第4章 まだ息をしている門
しばらくのあいだ、誰も口を開かなかった。
石に刻まれた途切れた円が、逆に三人のことを見返しているように見えた。三つの弧と三つの三角形の矢印がかみ合い、その内側で、目には見えない何かがいつまでも回転する瞬間を待っている――そんな印だ。
最初に動いたのは、パルスバンだった。
彼は台座のまわりをぐるりと回り、金属のバックパックをきしませながら歩き出す。
「これがただのオシャレな床だったら、とっくに森に飲まれてるよね」
そう言って、近くの根っこを軽く蹴る。「でも周りを見てみなよ……飲み込もうとして、飲み込めてない」
アイコはその動きを目で追った。ねじれた根は石の上をはいまわっているのに、金属との継ぎ目に近づくと方向を変えている。苔も、いくつかの割れ目を避けるようにして生えていた。まるで森そのものが、時間をかけて「ここにはあまり関わらない方がいい」と学んだかのようだ。
ケンジは少し離れて、台座の縁に沿って慎重に歩き始めた。歩きながら、頭の中でこの場所の形をなぞる。
「ここは、森の真ん中にぽつんと置かれた祭壇なんかじゃないね」
彼は低くつぶやいた。「下にも何かがある」
「下?」アイコが近づく。「どうして分かるの?」
ケンジは、縁の一部がひび割れて沈み込んでいる場所で立ち止まった。そこだけ、台座の一部が崩れ落ち、狭い隙間ができている。溜まった土と葉っぱの中、その奥には暗い金属が見えた。滑らかで、錆びたボルトが枠にいくつか打ち込まれている。
ケンジはしゃがみ込んで、指でそっと土をどけていく。
「この台座、ただの石板を置いただけじゃない」説明する声が落ち着いて響く。「フタみたいになってる。この枠も……補強に見える。それに――ここ、人ひとりが……」
さらに葉をかき分けた。
「……ぎりぎり通れそうな隙間がある」
パルスバンは耳をぴんと立てて首をかしげた。
「つまり、世界の鍋のフタを見つけちゃったってこと?」
「出入口を見つけたってことだよ」ケンジが訂正する。「出口かもしれないけどね。どっちから見るかの問題」
アイコも隙間に近寄った。そこから上がってくる匂いは、森とはまるで違う。湿った土の匂いは薄く、代わりに、古びた埃と冷たい金属の匂いがした。
彼女はつばを飲み込む。
「で、どうやって開けるつもり?」
「すみませーん開けてくださーい、ってノックでもする?」
パルスバンはもうバックパックをあさり始めていた。
「ちょっとだけ石をずらして、てこの原理使ってさ、中がどうなってるか――」
「いきなり遺跡をこじ開けるところから始めるのはやめよう」
普段あまり聞かない、ケンジのきっぱりした声がそれを遮った。「少なくとも、ここが何なのか最低限分かるまでは」
パルスバンはむっとして手を止める。
「俺だって、ちゃんと“そーっと”やるつもりだったのに」
「あなたが“そーっと”だったことなんて一度もないよ」アイコがぼそっと言う。
それでも彼女は、ケンジと反対側に回り込んで、ひびの入った縁に手を添えた。石は冷たい――けれど、ただの死んだ冷たさではない。使い終わって時間がたった鍋に触れた時みたいに、一度は熱を通したことのある感触が残っている。ここではそれが逆で、生温かさの代わりに、かすかな冷たさが奥に潜んでいた。
「ちょっと動かせれば……それでいい」ケンジは息を整える。「全部持ち上げる必要はないから」
三人は黙って作業を続けた。アイコとケンジが押し、パルスバンがバックパックの重さをてこ代わりにして支える。台座そのものが持ち上がることはなかったが、やがてバキッという乾いた音がして、どこかのかみ合わせが外れた。隙間は指何本分か広がり、人ひとりが横向きになれば通れそうな幅になった。
ケンジは細長い携帯ランタンを取り出した。先端には小さな結晶がはめ込まれている。パルスバンが指先から制御した火花を走らせると、青白い光が何度か瞬き、やがて安定した。
