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ブイモンスター ~ Re:Alive ~  作者: manoru-kun
5/10

第5章 VS ライノメガ

遺跡の空気は、昨日よりもさらに重く感じられた。


境天の森の奥、石の円盤の下に開いた隙間を、アイコは最後にくぐり抜ける。背中に冷たい金属がかすめた瞬間、うなじを細い寒気が走った。


足が地下室の滑らかな床をとらえる。中央には、あの円が黙って待っている。石に刻まれた線は光を失っている――けれど、完全に死んではいない。


夜明け前、まだ窯に火を入れていないパン屋に入った時みたいだった。何も動いていないのに、「もうすぐ何かが動き出す」匂いだけが、そこにある。


沈黙を最初に破ったのは、やっぱりパルスバンだった。


「よし、“ギルドの安全お祈りの言葉”終了……っと」

耳をぴんと立てたまま、周囲を見回す。「頭の上に落ちてきそうな石……ゼロ。今のところはね」


ケンジは小さく息を吐き、指先で細い円盤を確かめる。

ギルド支給の、薄い金属製の記録ディスクだ。


「昨日は、ノックしただけ」ケンジは円を一瞬だけ見やって言った。「今日は、その先を少しだけ覗いてみる」


アイコはこくりとうなずき、布のリュックの口を閉じる。中身は最低限だ。ロープ、数個の光結晶、水の入った水筒に包帯。そして一番上には、あの途切れた円の印が刻まれた金属片を布で包んで入れてある。


「約束しよ」アイコが言う。「何かが……大きすぎるって感じたら、すぐ引き返す。変なヒーローごっこは禁止」


「ちょっと待って」パルスバンが前足を上げる。「俺がやるのは、ヒーローごっこじゃなくて、“戦略的ヒーロー”だから」


誰も信じてはいなかったが、あえてツッコむ者もいなかった。


三人は円の部屋から伸びる、細い通路へと進む。昨日はこの曲がり角の手前で引き返した。今日は、ランタンと時間と、それなりの覚悟を足して、もう数メートル先まで足を運ぶ。


天井は少し低くなり、右側の壁はところどころ崩れ落ちている。その向こうには、土に呑み込まれた別の空間がちらりと見えた。


「ここだ」ケンジが、無意識に声を落とす。「昨日は、ここまでよく見えなかった」


青白いランタンの光が、反対側の壁に開いた不規則な裂け目を照らし出す。金属の板が一部へこみ、そこから細い根が指のように入り込んでいた。その奥に、ぽっかりと広い空間が口を開けている。


彼らが立っている位置は上段だ。その下に、数歩分ほど低くなった“底”が広がっている。


匂いが違った。さっきまでの「古い埃」ではない。もっと乾いた――油と、焼けた金属の残り香。


「倉庫……みたい」アイコがつぶやく。


「ハンガーだね」ケンジが、ほとんど条件反射で訂正する。「ギルドの古い記録にも出てくる。地上には置けなかった大きな機械を、おろして格納する場所」


「“ずっと寝ててくれた方が助かる機械”用の場所ってことだよね?」パルスバンが言う。


そう言いながらも、彼は一番に縁まで歩み寄った。ランタンの光が下の段をなぞり、長い影を伸ばしていく。


その時、アイコはそれを見た。


スペースの奥、崩れた金属板と乾いた苔に半分埋もれるようにして、何かが横たわっている。


最初は、巨大なカブトムシがひっくり返っているのかと思った。だが、すぐに腕だと分かる突起が見えた。肩のライン。伸びた兜のように長い頭部。


濃い青黒い装甲は、あちこちに深い亀裂を抱え、錆に食われている。いくつもの関節には後付けの補強板が乱暴に重ねられ、今はそれごと歪んでいた。


“目”の位置には、消えた黄色の丸が二つ。


遠くで聞こえていた水音さえ、ふっと飲み込まれたように感じた。


ケンジは、その場で固まる。


「……嘘だろ」かすかな声が漏れる。「ブイモンスター・ライノメガ」


アイコは眉をひそめた。


「見たことあるの?」


「実物はないよ」ケンジは唇を湿らせながら、目を離さずに答える。「図と、スケッチと、“見て、ほとんど死にかけた人”の手記だけ。ギルドの分類では封鎖ユニット級ブイモンスター。コラプスの前、重要施設を守るために使われてた。――で、“全部破壊されるか、深く埋められた”ことになってる」


