第6章 残響のあとで
境天の家並みが見えてきたとき、空はもうオレンジ色に染まっていた。
水車はゆっくりと回り続け、
パン屋の窓からは焼きたての匂いが流れてくる。
通りのあちこちで、吊るされたランタンに火が灯り始めていた。
包帯の下で、アイコの腕がじんじんとうずく。
隣を歩くケンジは、リュックの肩ひもを両手でつかんでいた。
まるで、ただの荷物じゃなくて重たい石でも背負っているみたいに。
その中には、布に包まれたライノメガの中枢コアが収まっている。
青黒い鼓動は、普通の人には感じ取れないほど弱い。
……少なくとも、“普通の人”には。
パルスバンは低い石垣の上をひょいひょいと歩き、
しっぽを左右に揺らしてバランスを取っていた。
さっきまで全身に散っていたスパークはほとんど消えていて、
ときどき、気まぐれに一つ二つはねるくらいだ。
「二人とも、すっごく顔が変だよ」
前置きなしに、パルスバンが言う。
アイコは瞬きをした。
「どう変?」
「まず、図書係の顔ね。
リュックを“爆弾”ってラベル付きの箱みたいな目で見てる」
「……そんな顔してないよ」
ケンジはメガネを押し上げ、視線をそらす。
「してる。あとアイコ」
パルスバンは前足でアイコの方を指した。
「『見ちゃいけないものを見ちゃった人』の顔してる」
「ただの疲れだよ」
アイコは言う。
「一日中、上がったり下がったり、埃まみれになったり──」
「はいはい。“ただの疲れ”。ボクは今日から水属性ブイモンスターね」
パルスバンがぶつぶつ文句を言う。
角を曲がると、パン屋が見えた。
店の前にはアイコの父さんが立っていた。
小麦粉だらけのエプロン姿で、腕を組んでいる。
まるで、森の縁をずっと睨んでいたかのような目つきだ。
「遅かったな」
低い声が飛んでくる。
アイコの胃がきゅっと縮む。
「遺跡まで行くって、朝言ったでしょ」
「“入口まで散歩”って意味に聞こえたがな」
父さんの視線が、破れた袖へと落ちる。
「で、その“散歩道”が、お前の腕に噛みついたのか?」
パルスバンは石垣から飛び降りた。
「ただの転び事故です!」
アイコより先に答える。
「悪いのは百パーセント、重力」
父さんの片眉がぴくりと動く。
「何につまずいた」
「石。大きい石」
アイコが慌てて言葉をつなぐ。
数秒間、父さんは黙ったまま、
娘とブイモンスターの顔を順番に見ていた。
「よし」
やっと口を開く。
「明日の朝、その石を見に行く。
ギルド……いや、探索団に連絡するべきか、ただの石工を呼ぶべきか、判断しないとな」
アイコはうなずくしかなかった。
視線がケンジへ移る。
「それと。お前は“この中で一番マシな大人”のはずだろ」
「……努力はしてます」
ケンジは苦笑しながら、リュックのひもを握り直した。
「だからこそ、今から境天の探索団詰所に行きます。
今のうちに報告を残しておかないと……後で“都合よく忘れる”部分が出てきそうで」
パルスバンが鼻を鳴らす。
「報告書の上で寝ないようにね。寝るとヨダレ垂らすでしょ」
「そこまで観察されてたんだ……」
ケンジは小さく笑って、手短に手を振ると、石畳を上っていく。
目指すのは、広場の端にある、小さな石造りの境天の探索団詰所だ。
彼の姿が角を曲がって見えなくなると、
