第1章 パン職人とブイモンスター
朝日が山の向こうからのぼり、境天の空を橙色に染めていく。
村を包んでいた薄い霧がゆっくりと消えはじめ、植物に覆われた屋根や、小さな風力タービン、光を吸う黒いパネルが朝の光を受けて静かに輝きだす。まるで村そのものが新しい一日を呼吸しているようだった。
藍子は、目を開ける前に——パンの匂いで目が覚めた。
布団の中で天井の木目をぼんやり見つめながら、下の階にある薪窯がくぐもった音を立てるのを聞く。障子の隙間から差し込む金色の光が、畳の上に四角い模様を作っていた。
「……そろそろ焼きあがってる頃だよね」
お腹が小さく鳴り、藍子はむくりと起き上がった。黒い髪をさっと結んで引き戸を開けると、冷たい風が吹き込み、軒先の色とりどりの布が揺れる。屋根の植物が機械仕掛けの花びらを開き、内側の小さなパネルが朝日を吸収しはじめた。少し離れたところでは、小型タービンが風に合わせてのんびり回っている。
境天がゆっくり目を覚まそうとしていた。
藍子の部屋は狭いが、好きなものでいっぱいだった。
壁にはパンやケーキの絵が描かれた紙が貼られ、横には焼き時間や新しい具材のメモが並ぶ。低い机には料理本と、温室の野菜を使ったレシピ帳が積み上げられ、その上の棚には輝く蓄電石や組み木人形、昔の線路から拾った磨かれた金属片が置かれている。誰も覚えていない時代の遺物。でも、藍子にはそれらがたまらなく綺麗に見えた。
薄手の服を身にまとい、腰にエプロンを巻きつけて部屋を出た。
階段を下りるごとに、焼きたてのパンの香りが濃くなっていく。
厨房では薪窯が柔らかな橙色を放ち、パイプを通してパン工房全体に温かさを広げていた。壁に埋め込まれた小さな蓄電石が、わずかに光を脈打たせている。
すでに父が作業をしていた。腕まくりし、粉だらけの手で生地をこねている。
「おはよう、寝坊助」
「寝坊してないよ。ちゃんと起きたもん」
言い返しつつも、藍子は笑ってしまう。
焼きあがったばかりのパンを籠に移しながら、ふと昨日見た夢を思い出していた。
「ねえ父さん……また試してみない? 北の温室で採れた果物と、あの根粉を混ぜた生地」
「またそれか!」
父は笑った。「試したいなら小さい量でやれ。まずは村の朝ごはんをちゃんと作ってからな」
「でも、私のお店を開いたら絶対人気になるよ?」
「店ねぇ。名前はもう考えたのか?」
藍子が返そうとしたその時——
壁の蓄電石が青く光った。
振り向くまでもない。
「今日は早いんだね」
ぱちん、と小さな音を立てて、黄色い毛並みの影がカウンターに飛び乗った。
パルスバン——藍子と暮らす小さなブイモンスター。長い耳を揺らし、細い金属のリングに抑えられた火花を散らす。
「早く来ないと、藍子の一番うまいパンが他のやつらに取られちゃうだろ? 歴史的な不公平だぞ」
「はいはい、世界があなたの朝食を奪おうとしてるのね」
藍子は小さなパンを1つ置いてやる。「ほら」
パルスバンは大げさにかぶりついた。
「うん。やっぱり藍子は最高の人間だ」
「父さんの前で言わないで。絶対ヤキモチ焼く」
「ヤキモチどころか羨ましいぞ」
父も笑う。「客より食べてるくせに、褒められるんだからな」
藍子はもう1つパンを取り、布に包んだ。
「これはパルスバンのじゃないよ。賢司に持ってくの。何も持ってかなきゃ、あの探索団の椅子と同化しちゃう」
「巻物守りは相変わらずだな」
パルスバンがぺろりと前足をなめる。
二人と一匹は工房を出て、朝の村へ歩き出した。
外の空気は冷たく、土と水の匂いが混ざる。
境天の道は素朴で、透明な水が流れる細い水路に沿って伸びている。水車が回り、その力で粉挽き用の石や灌漑ポンプ、小さな発電機が動いている。木造の家々には生きた屋根が広がり、草花の間に簡易パネルが並ぶ。竹と再利用金属の骨組みにツタが絡まり、光と風を優しく整えていた。
ブイモンスターたちも働いていた。
水の小型ブイモンスターが水路の中で小さな波を起こし、温室に水を運ぶ。
風の個体は羽根車の輪に入って回り、止まらない風力を作り出す。
火の個体は、共同窯のそばで丸くなってうとうとしていた。
パルスバンは軽い足取りで石から石へ飛び移る。
「なあ藍子! いつかさ、遠くまで行ってみようよ!」
両手(前足)を広げ、道全体を抱きしめるように言う。
「もっと大きな街、もっと大きな温室、見たことないブイモンスター! きっと世界には、一生かかっても食べきれないパンがあるぞ!」
