第12話 進化
アイコを起こしたのは、ノイズじゃなかった。
廊下だった。
石の床を叩く足音。命令の形に割れた声。建物全体が、息を切らしている。
「通して!」
「北側だ!」
「ついてこい!」
理由はない。ただ、切迫だけがある。
アイコは跳ね起きた。ノイズはまだ頭の奥に居座っている。頭の中で鳴る、あの静電気みたいな雑音だ。残響施設からずっと続く細い音。でも今夜のそれは、締めつけてくるみたいに苛立っていた。外の警報の大きさに比べて、細すぎる。
右のベッドで、賢司が寝返りを打った。まだ夢の中に半分沈んだ顔。
パルスバンはもう起きていた。耳を立て、座ったまま動かない。
ドン、ドン。乾いたノックが二回。
アイコはドアを、指一本ぶんだけ開けた。そこにいたのは探索団の使役者。顔は強張り、胸の徽章だけが妙に明るい。
「お前たち三人は部屋から出るな。内側から施錠。何があっても、絶対に出るな」
「何が起きてるんだ?」賢司が立ち上がりながら言った。
「中環区で騒ぎ。ブイモンスターが制御を失ってる。みんな封鎖線に回ってる」
使役者は部屋の中を一瞬だけ見た。余計な不安の理由を探すみたいに。
そして、行ってしまった。
ドアが閉まる。静けさは戻らない。ただ、間違った側に押しやられた。
賢司が細い窓へ寄った。遠くで、橙色の光が震えている。ここではない。だけど、遠すぎもしない。
「火事みたいだな」
アイコは深呼吸しようとして、やめた。
ノイズが、引いた。
窓じゃない。
壁ぎわに置いたリュックへ。
胃の奥が冷えた。これは、予感じゃない。もう確信の形だ。
「……やだ」
パルスバンも同じ方向を見る。まるで、同じ音を聞いているみたいに。
アイコはファスナーを開けた。
中の金属が熱い。おかしい熱さだ。火に置き忘れたみたいに。
残響施設から持ち帰った、旧式端末。溝の刻まれた、あれだ。あの日からずっと、隠して持ち歩いていたもの。
天井の灯りが瞬いた。一回。二回。三回。
それで、世界が裏返った。
アイコが瞬きをすると、部屋の上にもう一枚の層が見えた。
石の壁を走る細い光。柱を登り、天井を横切る。巨大な生き物の血管みたいに、むき出しの筋。
熱い旧式端末を握っていると、その“網”が世界の上に重なって見える。
建物のエネルギー網。
通りの。
中央都の。
賢司には見えていない。
でもアイコには、見えすぎる。
そして外。中環区の結び目は、人工の星みたいに輝いている。
ただ一か所だけ、光が詰まっている場所があった。
黒く、いびつで、噛み砕かれたみたいな点。
エネルギーが喉に詰まって、吐き出せないみたいに。
ノイズはそっちへ引っ張る。
同時に、研究棟宿舎の骨組みの中を這ってきていた。
こっちへ。ここへ。彼らへ。
「……呼んでる」アイコは小さく言った。「これ、わたしを」
パルスバンが旧式端末に前足をそっと触れた。好奇心と緊張が入り混じっている。
「残響施設から一緒に来たのに、今さら起きたのか?」
アイコの脳裏に、花森リカの声が刺さった。冷たいほど淡々とした、あの指示。
「ノイズが変わったら、すぐに報告して」
どうやって報告するの。建物が燃えそうな夜に。
廊下が揺れた。大きな衝撃。
続けてもう一つ。
石が割れる音。木が軋む音。
アイコは反射で後ろへ下がり、賢司とパルスバンを引いた。
「下がって!」
賢司が、最悪の行動を取る前に。
次の一撃で、鍵が折れた。
ドアは開かなかった。
開く前に、枠ごと引き剥がされた。
まるで「部屋」というものが、提案に過ぎないみたいに。
入口を塞いだのは、計算ミスみたいな存在だった。
大きすぎて、重すぎて、速すぎる。
