第11話 キャピタルのマーク
探索団先端研究セクターの廊下は、アイコが想像していたよりもずっと静かだった。
といっても、眠った村みたいな静けさでも、打ち捨てられた残響施設みたいな静けさでもない。
誰もしゃべっていなくても、どこかで必ず何かが動いている場所の静けさだった。
低い雑音、機械の中で回る音、抑えられた足音。そういうものが、細く、薄く、空気の下のほうで重なっている。
先頭を歩くのは黒宮タケルだった。
灰色のコートが、一歩ごとにわずかに揺れる。そのすぐ後ろを、スタートルが殻を壁すれすれにしながら進んでいく。アイコと賢司とパルスバンは、その後ろに並んだ。
中の空気の匂いは、外とまた違っていた。
「……なんか、できたての匂い」
パルスバンが鼻をひくつかせる。
「金属と、塗料と、削りたての石。ここ、人間の匂いがつく前に、まず“新しい建物”の匂いでいっぱいになってる」
アイコも小さくうなずいた。
壁の塗料は、まだどこか若い匂いがする。機械に使われている油も、村で見る古い装置のような、焦げた匂いはない。削られたばかりの石の粉のような気配が、廊下の奥からふわりと流れてくる。
廊下のあちこちには、小さな光のモジュールが金属の台座に組み込まれていた。高さの違う位置で、短く光ってはまたおさまり、また光る。それは、目に見えない何かを区切って測っている線にも見えた。
ときどき、人とすれ違う。
探索団の制服の上から、薄い色の白衣を羽織った使役者たち。
片方の手には、薄い記録ディスクを何枚も挟んだバインダー。もう片方の手は、金属製の台に固定された端末の取っ手を押している。その台の上には、布をかけられた小さなブイモンスターたちが、静かに横たわっていた。布には、注意をうながす印が縫い込まれている。
誰も、長くは見てこない。
視線は一瞬、グループの上をなぞり、「ああ、あれが例の」とでもいうように、短く止まってから離れていく。廊下に新しい絵が掛かったときに、一度だけ確認して、そのまま通り過ぎる人みたいだった。
「見られてるよ」
パルスバンが、アイコの耳元でささやいた。
「三人ともでしょ」
「違う違う」
パルスバンは、自分の耳で自分の頭を指した。
「今の目線、“ふーん、変わってる”って顔して、その次の瞬間には『どの引き出しに入れようかな』って考えてる目」
賢司も聞いてはいたが、表情はさっきからずっと固い。
彼は廊下に立てられた案内板を目で追っていた。
「第3ラボ、同期室、コア保管室、探索団医療室……」
読み上げる声は、どこか図書館の棚を確認しているときと同じだ。
「……でかいな。廊下だけで、本棚何本分あるんだ」
やがて、一行は小さなカウンターの前で足を止めた。
中には探索団の職員が二人。後ろの棚には、木と金属でできた箱がきっちり並び、それぞれに記号と番号が刻まれている。
タケルは、巻物型の書類と一枚の記録ディスクを差し出した。
短い定型文が交わされ、スタンプがディスクの表面に押されていく。隣では、分厚い台帳にさらさらと記入が追加されていった。
「認証バンド」
一人の職員が、ちらりと三人を見ると告げた。
細長い箱のふたが開き、中から金属製のバンドが二本取り出される。どちらも装飾は少なく、中央に小さな光のモジュールがひとつ埋め込まれているだけだ。
「キャピタルの中では、みんなこれを身につけます」
職員は、バンドをカウンターの上に並べながら説明した。
「身分証であり、探索団の認証であり、鍵でもあります。マークがなければ、扉は開かないし、読取機はエラーを出すし、キャピタルの半分は、あなたの存在を“いないもの”として扱います」
「キャピタル探索団認証バンド」
タケルが言葉をつなぐ。
「ここでは“マーク”と呼ぶことが多い。ここにいる間は、必ずつけておいてください。外したら、困ったことになるほうが早い」
アイコは、自分の分を手に取った。
ひやりとした金属の感触が、掌に広がる。中央のモジュールのまわりには、薄く線が刻まれていた。その形が、どこか残響施設で見た途切れた円に似ている気がして、胸の奥が少しだけざわつく。
「ボクの分は?」
パルスバンが、前足をカウンターに乗せて身を乗り出した。
「ほらほら、ここにもナイスでキュートな個体がいるんだけど」
職員は、低い位置の端末に何かを打ち込んでから、首を横に振った。
