第2章 古き遺跡
ブイモンスター暴走の話がひと区切りつくと、探索団の部屋にはふたたび静けさが戻ってきた。
高い本棚が三人を取り囲み、まるで紙でできた森の幹のようにそびえている。巻物や表紙の擦り切れた本、細かい字のラベルが貼られた箱がぎっしり並び、梁から吊るされたランタンが、すき間風に押されてゆっくり揺れた。揺れるたび、木の壁に影が昇ったり降りたりする。
じっとしていられないパルスバンは、ひょいとカウンターの上に飛び乗った。半分開いたままの新聞のそばで長い耳をぴんと立て、青い瞳でケンジをじろりとにらむ。
「新聞に載ってたことだけで心配してるわけじゃないよね?」
目を細めてそう言うと、ケンジは一瞬だけ黙り込んだ。話すかどうか、まだ迷っているみたいに指先で眼鏡をつつく。
それから新聞を横へ押しやり、カウンターの下から太い巻物の筒を引っ張り出した。長い年月を経て、革のベルトは黒ずんでいる。
「数日前、中央探索団から古い資料の束が届いたんだ」
ケンジはそう言いながら、慎重に巻物を広げていった。
「古い報告書、収穫の記録、もう誰も使わない街道の地図……最初はただの“埃かぶり要員”だと思ってた」
アイコはカウンターに歩み寄り、インクの染みや小さな切り傷が残る木の天板に両手をついた。ケンジが何かを面白がっているとき、肩がほんの少しだけこわばるのを彼女はよく知っている。
「でも、これは“ただの紙”じゃないってことだよね?」
そう尋ねると、ケンジは視線を地図から離さないまま、こくりと小さくうなずいた。
広げられた巻物には、境天の周辺が手描きのインクで描かれていた。川、起伏、森の塊。村の北側の林の一角に、かすかに残った印がひとつある。
――三つの弧と三つの三角形の矢印がかみ合ってできた、どこか絶えず回転しているように見える途切れた円。
その印はほとんど消えかけていた。
「ここだ」ケンジは爪先でその場所を指し示した。
「この地図は“コラプス”のあと、探索団が世界を理解しようと手探りしていた時代のものだ。印が付いている場所のほとんどは、もう調査が終わっている。でも、この点だけは……空白のままなんだ」
アイコは眉をひそめた。
「北の畑の近くじゃない?」と小声でつぶやく。
「用水路を見に行くとき、あのあたり通るよ。別に変なもんなんて見たことないけど」
「報告書では、そこを“時間がゆがみ、過去の残響が留まり続ける聖域”って呼んでる」
ケンジは深く息を吐いた。
「しかも、それだけじゃない」
彼は最初の巻物をそっと置き、別の、少し薄い巻物を取り出した。文字の雰囲気がさっきとは違う。隣に広げると、そこにも同じ森の一帯が描かれていた。インクの色も、線の荒さも違うのに、同じ印がそこにあった。
――さっきと同じ、あの途切れた円のマークだ。
「別の探索者が、別の年代に書いた報告だ」
ケンジは説明した。
「本文には“ブイモンスターの性質を変えてしまう遺跡”って書いてある」
パルスバンは低い口笛を鳴らした。
「“時間がゆがむ聖域”とか“ブイモンスターが変になる遺跡”とかさ」
耳をぱたぱた揺らしながら言う。
「要するに、“めんどくさいトラブルの匂いしかしない場所”って、きれいな言い方してるだけじゃない?」
ケンジが何か言い返そうとしたその時、部屋の隅で何かが動いた。
小さな岩のブイモンスター――探索団の“マスコット”みたいな存在で、ふだんは入口のそばで重たい置物のふりをしているやつ――が、頭をもたげていたのだ。目にあたる二つの小石が、ぼんやりと青白く光る。
ごつごつした鼻先が、開かれた巻物の方へとゆっくり向く。
カウンターの後ろの壁に埋め込まれた結晶石が、ぱちっ、と同時に瞬いた。空気の変化にびくりと反応したかのように。その光はすぐに元に戻ったが、部屋の温度が一段階下がったように感じられた。
アイコはごくりとつばを飲み込んだ。
「その子……古い地図を広げると、いつもああやって動くの?」
石のブイモンスターから目を離さないまま尋ねる。
