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ブイモンスター ~ Re:Alive ~  作者: manoru-kun
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第3章 火花とともに始まる旅

その朝、最後にもう一度エプロンの紐を背中で結びながら、アイコは深く息を吸い込んだ。


パン工房の中には、いつも通りパンの匂いが満ちている。薪窯は低くうなり、壁じゅうにじわじわと熱を広げていた。七時の焼き上がりはもう終わっていて、きつね色のパンが籐のかごに何列も並び、まだ白い湯気を立てている。外では、境天きょうてんがゆっくり目を覚まし始めていた。水車が回り、運河に水が満ちていき、遠くの声が、眠そうに回るタービンの音と混ざり合っている。


「本当に、昼までには戻らなくていいのか?」


頭に巻いた布を直していると、父が薪窯の扉をもう一度開けながらそう聞いてきた。火の近くにいるせいで顔が少し赤い。


「昼までに戻ってきたら、“何も起きなかった”ってことだ」

父はあっさりと言う。

「昼を過ぎて帰ってきても……まあ、それはそれでいい」

口の端だけで笑った。

「とにかく、ちゃんと帰ってこい」


アイコは笑った。でも胸の奥がきゅっと締めつけられる。


パルスバンはここにはいない。冗談で空気を軽くしてくれる声もない。あるのは父と、自分と、薪のはぜる音だけだ。


「新作パンのネタ、見つけてくるから」

努めて軽い声で言う。

「“古代遺跡パン”とかどう?」


「それはあまり食べたくないな」

父は木のパドルを手に取りながら返す。

「パンより、お前が丸ごと戻ってくればそれでいい。あとはこっちでどうとでもするさ」


アイコはこくんとうなずき、用意しておいた小さな布のリュックを手に取った。

――パルスバンの荷物よりは、きっとずっと小さい。そう信じたい。

そう思いながら、工房の裏口から外へ出た。


***


少し後、アイコは境天の中央広場の石段に腰を下ろし、膝を抱えて北の畑へ続く道の先を見つめていた。


隣ではケンジが探索団の建物の壁にもたれかかっている。腕を組み、足を投げ出して一見のんびりしているようで、眼鏡の奥の視線は落ち着きなく街の様子を追っていた。


境天はいつも通り動いている。荷物を運ぶ人、風のブイモンスターを追いかけて走り回る子どもたち、水路を流れる水の音。

全部同じはずなのに、アイコにはそこに見えない線が一本引かれている気がした。

――今日より向こう側には、ほとんど足を踏み入れたことがない。


「遅い」

膝を抱える腕に力を込めながらつぶやく。


ケンジは指先で眼鏡を押し上げた。


「パルスバンだよ。時間どおりに来ると思ってた?」


「ちょっとくらいは、ね」


「それはさすがに、期待しすぎだと思う」


アイコが言い返そうとしたそのとき、金属同士がぶつかるような、ガチャガチャした音が通りに響き始めた。何かがきしみ、何かがぶつかり合う、妙にリズム感のある騒音だ。


「来たよーっ!」


姿が見えるより先に、パルスバンの声が角の向こうから飛んできた。


アイコは思わず瞬きをした。


パルスバンは短い足でどすどすと地面を踏みしめながらやって来る。その背中には、身体の二倍はありそうな即席リュック。工具、色とりどりのコード、小瓶が紐で括りつけられ、分解途中みたいな避雷針のようなものまで突き出していた。