巡回ガルラッシュ。金色の装甲板。むき出しの爪。刃みたいな尾。
でも、何かが違う。
装甲の縁は焼け焦げ、関節から煙が上がっていた。緑がかったエネルギーが亀裂から漏れ、また戻り、べったり貼りつく。粘る。離れない。
そして目。赤い目は、「警備」の色じゃなかった。
賢司が息を忘れたみたいに言った。
「……巡回の、ガルラッシュ……」
パルスバンが低く唸る。
「侵食されてる」
ガルラッシュは部屋を見回し、アイコで止まった。
その瞬間、ノイズが胸の中で破裂した。
わたしだ。
わたしを探してた。
「見つかったな」パルスバンが言う。驚きじゃない。ただの確認だった。
ガルラッシュが突っ込んでくる。
パルスバンが前に飛び出した。最初の放電が金の装甲に弾かれ、火花が散る。パルスバンは旧式端末を前足で押さえようとしたが、次の一撃が槌みたいに落ちた。
金属がぶつかる音。
前足が裂けた。
旧式端末が飛んだ。ベッドに跳ね、床に落ち、壊れたベッドの下へ消えた。
一瞬。
パニックが育つには十分な時間。
賢司が角の椅子を掴み、ガルラッシュの顔へ投げつけた。
椅子は木片になって散った。
止まらない。
でも、半歩だけ稼いだ。
「アイコ! 端末!」賢司が叫び、指差した。
アイコは床に伏せ、隙間へ腕を突っ込む。熱い金属が掌を焼いた。
歯を食いしばって引きずり出す。
ノイズが腕を駆け上がった。電流みたいに。
そして、勝手に道を選んだ。
アイコが小さな金属を握りしめる。
前にいるパルスバンが、ガルラッシュを睨む。
その瞬間、アイコはパルスバンの身体を自分の身体みたいに感じた。
衝撃。
入り込もうとする電気。
相手の装甲が吸っていく感触。
旧式端末が手の中で震える。エネルギーを飲み込みながら、吐き出し先を知らないみたいに。
胃がねじれた。光の網が強く瞬き、部屋が傾いたように錯覚する。
「賢司……こいつ、信号シグネチャを追ってる」
アイコの口から言葉が落ちた。考えるより先に。
「引っ張られてきた。ここに。わたしに」
賢司の顔から血の気が引く。
「外じゃ探索団が戦ってて……こいつは、こっちに来た。お前のシグネチャを拾って?」
ガルラッシュがまた突進する。
パルスバンがかろうじて避ける。ベッドが真っ二つに切れた。
部屋が急に狭くなる。壁が近づいたみたいに。
ノイズが教えてくる。ガルラッシュの中の“間違い”を。
関節に貼りついた、緑のエネルギー。装甲の内側で噛みついている。
「装甲板を叩いてもダメ!」アイコが叫んだ。
「関節! そこに絡みついてる!」
パルスバンが歯を食いしばって頷く。
ガルラッシュは盲目的だった。知性がない。
ただ、狙いに飢えている。
アイコが横に飛ぶ。
ガルラッシュが外壁へぶつかった。
石が、澄んだ音で割れた。
二階が風に開いた。
床が傾く。
賢司が滑り、ベッドの残骸にしがみつく。指が白い。
重さがアイコを穴へ引く。空と石だけの景色が一瞬で入れ替わった。
パルスバンが両足でアイコの手首を掴む。
一緒に滑る。爪が木を引っかく。外れる。
二人とも縁へ吸い込まれる。
「掴め!」賢司が手を伸ばした。
遠い。届かない。
アイコは胃が虚空に吸われる感覚に耐えながら、旧式端末を握った。取っ手みたいに。
ノイズが応えた。
回路が閉じる。
そして、代償を払わせた。
乾いた痛みが頭を貫いた。頭蓋の内側から糸を引き抜かれるみたいに。
鼻が熱い。何かが垂れ、金属に落ちた。血だ。
怖がる時間はない。
床が消えた。
落ちる。
石が速い。風が顔を切る。
アイコは壁に肩を打ち、回る。
パルスバンも回る。盾みたいに張りついたまま。
