第5章 VS ライノメガ
遺跡の空気は、昨日よりもさらに重く感じられた。
境天の森の奥、石の円盤の下に開いた隙間を、アイコは最後にくぐり抜ける。背中に冷たい金属がかすめた瞬間、うなじを細い寒気が走った。
足が地下室の滑らかな床をとらえる。中央には、あの円が黙って待っている。石に刻まれた線は光を失っている――けれど、完全に死んではいない。
夜明け前、まだ窯に火を入れていないパン屋に入った時みたいだった。何も動いていないのに、「もうすぐ何かが動き出す」匂いだけが、そこにある。
沈黙を最初に破ったのは、やっぱりパルスバンだった。
「よし、“ギルドの安全お祈りの言葉”終了……っと」
耳をぴんと立てたまま、周囲を見回す。「頭の上に落ちてきそうな石……ゼロ。今のところはね」
ケンジは小さく息を吐き、指先で細い円盤を確かめる。
ギルド支給の、薄い金属製の記録ディスクだ。
「昨日は、ノックしただけ」ケンジは円を一瞬だけ見やって言った。「今日は、その先を少しだけ覗いてみる」
アイコはこくりとうなずき、布のリュックの口を閉じる。中身は最低限だ。ロープ、数個の光結晶、水の入った水筒に包帯。そして一番上には、あの途切れた円の印が刻まれた金属片を布で包んで入れてある。
「約束しよ」アイコが言う。「何かが……大きすぎるって感じたら、すぐ引き返す。変なヒーローごっこは禁止」
「ちょっと待って」パルスバンが前足を上げる。「俺がやるのは、ヒーローごっこじゃなくて、“戦略的ヒーロー”だから」
誰も信じてはいなかったが、あえてツッコむ者もいなかった。
三人は円の部屋から伸びる、細い通路へと進む。昨日はこの曲がり角の手前で引き返した。今日は、ランタンと時間と、それなりの覚悟を足して、もう数メートル先まで足を運ぶ。
天井は少し低くなり、右側の壁はところどころ崩れ落ちている。その向こうには、土に呑み込まれた別の空間がちらりと見えた。
「ここだ」ケンジが、無意識に声を落とす。「昨日は、ここまでよく見えなかった」
青白いランタンの光が、反対側の壁に開いた不規則な裂け目を照らし出す。金属の板が一部へこみ、そこから細い根が指のように入り込んでいた。その奥に、ぽっかりと広い空間が口を開けている。
彼らが立っている位置は上段だ。その下に、数歩分ほど低くなった“底”が広がっている。
匂いが違った。さっきまでの「古い埃」ではない。もっと乾いた――油と、焼けた金属の残り香。
「倉庫……みたい」アイコがつぶやく。
「ハンガーだね」ケンジが、ほとんど条件反射で訂正する。「ギルドの古い記録にも出てくる。地上には置けなかった大きな機械を、おろして格納する場所」
「“ずっと寝ててくれた方が助かる機械”用の場所ってことだよね?」パルスバンが言う。
そう言いながらも、彼は一番に縁まで歩み寄った。ランタンの光が下の段をなぞり、長い影を伸ばしていく。
その時、アイコはそれを見た。
スペースの奥、崩れた金属板と乾いた苔に半分埋もれるようにして、何かが横たわっている。
最初は、巨大なカブトムシがひっくり返っているのかと思った。だが、すぐに腕だと分かる突起が見えた。肩のライン。伸びた兜のように長い頭部。
濃い青黒い装甲は、あちこちに深い亀裂を抱え、錆に食われている。いくつもの関節には後付けの補強板が乱暴に重ねられ、今はそれごと歪んでいた。
“目”の位置には、消えた黄色の丸が二つ。
遠くで聞こえていた水音さえ、ふっと飲み込まれたように感じた。
ケンジは、その場で固まる。
「……嘘だろ」かすかな声が漏れる。「ブイモンスター・ライノメガ」
アイコは眉をひそめた。
「見たことあるの?」
「実物はないよ」ケンジは唇を湿らせながら、目を離さずに答える。「図と、スケッチと、“見て、ほとんど死にかけた人”の手記だけ。ギルドの分類では封鎖ユニット級ブイモンスター。コラプスの前、重要施設を守るために使われてた。――で、“全部破壊されるか、深く埋められた”ことになってる」
