序幕 舞台の幕開け
────尊厳なる観劇と戯曲と傍観の魔女による厳選されし名誉ある図書の都にこの物語を据える。
暗転。舞台の幕が再び上がった。
上手で黒地にレースやフリルのついた着物の少女が黒い洋傘をくるりと回す。
書き割りに描かれた誰の声かわからないそれはすうと息を吸いこみ、高く低くいっそ慈悲深く憐れむように口上をあげた。
『さぁさぁ、ご覧あれ──お代は結構。見なけりゃ損々。見れば末代までの語り草。旦那様、奥様、坊ちゃん、嬢ちゃん。そこいらの犬猫も鳥も、産まれたての赤ん坊まで、皆々様方、お揃いになり。さぁ、ずずいと前においでになり刮目してご覧あれ。拍手する者は拍手せよ。喝采する者は喝采せよ。笑う者は笑え。泣く者は泣け。何代にも渡る彼女の、一世一代、最後の舞台の始まりです』
──カカンッ。
☆☆☆
夜の闇の中、あたしはなぜか走っていた。訳を聞かれてもわからない。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ、は、ぁ……っ!」
息を切らせながら荒れ地を走る。何かに焦っている気がするのだけど思い出せない。地面は真冬のように乾いて冷たくて、棘のように遠慮なく足を刺してきた。
『踊れや、ヒトの子よ。抗えや、ヒトの子よ』
「ふっ、うぁぁ、ぅ…………」
──面白ければ、嗤ってあげようじゃないか。
涙がボタボタと頬を伝って幾筋も零れ落ちる。なぜあたしは泣いているの? おかしい。すごく怖い。何かが聴こえてきた気がした。そう、それはあたしを嗤う甘い声。ひどく、酷く甘い。どろりと黒い蜜のように絡みついてくる。声の主は慈愛の笑みを浮かべてあたしを見下しているんだろう。きっとそれは人ではない。人でなしの声は足を萎えさせるに十分な威力を持つ。
そう考えているとだんだん走る速度が落ちていき、とうとう足の力が抜けてすとんと地面にへたりこんでしまった。いつの間にか足は傷だらけで血も滲んでいた。
ひっくひっくとまるで子供のようにしゃくりあげながら泣いている。何が悲しいのか、あるいは辛いのかもわからず泣いている。悲嘆している。恐怖している。だけど、それはなぜ? 誰か理由を教えてほしい。あたしのこの涙の理由。
『逃げども逃げども逃れられない。それはまるで呪いのようで、呪いのようで。それは痛みを、苦しみを伴い、彼女を削り取るように蝕んでいく。その暴虐の矢に穿ちぬかれて恐れ悶え哮り狂え』
その時だった。目の端に何かが映った。
白い明かりが灯って一輪、また一輪と白彼岸花が咲いていく。
ひっと小さな悲鳴を上げ、じり、と思わず後ずさりした。
そうだ、思い出した。あたしはこの花から逃げていたんだ。
バッと飛び跳ねるように立ち上がる。傷ついた足が痛む。その間にも花は咲く。嫌、この花は怖いの。
「やだ……」
『怯える少女は走る。いつまでも、どこまでも。花を蹴り散らかしながら。嗚呼、まっこと愚かで可愛らしい。いっそ何よりも愛おしくさえある。どこにも逃げ場などありはしないというのに』
ざざざざ…………。まるで波のように花が迫ってくる気がした。
また走って逃げ始める。花を踏み荒らし足をもつれさせて転びそうになりながら一生懸命走る。周りを見渡しても辺り一面花だらけ。足の傷は増えていく。
どこにも、どの世界にも、あたしの居場所はない。だから走っていたんだ。泣いていたんだ。
……どの世界ってどういうこと? あたしの世界は……どこなの?
