第7章 断片世界
夜明けの光が、境天全体をやわらかな桃色とオレンジに染めていた。
低い霧が、草に覆われた屋根にまとわりつく。
パン工房の煙突からは、焼き始めたばかりのパンの匂いが、細く外へ逃げていく。
いつもなら、その朝の空気を吸うだけで、アイコの身体は自然とゆるむはずだった。
今日は、そうならなかった。
まだ人影の少ない通りを、アイコはゆっくり歩く。
寝不足の重さがまぶたにのしかかり、その奥には、もっと冷たい別の重みが貼りついていた。
意識を少しでもそちらに向けると、頭の奥の方で、細いノイズが走る気がする。
チューニングの合わないラジオみたいな、あの音。
『……エンティ……』
『……アクセス……』
『……プライミ──……』
アイコは頭をぶんと振った。
不意の雨にずぶぬれにされて、あわてて水を振り払おうとするみたいに。
「話したいなら、ちゃんと話しなよ……」
誰にともなく、小さく文句を言う。
「朝から空気とケンカしてるの?」
上から声が降ってきた。
角の石垣の上に、パルスバンが座っていた。
耳を左右にだらんと垂らし、後ろ足をぶらぶらさせている。
目の下には、静電気の“クマ”みたいに、小さな光の点がいくつか浮かんでいた。
「空気とはケンカしてないよ」
アイコは答える。
「ケンカしてるのは……多分、自分自身」
「うん、最高に健康的」
パルスバンはぽん、と軽い音を立てて石垣から飛び降りた。
「もう朝ごはん食べた?」
「まだ。パン工房開ける前に、水路まで水取りに行こうと思って」
「じゃあ、ちょうどいい」
目が、ちょっと危ない光り方をする。
「その前に、見せたいものがある」
アイコは目を細めた。
「“見せたいもの”って、どのくらいロクでもないやつ?」
「『もう首まで浸かっちゃってるんだから、あと五センチくらい増えても同じでしょ』って種類のやつ。ほら、来て」
返事を待つ前に、パルスバンはもう歩き出していた。
向かうのは、パン工房の裏手にある細い路地だ。
配達用の木箱や古い道具が積まれ、
父さんが「倉庫」と呼び、パルスバンが「作業小屋」と呼ぶ、小さな建物がくっついている一角。
「また何か爆発させる実験だったら、今度こそ窯に放り込むからね」
アイコはしかたなく後を追いながら言う。
「大丈夫。爆発はしない……はず」
パルスバンの作業小屋は、低い平屋だ。
裏の塀にぴったりくっついていて、半分は木、半分は拾ってきた鉄板でできている。
中は、まるで“廃品置き場”と“雷雨”がそのままケンカした結果みたいだった。
天井から垂れるコード。
あちこちに散らばった歯車。
手回し式の小さな発電機。
工具。そして、信じられない量のメモ用紙。
何年も前、パルスバンが雨の日に境天へ流れ着いたとき、
「寝る場所がない」と言うのを聞いて、父さんがこの小屋を貸した。
あとになって、パルスバンには森のどこかに小さな小屋があったと知った。
けれども、くだらない実験の爆発で、きれいさっぱり吹き飛ばしたらしい。
隅の方に置かれた机の切れ端が、作業台代わりになっている。
その上に、ほかのガラクタとは明らかに違うものが一つあった。
手のひらほどの大きさの金属ブロック。
つるつるしていて、整いすぎていて、
「もうこの世界には存在しない機械」から切り出された部品みたいに見える。
パルスバンは椅子にピョンと飛び乗り、
前足を作業台について、えっへんと胸を張った。
「アイコ嬢。新しいおもちゃのお披露目です」
アイコは近づいて覗き込んだ。
近くで見ると、それは角の丸い細長い直方体だった。
誰かが金属の塊を削り出して、端末の形に仕立てたような感じだ。
縁は明るい金属で出来ていて、ネジらしいものは見当たらない。
表には黒くて光を通さないガラスの面。
側面には、小さな六角形の凹みがいくつかあり、
何かの台座か、ベルトのようなものに固定できるようになっていた。
触る前から、腕の毛がぞわりと逆立つ。
「どこで見つけたの、それ」
アイコが問う。
パルスバンは、ちょっとだけ罪悪感のある笑みを浮かべた。
「ほら、あの、床に円があった部屋覚えてる?」
「……残響施設の、あの部屋?」
「そう。その部屋」
パルスバンは、さらっと続ける。
「そこに落ちてたから、拾ってきた」
「拾ってきたって……」
アイコの声が、思ったより大きく出た。
「境天まで持って帰ってきたの? 本気で言ってる?」
「本気の半分くらいかな」