パルスバンは首をかしげる。
「じゃあ、こいつは……潰れた世界の“番犬”っていうより、“番トラック”級って感じだね」
「しかも、だいぶ潰れてる」アイコは錆びだらけの装甲を見て、少しだけ冗談めかして言う。「もう何十年も、動けないままなんじゃない?」
その言葉を、誰かが待っていたかのように。
暗闇の中で、何かが弾けた。
短く、乾いた金属音。電気の線がいきなり飛び火したような、鋭い音。
黄色の丸が、灯る。
こういう灯り方をするはずじゃない――と、アイコは直感で思った。
綺麗じゃない。揺れる。風にあおられたろうそくみたいに、フチがちらつき、明滅に小さな欠けがある。
「ケンジ……?」アイコは目を逸らさずに呼ぶ。
「見てる」ケンジの声も、掠れていた。
ライノメガの胸の奥で、何かが古い起動音を鳴らす。低い唸りが装甲の内側を這い、ハンガー全体に広がる。足元の床がわずかに震え、苔と埃がぱらぱらと落ちた。
やがて、くたびれた歯車の軋みとともに、ライノメガはゆっくりと身を起こした。
その体はあまりにも大きかった。
甲虫じみたシルエットを持つ人型――幅広い胴体を、湾曲した装甲肩が覆い、腕の先は長い刃になっている。まるで前腕ごと一本の剣になったような形状だ。
脚は太く、むき出しのシリンダーが錆の下から覗いている。重量が全部のしかかると、床全体がうめいた。
パルスバンは本能的に半歩前に出る。アイコとケンジの前に、半身を割り込ませるようにして。
「うん」小さく呟く。「訂正。これは番犬じゃない。“番トラック”級だ」
黄色い目が、上段のプラットフォームをゆっくりと掃く。瞳孔はない。だがアイコには、自分たちが測られ、分類されている感覚がはっきりあった。
一瞬だけ、何も起こらない。
次の瞬間。胸の中の唸りが強くなる。
胸の裂け目に沿って、一筋の光が走った。内部の防衛プロトコルが、ゆっくりと古い規則を読み上げているようだった。
「もしかして――」ケンジが言いかけた時。
ライノメガは動いた。
さっきまで底に横たわっていた巨体が、一瞬で距離を詰める。
次の瞬間には、全体重を弾丸みたいに前へ投げ出していた。
「しゃがんで!!」
パルスバンの叫びと同時に、アイコは横へ跳ぶ。ケンジは床に身を投げ出した。
ライノメガの右腕の刃が、さっきまでアイコの頭があった場所を薙ぎ、壁に深々と突き刺さる。
衝撃で、周囲の金属にクモの巣状の亀裂が走った。
震動が床から手へ、腕から肩へと一気に駆け上がる。一瞬、世界がノイズだけになった。
「これは――かなり終わってるね!!」パルスバンが叫ぶ。
ライノメガは刃を引き抜き、壁の一部を引きちぎる。金属の粉が空中に舞い上がる。
一歩、半歩、重い足音で体勢を整えると、再び全身をこちらへ向けた。胸の奥で鳴る唸りは、また一段階高くなる。
ケンジは喉を鳴らしながら、崩れた柱の影へと身を寄せる。
「ただの巨大ブイモンスターじゃない……」ほとんど自分に言い聞かせるみたいに呟く。「まだ、防衛プロトコルに繋がってる。昨日の起動を侵入と判断して――今、遅れて目を覚ましたんだ」
「講義はあとで!!」アイコが怒鳴る。「今は、生きて帰る方が先!」
パルスバンは前に一歩踏み出した。毛並みが逆立つ。
「じゃあ、ついてきて!」
耳の先から青い火花がほとばしる。電気が毛の一本一本を駆け巡り、前足へと集まっていく。
「《スタティックショック》!」
放たれた雷が、弧を描いてライノメガの胸へ直撃する。
轟音とともに、電気は装甲全体に広がり、眩しい閃光となって弾けた。アイコは思わず腕で顔をかばう。
視界が戻った時。
ライノメガは、まだそこにいた。
無傷のまま。
