く踏みながら、確かなリズムで進んでいた。


「……スタートルだ」


賢司が緊張した声でささやく。


「水属性のブイモンスター。

 中央都では、護衛任務の相棒としてよく使われてる。

 普通は、A級使役者クラスしか持てない」


「つまり、“本物の大物”ってことね」


パルスバンは、ごくりと喉を鳴らした。


黒宮タケルは、境天の探索団詰所の目の前で立ち止まり、

まず塔の上の鐘を一度だけ見上げた。


それから、ゆっくりと入口の方へ向き直る。


慌てて飛び出してきた詰所の責任者が、段差で足を滑らせかけると、

タケルの身体が一瞬だけ自然に前へ出た。


転びそうな誰かを支えに行く、その一歩。

正確で、無駄がなく、ためらいもない。


考える前に動くタイプの“戦い慣れた人間”の足運びだった。


「ここが、境天の探索団詰所で間違いないですね」


タケルの声は落ち着いていた。

大きくはないのに、不思議と周りにいる全員の耳に届く。


形式的な挨拶の言葉が、その場所でいくつか交わされた。


スタートルは一歩も動かず、ずっとタケルの隣でじっと立ち、

周囲の動きを一つも逃さない目で見ていた。


ある瞬間、タケルの視線が人垣の横へ流れ──

そこでぴたりと止まる。


アイコ、賢司、パルスバンの三人と一匹のところで。


「今回の、境天残響施設調査に関わった者たちですね」


詰所長が説明を始めるが、その途中でタケルが一歩前に出て、話をさっと引き取った。


「アイコ。賢司。パルスバン」


名前を一つずつ、正確に。


「今回の報告書の、直接の責任者は君たち三人で間違いない?」


賢司は喉の奥が渇くのを感じながら、こくりと頷いた。


「……はい。ボクは図書係として、記録を担当しました」


「ボクは、ただのかわいくて無害な電気ウサギです」


パルスバンが前足を挙げて口を挟む。


周りから、くすっと笑いが漏れた。

一瞬だけ、張り詰めた空気がゆるむ。


アイコは、その頭を軽くぺしっと叩いた。


けれども、タケルの表情は変わらなかった。


「中に入りましょう」


淡々とした口調でそう言う。


「まずは、ここまでの経緯を詳しく聞かせてほしい。

 中央都で解析されたデータと照らし合わせたい。


 そのあとで、軽いテストを一つ行う」


「テスト?」


パルスバンが首をかしげる。


「そんなこと、通達には書いてなかったよ」


「通達に書かれていることが、“本当に大事なこと”の全部とは限らないからね」


タケルはそれだけ言って、もう詰所の扉の方を向いていた。


それが“安心させるための一言”なのか、ただの“前置きの警告”なのか、

アイコにはまだ判別がつかなかった。



境天の探索団詰所にある会議室は、普段は村の集会や、

大きな仕事のあとにお茶とビスケットを囲む場所として使われている。


けれど今、木の大きなテーブルの上を占領しているのは、

菓子皿ではなく、記録ディスクと報告書、それから、小さなガラス容器だった。


「……これが、ライノメガから取り出した中枢コアか」


タケルは透明な筒の中で静かに揺れる光を、まつげの陰からじっと見ている。

その隣の椅子には、スタートルがちょこんと座っていた。


「このコアの存在を、なぜ最初の報告から外した?」


「ちょっと待って。“外した”って言い方やめない?」


パルスバンが、わざとらしく驚いたふりをする。


「ボクたちはただ、“もう少し調べたいなー”って」


「調べたかったのは本当だよ」


賢司が言葉を継ぐ。


「でも、この通達を見た瞬間に分かった。

 隠しきれるものじゃなかったって」


「経緯を、最初から全部話してくれないか」


タケルの表情は変わらない。


「今回は、抜けも脚色もなしで頼む」


賢司は手元の紙と記録ディスクを一つずつめくりながら、

残響施設の構造、数値の変化、ライノメガの挙動を説明していった。


話している間、彼の手は震えていなかった。

専門用語も、淀みなく出てくる。


アイコは、その横顔を横目で見ながら思う。


この瞬間の賢司は、ただの“本担当”なんかじゃない。


境天を一度も見たことのない誰かのために、

自分が味わった恐怖を、数字とグラフに変えて伝えようとしてきた人の顔だ。


「報告書の内容は、中央都に届いているデータと大筋で一致している」


ひととおり聞き終えると、タケルはそう評した。


「少なくとも、“書かれている範囲”での矛盾や改ざんは見当たらない」


「“書かれている範囲”って言い方、こっちの心臓に悪いやつだよね……」


パルスバンが小声で呟く。

耳が落ち着きなく動き、落ち着かない気持ちを隠しきれていない。


タケルは、賢司の署名が入った報告書の上に、指を二本そっと置いた。


「何を省くか決めたのも、君だね」


「……はい」


賢司は視線を逸らさずにうなずく。


「境天のことを考えました。

 村の出来事を、外の世界の“見世物”にしたくなかった」


「気持ちは理解できる」


タケルは即答した。


「問題を“矮小化”して、自分たちの家を守ろうとしたわけだ。

 逃げたというより、慎重すぎたと言った方が近い」


賢司は一瞬黙り、ゆっくりと息を吐いた。