「パルスバン……」

アイコは額に手を当てる。

「どこかに引っ越すつもり?」


彼は胸を張ってリュックの横をぽん、と叩いた。


「これが真面目な探索の“最低限”だよ!」

誇らしげに宣言する。

「何が起きても大丈夫なようにしとかないと」


ケンジは片眉を上げた。表情は、半分はおもしろがっていて、半分は本気で心配そうだ。


「“何が起きても”っていうか」

ぽつりと言う。

「三歩歩いたらひっくり返りそうなんだけど」


パルスバンはふんと鼻を鳴らし、もう一度ひょいと跳ねて肩紐を直した。小瓶たちがからんと音を立てる。


「俺のスタミナをなめないでほしいな。それより、さっさと行こう。日が強くなる前に出発して、パーティーの中で一番“プロ”なのが俺だって証明しなきゃ」


アイコとケンジは、顔を見合わせてから、同時に立ち上がった。


「もうちょっとだけ後悔してきた気がする」

アイコはぼそっと言ってから、一歩、広場の外へ足を踏み出した。


固く踏み固められた地面が終わり、わずかにでこぼこした土の感触がサンダル越しに伝わってくる。その瞬間、胸のどこかで小さな火がちろりと灯った。


***


境天を出るのは、アイコが思っていたよりあっけなかった。


屋上に庭を載せた家々が遠ざかり、緑の屋根は、やがて空の青に紛れた小さな点になる。水車の回る音はまだ聞こえるが、いつのまにか森のざわめきのほうが大きくなっていた。


大きな街道は途中で枝分かれし、細い山道へと変わっていく。三人は北の畑へ向かう小径を選び、さらにその先で、ほとんど誰も通らないような狭い踏み跡に入った。


「ここで引き返したら……」

アイコは振り返りながらつぶやく。


まだ境天の姿は見えていた。パン工房の屋根の緑、一つの窯から上がる蒸気の柱、どこかの家の光を受けてきらりと光る結晶。


「十一時の焼き上がりには、普通に間に合うね」

パルスバンは後ろを振り返らずに言った。

「全部見なかったことにすれば」


「ありがとう。すごく勇気づけられる」


「一応、“選べるんだよ”って確認してほしかっただけ」

彼は口元だけで笑う。

「その上で、選ばない方を選ぶのがかっこいいからね」


ケンジはリュックから折りたたんだ巻物を取り出し、歩きながら印の付いた地点を確かめてうなずいた。


「この先の曲がり角を過ぎると、ほとんど道が消える」

そう言って紙を閉じる。

「このあたりから、報告の内容が途端にあいまいになるんだ」


「“あいまい”って、どういう意味?」

アイコが尋ねる。


「“古すぎる木々、石とは思えない石、もう存在しない何かに見られているような感覚”」

ケンジは古い文章をそのまま読み上げるように言った。

「昔の報告書って、ちょっとしたポエムが混ざりがちなんだよね」


「はい、とっても安心しました」

パルスバンがぶつぶつと文句を言う。

「励まし方が独特すぎない?」


やがて道は完全な“道”ではなくなり、地表を這う太い根が複雑に絡み合った、いびつな通り道へと変わった。木々はどんどん高くなり、空は葉の隙間から細くのぞくだけになる。


ときどき、草陰から小さな植物系や虫系のブイモンスターが顔をのぞかせるが、三人が近づくと、さっと葉の奥へ姿を消していった。


しばらく進んだところで、行く手を一本の倒木がふさぐように横たわっていた。苔まみれの幹が道の幅いっぱいに伸びている。


パルスバンはそれをにらみ、それから自分のリュックを見上げた。


「これは……宣戦布告だね」


彼は勢いをつけて飛び乗ろうとしたが、重たい荷物が一瞬遅れてついてこられず、体が後ろに引っ張られる。

アイコが慌てて肩紐をつかみ、ひっくり返る寸前で止めた。


「さすが、驚異のスタミナだね」

呆れ気味に言う。


「今のはウォーミングアップだから」

パルスバンは威厳を保とうとしながら言い返す。

「次、真剣モードでいく」


ケンジは倒木の脇を回り込み、土の盛り上がりに手をついて体を支えた。


「こっち、足元が滑りやすいから気をつけて」

空いているほうの手をアイコに差し出す。

「ここまで来る前に足をくじいたって報告もあるんだ。遺跡に入る前から、そういう記録の一つになりたくはないでしょ?」


アイコはその手を取り、倒木をまたいだ。反対側に足を下ろしたとたん、ぐにっと柔らかい感触が返ってくる。水をたっぷり含んだ土の匂いがむわっと立ち上った。


ほんの一瞬だけ、距離を意識する。

――ここで転んでケガをしても、もう、走って戻って“用水路の近くまで散歩してきただけ”とはごまかせない。


アイコは深く息を吸って、その考えを胸の奥に押し込んだ。


少し進んだところで、茶色と緑だけだった景色の中に、異質な色が混ざっているのが見えた。


細長い何かが、半分だけ地面から顔を出している。苔と枯れ葉に覆われているが、先端の一部だけがむき出しになっていて、そこには鈍い光を帯びた滑らかな面と、深い傷跡が見えた。