広場の音が、ほんの少し静かになったような気がした。
父さんはアイコの“無事な方の肩”を、軽く叩いた。
「中に入れ」
短く言う。
「晩飯のあとで全部聞く。
……お前が話せる範囲だけでもな」
***
窯の熱は、いつもアイコにとって“安全な場所”の匂いだった。
アイコは台所のベンチに座り、
包帯を巻いた腕をテーブルの上にそっと乗せていた。
父さんは最後の生地をオーブンに入れているところだった。
手の動きはいつもと同じだ。
切って、丸めて、形を整えて、木の板に並べる。
それを一度に窯の中へ滑り込ませる。
いつもと違うのは、アイコの方だ。
身体はここにあるのに、
心だけがまだ、あの錆と鉄と冷たい空気の底に引きずられている。
「やっぱり、今日は何かが違うな」
父さんが言った。
アイコの方は見ない。
「今日、何人目だっけ。そう言うの」
アイコがぼそっと返す。
「事実だからな」
父さんはパンの位置を少し直す。
「いつもなら、運河から戻ってくるときは、もっと軽い顔してる。
今日は、誰かに重りを渡されて、そのまま返してもらってない顔だ」
アイコは手にした水のコップを、きゅっと握りしめた。
どう説明すればいいのだろう。
あの円の中心に立ったときの感覚を。
頭の中を、何かが通り抜けた感覚を。
光で書かれたレシピを、無理やり読み込まされたみたいな、あの感じを。
「ただの長い一日だよ。上ったり下りたり、埃まみれになったり……」
父さんは振り返り、エプロンで手を拭いた。
「探索団の手伝いが、夜明け前の仕込みより楽しく見えるのは分かる」
声は怒っているわけじゃない。
どちらかといえば、疲れていた。
「だがな、“手伝い”と“問題を家まで連れてくる”の間には線がある」
「何も連れてきてないよ」
言った瞬間、自分でもスカスカだと思った。
父さんは、ほんの少しだけ目を細める。
「今日は“信じる方”を選んでやる」
短く告げる。
「明日、詳しく聞く。
お前が話していいと思うところまで、全部だ」
それで会話は一旦切り上げられた。
けれど、アイコは分かっていた。
話題を“先送り”にしただけだ、と。
広場の向こう側では、境天の探索団詰所の灯りがまだ消えずに残っている。
***
境天の探索団詰所の中で、ケンジは一人だった。
机の上には、書式の違う紙が何枚も広がっている。
手にはペン。もう片方の手には、丸い金属の板。
記録ディスクだ。
手のひらサイズの円盤で、縁の一部が切り欠かれている。
探索団の読み取り台に、特定の向きでぴたりとはまるようになっている。
金属の下には、薄いガラスの層が透けて見えた。
ケンジはそれを指先でくるくる回していた。
言葉が決まれば、そのまま刻み込めそうな気がして。
「日付、場所、座標……」
そこまでは簡単だ。
彼は、いつもの癖で字を整えながら書き始める。
「『途切れた円の印が刻まれた足場の下に位置する遺跡。
内部に、機械式ハンガーおよび旧式封鎖ユニット級ブイモンスター・ライノメガを確認。』」
ここまでは、全部、本当のこと。
次の行で、ペン先が止まった。
「『ユニットは〜に反応して起動』」
「“何に”反応したって書けばいい?」
ケンジは心の中で問いかける。
円の起動?
ただの侵入者の存在?
……それとも、円の中心に立っていたアイコ?