「あなたの記録は、その使役者さんのマークに紐づいています」
まるで電車の時間を告げるみたいな、淡々とした声だった。
「別のバンドを持つ必要はありません」
「……使役者?」
アイコは、はっとして顔を上げた。
パルスバンも、同じタイミングで首をかしげる。
「ボクたち、友だちだよ」
彼が続ける。
「“はい今日からあなたのご主人さまです”なんて話、一回もしてないんだけど」
職員は、無言で端末の画面をこちらに向けた。
そこには、「森田アイコ」の名前の隣に「責任者」と表示され、その下に「パルスバン」という名前が、「紐づけブイモンスター」として並んでいた。
「到着ゲートでの読取の時点で、こう登録されました」
職員は説明を続ける。
「もし紐づけをやり直したいのであれば、データ照合セクションに申請してください。それまでは、こちらのシステム上、彼は“森田さんのチームの一員”として扱われます」
アイコは、画面をじっと見つめた。
責任者。
その言葉を、自分で選んだことは一度もない。
朝起きて、「今日は誰かの使役者になろう」と決めたわけでもない。ただ、残響施設の中に、頑固な電気うさぎと、本読みすぎの司書と一緒に入っていっただけだ。
「……誰の“使役者”にも、なりたかったわけじゃない」
気づけば、口からこぼれていた。
「パルスバンは、友だちだよ」
職員は、少しだけ肩をすくめた。責めるような色はない。
「システム上は、誰かがそのブイモンスターの責任者として記録されている必要があります」
淡々とした声のままだ。
「外でどう呼び合うかは、自由です。でも、この登録が生きている間は、読取ゲートも、扉の認証も、彼を“森田さんのチームのブイモンスター”として扱います」
パルスバンは、アイコと画面を交互に見てから、大きくため息をついた。
「はいはい、公的にはボクは完全にインベントリ行きってわけだね」
「……しばらくは、そうしておいて。あとで、どうにかできないか考えよう」
アイコも、小さく息を吐きながらうなずいた。
覚悟、というほど強いものではない。それでも、「今は動かせない」という区切りだけは、はっきり引かれた気がした。
彼女は、認証バンドを手首に回した。カチリと金具がかみ合う。中央のモジュールがふっと光り、短い振動が腕の内側を駆け上がった。
一瞬だけ、頭の奥のノイズが跳ねる。
誰かに、背中を軽く押されたような感覚。
……もっと、近く……
アイコは、息を整えるように胸いっぱいに空気を吸った。
「初期面談のあと、C−2区画に回してください」
職員が書類をタケルに返しながら言った。
「境天案件としての登録は、すでに済んでいます」
境天案件。
ついこの前まで、「境天」は薪窯と小さな水路と、焼きたてのパンの匂いの名前だった。
今は、分厚い台帳の中に、“何かの問題”として印刷される言葉になっている。
外側の顔は変えずに、アイコは胸のあたりだけぎゅっと固くなったまま、再び歩き出した。
◇ ◇ ◇
聴取室は、驚くほど簡素だった。
四脚の椅子。机を挟んで、向かい合わせに二脚ずつ。
本の少ない、細い本棚。探索団の印を図式化したような図が描かれたパネル。壁には、三つの小さなセンサーが埋め込まれていて、一定の間隔で弱い光を点けたり消したりしている。
窓は、一つもなかった。
「座ってくれ」
タケルが言う。
三人は、同じ側に並んで腰を下ろした。
パルスバンは、いつものようにアイコの椅子の背もたれに飛び乗り、後ろ足でぶら下がるようにして腰を落ち着ける。
タケルは、しばらく立ったまま、机の上で書類を整えた。それから、扉に向き直り、二回、軽くノックする。
「失礼します」
声のほうが、先に部屋に入ってきた。
ほどなくして、扉から一人の女性が現れる。二十代前半くらいに見える。
濃い茶色の髪を高い位置でひとつにまとめ、こめかみのあたりにだけ、少し乱れた髪が下りている。制服の上からは、薄い色の白衣。袖はひじまでまくり上げられ、手首には探索団の認証バンドがきっちりとはめられていた。
肩の上には、小さなブイモンスターが一羽、ちょこんと座っている。
パルスバンと同じくらいの大きさだが、印象はまるで違った。
丸っこい体に、きちんとした黒いフロックコートのような模様。首元には、ちいさな蝶ネクタイ。金縁の丸眼鏡の奥で、大きな緑色の瞳がきょろりと動く。頭のてっぺんには、小さな金色の部品が飾りのように乗せられていた。翼は短く、付け根のあたりが、磨きすぎた金属みたいに赤く光っている。