黄色の目が一度だけ点滅する。唸りの音色が変わる――痛みではなく、調整の音。
パルスバンの放った電気は装甲を走り、脚へと流れ、床に吸い込まれていった。まるで地面の奥に用意された河へ合流するみたいに。
「嘘でしょ……」パルスバンが息を切らす。「痺れもしないの!?」
答え代わりに、ライノメガが走った。
今度は一度きりの大ジャンプではない。
上半身を深く傾け、刃のついた両腕を床に突き立てて――金属の闘牛のように、低い姿勢で突進してくる。
「左!」ケンジが叫ぶ。
パルスバンはそちらに飛び退こうとする。だがライノメガは、直前で軌道をねじ曲げた。まるで動きを予測していたかのように。
横からの衝撃が、パルスバンの体を吹き飛ばす。
アイコの目に映ったのは、白と青の小さな塊が柱に叩きつけられ、床に弾かれる一瞬の軌跡だけだった。尾を引く火花が、空中に線を描く。
「パルスバン!!」喉が裂けそうな声が出た。
彼は横向きに倒れ、そのまま動かなかった。一秒。二秒。その一瞬が、やたらと長く感じられる。
やがて、咳き込みながら頭を振り、小刻みに震える足で無理やり立ち上がった。片側の毛は焦げ、火花はさっきよりも不安定に、ぴくぴくと漏れている。
「……うん」歯を食いしばりながら呟く。「これは……普通に痛い」
アイコは駆け寄ろうとするが、その途中で足を止める。
ライノメガが、刃をアイコの方へ向けたのだ。
体の奥から、またあの「充電」の唸りが走る。
柱に背中を預けたまま、ケンジが装甲を睨む。
「外殻が、電気をそのまま地面に逃がしてる」早口で言う。「お前の攻撃、ほとんど逃げ道になってるだけだ。完全にアースされてる」
「最悪!」パルスバンが唸る。「工学の基本をちゃんと押さえてるタンクって、何その嫌がらせ」
ライノメガは両腕を床につき、ドンと叩いた。
衝撃でプラットフォーム全体が揺れる。上の構造物がきしむ音が、遠くから返ってきた。
正面から押し勝つ――その選択肢は消えた。
まともにぶつかれば、一緒にここに埋まるだけだ。
「じゃあ、どこなら“繋がってない”?」アイコが叫ぶ。まだライノメガから目を離さない。「錆びてるところ、浮いてる板、他と噛み合ってない部分……どこでもいい」
パルスバンは瞬きを繰り返し、荒い息を整えようとする。
そこでようやく、ちゃんと見る。
ライノメガが動くたびに、小さな音がいくつもした。
よく使う部分――「膝」の蝶番、踵の後ろ、肩甲骨にあたるあたり。そこだけ、錆が厚くこびりつき、ぱりぱりと剥がれかけている。
元の金属とは違う色が、ひび割れの隙間から覗く場所もあった。あとから無理やり継ぎ足したプレートが、今はそれごと壊れかけているのだ。
「脚の後ろ」パルスバンが顎で示す。「それと背中。あそこだけ、噛み合いが甘くなってる。そこに電気を押し込めば……逃げ場がなくなる。熱だけが溜まる」
「で、割れる」ケンジが続ける。「錆が道を掘ってくれてるなら、熱はそこを通って中まで入る」
「最高」パルスバンが、ふらつきながら笑う。「あとは、そこまで俺が生きて辿り着くだけだ」
ライノメガはゆっくりと歩き始めた。もう一直線には走らない。重い足音で距離を詰めながら、わずかに上半身をひねり、三人全員を視界に入れ続ける。
「私が囮になる」アイコが、考えるより先に口を開いた。「あんたは脚を狙って」
「はあ!?」パルスバンとケンジの声が同時に跳ねる。
「今は“強そうに見える方”を狙ってる」アイコは自分の体をひょいと示す。「つまり、パルスバン。視線が私に向けば、そのぶん隙ができる」
「アイコ、それは無茶だ」ケンジが言葉を挟む。「正面から踏まれたら、粉になって終わりだよ」
「じゃあ、踏まれないようにして」
アイコはリュックから光結晶を一つ取り出し、ぎゅっと握った。手は震えていたが、落とすほどではない。