パルスバンは首をかしげる。


「じゃあ、こいつは……潰れた世界の“番犬”っていうより、“番トラック”級って感じだね」


「しかも、だいぶ潰れてる」アイコは錆びだらけの装甲を見て、少しだけ冗談めかして言う。「もう何十年も、動けないままなんじゃない?」


その言葉を、誰かが待っていたかのように。


暗闇の中で、何かが弾けた。


短く、乾いた金属音。電気の線がいきなり飛び火したような、鋭い音。


黄色の丸が、灯る。


こういう灯り方をするはずじゃない――と、アイコは直感で思った。


綺麗じゃない。揺れる。風にあおられたろうそくみたいに、フチがちらつき、明滅に小さな欠けがある。


「ケンジ……?」アイコは目を逸らさずに呼ぶ。


「見てる」ケンジの声も、掠れていた。


ライノメガの胸の奥で、何かが古い起動音を鳴らす。低い唸りが装甲の内側を這い、ハンガー全体に広がる。足元の床がわずかに震え、苔と埃がぱらぱらと落ちた。


やがて、くたびれた歯車の軋みとともに、ライノメガはゆっくりと身を起こした。


その体はあまりにも大きかった。


甲虫じみたシルエットを持つ人型――幅広い胴体を、湾曲した装甲肩が覆い、腕の先は長い刃になっている。まるで前腕ごと一本の剣になったような形状だ。


脚は太く、むき出しのシリンダーが錆の下から覗いている。重量が全部のしかかると、床全体がうめいた。


パルスバンは本能的に半歩前に出る。アイコとケンジの前に、半身を割り込ませるようにして。


「うん」小さく呟く。「訂正。これは番犬じゃない。“番トラック”級だ」


黄色い目が、上段のプラットフォームをゆっくりと掃く。瞳孔はない。だがアイコには、自分たちが測られ、分類されている感覚がはっきりあった。


一瞬だけ、何も起こらない。


次の瞬間。胸の中の唸りが強くなる。


胸の裂け目に沿って、一筋の光が走った。内部の防衛プロトコルが、ゆっくりと古い規則を読み上げているようだった。


「もしかして――」ケンジが言いかけた時。


ライノメガは動いた。


さっきまで底に横たわっていた巨体が、一瞬で距離を詰める。


次の瞬間には、全体重を弾丸みたいに前へ投げ出していた。


「しゃがんで!!」


パルスバンの叫びと同時に、アイコは横へ跳ぶ。ケンジは床に身を投げ出した。


ライノメガの右腕の刃が、さっきまでアイコの頭があった場所を薙ぎ、壁に深々と突き刺さる。


衝撃で、周囲の金属にクモの巣状の亀裂が走った。


震動が床から手へ、腕から肩へと一気に駆け上がる。一瞬、世界がノイズだけになった。


「これは――かなり終わってるね!!」パルスバンが叫ぶ。


ライノメガは刃を引き抜き、壁の一部を引きちぎる。金属の粉が空中に舞い上がる。


一歩、半歩、重い足音で体勢を整えると、再び全身をこちらへ向けた。胸の奥で鳴る唸りは、また一段階高くなる。


ケンジは喉を鳴らしながら、崩れた柱の影へと身を寄せる。


「ただの巨大ブイモンスターじゃない……」ほとんど自分に言い聞かせるみたいに呟く。「まだ、防衛プロトコルに繋がってる。昨日の起動を侵入と判断して――今、遅れて目を覚ましたんだ」