「黒宮さん」
彼女は、にこっと笑って軽く頭をさげた。
「ここが、例の“境天案件”の皆さんですね」
その言葉が、またアイコの胸のどこかをつついた。
境天は、本当は村の名前で、パン工房の看板で、家の前の水路の呼び名だったはずだ。
今、それは“案件”とセットで呼ばれている。
「アイコ、賢司、パルスバンだ」
タケルが手短に紹介する。
「君たち、こちらは花森リカ。探索団の研究員で、支援使役者だ。面談と、最初の分類を担当してもらう」
「“担当する”より、“ほじくる”のほうが近いかもしれませんけど、その言い方のほうが優しいので、そのまま受け取っておきます」
リカは軽く笑いながら、机の横に椅子を引いて腰かけた。
「花森リカです。よろしく。状況が状況なので、“来てくれてありがとう”と言っていいのかは難しいですけど」
彼女の肩のブイモンスターが、小さく首をかしげて三人を見つめる。
パルスバンは、片方の眉を上げた。
「こちらはヘルカラス」
リカが続ける。
「わたしのパートナーで、今日は一緒に話を聞きます」
「ボクはパルスバン」
パルスバンも、改めて姿勢を正した。
「愛らしい電気ウサギであり、この世にひとつしかない超レア個体、数量限定版です」
「数量限定、ね」
リカはそう繰り返しながら、すでに手にはバインダーと薄い記録ディスクを持っていた。
「ディスクのほうが、どう評価するか楽しみですね」
彼女は、ディスクをバインダーの側面に差し込む。
木製の板に刻まれた細い線が、すっと淡く光り出し、繊細な記号が次々と浮かび上がった。
「書類、ここに置いておいてください」
リカはタケルに向かって言う。
「この先は、わたしがやりますから」
タケルは、一瞬だけ考えるような間を置いてから、静かにうなずいた。
「C区画にいる」
短くそれだけ告げて、扉のほうへ向かう。
「何か、規格外のことがあったら、すぐ知らせてくれ」
「“規格外”が目の前に三人そろってますけど、まあ了解です」
リカは、肩をすくめながらも落ち着いた声で返した。
扉が閉まる。
その音が、小さく部屋の空気に沈んだあと、アイコはふっと肩の力が抜けるのを感じた。
楽になったというより、“いま、この部屋の空気の担当は、この人一人なんだ”とわかったせいかもしれない。
リカは足を組み、バインダーを膝の上に置いた。
「じゃあ、基本のところからいきましょうか」
彼女は言った。
「名前、年齢、出身。報告書にはもう書いてありますけど、こういうのは、本人の口から聞いておいたほうが、全体のイメージがつかみやすいんです」
賢司が、深く息を吸ってから口を開いた。
名前、年齢。
境天の司書をしていること。
どういう経緯で図書室を任され、探索団の詰所とどんなやりとりをしていたか。
リカは、にこにこと笑いながらも、手だけは迷いなく動かしてメモを取っていく。
「アイコさんは?」
名前を呼ばれて、アイコは背筋を伸ばした。
「森田アイコ。十七歳。境天のパン工房で、父さんと一緒に働いてます」
「そして、現在は、パルスバンの使役者として登録されています」
リカは、アイコのマークとパルスバンを交互に見ながら付け加えた。
「それ以前に、ブイモンスターとの関わりは? 訓練とか、パートナー関係とか」
「たまに村に来る子たちを見るくらいで」
アイコは首を横に振る。
「パートナーなんて、一度もいなかったし……パルスバンは、友だちです」
「システムは、そう思ってないみたいですけどね」
パルスバンが、ぼそっとつぶやいた。
「もう、完全に“使役者とブイモンスター”のセットとして扱う気まんまんだし、ね。……覚悟しなよ、アイコ。これから一生ボクの世話をする運命の使役者」
「……その言い方、余計ややこしくなるからやめて」
アイコは、苦笑ともため息ともつかない息を漏らした。
「使役者って言葉、まだ全然、自分のこととして聞こえないんだ。なりたいって思ったこともないし」
リカは、少しだけ眉を上げたが、意外そうに驚くわけではなかった。
「システムは、どうしてもラベルを欲しがるんです」
彼女はゆっくりと言った。