ケンジもそちらを見て、表情を引き締めた。
「いや」
短く答える。
「これは初めてだ」
マスコットのブイモンスターは、落ち着かない様子で足を動かし、石の床をきゅっと引っかいた。それから――あれは見たくない、とでも言うように――ゆっくりと身体の向きを変え、巻物とは反対側を向いて、またじっと動かなくなった。
パルスバンの耳から、ぱちりと小さな火花が散る。
「はい、今ので正式にゾクッとした。風のせいじゃないやつ」
冷たいものが、アイコの首筋をすっとなでていった。
彼女は無理やり視線を地図へ戻そうとしたが、さっきのブイモンスターの反応が頭から離れない。
「それを見つけたのって、首都のニュースが来る前? それとも後?」
「前だ」ケンジは答えた。
「暴走したブイモンスターの報告が届く前から、この印の意味を調べてた」
彼は再び、途切れた円を指さす。
「問題はね、この模様を別の場所でも見たことがあるってことなんだ」
アイコは顔を上げた。
「どこで?」
ケンジは、まだ言うべきか迷っているように一瞬ためらう。それからカウンターの下の細い引き出しを開け、中から手のひらサイズの金属片を取り出した。
不規則な形のプレートで、縁はすり減り、表面にはいくつか深い傷がついている。中央には、浮き彫りになった同じ印――さっきの途切れた円が、くっきりと刻まれていた。
アイコの胃のあたりがきゅっと縮む。
「これ……知ってる」
思わずそうささやいた。
ケンジはゆっくりとうなずく。
「だろうね」
彼はプレートをアイコの方へ押し出した。
「これ、もともと君の棚にあったんだ。ほかの金属のガラクタと一緒に。お父さんが、何年か前に北の畑の近くで崩れた土を片づけてるときに見つけたって」
記憶が、はっきりとよみがえる。
まだ小さかった自分が、部屋の床に座り込んで金属片を宝物みたいに並べていたこと。
父が笑いながら「ああいうのは“しつこい世界の残りかす”だ」と言っていたこと。どれだけ片づけても、ときどき土の中から顔を出してくるのだ、と。
あの時、アイコには模様の意味なんて分からなかった。ただ、きれいだと思って棚に飾っただけ。
でも今は違う。
それは、地図の中で忘れられていた一点と同じ印。
さっき、石のブイモンスターをざわつかせた印。
パルスバンは、アイコとプレートと地図を順番に見比べた。
「つまりさ、“ブイモンスターが変になる聖域”とやらのマークが、今までずっとアイコの部屋の飾りとして鎮座してたってこと?」
まとめるように言ってから、肩をすくめる。
「うん。全然怖くないね。それはもう、まったく」
皮肉っぽく言ってはいたが、その声の奥には本物の不安が一本通っていた。
ケンジはカウンターにもたれ、息を整えるように背中を軽く伸ばした。
「中央探索団にも、この印が出てくる資料がいくつかある」
そう付け加える。
「なのに、その地図だけは報告からすっぽり抜け落ちてる。他の遺跡には印を付けて、調査して、隊を送ってるのに……この場所だけ、空欄のまま。最初から、そこには何もないみたいな扱いだ」
アイコは眉を寄せた。
「わざと……見ないふりをしてるってこと?」
「分からない」ケンジは首を振る。
「ただの見落としかもしれないし、怖がってるだけかもしれない。あるいは、本当に“触らない方がいい”って判断した誰かがいたのかも」
彼は深く息を吸ってから続ける。
「でも、一つだけはっきりしてる。あまりにも多くの情報が、同じ場所を指してるってことだ。ブイモンスターに影響を与える遺跡。昔の報告書。探索団からの注意喚起。そして今、世界各地で起きてる暴走」
ケンジの視線が、二人のあいだに置かれた金属プレートに落ちる。
「そしてその一部が、境天のパン職人の部屋で、ずっと飾りになってた」
後に続いた沈黙は、心地よいものではなかった。
アイコは、自分の体重がカウンターに沈み込んでいくように感じる。まるで木が急に厚みを増したみたいに。