「これは……石じゃない」

アイコは近づきながら言った。

「木でもない」


パルスバンが前足で軽くつつく。


「農業用の古い機械の部品って感じでもないね」


ケンジは脇にひざまずき、指先でそっと苔を払った。現れたのは、本物の金属だった。ひんやりとしていて、ほとんど錆びも見られない。


「報告書には、“未知の合金で作られた大型構造物”って書かれてた」

ケンジは小声でつぶやく。

「何十年、何百年経っても壊れない素材。これを“レールの一部”だって言う記録もあれば、“機械の外殻”だって書く記録もある」


彼は立ち上がり、手についた土を払った。


「タイヤなしで動く機械があった、なんて話も残ってる」

そう付け加える。

「ほとんどの記録は、全部が壊れて止まった後に書かれたものだから。本当に動いているところを見た人は、ほとんどいなかった」


「タイヤなし?」

パルスバンは目を丸くした。

「それ、手押し車のルール違反じゃない?」


「全部、あくまで“そうだったらしい”っていう話だよ」

ケンジは肩をすくめた。


アイコは半分埋もれた金属を見つめ、背筋に走る寒気を感じた。それは風のせいじゃなかった。


「そこまで進んでた人たちなのに……どうして、こんなふうに放り出されたままなんだろう」

思わず口に出る。


ケンジはすぐには答えなかった。


「そこが、一番はっきりしない部分だ」

やがて絞り出すように言う。

「あるいは、誰もはっきり書きたくなかった部分、かもしれない」


パルスバンは鼻先にしわを寄せた。


「つまり、ケンジは――」


「単に“歴史の運が悪かっただけ”って考えた方が、眠りやすいって思ってる人も多いんだろうね」

ケンジは疲れたような笑みを浮かべて言葉を遮る。

「その方が、今の世界から目をそらしやすい」


三人は再び歩き出した。森はさらに濃くなり、頭上の葉の天井はほとんど閉ざされる。差し込む光は絞られた線になり、地面に細い金色の帯を描いていた。


小さなブイモンスターたちの鳴き声も、いつのまにか聞こえなくなっていた。代わりに漂うのは、湿った静けさだけだ。


パルスバンが鼻をひくつかせた。


「ねえ、分かる?」


「何が?」

アイコは反射的に周囲を見回す。肩に力が入る。


「うまく言えないけどさ」

パルスバンは耳をぱたぱた振る。

「“何かがある”っていうより、“何かが消えてる”感じ。森の音のスイッチを誰かが切ったみたい」


そのとき、ケンジが急に立ち止まった。


「ちょっと待って」


彼は再び巻物を取り出し、目の前の光景と見比べる。

それから紙をしまい、数歩前へ歩いて手で枝を押しのけた。


「たぶん……着いた」


アイコの心臓が、勝手に早く打ち始める。


苔むした太い幹のあいだから、足元がわずかに窪んでいるのが見えた。その低くなった場所に、木とは違う何かが、根や茂みに隠れるようにして埋もれている。


バラバラに転がった石ではない。

灰色の石が、なめらかな面を持つ直方体に切り出され、直角に積み上げられている。

かつては“台”か“床”だったのだろうか。

一部は沈み込み、一部は絡みついた根に覆われ、森がどうにか飲み込もうとしているのが分かる。


片側には、太く重そうな金属の柱が、横倒しになったまま突き立っていた。表面には亀裂が走っている。その柱が石の土台に触れている部分だけ、苔の付き方が薄い。そこだけ、何かがまだ周囲の生命を押し返しているかのようだった。


空気も、さっきまでとは違っていた。ほんの少しだけ冷たく、ほんの少しだけ乾いている。

ブイモンスターの声も、虫の羽音もない。

聞こえるのは、遠く、森の向こう側から流れてくる音だけだ。


パルスバンはギシギシ鳴るリュックの紐を直しながら、一歩前に出た。


「うん」

小さな声で言う。

「これは、“ただの古い木と役に立たない石の山”じゃないね」


アイコは慎重に斜面を降りた。落ち葉の下に隠れた段差に足を取られないように、一歩ずつ確かめながら進む。


近づいてみると、石の台の縁に、何かの跡が刻まれているのが見えた。


印だった。


時間に削られ、ほとんど見えなくなっているのに、それでも分かる。

三つの弧と三つの三角形の矢印がはめ込まれた、途切れた円。

今にも何かが回り出しそうに見える、あのマークだ。


一瞬、呼吸の仕方を忘れた。


地図に描かれていた印と同じ。

ずっと、自分の部屋の棚で“飾り”みたいに置かれていた金属片と同じ。


アイコはしゃがみ込み、指先でそっとその部分をなぞった。石はひやりとしていて、周りの空気よりもずっと冷たく感じる。

皮膚の下で、かすかな震えのようなものが伝わった気がした。想像だと言われればそれまでの、眠っている残響。


ケンジがそばに来て、アイコの肩越しに覗き込む。


「やっぱりあった」

低い声で言う。

「同じ印。同じ場所だ」


パルスバンは少し離れた位置に立ったまま、耳を伏せて目だけを大きく開いていた。


「じゃあ、ここが――」

言葉を選ぶように、ゆっくりと言う。

「例の“ブイモンスターに影響を与える聖域”ってやつか」


アイコは身を起こした。けれど、手だけは石から離さなかった。


外から見れば、ただの森だ。木々があり、根があり、土の匂いがする。

でも、この途切れた円の線の上だけ、世界が一歩、横にずれたみたいに感じる。


彼女は深く息を吸った。


パン工房も、父も、燃え続ける窯も、もう背中の方だ。

誰もあまり通らない細い道を抜け、今は、自分の知らないところでずっと自分について回っていたもの――部屋の金属片、探索団の地図、ブイモンスターたちの妙な反応――と、真正面から向き合っている。


「じゃあ、確かめよう」

自分自身に言い聞かせるように口を開いた。

「ここに、何が閉じ込められてるのか」


パルスバンは、どこか居心地悪そうにしながらも、口元だけで笑った。


ケンジは眼鏡を軽く押し上げる。


そしてアイコは、はっきりとした感覚を覚えた。

――ここから先は、もう“森をちょっと散歩してきただけ”では済まない。


そういう場所まで来てしまったのだ、と。

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