机の横に立てかけてあるリュックが、
目に見えない呼吸をしているように思えた。
布の奥では、暗い青のライノメガのコアがかすかに脈打っている。
ケンジは小さく息を吐き、こう書く。
「『古いサブシステムの再起動によるものと思われるが、詳細は不明。』」
冷たい。あいまい。安全。
ペンを滑らせながら、続ける。
「『ユニットには著しい構造的損傷および複数の不正な補修跡を確認。
交戦の結果、機械的崩壊により機能停止。
境天への即時的脅威:コントロール済み。』」
「コントロール済み」の文字が、他より少し濃くなった。
「本当の“即時的脅威”は、今このリュックの中にいるんだけどね」
心の中でつぶやく。
けれども、アイコの父さんの顔を思い出す。
門の前で腕を組んでいた姿を。
「全部ギルドに任せたくない」と言ったアイコの顔を。
ハンガーの中で自分が口にした言葉を。
──『もしこの“卵”に、今度こそちゃんと育て直せる可能性があるなら……
探索団本部の棚に乗せるより、ボクの目の届くところに置きたい』
ケンジは記録ディスクを、もう一度指先で回した。
結局、次の行にはこう書いた。
「『本件に関するデータ収集は不完全。
ユニットおよび関連システムの詳細な分析は、追って別報告にて提出予定。』」
書き終えた紙と記録ディスクを、落ち着いて並べる。
自分が“書くことにしたこと”と、“書かないことにしたこと”を見比べるように。
「これ、絶対に“悪い考えの始まり”なんだろうな……」
小さくつぶやく。
「でも、今ここで全部差し出したら、
後から『ボクの考えです』って言える部分、何も残らない気がする」
ケンジは紙と記録ディスクを探索団輸送箱に収め、
蓋をしっかり閉じた。
この箱は、運び屋の手に渡る。
大抵の場合、その運び屋は翼を持ったブイモンスターだ。
長距離を飛び、各地の探索団拠点へ荷物を届ける仕事。
尊敬されるが、とても過酷な役割。
外へ出るころには、村の灯りは一つ、また一つと消え始めていた。
境天の探索団詰所の明かりだけが、
いつもより少し長く、夜に残っていた。
***
夜のアイコの部屋は、いつもより狭く感じた。
仰向けに寝転んで天井を見つめる。
横向きになる。
また仰向けに戻る。
目を閉じても、暗闇は来ない。
代わりに浮かぶのは、あの円だ。
遺跡の床に刻まれた金属の線。
その中心に立ったときの景色。
誰にも読めない本の真ん中に、自分だけが立たされているような感覚。
ライノメガが身を起こす瞬間。
胸の中枢コアが青く脈打つ様子。
その光が、ほんの少しだけ、自分の方へ伸びてきたように見えたこと。
アイコはぎゅっと目を閉じた。
思い出そのものを押し出そうとするみたいに。
そのとき、冷たいものが包帯の腕から首筋へと走った。
打撲の痛みとは違う、細い冷流。
──そして、「ノイズ」が始まった。
最初は、本当に小さな音だった。
水でも、窯でも、水車でもない。
もっと乾いた、空気の擦れるような音。
うまく合っていないラジオから聞こえる、あの「サーッ」という音に似ている。
『……エンティ……』
『……アクセス……』
『……プライミ──……』
言葉としては聞き取れない。
でも、リズムは分かる。
あの円が光ったときに聞こえた、あの“声の欠片”と同じだ。
違うのは、今その音が床からではなく──
自分の中から聞こえている、ということ。
アイコは額に手を当てた。
「やめて」
小さくささやく。
「何を求めてるのか、ボクには分からない」
一瞬だけ、ノイズが従ったように見えた。
静寂。
腕の冷たさが、少しずつ引いていく。
部屋はただの部屋に戻る。
ベッド、窓、古い木の匂い。
やっと訪れた眠りは、深いものではなかった。
つるつるに磨かれた廊下。
開かない扉。
遠くからしか見えない円。
自分の思考そのものに、細い糸が何本も通されているような、そんな夢。
地下の遺跡では、円は今も沈黙を守っている。
探索団輸送箱の中で、不完全な報告書のインクが乾いていく。
ケンジのリュックの中では、
布に包まれた機械仕掛けの心臓──中枢コアが、静かに眠っている。
そして、アイコの頭の中で──
何かが、新しい“通り道”を見つけた。
境天は眠っている。
窯の中のパン。回り続けるタービン。
屋根の上をうろつく夜行性のブイモンスターたち。
この夜が“終わったこと”ではなく、
“始まりにすぎないこと”を知っているのは──
たった二人と、一匹の電気ブイモンスターだけだった。