パルスバンは肩をすくめた。
「図書係は“ちゃんとした大人”ごっこで忙しそうだったし、
ボクはいろんなところが気になってキョロキョロしてただけだし。
で、この子が、倒れたパネルの下に半分埋まってたの。
うっかり踏みそうになってさ。
『ちょっとカッコいい古いモジュール』くらいのノリで拾ってきた」
アイコはもう一度その端末を見た。
気持ち悪いのは、見た目の“つるつるさ”だけじゃない。
あの円の上に立ったときと同じだ。
外側の世界は何も変わっていないのに、内側だけが警戒態勢に入る。
「それを、何も言わずにこっちへ持ち帰ったわけね」
「呼吸するたびに許可取った方がいい?」
パルスバンは首をかしげる。
「本当は、最初にケンジに見せようと思ってたけど……」
そこで、いつになく真面目な表情になる。
「昨日から、アイコの頭の中、ちょっと“変な音”してるでしょ。
だったら、もう少しだけ“巻き込まれ済み”の方から試した方がいいかなって」
「はいはい。ボク、もう実験材料なんだ」
アイコは小さくため息をつく。
「高級な実験材料だよ」
パルスバンは軽く笑う。
「さ、ちょっとだけ触ってみて。
“これは無理”って思ったら、すぐ離して」
「“これは無理”ってどのくらい?」
「昨日までの全部より、もう一段階ひどい感じ」
全然安心材料にならない。
それでも、アイコは手を伸ばした。
金属は冷たかった。
けれども、ただの石の冷たさではない。
あの起動円が足の裏から伝えてきた冷たさに近い。
それを一点に凝縮したような感覚だった。
指先が縁に触れた、その瞬間。
路地が、消えた。
最初に消えたのは、足元だった。
濡れた石畳も、パンの匂いも、そこから一気に剥がれていく。
代わりに広がったのは、暗闇と、そこに走る無数の光の線。
青白い光の筋が、あらゆる方向へ伸びている。
空に描かれた川みたいに、格子みたいに、円や渦を描きながら、
ときには交差し、ときには互いを無視してすり抜け合う。
──空間そのものが、「固体でいるのを忘れた」みたいに。
遠くには、高い塔が見えた。
残響施設で見た金属と同じ素材でできた、細長い塔。
同じ形のものが何度も何度も繰り返されていて、
見ているだけで目が痛くなるようなパターンを作っている。
空──そう呼んでいいのなら──は、
細かすぎる数字で埋め尽くされていた。
一つ一つが点滅し、読もうとする前に次のものへ切り替わっていく。
その点滅の間に、アイコは何度か「形」を見た気がした。
巨大なブイモンスターの影。
円弧の一部。
昨日立っていた足場の断片。
音は、もっと厄介だった。
静寂ではない。けれども、普通の“音”でもない。
ノイズだ。
何層にも重なったノイズが、擦れ合って、
ギリギリ“声”と呼べるものの手前で揺れている。
『……エンティ……』
『……アクセス…… ……拒否……』
『……プライミ──…… ……レイヤー障害……』
聞き取れる単語もあれば、知らない言葉も混ざっている。
けれども、そこにある“感触”だけは分かった。
とてつもなく大きくて、古くて、
名前もついていない問題を解こうとして、
ひたすら処理を繰り返している、何か。
そのど真ん中に、さっきまで手に持っていたはずの物体が浮かんでいた。
ここでは、それはただの金属ブロックではなかった。
枠組みだけが残った“何か”に見えた。
つながらないケーブルを待っているソケット。
閉じきらない円。
差し込まれるはずのコアを、ずっと待っている器。
闇の真ん中に、突然、文字が現れた。
赤い光で書かれた、一つの言葉。
「目覚めよ」
声ではない。命令だ。
アイコは思わず、返事をしようとした。
「もう起きてるよ」とか、そんなことを言おうとして口を開く。
けれども、出てきた音は言葉にならなかった。
自分の声も、ノイズの層に飲み込まれていく。
背中の方から、「見られている」感覚が刺さった。
振り向く。
壁よりも遠く。
距離の感覚が壊れた先に、影がいくつも立っていた。
人間……のようで、人間ではない。
背が高く、細く、顔には何もない。
目も口もないのに、こちらをじっと見ているのが分かる。
それが、本当に“人”なのか、
ただの投影なのか、
それとも、残響施設そのものが作り出した“視線の形”なのか。
アイコには分からない。
ただ一つ分かったのは──
ここに、あと一秒でも留まれば、
自分の中の「何か」が、決定的に“はまり込んでしまう”ということ。