ケンジはその光を隙間の奥へと向けた。
「下に空間がある」声には、恐怖と興奮がまざっている。「広くはないけど……低い通路だ。両側は金属の壁みたいだね」
パルスバンはもう頭を突っ込んでいた。
「じゃ、俺が先に行く」宣言する。「もし即死トラップとかあったら、少なくとも状況は把握できるでしょ」
「“遺跡に行ったら帰ってこなかった人”の話、聞きたくないって言ってたの誰だっけ?」
アイコは彼のしっぽをつかんで引き戻す。
ケンジは二人を見、それから隙間を見た。
「俺が行く」決めたように言う。「狭すぎたら、すぐ戻る。無茶はしない。遺跡の半分をバラさなくても見られる場所があるか、それだけ確かめよう」
彼はバックパックを肩から下ろし、台座の横に置いた。そして慎重に足から隙間へと滑り込み、体を押し込んでいく。アイコはランタンの光を中へと向け続け、見える限りの範囲を照らした。
金属がケンジの背中をかすめ、その動きが下で小さく反響する。数秒後、くぐもった声が上がってきた。
「しっかりした床があるよ。立てる。思ったほど低くない」
「生きてる?」パルスバンが問う。
「今のところ、“はい”って答えていいと思う」
「二人とも降りてきて。ゆっくりね」
アイコは一瞬ためらった。台座の縁、刻まれた印、村へ戻る細い道――それらが急に、とても遠くて、とても近いものに感じられた。
パルスバンはそれに気づく。
「ほら」少しだけ柔らかい声で言う。「もう“森がきれいか見に来ただけ”って顔して戻るには、十分遠くまで来ちゃってるよ。あとは、どこまで正直に話すか、それとも途中でごまかすか決めるだけ」
アイコは深く息を吸った。
「慰め方が本当に下手だよね」結論だけ告げる。それでも、頭の手ぬぐいをきゅっと結び直し、隙間に足をかけた。
金属の冷たさが背中をこすり、下から古い埃と湿った金属の匂いがふわりと立ちのぼる。石に挟まれたその一瞬、彼女は、自分が上下左右すべてを固いものに囲まれているのをはっきりと意識した。次の瞬間、足裏がなめらかな床に触れた。
すぐ横には、ランタンを持ったケンジが立っていた。パルスバンもすぐに、ほとんど滑り落ちるようにして降りてくる。
通路は狭く、二方向に伸びている。そのうち片方は、すぐ先で土砂崩れのように土にふさがれていた。もう片方は、数メートルほど先に小さな部屋のような空間につながっている。
「お寺っていうより……」アイコがつぶやく。「何かの地下室って感じ」
「大事なものは地下に隠すって、いい物語の基本だよ」
パルスバンが言う。
三人はゆっくりと通路の奥へ進んだ。天井は金属の梁で支えられ、壁は滑らかで、ところどころ水の跡のような暗い筋が走っている。空気は冷たく、止まっていて、古い錆の匂いがかすかに漂っていた。
部屋自体は、それほど広くはない。立っていて頭がぶつからないくらいの高さの天井。中央には、床がわずかに一段低くなった円形の部分があり、森の石とは異なる灰色の滑らかな素材で作られている。そこから、細い線が何本も、血管のように四方へ伸びていた。
ケンジはランタンを近づけた。
「上の台座と同じ考え方だね」彼はそっと言う。「ただ……もっと濃い」
パルスバンはその円形の部分に降りる、数段の段差を下りた。
「これ、“踏むな危険”って叫んでる」コメントする。「だからこそ、誰かが絶対踏むやつだ」
「当分のあいだは、誰も踏まないで」アイコが即座に返す。
パルスバンは、線の一本を爪先でつついた。何も起こらない。ただの静寂だ。
「ほら。俺が触っても何の反応もない」肩をすくめる。「システムの方が賢くて、俺のチャームには引っかからないんだよ」
ケンジはランタンの光を壁に沿って動かした。いくつかの場所には、金属板がはめ込まれている。そこには、直線と曲線が組み合わさった模様が刻まれていて、小さな円形のくぼみを、いくつもの線がつないでいた。何かがそこにはめ込まれていたようにも見える。