「……それで、今は?」


「今は、中央都に起きていることを全部見せる必要がある」


タケルは指を報告書から離す。


「この問題は、もう一つの村だけで完結する規模じゃない」


そう言うと、残響施設の記録ディスクが固定された台座に視線を移した。


そこから、薄い光の画面が立ち上がる。


揺れる一本の線が、上下に波打っていた。

どこか、心電図に似た動き。


「ここ」


タケルが光の線の一部を示す。


「ライノメガが暴走状態に入る少し前に記録された、異常波形だ」


アイコの肌に、ぞくりとした感覚が走る。


あの瞬間の痛みが、光の線として可視化されているみたいだった。


「そのとき、何が聞こえた?」


今度は、まっすぐにアイコを見て問う。


回り道も言い訳も許さない、まっすぐな質問。


アイコは、一瞬言葉を失った。


隣で、賢司の体がわずかにこわばるのが分かる。

パルスバンの前足が、そっとアイコの手を握った。


「……声、です」


ゆっくりと口を開く。


「何を言ってるのかは、はっきり分からなくて。

 割れたガラスの向こうから喋ってるみたいで、

 “アクセス”とか、“開く”とか、そんな単語の断片だけ」


「『目覚めよ』は、聞こえなかった?」


タケルの口から、その言葉がごく普通の“用語”のように出てくる。


その瞬間、アイコの肩がびくりと震えた。

パルスバンも目を見開く。


賢司は、作業小屋で起きた出来事を知らない。


頭の奥のノイズが、一気にボリュームを上げた。

誰かがダイヤルを乱暴に回したみたいに。


同時に、スタートルが椅子の上で構えを変えた。


見えない何かの衝撃に備えるように、甲羅を少し下げ、足に力を込める。


タケルの体も、考えるより先に動いていた。


片足を半歩引き、膝を軽く曲げ、

コートの横に手が伸びる。


そこに武器かフックか、いつも何かを装備しているのだと、

その仕草だけで分かる動きだった。


一瞬だけ、境天の小さな会議室が、

どこかの戦場と同じ空気をまとった。


ノイズは、またすっと引いていく。

自分の内側に、縮こまるように。


スタートルの体から力が抜け、

タケルも姿勢を整えて、何事もなかったかのように椅子に腰を下ろし直した。


喉元のわずかな動きだけが、さっきの構えが“クセ”だと教えてくれる。


賢司とパルスバンは、何が起きたのか分からず、顔を見合わせた。


「……聞こえるんですか」


アイコがかすれた声で言う。


「いえ。音として聞こえるわけじゃない」


タケルは視線をそらさない。


「大きな波が、目の前で砕ける直前みたいな感覚があるだけだ。

 でも、それが君と結びついているのは、はっきり分かる」


パルスバンは、じっとアイコを見る。


いつもの冗談を挟まず、初めて“真顔”になって。


「アイコ、まだそんなにひどいって、ちゃんと言ってくれればよかったのに」


「言ったよ」


アイコは、少しだけ反発するように返す。


「ただ……キャピタルの人が喜びそうな、

 “綺麗な言い方”ではなかっただけ」


タケルは今度、賢司の方を見る。


「そしてそのことを、中央都への報告書に一切書かなかった」


問いではない。事実の確認だ。


賢司は視線を落とし、うなずく。


「……どう書けばいいか、分からなかったんです。

 “田舎の小さな村が、よく分からないものに怖がってるだけ”って、笑われるのがオチだと思って。


 境天と、外の世界とのつながりを甘く見てました」


「世界を、自分の手のひらだけで支えようとしたんだ」


タケルは静かに言う。


「そういう誤りは、たいてい“自分の家を守りたい人”しか犯さない」


そう言ってから、ガラスの容器の上に手をかざす。

コアに触れない距離で、空気の流れを測るみたいに。


「境天の残響施設で記録されたエネルギーの揺れは、

 ここ最近、中央都周辺で起きている事例と似ている。


 ブイモンスターの暴走。

 温室設備の事故。

 防御障壁の不意の停止。


 そして、そのいくつかに共通している“断片信号”がある」


タケルの視線が、アイコたち三人の間を順番になぞる。


「『目覚めよ』という、同じ一語だ」


アイコは、賢司の机の上で何度か見た、

しわくちゃになった見出しを思い出した。


「だからこそ、中央都はこう判断した」


タケルは一度、コアに視線を落とし、すぐに三人へ戻す。


「境天で起きたことを、“一つの田舎の事件”として処理するわけにはいかない」


スタートルの甲羅の奥から、小さな音が鳴る。

殻の内側で何かが鳴ったような、低い音だ。


部屋の温度が、ひやりと下がった気がした。


「正式な決定の前に、一つだけ確かめたいことがある」


タケルはそう言って、立ち上がる。


「報告書が教えてくれるのは、世界の一部だ。


 ときどき、身体の方が先に何かを知っている」


その言葉が、

“ただの説明”なのか、

“これから始まる何かの前触れ”なのか──


アイコにはまだ、判断がつかなかった。

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