プレートをそのまま返してしまいたかった。何もかもただの偶然だと信じたかった。遠くの遺跡は、遠くのままでいてくれればいい、と。
そんな気持ちを、いつものように先に破るのはパルスバンだった。
「で、はい。じゃあ一番分かりやすい質問をするね」
地図の縁に前足をかけながら言う。
「ケンジは、そこに行きたいんだよね?」
今度、ケンジは誤魔化そうとしなかった。
「行きたい」
はっきりと言う。
「もう、遠くで起きてる出来事の報告書を読むだけっていうのには耐えられない。こんなに近くに、古い資料や探索団からの警告や……君の家族の話まで、全部がつながっているポイントがあるなら……自分の目で見ないと気が済まない」
「“家族の話”って言い方はさ、“父さんが泥の中から金属拾ってきた”って事実を、だいぶドラマチックに脚色してない?」
アイコは半分ふてくされたように言った。
それでも、胸の奥がきゅっと痛む。
大げさかどうかは関係ない。あの金属片は、自分と一緒に育ってきたのだ。
ケンジは小さく笑みを浮かべた。
「確かに、ちょっと盛ってるかもね」
そう認めつつも、すぐに真顔に戻る。
「でも、もし行くとしても、一人では行きたくない。ここで話したら、おそらく探索団は正式な隊を編成するだろう。大人数で、目立つ装備で。そうなったら、余計な注目まで集めかねない」
彼は二人を見つめる。
「だったら、俺は君たちと行きたい。即席のグループより、よっぽど信頼できるから」
パルスバンは胸をぐっと張った。
「つまり、境天最強パーティーってことだね。翻訳完了」
アイコは横目でにらむ。
「“ブイモンスターがおかしくなる遺跡”って部分は、ちゃんと聞こえてたんだよね?」
「聞こえてたよ」
パルスバンは肩をすくめる。耳の火花は、さっきより少し弱い。
「怖くないって言ったらウソになる。でも……何もせずにじっとしてる方が、もっと嫌なんだ」
アイコは、もう一度プレートを見下ろした。
さっきから目を離せない、あの印。
どこか未完成で、まだ中で何かが回り始めるのを待っているように見える。
最初に頭に浮かんだのは、やっぱりパン屋のことだった。
自分が行けば、朝の窯は父一人に任せることになる。もし遺跡で何かあったら……戻ってこなかった探索者の話が脳裏をかすめた。
“昔、この村にも遺跡に行った人がいてね。ある日そのまま帰ってこなかったんだよ”
そんな風に、誰かの父親が子どもに語る姿が浮かぶ。
自分の父に、そんな話をさせたくなかった。
「村を出たまま戻らなかった人」としてだけ覚えられるのも、絶対に嫌だった。
「……いつ行くつもり?」
ようやく口から出た言葉は、それだった。
ケンジは眼鏡を直し、その瞬間だけ少し幼く見えた。
「明日の朝一番だ」
と答える。
「日が強くなる前に出れば、日が暮れるまでには戻ってこられるはずだ。もう最低限の準備はしてある。ロープ、ランタン、記録用の結晶、道に残す印……」
アイコは片眉を上げた。
「じゃあ、最初から行くって決めてたんだ。私の返事を聞く前から」
「アイコのことは分かってるからね」
ケンジは、疲れていながらもどこか優しい光を宿した目で言う。
「友達を危ない場所に一人で行かせたりしない。文句言って、考え込んで、ため息ついて……それでも最後は来てくれる」
パルスバンがくすっと笑った。
「もし間違ってたら、さすがに傷ついてたけどね」
アイコは鼻から長く息を吐いた。古い紙と機械油と舞い上がった埃の匂いが肺いっぱいに広がる。
まだ間に合う。
ここで「やめとこう」と言えばいい。
「それは探索団の仕事」で押し切ってしまえば、地図の印と棚の金属片のあいだの線をなかったことにもできる。
でも、石のブイモンスターは、いまだに巻物から顔を背けたままだった。
外の世界は、とっくに静かに壊れ始めているのに、誰にも許可なんて取ってくれない。
「……分かった」
アイコはついに言った。
「行くよ」
パルスバンは、勢いよく跳ねすぎてインク壺を倒しかけた。