「“使役者登録”っていう言葉は、あくまで“このブイモンスターの責任者は、この人です”って意味に近い。どんな距離感で一緒にいるか、どういう関係だと思っているかは……それは、あなたたち二人で決めていいことですよ。役所の言葉は、その上に貼るシールみたいなものです」
パルスバンは、前足で大げさにジェスチャーしてみせた。
「というわけで、公的にはボクはマークに紐づいたブイモンスターだけど、実際には、パン工房出身の女の子と、本を読みすぎた司書と仲良くしている、ただの友だち、ってことで」
ヘルカラスは、翼の先で丸眼鏡をくいっと持ち上げた。どこか「その説明は理にかなっている」とでも言いたげだ。
リカは、また何かをメモに書きつけた。アイコの位置からは、文字までは読めない。
「境天の探索団との関わりは? 事件の前に、正式な仕事とか、小さな依頼とか、訓練への参加とかはありました?」
賢司が、図書室として受け持っていた小さな仕事のことを説明する。
会合で配る資料の整理、記録ディスクの保管、鐘の鳴らし方の確認。
アイコは、パン工房から探索団の詰所にパンを届けたときのことなどを話した。
どれも、いま座っているこの部屋に比べると、あまりにも小さな出来事に思える。
リカは、うんうんと相づちを打ちながら、最後まで聞いた。
「なるほど。今のところの整理だと――」
彼女は、短い線をいくつかメモの上に引きながら、独り言のように続けた。
「小さな村の出身で、ブイモンスターとの接触は限定的。パートナー関係は最近になってから。そして、“境天案件”の発端は、長期的な蓄積というより、“ある一点での接触”がきっかけ……そんなところですね」
境天案件。
またその言葉が、部屋に落ちた。
アイコは、膝の上で握った自分のズボンの布を、指先できゅっとつまんだ。何かを確かめるように。
「まるで、ボクらが病気みたいな言い方だね」
パルスバンが腕を組む。
「病気、というよりは……現象、ですかね」
リカは、すぐに否定したが、声は落ち着いていた。
「人が真ん中にいる、現象。すごく嫌な言い方を許してもらえるなら、“生きたサンプル”」
彼女は、バインダーの端をペンで、とん、と軽く叩いた。
「次は、少し踏み込んだ質問をします。アイコさん。残響施設の件より前に……ノイズとか、視界の乱れとか、声が聞こえるとか、そういう“変な感覚”を覚えたことはありますか?」
アイコは、しばらく目線を宙にさまよわせてから、首を横に振った。
「ないです。普通のことだけ。疲れたとか、お腹すいたとか、むかつくとか、そのくらい」
「事件のあとからは? どれくらいの頻度で」
「毎日、です」
アイコは、少し声を落とした。
「ただのざらざらした音のときもあるし……ときどき、何か言葉になりそうになって、途中で切れることもあって」
「体を動かすのに支障が出たことは? 戦うとき、眠るとき、とか」
「戦うときは……残響施設で、はっきり」
アイコは、自分の太ももをぎゅっと押さえた。あのときの、足が地面から外れるような感覚が、まだ身体のどこかに残っている。
「寝るのは……何回か。最近は、何かに近づくと悪くなる感じがします」
「“何か”?」
リカが首を傾ける。
「コア」
パルスバンが、指折り数え始めた。
「探索団の機材。あと、今のところのまとめとして、“キャピタルまるごと”」
ヘルカラスが、両翼をもぞもぞと動かした。まるで、聞き漏らさないよう姿勢を直しているようだ。
リカは、しばらく黙って記録を書き足し、それから顔を上げた。目つきが、さっきより少しだけ真剣になる。
「よし」
短く息を吐く。
「じゃあ、仮の分類をつけます」
「分類?」
賢司が聞き返した。
「基準から外れたケースには、最初のラベルが必要なんです」
リカは、ほとんど講義のような口調で説明する。
「“この問題を、どの棚に入れておくか”“どの扉を開けておくか”“どこに線を引いておくか”“誰には近づいていいか、誰には近づけちゃダメか”。ラベルがないと、ここではすぐに全部がごちゃごちゃになります。ごちゃごちゃは、ここでは死と直結する」
話を聞きながら、賢司は頭の中で、見たことのない地図を描き始めていた。
色で区切られたエリア。閉じた円。そこから伸びる矢印に「可」「不可」の文字。
リカは、バインダーに指を走らせて、いくつかの刻印に触れた。
光が線を伝って走り、ディスクの縁まで届く。
「今この瞬間から、あなたたちは――」