藍子は苦笑しながら包みを抱え直した。
「そうかもしれないけど……私はここが好き。父さんも、パン工房も、朝の匂いも、屋上の畑も。小さくてもいいから、自分のお店が欲しいの。それだけで十分、私には冒険だよ」
「冒険の定義がずれてるんだよなぁ……」
パルスバンは耳から小さな火花を散らしながらため息をつく。
「山の向こう、ちょっとは気にならないのか?」
「よく知ってる場所が好きなの。冒険って、何を失うか分からないんだよ」
その言葉に、パルスバンは歩幅を落として隣に並んだ。
いつも明るい青い瞳が、ほんの少しだけ真剣になる。
「……分かった。でもさ。もし藍子がいつか山の向こうを見たいって思ったら——」
にっと笑う。
「呼んでよ。その日が来るまでは、俺が向こうから冒険を持ってきてやる」
藍子は吹き出し、胸が少し軽くなる。
やがて二人は探索団の建物へたどり着いた。境天を守る、“軍隊みたいな”組織の本部だ。
周りの家より大きく、再利用金属で補強された木造の館。
屋根は屋上庭園のように緑で覆われ、雨水タンクがのんびり水を滴らせている。
入口には、根と回路を組み合わせたようなブイモンスターの紋章。
中は古い紙と金属油、それに外から入り込む細かな埃の匂い。
賢司はカウンターで、鼻にずり落ちた眼鏡を直しもせず、再生紙の新聞に沈み込んでいた。周りの棚には巻物や地図、古代の金属片がきれいに整頓されている。
藍子は包みを置いた。
「賢司、休憩。食べて」
彼はゆっくり顔を上げ、何度か瞬きをしてから微笑んだ。
「藍子か……何か忘れてると思ったんだよ」
「いつも何か忘れてるでしょ」
パルスバンがひょいとカウンターに飛び乗る。
「藍子が持ってこなきゃ、お前その新聞と一緒に干からびるぞ?」
賢司はため息をつき、新聞を慎重に閉じた。けれど指はまだ端をつまんだままだ。
「……普通の新聞ならよかったんだけどな」
藍子は首を傾げた。
「どうしたの?」
新聞を押しやるように差し出す。
「……首都で起きたらしい」
見出しには、暴走したブイモンスターの報告。
封鎖線の突破、エネルギー施設への襲撃、主要温室の混乱——
伴い手との“絆”の断絶、原因不明のエネルギー暴走。
パルスバンの耳が跳ねた。
「暴走? 酒場の噂じゃなくて、正式な新聞に?」
「そうなんだ」
賢司は渋い顔で言う。「しかも一件じゃない。各地で起きてる。中央の探索団から警告も来てる。局所的なのか……もっと大きいのか、判断がつかないらしい」
藍子の背中に冷たいものが走った。
首都の巨大温室が荒らされ、蓄電石が割れ、タービンが止まり、街全体が闇に沈む光景がよぎる。
境天の水車、工房の畑、朝から動いている薪窯——
その全部が一瞬で壊れる想像が胸を締めつけた。
包みを持つ手に力が入る。
「……こっちにも来るの?」
賢司は一瞬黙り、そして言った。
「単なる局地的な異常なら来ない。……でも、報告の中に『残響施設』が近くにあったって記述もある」
パルスバンがぴたりと動きを止める。
「残響施設……またかよ」
「まだ確定じゃない。ただ中央からの指示ははっきりしてる。
——ブイモンスターの異常行動。
——古い施設の周辺での不審な動き。
どちらも、すぐに報告しろ、って」
賢司は二人を真っ直ぐ見た。
「二人とも、ほんと気をつけて」
藍子は静かにうなずいた。
外では、境天がいつも通り穏やかだった。
走り回る子どもたち、水車の回る音、優しく光る蓄電石。
パンの香りと花の匂い——何も変わらないように見える。
でも藍子の胸の奥で、何かがかすかに軋んだ。
——この平和は、思っているより脆いのかもしれない。
沈黙を破ったのはパルスバンだった。
「ま、暴走なんて起きても俺たちが何とかするだろ!」
胸を叩きながら言う。
「境天には、戦うパン職人と伝説の電気パートナーがいるからな!」
「その“伝説”、あなたが勝手に言ってるだけでしょ」
藍子が笑うと、賢司も少しだけ笑った。
けれど新聞にもう一度目を落とすと、その笑みは自然と消えた。
——暴走したブイモンスター。
——残響施設。
——不安定なエネルギー。
今朝まで藍子が考えていたのは、パンを焼き、自分の店を持つ夢だけだった。
境天はまだ静かだ。
けれど、遠いどこかで始まった“何か”は、確実にこちらへ近づいている。
そしてそれがたどり着いた時——
“パン職人の藍子”のままでは、いられなくなるのかもしれなかった。