「講義はあとで!!」アイコが怒鳴る。「今は、生きて帰る方が先!」


パルスバンは前に一歩踏み出した。毛並みが逆立つ。


「じゃあ、ついてきて!」


耳の先から青い火花がほとばしる。電気が毛の一本一本を駆け巡り、前足へと集まっていく。


「《スタティックショック》!」


放たれた雷が、弧を描いてライノメガの胸へ直撃する。


轟音とともに、電気は装甲全体に広がり、眩しい閃光となって弾けた。アイコは思わず腕で顔をかばう。


視界が戻った時。


ライノメガは、まだそこにいた。


無傷のまま。


黄色の目が一度だけ点滅する。唸りの音色が変わる――痛みではなく、調整の音。


パルスバンの放った電気は装甲を走り、脚へと流れ、床に吸い込まれていった。まるで地面の奥に用意された河へ合流するみたいに。


「嘘でしょ……」パルスバンが息を切らす。「痺れもしないの!?」


答え代わりに、ライノメガが走った。


今度は一度きりの大ジャンプではない。


上半身を深く傾け、刃のついた両腕を床に突き立てて――金属の闘牛のように、低い姿勢で突進してくる。


「左!」ケンジが叫ぶ。


パルスバンはそちらに飛び退こうとする。だがライノメガは、直前で軌道をねじ曲げた。まるで動きを予測していたかのように。


横からの衝撃が、パルスバンの体を吹き飛ばす。


アイコの目に映ったのは、白と青の小さな塊が柱に叩きつけられ、床に弾かれる一瞬の軌跡だけだった。尾を引く火花が、空中に線を描く。


「パルスバン!!」喉が裂けそうな声が出た。


彼は横向きに倒れ、そのまま動かなかった。一秒。二秒。その一瞬が、やたらと長く感じられる。


やがて、咳き込みながら頭を振り、小刻みに震える足で無理やり立ち上がった。片側の毛は焦げ、火花はさっきよりも不安定に、ぴくぴくと漏れている。


「……うん」歯を食いしばりながら呟く。「これは……普通に痛い」


アイコは駆け寄ろうとするが、その途中で足を止める。


ライノメガが、刃をアイコの方へ向けたのだ。


体の奥から、またあの「充電」の唸りが走る。


柱に背中を預けたまま、ケンジが装甲を睨む。


「外殻が、電気をそのまま地面に逃がしてる」早口で言う。「お前の攻撃、ほとんど逃げ道になってるだけだ。完全にアースされてる」


「最悪!」パルスバンが唸る。「工学の基本をちゃんと押さえてるタンクって、何その嫌がらせ」


ライノメガは両腕を床につき、ドンと叩いた。


衝撃でプラットフォーム全体が揺れる。上の構造物がきしむ音が、遠くから返ってきた。


正面から押し勝つ――その選択肢は消えた。


まともにぶつかれば、一緒にここに埋まるだけだ。


「じゃあ、どこなら“繋がってない”?」アイコが叫ぶ。まだライノメガから目を離さない。「錆びてるところ、浮いてる板、他と噛み合ってない部分……どこでもいい」


パルスバンは瞬きを繰り返し、荒い息を整えようとする。


そこでようやく、ちゃんと見る。


ライノメガが動くたびに、小さな音がいくつもした。


よく使う部分――「膝」の蝶番、踵の後ろ、肩甲骨にあたるあたり。そこだけ、錆が厚くこびりつき、ぱりぱりと剥がれかけている。


元の金属とは違う色が、ひび割れの隙間から覗く場所もあった。あとから無理やり継ぎ足したプレートが、今はそれごと壊れかけているのだ。


「脚の後ろ」パルスバンが顎で示す。「それと背中。あそこだけ、噛み合いが甘くなってる。そこに電気を押し込めば……逃げ場がなくなる。熱だけが溜まる」


「で、割れる」ケンジが続ける。「錆が道を掘ってくれてるなら、熱はそこを通って中まで入る」


「最高」パルスバンが、ふらつきながら笑う。「あとは、そこまで俺が生きて辿り着くだけだ」


ライノメガはゆっくりと歩き始めた。もう一直線には走らない。重い足音で距離を詰めながら、わずかに上半身をひねり、三人全員を視界に入れ続ける。


「私が囮になる」アイコが、考えるより先に口を開いた。「あんたは脚を狙って」


「はあ!?」パルスバンとケンジの声が同時に跳ねる。