「やっぱり!」
カウンターの上でくるっと一回転する。
「これにてパーティー正式結成! パン職人、巻物守り、そしてイケてるブイモンスター。だいたいの大冒険は、このメンツから始まるんだよ」
「大冒険じゃなくて、大騒ぎの前兆って気もするけど」
アイコはぼそっと言ったが、口元には小さな笑みが浮かんでいた。
彼女は手を伸ばし、金属プレートにそっと触れた。指先に伝わる冷たさは、本来の重さ以上のものを含んでいるように感じる。
「一つだけ約束して」
さっきより低い声で言った。
「危ないと思ったら、すぐ戻ること。“もう少しだけ”とか“まだいける”とか、そういうのなしで。ちゃんと戻る」
ケンジは即座にうなずいた。
「答えが欲しいからって、命を投げ出したいわけじゃない」
彼はそう返す。
「ただ、“何も起きてないふり”を続けるのは、もう嫌なだけだ」
パルスバンは前足をぴんと上げた。
「俺も、無茶はしないって約束するよ」
二秒ほど間をおいてから、付け足す。
「……三行以上で説明しなきゃいけないような無茶は、ってことにしない?」
「全然安心できないんだけど」
アイコは肩を落としながらも、額のしわは少しだけゆるんでいた。
そのあと三人は、細かい段取りを詰めていった。出発の時間、どの道から森へ入るか、探索団に怪しまれない程度の荷物の量。ケンジは、巻物の修復リストや機械の整備メモが書き込まれたボロボロの手帳に、新しい予定を次々と書き足していく。
やがてアイコとパルスバンが探索団の建物を出るころには、太陽はだいぶ高くなっていて、土の道に落ちる影は短くなっていた。
境天の景色は、一見いつも通りだった。
水車が回り、運河に水を送り込む。水のブイモンスターが区画から区画へぴょんと飛び移り、しぶきを上げる。いくつもの家から、パンや香辛料の匂いが漂ってくる。子どもたちが、ちょっとした突風を起こしてからかってくる風のブイモンスターを追いかけて走り回っていた。
――けれど、少し歩いたところで、アイコは思わず足をゆるめた。
木の柵のそばで、土のブイモンスターが一匹じっとしていたのだ。背中に石の板をいくつも重ねた、低い体つきの個体で、アイコは近くの畑の手伝いをしている子だとすぐに分かった。
そのブイモンスターは、錆びついた古い金属の柱をじっと見つめていた。誰も用途を知らない、昔の装置の名残だと言われているやつだ。
彼はゆっくりと、その柱に近づいていく。背中の石板がかすかに震え、薄い粉がふわりと舞った。
次の瞬間、土のブイモンスターは小さく身を震わせた。
――目に見えない何かに驚かされたみたいに。
そして一歩、二歩と素早く後ずさりし、そのまま半分ほど地面に潜り込んで身を隠してしまった。
「今の、見た?」
アイコが小声で尋ねる。
パルスバンも立ち止まっていた。
「見た」
その耳はぴんと立ち、いつものふざけた調子は欠片もない。
「何かを感じてる。ここでもう、始まってる」
土のブイモンスターは、しばらくそのまま地中にうずくまっていたが、やがてゆっくりと這い出てきて、何事もなかったかのように畑の方へ戻っていった。
アイコは再び歩き出した。背中には、水車の回るおなじみの音が遠ざかりながらついてくる。
片方には、彼女の知っている生活がある。
父のいるパン工房、朝一番に燃える薪窯、屋上の畑、焼き立てのパンの匂い。
もう片方には、地図から消された一点と、金属にも紙にも刻まれてきた、あの印。
その夜、布団に横になっても、なかなか落ち着かなかった。
天井の梁が作る影は、木材というより森の枝のように見える。
階下の薪窯の音は、いつもの生活の音というより、出発までの時間を刻む時計みたいに聞こえた。
山の向こうから、また太陽が昇るとき。
アイコはきっと、いつも通りパンの匂いで目を覚ますだろう。
けれどその朝、彼女の中に確かに漂っているのは――
森へと続く細い道と、忘れられた聖域へともう踏み出してしまった一歩目の気配だった。