あたしはどうして花が怖いの? わからない。何もかもわからない。
耳を塞いでいやいやをするように首を振って走る。涙で視界が滲む。傷から血が流れる。とても走りにくい。だけど逃げるしかない。だって、もう、それしか、ないから。
『涙は彼岸と此岸を分ける物。理と非で世界を分ける物。物語と外を分ける物』
朗々と歌うように口上は続く。高く、低く、優しく、甘く。
転びそうになってなんとか体勢を直していたら、気づくと花は白い手に変わっていた。血の気の失せた青白い冷たい女の手。
その手があたしにしがみつく。足を、腰を、うねうねと手を伸ばして胸の辺りや二の腕を。逃げようとしても逃さないというようにきつく絡みついて離さない。鈍くなった動きでとうとう花の海に倒れこんでしまう。
「やだ……やだよ……」
『白き花は恐怖の象徴。死の象徴。孤独感に苛まれた少女の死を嗤う妾の手と声』
手達によって花の海に沈められていく。泣きながら、もがいても、もがいても、手を外せない。起き上がれない。血の気の無い爪で何度も何度も引っ掻かれて抵抗する気力を削ぐ。あたしはもう手と花に溺れそうだった。
このままこの花に飲み込まれてしまうの? 怖い。怖いよ。
こんなところで独り寂しく終わりたくない。
あたしにはやりたいことが、まだまだあるのに。
そうだ、誰か、誰かに会わなきゃいけなかったはずなのに。
『痛みは喜び。苦しみは楽しみ。涙は天上の甘露。血は不死への薬。孤独感は執着の始まり。朗読者は観劇と戯曲を余すところなく遊んでいる』
(どっと拍手喝采が起きる。少女の死は傍観者に喜ばれている)
涙はもう乾ききっていた。虚ろな目で手を花を見る。おいでおいでとゆらゆら誘うように花の海にあたしを沈めようとする手はひやりと冷たく氷のようだった。もう手段は何も無い。最初から何も無かった。だってあたしは──あたしは、何? 今何か思い出せそうだったのに。
『花の誘いは死者の誘い。しかし真に少女を欲する者からの誘い。魔に連なる者はとくと見よ。これが闇に魅入られた者の末路である』
「嫌、助けて……」
希望を持たずに囁くようにそう呟くと、目の前に光が差した。こんな花の冷たい明かりじゃない。もっともっと暖かくて優しい光。キラキラ光輝くダイヤモンドより眩くて綺麗で、春の日差しのように柔らかい。素敵だと思った。これは怖くない。
光は差し伸べる手の形をとっていた。
この手を掴めば解放されるだろうか。
いや、きっと助けてくれる。血の通っていない青白いこの手達とは違う。温かい、柔らかい、優しい人の手だ。
それは救いの女神のようだった。
「あたしのこと、助けて、くれる……?」
わかっている気がしたのに思わず問う。手は何も答えない。だけどそこに存在していること自体が答えな気がしていた。首を小さく横に振る。それなら迷うことはない。
必死に自分を掴む手を茨を引きちぎるような思いで無理やり振り払いその手を掴む。
その途端暖かい光が広がって、世界を埋め尽くした。眩しくて思わず目を閉じてしまったけど、それも一瞬。すぐに目を開ける。優しい鈴の音も響いている。そしてあたしを掴んでいた手や花達はその光や音に負けてぼろぼろと崩れ去っていく。代わりに地面は柔らかく暖かくふわふわとした極上の毛皮のような質感に変わった。まるで世界が地獄から天国へと変わっていくように。そう、彼岸花の別名は、地獄花。さっきまではたしかに、あたしは地獄にいたんだろう。それなら、ここは……? 天国?
ぐいと引っ張ってあたしを立たせてくれたその手はやはり温かい。気づけば体中の傷は治っている。もう花なんてどこにも咲いていなかった。
「ありがとう……」
意識が朦朧とする。ふらつくように手の方向へ進んで、つ、と涙を一筋零し、しかしあたしはその手に向かって倒れ込む。
きっと手は優しく受け止めてくれる気がした。
でも、受け止められる前に、あたしは天使のような白い羽に変わってさあっと散っていった。
痛くも苦しくも辛くもない。だからそれでも構わない。これで、やっとアナタのそばに行けるから。
『やれやれ、彼女はここからは逃げ出してしまったようだね。でもこれからが本当の幕が上がる瞬間だよ。地獄から抜けても地獄でしかない。花から逃げる少女の運命は如何に。安らかに終わるのか、呪に堕ちるのか。楽しみだね。君はそうは思わないかい?』
『Here,show must go on.』
──カカンッ。
誰のものかわからない口上は酷く甘い余韻を残しふっと消え去り誰かの鳴らす拍子木が高らかに鳴った。──暗転。大勢からの拍手。
そう、これがあたしの物語の本当の始まり。さぁ、尊厳なるお方よ、とくとご覧あれ。あたしが運命に打ち勝つところを。
序文にある『尊厳なる観劇と戯曲と傍観の魔女による厳選されし名誉ある図書の都』は、うみねこのなく頃に散より参考にさせていただいています。