「今は“強そうに見える方”を狙ってる」アイコは自分の体をひょいと示す。「つまり、パルスバン。視線が私に向けば、そのぶん隙ができる」


「アイコ、それは無茶だ」ケンジが言葉を挟む。「正面から踏まれたら、粉になって終わりだよ」


「じゃあ、踏まれないようにして」


アイコはリュックから光結晶を一つ取り出し、ぎゅっと握った。手は震えていたが、落とすほどではない。


「私は走る。ケンジは考える。パルスバンは即興でなんとかする」アイコはケンジをまっすぐ見る。「昨日からずっと、そうやってやってきたんだから、もう認めて、利用しよ」


反論したい言葉が、ケンジの喉の奥まで上がってきた。


だが代わりに、彼は記録ディスクを握る手に力をこめる。指の節が真っ白になるほど強く。


「君が死んだら、一生自分を許せない」低い声で言う。笑いに変えるには小さすぎる声で。


「だったら死なせないで」アイコは、引きつった笑みを浮かべた。「それが――図書係の仕事でしょ」


二歩、前に出る。


黄色い目が、アイコだけを追う。


「おーい!」アイコは叫んだ。どこからか借りてきたみたいな勇気を声に乗せて。「侵入者追い出したいなら――昨日一番早く来た方からどうぞ!」


光結晶を、ライノメガの頭めがけて投げる。


結晶は弧を描き、兜の横をかすめて砕け散った。白い閃光がいくつも走り、一瞬、世界は偽物の星空に包まれる。


ライノメガの上半身が、そちらへ向き直る。


甲高い唸りが、また一段階上がる。


「今だ!」ケンジがパルスバンに向かって叫ぶ。「突進する瞬間、後ろの関節が一番開く!」


パルスバンは何も返さない。返す時間ももったいない。


脚はまだ痛い。けれど、体は動き方を覚えている。


彼は逆側の縁に沿って走る。ライノメガがアイコに向かって加速する、その“間”に滑り込むように。


アイコの世界は、金属が擦れ合う音だけになった。


逃げ切れる距離ではない、と直感で分かる。だから、少しだけズラす。全部じゃなくて、“致命的じゃない分”だけ。


体を横へ投げ出し、肩から床に落ち、そのまま転がる。頬をかすめる風圧が、皮膚に痛みを残した。


ライノメガはさっきまで彼女がいた場所を突っ切り、刃で床を削る。


床に走った火花が、脚を伝って逆流し、錆のかたまりの中に逃げ場を失ってたまる。


「もう一周!」ケンジが叫ぶ。


アイコはもう立ち上がっていた。向きを変え、今度は反対側へ走る。ライノメガを振り向かせるように。


パルスバンはその回転の内側に滑り込む。


巨体の腕の下をくぐるように飛び込み、耳を思い切り伏せて、むき出しのケーブルを避ける。


さきほどまで勝手に飛び散っていた火花が、今は一か所へ集まっていた。前足へ。


「丸焼きがダメなら――」パルスバンは低く唸る。「――中からじっくり煮込む!」


拳に、すべてを込める。


狙うのは、膝の裏、錆が最も厚くこびりついた関節。


拳がめり込んだ瞬間、電気は広がらなかった。潜った。


あとに続いた音は、さっきまでと違っていた。


よく通る金属音ではない。嫌な、湿った焼け音。もう熱を受け止めてはいけない場所に、無理やり火を押し込んだ時の音だ。


乾いた錆が、一瞬で粉になる。ひびだらけの金属が膨張し――割れた。


ライノメガの膝が、崩れる。


まだアイコの方へ振り向こうとする巨体。その重さが、支えを失った脚へ容赦なくのし掛かる。


もう片方の脚で踏ん張ろうとするが、床にはすでにヒビが走っている。新たな衝撃が、そこから大きな穴を広げた。


崩れたプレートが、下の段へ一斉に落ちていく。


「離れて!」ケンジの叫びが飛ぶ。


アイコは全力で走る。それでも、倒れ込む巨体が生む空気の波には追いつけなかった。背中から突き飛ばされるように前に倒れ、視界が白く弾ける。


金属の塊が床を叩く音が、遺跡中に響き渡る。


建物全体が、ごくりと何かを飲み込んだみたいに――そのあと、黙り込んだ。


やがて、粉塵の幕が少しずつ薄れていく。


「……いったぁ……」アイコは指を動かしてみる。左腕に焼けるような痛みを感じて袖をまくると、布は破れ、じわじわと紫色の痣が浮かび上がっていた。