浮かび上がった文字を、彼女はそのまま読み上げた。
「“レベル2監視対象グループ。区分:異常共鳴保持者区分”」
重たい金属の塊が、机の上に落ちたような気がした。
誰も物を落としていないのに、耳の奥で、そんな音がした。
「それは……肩書き、みたいなもの?」
パルスバンがおそるおそる聞いた。
「肩書きというより、事務処理用のラベルですね」
リカは少し口元をゆるめた。
「“犯罪者として扱わない”“普通の患者としても扱えない”。そのどちらでもない、別枠のグループ。危険度が高いのか、中くらいなのか、ほとんどないのか――それがまだ分からない存在」
「つまり、ボクらは“たぶん”?」
アイコがまとめる。
「そう。かなり重要な“たぶん”ですけど」
リカは、まっすぐアイコを見た。
「ここまで連れて来られたってことは、それだけの意味がある。境天にそのまま置いておくには大きすぎる“たぶん”なんですよ」
彼女は、アイコと賢司の手首に巻かれたマークを指さした。
「さっき受け取ったマークには、もう今の分類が反映してあります」
リカは説明を続ける。
「レベル2は、“探索団青マーク区域”の中なら、付き添いつきで移動可能。“赤マーク区域”は、立ち入り禁止。“金マーク区域”は、黒宮さんみたいな人が許可を出した場合だけ」
賢司の頭の地図に、色が付いていく。
青い島のようなエリア。真っ赤に塗りつぶされた区画。どこにも橋がかかっていない金色の扉。
「じゃあ、話してもいい相手は?」
彼が尋ねる。
「ボクらに話しかけていいのは、誰?」
「このセクターに入る許可を持っている探索団関係者なら、基本的に大丈夫です」
リカは答える。
「一般の市民と接触する場合は、必ず決まった場と形が必要になります。子どもは、できれば避けたい、というのが本部の考えですね。“監視対象者”と、一般の人たちを混ぜすぎたくないんです」
監視対象者。
新しいラベルが、また一つ増えた。
パルスバンは、アイコの背もたれにもたれかかるようにして、さらに身体を押しつけた。
「完全に、ここだけにある“謎の引き出し”行きってわけだ」
彼は小声で言う。
「“境天から来たよく分からないもの一式。素手でさわらないこと”ってラベル、どこかの棚に貼られてるに決まってる」
「慰めになるかどうか分かりませんけど」
リカは、片方だけ口角を上げた。
「もっとひどいラベルも、たくさんあります。“潜在的脅威”だとか、“接触すると汚染の可能性あり”だとか。少なくとも、あなたたちのケースは、そういう言い方にはなっていません。それだけでも、この場所では、わりとマシなスタートなんですよ」
この場所では。
アイコは気づく。
キャピタルでは、怖いものの名前が変わるだけで、中身の「怖さ」そのものは、どこにも行っていない。
そのあいだも、頭の奥のノイズは消えていなかった。
ただ、部屋の片隅で一緒に話を聞いている誰かみたいに、静かに座っているだけだ。
リカは、バインダーをぱたんと閉じ、ディスクをそのまま差し込んだままにした。
「今日は、ここまでにしておきます」
彼女は言った。
「やろうと思えば、今からでもテストを山ほど詰め込めますけど……あまりいいやり方じゃないので」
「それは、ボクらのため? それともディスクのため?」
パルスバンが聞く。
「あなたたちの頭のためです」
リカの声は、そこで少しだけ真剣味を増した。
「環境が一気に変わるとき、いちばん最初に壊れるのは、いつも頭ですから」
そう言ってから、彼女は立ち上がり、白衣の裾を軽く整えた。
「今日は、とりあえず部屋に落ち着いてください。食べて、飲んで、できれば寝てください。明日の朝から、本番の評価を始めます。同期テスト、耐久テスト、反応テスト……少しずつ。いきなり全部はやりません」
「もし、テストに“落ちたら”?」
アイコがたずねる。
リカは、答えを探すように、一拍だけ沈黙した。
「合格とか不合格を決めるためのテストではないんです」
やがて、静かに言葉を選ぶ。
「何と向き合っているのかを、見極めるためのもの。どんな結果であっても、“ちゃんと意識があって、立っていてくれる”ほうが、ここでは役に立つんですよ。ベッドの上で眠らされている人よりも」
それは、励ましとも、事実の説明ともつかない、変な種類の優しさだった。