次に見えたのは中庭だった。
整備用の箱の間に張られたシートへ、二人は叩きつけられた。
シートが裂ける音が、肋骨を救った。
それでもアイコは石の地面を転がり、数秒、息ができなかった。
パルスバンも隣で転がる。
起き上がろうとした瞬間。
パルスバンは、もう小さくなかった。
身体が、乱暴に組み替わるみたいに膨らむ。薄い青の線が稲妻のように皮膚を走り、腕は長く、拳が光る。目の青が硬くなる。
上。壊れかけの部屋にしがみついた賢司が、目を見開いた。
「……パルスボルト……」
賢司は自分が声に出したことに気づいていない。
「ギルドのカタログで見た。進化の登録ページにあった」
アイコの耳には遠かった。頭が脈打つ。鼻血がまだ落ちる。
手の中の旧式端末は、ひび割れていた。弱い光が漏れている。
息をしている火種みたいに。
穴の縁からガルラッシュが姿を現し、そのまま中庭へ跳んだ。石がまた砕ける。
緑のエネルギーは相変わらず、体に塗りついたままだ。
パルスボルトがアイコの前に立つ。反射だけで。
アイコは息を吸い、無理やり焦点を合わせた。
重い。
ほんとうに、重い。
「パルスボルト!」
命令というより、足場を作るために呼ぶ。
「関節! 絡んでるところの装甲を剥がして!」
パルスボルトが走る。
最初の衝突。
腕で受け止める。
衝撃で腕が震えた。
その震えが、アイコの胸にも来た。
旧式端末が震え、ひびが強く光った。
パルスボルトが回転し、ガルラッシュの肩の装甲の根元を叩いた。
緑のエネルギーが一瞬だけ途切れた。
装甲板が落ち、煙を吐く。
ガルラッシュが咆哮する。迷ったみたいに。
パルスボルトは止まらない。次は脚の関節。
装甲が外れる。漏れる。途切れる。
装甲が剥がれていく。
その下には、疲れ切ったブイモンスターがいた。無理やり鎧を着せられていたみたいに。
最後の一撃。
パルスボルトが全てを一点に集める。
拳が、兜の中心へ。
赤い目が揺れ、途切れ、消えた。
ガルラッシュが重い音で倒れた。動かない。
荒い呼吸だけが残る。
生きている。
でも、飢えは消えていた。
静寂。
ノイズが引いた。潮が戻るみたいに、アイコの頭の奥へ。
パルスボルトがぐらつく。
そして、小さなパルスバンへ戻った。息が上がっている。心臓が外に出たまま走ってきたみたいに。
アイコは膝をつき、パルスバンの隣へ倒れ込む。
旧式端末を握る手が、熱くて震える。
ひび割れは、さっきより大きい。
上から賢司が叫んだ。声が裂ける。
「降りる! 降りるから! 方法だけ、探す!」
アイコは穴を見る。瓦礫。倒れたガルラッシュ。
これは報告になる。調査になる。処分になる。
そのとき、壁の上に乾いた音が落ちた。
スタートル。
硬い甲羅。細い目。状況を一ミリも逃さない視線。
その後ろから、黒宮タケルが跳び降りてきた。コートは煤と傷だらけ。見ていただけの人間の汚れじゃない。
タケルの視線が中庭をなぞる。
ガルラッシュ。二階の穴。粉塵。倒れたパルスバン。
そして、アイコの手で止まった。
タケルの顔は「何だそれ」じゃなかった。
もっと悪い。
知っている顔だった。認識している目。
タケルはゆっくり近づいた。一歩間違えば、また何かが起きると知っている歩き方で。
数歩手前で止まる。
「……どこで、そのブイリンクを手に入れた?」
アイコが口を開く前に、タケルは同じ温度のまま言った。扉を閉めるみたいに。
「床に置け。ゆっくり」
アイコは旧式端末を床に置いた。いま、名前を知った。ブイリンク。
ひびが一度だけ瞬いた。疲れた目が開きかけるみたいに。
そして、消えた。