「生きてる?」


パルスバンが視界の端に飛び込んでくる。息は荒く、毛は完全に逆立っている。


「何本、指見える?」


彼は指を一本も立てていなかった。


「見えるだけね」アイコは、かすれた笑いを漏らす。「そっちは?」


「俺?」パルスバンは一瞬、自分の状態を思い出したように瞬きをする。「最高。完璧。――拳には、あいつの膝の感触が三年分くらい残りそうだけど」


最後にケンジがやって来る。片足を少し引きずり、眼鏡の片側が曲がっていた。


下の段では、ライノメガが横倒しになっている。崩れたプレートの下敷きになり、体の半分が埋もれていた。


パルスバンが叩き込んだ関節は、完全に砕けている。黒ずんだ金属片と錆の粉が周囲に散らばっていた。


胸の唸りは消え、目の黄色も、ただの濁った円に戻っている。


「……止まった?」アイコが問う。


「止まった」ケンジが答える。その声には、アイコが予想していたような安堵の色はなかった。別の重さが混ざっている。「それが、余計に怖い」


パルスバンは鼻先をしかめる。


「普通、“もう殺そうとしてこない”って、一番いいニュースじゃない?」


「悪いニュースはね」ケンジは崩れた階段を慎重に降り、巨体に近づきながら言う。「こいつは爆発もしなかったし、自動で分解もしてない。“任務完了”の命令も来てない。ただ――無理やり動かされて、そのまま壊れた」


彼は体には触れず、胸の辺りを覗き込む。


「ギルドの記録にある、本来のライノメガはね。停止する時、中枢コアを収納して、装甲を閉じて、回収を待つ。そういうプロトコルになってる」


指先で、補修跡の多い装甲を示す。


「こいつは、そこまでケアされてない。“ちゃんと直す価値はない”って、どこかで判断されたんだろうね。それで、場当たり的な修理だけで動かされ続けて――ここまで来た」


「外の世界と、あんまり変わらないね」パルスバンがぼそっと言う。「壊れたものに、ちゃんと向き合う時間がないってやつ」


アイコは深く息を吸い、まだ早鐘を打っている胸をなだめようとする。


「……また立ち上がる可能性は?」


ケンジは少し考えてから、首を横に振る。


「今の状態で、さっきみたいに動くことはないと思う」そこで言葉を切り、胸の裂け目を指差す。「でも、“大事な部分”は――まだそこにある」


割れた装甲の隙間から、かすかな光が漏れていた。


どす黒い青の、弱い脈動。ほとんど消えかけた炭火のような明滅。


その中心に、両拳を合わせたくらいの大きさの円形の構造体が、ひっそりと収まっている。


「中枢コア」ケンジが低く言う。「ルートの記録、侵入者の識別、判断を下す部分……全部、あそこにまとまってる」


パルスバンは、半分警戒、半分興味でそれを見つめる。


「……つまり、機械の脳みそ」


「卵みたい」アイコが、ぽつりと言った。


二人が、同時に彼女を見る。


「だって」アイコは肩をすくめる。「ここから出して、どこか別のところに“移せそう”に見えるから。ちゃんと道具を持ってきてて、なおかつ、いい感じに頭がおかしい人ならね」


ケンジは、しばらく黙った。


リュックの中で、記録ディスクと巻物たちが急に重くなった気がする。


ギルドなら、なんと言うか。


“印を残して退避。大規模チームを派遣。封印。忘却。”


頭の中で、いつもの定型文が並ぶ。


彼はもう一度コアを見る。青い脈動が、一瞬だけ、自分の心臓の鼓動と同じリズムを刻んだ気がした。


「何にせよ」ようやく口を開く。「このまま森の下に放り出しておくわけにはいかない。ここで別の何かが目を覚ましたら……あるいは、“どう悪用しても構わない”って人に先に見つかったら」


「持って帰るつもり?」アイコの目が見開かれる。


ケンジは短く息を吐いた。笑いにもならない、空気の抜ける音。


「もう“関わってません”って顔をするには、遅すぎるでしょ」疲れた笑みを浮かべる。「それに――もしこの“卵”が、今度こそまっとうに育てられる可能性があるなら。ギルド本部の手の中じゃない方が、まだマシな未来が残る気がする」