それでも、アイコは少しだけ、胸の奥がほどけるのを感じた。
「じゃあ、宿舎まで案内しますね」
リカは続ける。
「途中で、黒宮さんと合流できると思います」
◇ ◇ ◇
研究棟宿舎は、アイコの頭の中にあった「きれいな兵舎」のイメージに近かった。
細長い廊下に、同じ形の扉がいくつも並んでいる。
リカがひとつの扉を開けると、中には三つのベッドが壁に沿って並び、それぞれの足元には小さな木の箱が置かれていた。部屋の隅には小さな机がひとつ。窓は高い位置にひとつだけで、太い格子ごしに、夕方の光が細い帯になって差し込んでいる。
天井には丸い照明がひとつ。金属の枠で支えられたその灯りは、弱い光をゆっくりと点けたり消したりしていた。
「贅沢とは言えませんけど、安全は安全です」
リカが言う。
「しばらくは、ここ三人で使ってもらいます。状況に変化があれば、そのときまた考えましょう」
「ここに、ボクらみたいなグループが前にも?」
賢司が辺りを見回しながら聞く。
「“監視対象者”がここを使ったことはあります」
リカは、慎重に言葉を選ぶように答えた。
「でも、あなたたちとまったく同じケースは、一つもありません」
彼女は、習慣になっているのか、扉を軽くこつんと指で叩いた。
「何かあったら、このボタンを押してください」
窓際のベッドの横、壁に埋め込まれた小さなボタンを指さす。
「サポート班の誰かが来ます」
パルスバンは、いちばん近いベッドに飛び乗り、鼻先を毛布にずぶっと押しつけた。
「うん。洗いたての匂い。これは高ポイント」
満足げな声で言う。
アイコは、自分の箱の上に荷物を置いた。
中身は多くない。替えの服と、小さなノートと、どうしても手放せなかった、境天の匂いのする小さな品がいくつか。
その中に、あの旧式端末も入っていた。
残響施設の円の部屋で、パルスバンが拾った、あの古びた機械。
村で見たどんな装置とも、形が合わない。金属の細いスリットがいくつも並んだ、薄い長方形。
「……ねえ、アイコ」
パルスバンがぽつりとつぶやく。
「いつか、あれが何なのかも、ちゃんと聞いてみようね」
「うん」
アイコは、箱の中の旧式端末に一瞬だけ目を落としてから、そっとふたを閉めた。
リカは、部屋を出る前に、何かを思い出したように足を止めた。
ドアノブにかけた手を一度止めて、振り返る。その目は、さっきより少しだけ真剣だ。
「そうだ」
彼女は言った。
「ノイズのことなんですけど。リズムが急に変わったり、はっきりした言葉になったりしたら、どんな小さなことでも教えてください。馬鹿げてるように感じても、です」
一瞬だけ、その目から“研究員”の色が消えた。
首筋のあたりに、同じ寒気を感じたことがある人の目に見えた。
「……分かりました」
アイコはうなずいた。
扉が閉まる。
しばらくのあいだ、誰も口を開かなかった。
賢司が、真ん中のベッドに腰を下ろし、眼鏡を外して、目頭を指で押さえた。
「“レベル2監視対象グループ”か」
ひとつひとつの言葉を噛みしめるように、ゆっくりと繰り返す。
「本に書いたら、“言い過ぎだ”って編集に怒られそうだな」
「本に書いたら、“いやいや、これは完全にフィクションでしょ”って笑われるやつだよ」
パルスバンが、枕の上をごろんと転がる。
「残念なことに、今日はノンフィクションだけどね」
アイコは、窓側のベッドに仰向けになった。
家のベッドよりも固い。でも、嫌な固さではない。
包帯で巻かれた腕を、身体の横にそっと置き、もう片方の手で、ざらっとしたシーツの布をなぞる。
天井の照明が、ゆっくりと明滅していた。
弱い光。
間。
弱い光。
間。
しばらくそれを見ているうちに、頭の奥のノイズが、勝手に同じリズムをとり始めたことに気づく。
光。
……し……
光。
……し……
キャピタル全体が、同じ呼吸をしているみたいだった。
あるいは、ノイズのいちばん深いところにいた何かが、初めてこの街の呼吸に合わせて、ゆっくりと息をしているのかもしれない。
アイコは、目を閉じた。
探索団は、引き出しとラベルと廊下で世界を並べていく。
その内側で、彼女の頭の中には、まだ「目覚めるな」という声が、どこかでこだましている。
明日になれば、少しずつ分かってくるだろう。
その警告が、自分一人に向けられたものなのか――
それとも、この世界全体に向けられたものなのか。