「私は走る。ケンジは考える。パルスバンは即興でなんとかする」アイコはケンジをまっすぐ見る。「昨日からずっと、そうやってやってきたんだから、もう認めて、利用しよ」
反論したい言葉が、ケンジの喉の奥まで上がってきた。
だが代わりに、彼は記録ディスクを握る手に力をこめる。指の節が真っ白になるほど強く。
「君が死んだら、一生自分を許せない」低い声で言う。笑いに変えるには小さすぎる声で。
「だったら死なせないで」アイコは、引きつった笑みを浮かべた。「それが――図書係の仕事でしょ」
二歩、前に出る。
黄色い目が、アイコだけを追う。
「おーい!」アイコは叫んだ。どこからか借りてきたみたいな勇気を声に乗せて。「侵入者追い出したいなら――昨日一番早く来た方からどうぞ!」
光結晶を、ライノメガの頭めがけて投げる。
結晶は弧を描き、兜の横をかすめて砕け散った。白い閃光がいくつも走り、一瞬、世界は偽物の星空に包まれる。
ライノメガの上半身が、そちらへ向き直る。
甲高い唸りが、また一段階上がる。
「今だ!」ケンジがパルスバンに向かって叫ぶ。「突進する瞬間、後ろの関節が一番開く!」
パルスバンは何も返さない。返す時間ももったいない。
脚はまだ痛い。けれど、体は動き方を覚えている。
彼は逆側の縁に沿って走る。ライノメガがアイコに向かって加速する、その“間”に滑り込むように。
アイコの世界は、金属が擦れ合う音だけになった。
逃げ切れる距離ではない、と直感で分かる。だから、少しだけズラす。全部じゃなくて、“致命的じゃない分”だけ。
体を横へ投げ出し、肩から床に落ち、そのまま転がる。頬をかすめる風圧が、皮膚に痛みを残した。
ライノメガはさっきまで彼女がいた場所を突っ切り、刃で床を削る。
床に走った火花が、脚を伝って逆流し、錆のかたまりの中に逃げ場を失ってたまる。
「もう一周!」ケンジが叫ぶ。
アイコはもう立ち上がっていた。向きを変え、今度は反対側へ走る。ライノメガを振り向かせるように。
パルスバンはその回転の内側に滑り込む。
巨体の腕の下をくぐるように飛び込み、耳を思い切り伏せて、むき出しのケーブルを避ける。
さきほどまで勝手に飛び散っていた火花が、今は一か所へ集まっていた。前足へ。
「丸焼きがダメなら――」パルスバンは低く唸る。「――中からじっくり煮込む!」
拳に、すべてを込める。
狙うのは、膝の裏、錆が最も厚くこびりついた関節。
拳がめり込んだ瞬間、電気は広がらなかった。潜った。
あとに続いた音は、さっきまでと違っていた。
よく通る金属音ではない。嫌な、湿った焼け音。もう熱を受け止めてはいけない場所に、無理やり火を押し込んだ時の音だ。
乾いた錆が、一瞬で粉になる。ひびだらけの金属が膨張し――割れた。
ライノメガの膝が、崩れる。
まだアイコの方へ振り向こうとする巨体。その重さが、支えを失った脚へ容赦なくのし掛かる。
もう片方の脚で踏ん張ろうとするが、床にはすでにヒビが走っている。新たな衝撃が、そこから大きな穴を広げた。
崩れたプレートが、下の段へ一斉に落ちていく。
「離れて!」ケンジの叫びが飛ぶ。
アイコは全力で走る。それでも、倒れ込む巨体が生む空気の波には追いつけなかった。背中から突き飛ばされるように前に倒れ、視界が白く弾ける。
金属の塊が床を叩く音が、遺跡中に響き渡る。
建物全体が、ごくりと何かを飲み込んだみたいに――そのあと、黙り込んだ。
やがて、粉塵の幕が少しずつ薄れていく。
「……いったぁ……」アイコは指を動かしてみる。左腕に焼けるような痛みを感じて袖をまくると、布は破れ、じわじわと紫色の痣が浮かび上がっていた。
「生きてる?」
パルスバンが視界の端に飛び込んでくる。息は荒く、毛は完全に逆立っている。
「何本、指見える?」
彼は指を一本も立てていなかった。
「見えるだけね」アイコは、かすれた笑いを漏らす。「そっちは?」