窯の部品が、空いていた隙間にカチリとはまるときみたいに。
それが、良いことなのかどうか、彼女にはまだ分からなかった。
アイコが手元を見ると、端末の色が変わり始めていた。
色のない金属だったはずのそれに、
オレンジ色のインクを一滴垂らしたみたいに、
じわりじわりと色が広がっていく。
前面のボタンらしき部分や、縁の一部が、鮮やかな黄色に縁取られていく。
引き戻された感覚は、落ちるのとも、押し飛ばされるのとも違った。
コンセントから、コードをいきなり引っこ抜かれたみたいだった。
断片世界が、光の線ごとバラバラに割れ──
境天の裏路地が、一気に戻ってくる。
「……っ!」
アイコは大きく息を吸い込んだ。
作業小屋の中。
片手は作業台についていて、もう片方の手にはまだ端末を握っている。
足が、自分のものに戻るまで、一拍遅れた。
心臓は首元から飛び出しそうな勢いで暴れている。
包帯の下の腕を、さっきの“冷たいもの”が内側から逆流していった。
深呼吸しようとして、一回目はうまくいかなかった。
二回目で、ようやく肺が言うことを聞く。
“それ”──名前も分からない端末──は、
ガラスの向こうから青い光をかすかに漏らしていた。
アイコは反射的に、それを放り投げた。
木の作業台の上で、乾いた音がした。
「ちょっ……!」
パルスバンが慌てて前足を上げたまま、アイコの前に飛び出してくる。
耳はぴんと立ち、目は真剣そのものだ。
「さっきまで、完全にフリーズしてたよ!
瞬きもしないで、ずーっと一点見つめててさ。
あと一秒黙ってたら、マジでショックかましてたとこ」
壁に掛けられた工具が、まだかすかに揺れている。
さっきまで、作業小屋全体が息を止めていたみたいだ。
「落ち着いて」
パルスバンは、自分もつられて深呼吸しながら言う。
「ボクの声、ちゃんと聞こえてる? 今、何本立ててるでしょーか」
彼は、一本も指を立てていなかった。
「全部」
アイコは、かすれた声で答えた。
「“まだ残ってる指”全部ね。……ボク、多分、どこかへ行ってた」
「“行ってた”って、どんな感じの?」
「円と同じ。けど、違う」
アイコは喉を鳴らして唾を飲み込む。
「昨日、あの起動円が光ったとき、足元から“触れられた”感じ、あったでしょ。
あれは、向こうからこっちに来た。
でも今のは、こっちを、向こうへ引きずり込もうとしてきた」
パルスバンは、作業台の上の端末をにらむ。
「ていうか、これ……色変わってない?」
「……変わってる」
アイコは壁に背中を預けながら、小さくうなずいた。
「数字とか、線とか、塔とか……世界がバラバラになって浮いてるみたいな場所で。
そこで、『目覚めよ』って文字が出た」
「アイコに向かって?」
「分かんない。でも、めちゃくちゃ機嫌悪そうだった」
パルスバンは、珍しく黙り込んだ。
ガラスの向こうの青い光が、少し弱まっていく。
端末が、ひとまず“深呼吸して眠り直した”みたいに。
まぶたの裏側に、「目覚めよ」の文字が焼き付いている気がした。
誰かが、まぶたの内側から赤いインクで書きつけたみたいだ。
アイコはパルスバンを見た。
「……これ、まだ探索団に見せないで」
「そのつもり」
パルスバンも、無理やり口元だけ笑顔にして見せる。
「ボクからもお願い。
“パン工房・特製企業秘密”ってことで、しばらく内緒ね」
アイコは、息とも笑いともつかない短い音を吐いた。
外では、境天の朝が本格的に動き出していた。
遠くから聞こえる人の声。
水路の水車が、少しずつ速度を上げていく音。
パンの焼き上がりを告げる小さな鐘の音。
ここ、パン工房の裏の即席作業小屋の中で──
残響施設から持ち帰られた古い端末が、
まるで“聞き耳を立てている”みたいに、静かに青く光っていた。
アイコの頭の奥に、またノイズが走る。
さっきよりは弱い。
けれども今度のそれは、少しだけ“好奇心”を含んでいるように感じた。
アイコもパルスバンも知らなかった。
日常の裏側に、もう一つの世界があることを。
断片だらけで、それでもしつこく、
こちらへ手を伸ばしてこようとしている世界が。
境天は、パンを焼き、タービンを回し、
夜行性のブイモンスターたちが屋根を歩き回る、いつもの一日を始めようとしていた。
この朝が“終わり”ではなく、
“始まりにすぎない”と知っているのは──
まだ、二人と、一匹の電気ブイモンスターだけだった。