パルスバンはコアを見て、ケンジを見て、またコアに視線を戻す。


「馬鹿さ加減のスケールで言うと、“なかなかの大馬鹿で、ワクワクもする”ってところかな」小さく頷く。「俺は賛成」


アイコは、痣の上をそっと撫でてから、ため息をついた。


「私は、“生きてここを出てから持ち運ぼう”に一票」言う。「もしこいつが“壊れかけの番トラック”だとしたら、地下の隣人さんとは会いたくないし」


ケンジはゆっくりとうなずく。


「じゃあ、こうしよう」低く呟く。「身体からは外す。でも、今はここから出さない。俺たち三人にしか分からない場所に隠す。ギルドが来ても、いきなりこれに足を引っかけたりはしないように」


ポケットから、薄手の手袋を取り出す。もろい資料を扱うための布だ。


本来はブイモンスターの手術用でも、機械解体用でもない。だが、何もないよりはマシだった。


ケンジはそれを丁寧にはめる。その仕草だけで、何かの覚悟を固めたように見えた。


「その布、貸して」


アイコは、途切れた円の金属片を包んでいた布をリュックから取り出す。一瞬だけ、ためらう。


「いいの?」


「もう“問題”を一つ預かってた布だし」ケンジは、目だけで笑おうとする。「経験者優遇ってことで」


パルスバンは、潰れた胸の装甲に飛び乗り、自分の体重で片側を押さえる。


ケンジはゆっくりと、裂け目の隙間に指を滑り込ませる。どこかにあるはずのロックを探ると――小さなクリック音が、金属の奥から返ってきた。


アイコは息を止める。


中枢コアが、外れた。


その瞬間、遺跡全体が反応するのではないか――アイコはそう身構えた。


しかし何も起こらない。


ライノメガの躯は、さっきと同じ姿勢のまま沈黙を保っている。


ただ、コアそのものだけが、わずかに脈を強めた。


長いあいだ閉じ込められていた空気から、初めて顔を出したみたいに。


ケンジは両手でそれを受け止める。


見た目より、ずっと重い。


物理的な重さだけじゃない。何冊分もの“読み切れていない本”が、全部そこに詰め込まれているみたいな疲れが、両腕にのしかかる。


布を巻きつける。途切れた円の印が描かれた布で、青い光を何重にも包み込む。


光が完全に隠れるまで固く結び、胸元に一度だけ押し当ててから、そっとリュックの中へ滑り込ませる。


ベルトをきゅっと締め直した。


「よし」ケンジは小さく呟く。「これで、正式に――俺たちの問題になった」


パルスバンは胸の上から飛び降り、埃まみれの毛をぶるぶると振り払う。


「パーティーへようこそ、中枢コアさん」軽口を叩く。「夜に変なうなり声だけは上げないでね」


アイコは、倒れたライノメガの躯をもう一度見た。


コアを失った今、その身体は、さっきよりもずっと空っぽに見えた。


ただ“死んでいる”のではない。


“見捨てられた”ものの姿に近い。


「行こ」アイコが言う。「これ以上、目を覚ます“古い問題”と会いたくない」


三人は来た道を戻る。


円の部屋へ、細い通路を抜けて戻ってくると、上の空気はさっきより少しだけ温かく感じられた。


だからといって、歓迎してくれているわけでもない。


アイコは、腕の痣の重さ、脚にたまった疲労、そしてケンジのリュックにぶら下がった新しい秘密の重みを、同時に意識する。


やがて、森の緑が見えた。


小さなブイモンスターたちの鳴き声。用水路の水車の音。


境天の生活音が耳に戻ってきた瞬間、アイコは、まるで熱い窯の中から外に出たみたいに大きく息を吸った。


下では、心臓を失った金属の躯が静かに転がっている。


上では、パンと水路と風車のある日常が続いている。


そのあいだを今、布に包まれた一つのコアが、小さく脈打ちながら揺れている。


アイコは分かっていた。


ライノメガは、外の世界に向けて遺跡が突きつけた、最初の「ノー」にすぎない。


そして、自分とパルスバンとケンジは――その続きを、最後まで聞く側に、もう立ってしまったのだと。

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