「俺?」パルスバンは一瞬、自分の状態を思い出したように瞬きをする。「最高。完璧。――拳には、あいつの膝の感触が三年分くらい残りそうだけど」
最後にケンジがやって来る。片足を少し引きずり、眼鏡の片側が曲がっていた。
下の段では、ライノメガが横倒しになっている。崩れたプレートの下敷きになり、体の半分が埋もれていた。
パルスバンが叩き込んだ関節は、完全に砕けている。黒ずんだ金属片と錆の粉が周囲に散らばっていた。
胸の唸りは消え、目の黄色も、ただの濁った円に戻っている。
「……止まった?」アイコが問う。
「止まった」ケンジが答える。その声には、アイコが予想していたような安堵の色はなかった。別の重さが混ざっている。「それが、余計に怖い」
パルスバンは鼻先をしかめる。
「普通、“もう殺そうとしてこない”って、一番いいニュースじゃない?」
「悪いニュースはね」ケンジは崩れた階段を慎重に降り、巨体に近づきながら言う。「こいつは爆発もしなかったし、自動で分解もしてない。“任務完了”の命令も来てない。ただ――無理やり動かされて、そのまま壊れた」
彼は体には触れず、胸の辺りを覗き込む。
「ギルドの記録にある、本来のライノメガはね。停止する時、中枢コアを収納して、装甲を閉じて、回収を待つ。そういうプロトコルになってる」
指先で、補修跡の多い装甲を示す。
「こいつは、そこまでケアされてない。“ちゃんと直す価値はない”って、どこかで判断されたんだろうね。それで、場当たり的な修理だけで動かされ続けて――ここまで来た」
「外の世界と、あんまり変わらないね」パルスバンがぼそっと言う。「壊れたものに、ちゃんと向き合う時間がないってやつ」
アイコは深く息を吸い、まだ早鐘を打っている胸をなだめようとする。
「……また立ち上がる可能性は?」
ケンジは少し考えてから、首を横に振る。
「今の状態で、さっきみたいに動くことはないと思う」そこで言葉を切り、胸の裂け目を指差す。「でも、“大事な部分”は――まだそこにある」
割れた装甲の隙間から、かすかな光が漏れていた。
どす黒い青の、弱い脈動。ほとんど消えかけた炭火のような明滅。
その中心に、両拳を合わせたくらいの大きさの円形の構造体が、ひっそりと収まっている。
「中枢コア」ケンジが低く言う。「ルートの記録、侵入者の識別、判断を下す部分……全部、あそこにまとまってる」
パルスバンは、半分警戒、半分興味でそれを見つめる。
「……つまり、機械の脳みそ」
「卵みたい」アイコが、ぽつりと言った。
二人が、同時に彼女を見る。
「だって」アイコは肩をすくめる。「ここから出して、どこか別のところに“移せそう”に見えるから。ちゃんと道具を持ってきてて、なおかつ、いい感じに頭がおかしい人ならね」
ケンジは、しばらく黙った。
リュックの中で、記録ディスクと巻物たちが急に重くなった気がする。
ギルドなら、なんと言うか。
“印を残して退避。大規模チームを派遣。封印。忘却。”
頭の中で、いつもの定型文が並ぶ。
彼はもう一度コアを見る。青い脈動が、一瞬だけ、自分の心臓の鼓動と同じリズムを刻んだ気がした。
「何にせよ」ようやく口を開く。「このまま森の下に放り出しておくわけにはいかない。ここで別の何かが目を覚ましたら……あるいは、“どう悪用しても構わない”って人に先に見つかったら」
「持って帰るつもり?」アイコの目が見開かれる。
ケンジは短く息を吐いた。笑いにもならない、空気の抜ける音。
「もう“関わってません”って顔をするには、遅すぎるでしょ」疲れた笑みを浮かべる。「それに――もしこの“卵”が、今度こそまっとうに育てられる可能性があるなら。ギルド本部の手の中じゃない方が、まだマシな未来が残る気がする」
パルスバンはコアを見て、ケンジを見て、またコアに視線を戻す。