「これ……」彼は顔を近づける。「何も知らなかったら、ただの模様だって言うんだろうけど。回路図みたいにも見える。ここ全体が、中でつながってる感じ」
「何とつながってるの?」アイコが尋ねる。
すぐには答えが返ってこない。部屋の静けさは、森の静けさよりずっと重かった。
パルスバンは再び、円形の部分の横に立った。
「これ、もしキッチンだったらさ」彼が話し出す。「ここがコンロだと思う。部屋の残りは、材料置いたり混ぜたり、汗かきながらウロウロする場所。で、この円が、全部を動かし始めるスイッチ」
「今の例え、すごく分かりやすかった」ケンジが素直に認める。
アイコは、ゆっくりと円の中へ降りていった。床は他の場所よりもさらになめらかで、ほとんど埃がない。一瞬だけ、ここには長いあいだ誰も立っていなかったように感じた――それと同時に、場所の方はちゃんと覚えているようにも感じた。
「何か……ある」彼女はつぶやく。「うまく言えないけど」
「だったら、踏まない方がいいと思う」パルスバンの声が速くなる。「そういう時はだいたい、その方が正解」
アイコは、地図の上の印を思い出した。自分の部屋の金属片、石のブイモンスターが顔を背けた瞬間、土のブイモンスターが錆びた柱から慌てて退いた様子。
そして、パン窯の前にひとりで立っている父の姿を思った。自分が「無事に丸ごと」戻ってくるのを待っている人。
ただの綺麗な床だったら、こんなに彼女を引き寄せてはいない。
アイコは一歩踏み出し、円の中心に足を踏み入れた。
世界が爆発したわけではなかった。
でも、何かが変わった。
床を走る細い線が、一斉に小さく瞬いた。閉じ込められていた息がいっせいに吐き出されたみたいに、青白い光が溝を駆け抜ける。けれど壁に届く前に、すうっと消えてしまった。忘れかけた道筋を、思い出そうとして失敗したような光り方だった。
耳の奥で、低く、短い音が鳴る。遠くの雷の残響を、さらに薄くしたような響きだ。
「アイコ?!」ケンジが一歩踏み出す。
アイコは、足から力が抜けるのを感じ、とっさに膝をついた。倒れた、というより、床の方が一瞬だけ重くなったようだった。
周囲の暗闇は消えていない。けれど、目の奥のどこかで、何かがぱちりと灯る。
はっきりした映像ではない。けれど、何かの印象が一気に流れ込んできた。光の線が四方八方へ走り、見えない柱を登り、見えないトンネルを下り、透明な地図の上で川のように交差していく。
その線の間を、いくつもの煌めきがよぎる。木と呼ぶには高すぎる影。空を切り取るような巨大な構造物。地面に縛り付けられた星みたいに瞬く点。
焦点の合わない顔。つるりとした面に触れる手。その面は、触れられるたびに光で答える。
誰も触れていないのに、勝手に左右へと開いていく扉。
それらすべてに混ざって、声のようなものがあった。はっきりした言葉ではなく、引きちぎられた糸から漏れた音のかけら。
「……ンティ……」
「……セス……」
「……プライ――……」
つなげようとした時には、もう記憶の指の間からこぼれ落ちていた。
音は途切れ、線の光は消えた。
部屋は、ただの部屋に戻る。
アイコは、自分が荒い息をしていることに気づいた。
「アイコ!」ケンジが隣にひざまずき、手を伸ばしかけて止める。「どこか痛い? めまい? 気分悪くない?」
パルスバンは、ほとんど彼女の頬に鼻先が触れそうな距離まで近づいていた。
「今さ、目光った? ねえ、目光ってた? それ見逃した?」
パニックとワクワクが、いい勝負で彼の声を引っ張り合っている。
「光ってないよ、多分」
アイコは答えた。自分の声が思ったよりかすれている。
彼女は胸に手を当てて、呼吸を落ち着けようとする。心臓はまだ速く打っている。けれどそれは、「崩落」とか「行方不明」みたいな話を思い出した時の、あの純粋な恐怖とは少し違っていた。