「馬鹿さ加減のスケールで言うと、“なかなかの大馬鹿で、ワクワクもする”ってところかな」小さく頷く。「俺は賛成」
アイコは、痣の上をそっと撫でてから、ため息をついた。
「私は、“生きてここを出てから持ち運ぼう”に一票」言う。「もしこいつが“壊れかけの番トラック”だとしたら、地下の隣人さんとは会いたくないし」
ケンジはゆっくりとうなずく。
「じゃあ、こうしよう」低く呟く。「身体からは外す。でも、今はここから出さない。俺たち三人にしか分からない場所に隠す。ギルドが来ても、いきなりこれに足を引っかけたりはしないように」
ポケットから、薄手の手袋を取り出す。もろい資料を扱うための布だ。
本来はブイモンスターの手術用でも、機械解体用でもない。だが、何もないよりはマシだった。
ケンジはそれを丁寧にはめる。その仕草だけで、何かの覚悟を固めたように見えた。
「その布、貸して」
アイコは、途切れた円の金属片を包んでいた布をリュックから取り出す。一瞬だけ、ためらう。
「いいの?」
「もう“問題”を一つ預かってた布だし」ケンジは、目だけで笑おうとする。「経験者優遇ってことで」
パルスバンは、潰れた胸の装甲に飛び乗り、自分の体重で片側を押さえる。
ケンジはゆっくりと、裂け目の隙間に指を滑り込ませる。どこかにあるはずのロックを探ると――小さなクリック音が、金属の奥から返ってきた。
アイコは息を止める。
中枢コアが、外れた。
その瞬間、遺跡全体が反応するのではないか――アイコはそう身構えた。
しかし何も起こらない。
ライノメガの躯は、さっきと同じ姿勢のまま沈黙を保っている。
ただ、コアそのものだけが、わずかに脈を強めた。
長いあいだ閉じ込められていた空気から、初めて顔を出したみたいに。
ケンジは両手でそれを受け止める。
見た目より、ずっと重い。
物理的な重さだけじゃない。何冊分もの“読み切れていない本”が、全部そこに詰め込まれているみたいな疲れが、両腕にのしかかる。
布を巻きつける。途切れた円の印が描かれた布で、青い光を何重にも包み込む。
光が完全に隠れるまで固く結び、胸元に一度だけ押し当ててから、そっとリュックの中へ滑り込ませる。
ベルトをきゅっと締め直した。
「よし」ケンジは小さく呟く。「これで、正式に――俺たちの問題になった」
パルスバンは胸の上から飛び降り、埃まみれの毛をぶるぶると振り払う。
「パーティーへようこそ、中枢コアさん」軽口を叩く。「夜に変なうなり声だけは上げないでね」
アイコは、倒れたライノメガの躯をもう一度見た。
コアを失った今、その身体は、さっきよりもずっと空っぽに見えた。
ただ“死んでいる”のではない。
“見捨てられた”ものの姿に近い。
「行こ」アイコが言う。「これ以上、目を覚ます“古い問題”と会いたくない」
三人は来た道を戻る。
円の部屋へ、細い通路を抜けて戻ってくると、上の空気はさっきより少しだけ温かく感じられた。
だからといって、歓迎してくれているわけでもない。
アイコは、腕の痣の重さ、脚にたまった疲労、そしてケンジのリュックにぶら下がった新しい秘密の重みを、同時に意識する。
やがて、森の緑が見えた。
小さなブイモンスターたちの鳴き声。用水路の水車の音。
境天の生活音が耳に戻ってきた瞬間、アイコは、まるで熱い窯の中から外に出たみたいに大きく息を吸った。
下では、心臓を失った金属の躯が静かに転がっている。
上では、パンと水路と風車のある日常が続いている。
そのあいだを今、布に包まれた一つのコアが、小さく脈打ちながら揺れている。
アイコは分かっていた。
ライノメガは、外の世界に向けて遺跡が突きつけた、最初の「ノー」にすぎない。
そして、自分とパルスバンとケンジは――その続きを、最後まで聞く側に、もう立ってしまったのだと。