誰かが急に窓を開けて、冷たい空気を一気に入れたような――そんな感覚に近い。
「何が起こった?」ケンジが問いかける。「君が円の中に入った瞬間、光が走った。偶然じゃない」
アイコは、消えた溝の光と円の床を見つめた。
さっきまで頭の中を駆けていた印象が、まだどこかにうっすら残っている。
「うまく説明できないけど……」しばらく黙ったあとで、口を開いた。「あの場所に、少しだけ“知られた”気がした。で、一瞬だけ、何かを見せようとされた」
「何を?」パルスバンが身を乗り出す。
彼女は目を閉じ、逃げていく断片をつかまえようとする。
「線。道」眉間にしわを寄せる。「レシピみたいなんだけど、小麦粉も水もない。光だけが行ったり来たりしてて……それから……」
「でっかいもの。建物。全部は見えない。ガラスの向こうで、遠くにあるみたいに」
ケンジは少し離れ、背中を壁に預けた。その顔には、アイコが滅多に見ない種類の真剣さが浮かんでいる。
「指示……だね」彼は低く言った。「それ、“指示”とか“命令”って感じがする。データ。コード」
アイコは肩をすくめる。まだ息は少し早い。
「かもね。私には、ただ――」言葉を探す。「頭の中で、たくさんの“こうかもしれない”が一度に並び始めて、勝手に場所を探してる感じ」
パルスバンは円と彼女と壁とを順番に見比べた。
「ってことはさ、この場所、まだどっかとつながってるってことじゃない?」
声は自然と小さくなる。「全部壊れて、森が上にかぶさったあとでも」
ケンジは髪をかきあげ、考え込むように息を吐いた。
「もしくは……」付け足す。「どこかが、まだここにつながってる。で、俺たちは、たまたま正しいケーブルを一瞬だけ触った」
部屋の静けさが戻ってくる。さっきよりも、少しだけ重い静けさだ。名前のつけられない何かが、そこに混ざっているような。
アイコは円の床にもう一度手のひらを置いた。今度は何も起こらない。光も、震えもない。ただ冷たいだけだ。
それでも、さっきとは違うと感じていた。
よく知っているパン屋に入ったのに、誰かがレシピを変えたことだけは分かる――そんな時の、あの微妙な違和感。匂いはほとんど同じなのに、「前と同じじゃない」と鼻が告げてくる感じ。
彼女はゆっくりと立ち上がった。
「何であれ……終わったわけじゃない」小さく言う。「ちょっとだけ覗かれただけ。向こうが」
パルスバンは、ごくりと唾を飲み込んだ。
「で、その“覗くタイミング”、ぴったりアイコに合わせてきたってわけだ」指摘する。
「だからって、全然安心はできないんだけど」アイコは返す。それでも、口元にはかすかな苦笑いが浮かんでいた。
ケンジはランタンを持ち直し、眼鏡の位置を整えて深く息をついた。
「今日は一度ここまでにしよう」ようやく結論を出す。「見たことを整理して、記録して、頭を冷やしてから戻る。疲れた状態で、ここの“続き”を試すのはごめんだからね」
「“疲れてる時に死にたくない”って意見には、全力で賛成」
パルスバンがぼそっと言う。
アイコは円と、消えた線の跡を最後に一度だけ見下ろした。
この聖域を目覚めさせたのが自分なのか、それとも遺跡の方が、近づいてきた存在に軽く突っつき返してきただけなのか――それは分からない。
ただ一つだけ、はっきりしていることがあった。
さっき感じた「窓が開いた感覚」は、すぐには消えそうにないということだ。
三人が狭い通路を引き返し、再び台座の隙間をよじ登って森の湿った空気を吸い込んだ時、地上の世界は見た目だけなら何も変わっていなかった。木々、根っこ、遠くで流れる水の音。
けれど今や、アイコの中には、もう一つ余計なものがある。
目には見えない、小さな光の残り香。それは瞳の色を変える代わりに、心の中の考えの並び方を少しずつ押し広げては、どこに収まるべきかを探している――そんな気がした。




