空白の断章『そして因果は必然となりて』
今回のお話にはわりとショッキングな表現が含まれていますのでご注意願います。
2019年5月中旬
「初めまして。エリート巫女のさくら餅みこです。……あの、尊敬してるって言われて嬉しかったです。よろしくお願いします」
以前の透明感のあるお姉さんっぽさは欠片も感じさせない、見事なまでに舌っ足らずな濁声に谷町さんが思わず「んんっ!?」と二度見する。
いや気持ちは分かるよ。こうして会うのは初めてなんだし、誰これってなるよね。でも残念。この子が谷町さん憧れのさくらさんなんだ。
「さくらさんはこっちが地なんだって。だから以前のプロジェクトも無くなったんだし、さくらさんには楽なほうでやってもらおうかなってのがホログラの方針ね」
この業界の黎明期における企業製VTuberさくら餅みこさんと、その演者である御子柴さくらさんとのキャラクター性の乖離──この辺りは、とにかく企業側が制作したキャラクターの設定が第一で、演者にそこから逸脱した言動は許されなという、当時の常識が生み出した齟齬のようなものだ。
「まぁわたしもちょっと驚いたけど、合わない設定を引きずって第二の人生棒に振るのもなんだし、谷町さんも素のさくらさんに慣れてもらえると嬉しいな」
「そうなの……。さくらは飼い猫にも下に見られるくらい色々と足りない女だけど、言われた仕事はきっちりこなせるように頑張るんで、谷町さんも何かあったら遠慮なく言ってください」
「なるほどね。……正直まだ戸惑ってるけど、どうかこちらこそよろしくお願いします」
谷町さんもそうした苦労を察したのだろうか。納得したように頭を下げた彼女は優しい笑みを浮かべていたが……うん、ごめんなさい。安心するのはまだ早いんだ。
「それじゃあ二人の初配信は歌枠にしようか? 来月下旬にはホログラの一周年ライブがあるから、二人ともそれまでに持ち歌を増やしていく方向で……もちろんわたしのアーニャも参加するよ」
「うん、わがった」
「えっ? ゆかりさんのアーニャと共演できるのは嬉しいけど……さくらさんその声で歌えるの?」
「はい。大丈夫ですよ、谷町さん。わたし、歌うのは慣れてますから……」
「その声やめて!? 脳が、脳がギャップで破壊される……!!」
とまぁ、そんなふうに谷町さんがあまりにも惨たらしい現実に悲鳴をあげる一幕もあったけれども……わたしのアーニャも参加した二人の初配信は大変な盛り上がりを見せたのであった。
最大同時視聴者数60万人。初配信にて歴代最速のチャンネル登録者数100万人を突破した二人は配信終了後に抱き合って喜び、嬉し涙が止まらないのであった。
わたしも二人の成功を喜んだが、そうしてばかりもいられなかったのはご愛嬌だ。
何があったかっていうと、その配信を見た他の子たち──特にマネジメントを事務所に任せきりだった3期生の子たちが羨ましがっちゃって、業務連絡用のグループチャットが彼女たちの控えめな恨み言で埋め尽くされてしまったのである。
うん、3期生の子たちは今までろくに絡んでこなかったから、ここはしっかり反省しないとね。事務所の待合室でDiscordのログを確認したわたしは、彼女たちとのコラボに前向きな返事をした直後に事務所に在籍だった旧知の社畜ネキさんに捕まり、彼女の自宅に連行されるのであった。
「はいっ、というワケで今度はね! ウチら3期生のコラボにアーニャたんを拉致ってじゃないよね、ご招待してきたんですよ!!」
「キターッ! でかした船長! よくやった!!」
「逃がさん、アーニャたんだけは……」
「リリカも絶対この手を離しませんよ!?」
「あ、そういうことなら団長も後ろからブロックしとくわ」
そんなわけで夜8時には彼女の家でオフコラボと相成りまして、大喜びする3期生に周囲をガッチリ固められたんだけど……この絵面、犯罪の臭いしかしないまである。
いや、リアルでも似たような感じなんだけどさ……こういうところまで再現してしまうのがわたしの設計したL2Aの欠点かな?
わたしの頭におっぱいを乗せてきた人がYTubeへ通報される前に、表現をもう少しだけマイルドなものに切り替える。
「えー、本日二度目のこんにちはになりますね。谷町みい子さんとさくら餅みこさんのデビューライブは如何だったでしょうか? ホログラフィティ公式VTuberのアーニャです。今度は後輩の蛍崎エレン船長のご自宅に招かれ、3期生の皆さんと楽しくやっていく予定なんで、そろそろ解放してもらってもいいですかね……?」
「あ、すんませんっした」
「団長のおっぱい重かった? 重かったらごめんね?」
「じゃあリリカ手を繋ぐね? これならいいよね?」
わたしがお願いすると、わりと常識人の白鷺文香さんと紫乃宮可憐さんはあっさり退いてくれたんだけど、何を言っても聞いてくれそうにない人の圧が凄いな……。
わたしが両手でギュッと握ってくる漆原リリカさんに困惑していると、白鷺さんがエレン船長を捕まえて小声で確認するのが聞こえてきた。
「ところでようやくコラボ出来たのはいいけど、今夜は何をする予定なん?」
「何をしよっか? せっかくのオフコラボなんだし……んー、とりあえず何か飲むか?」
「何にも考えてなかったのかよ!? この馬鹿たれがぁ……!!」
内容は今夜のコラボの中身についてだったが、まさかのノープラン……。
これにはあまりの無計画ぶりに宇多田ぽぷらさんも顔を真っ赤にして怒るが、わたしはなんとも社畜ネキさんらしい話だと微笑んだ。
絵師としてのわたしのファン1号であり、行動力の化身のような彼女には今まで公私にわたって振り回されてきたけど……大事な友達なんで、助け舟を出してやらないとね。
「それじゃあこっちでも歌っちゃおうかな? ここも一応防音室みたいだから、周りの迷惑にならないように気をつけて、ね」
「わっ! リリカも歌います!! トレーニングはみっちりこなしてきたんでぜひ聴いてください!?」
「いいねぇ、わたしも歌いたい。……って言ってもこっちじゃ事務所のスタジオのように大したことはできないから、気楽にカラオケでいいんでない?」
「いいねぇ、船長もアニソン得意だから覚悟しとけよ? 昭和の女を舐めんなよ?」
「ところで団長メシまだ食ってないから牛丼頼んでいい? 他にも食べたい人がいたら一緒に頼んじゃうけど?」
「あ、ぽぷーらもまだだったわ。……ったく、うちの船長が考え無しのせいで散々だよ。これじゃあアーニャ先輩に申し訳ねぇぽぷだろ」
「気にしなくていいよ。わたしはぴっちり襟を正した配信が多いけど、こういうオフコラボも楽しいもんね。……あ、まだマ◯ドのデリバリーもやってるから、今夜は白鷺さんの言うように気楽なカラオケ配信にしようか」
「やだ、アーニャ先輩優しい……。そんなんじゃリリカますます好きになっちゃいますよ」
「あー、リリカちゃんや? アーニャちゃんはウチだけに留まらず、業界のトップアイドルだからお手柔らかにね?」
そうしてわたしはみんなと楽しくカラオケに熱中して──たぶん楽しすぎて箍が外れたのだろう。
別にこれまで隠してきたわけじゃないけど、わたしの歌唱力は業界の内外から注目され、翌日には凄まじい反響となって返ってきたわけだ。
「ええと、以前からましろん先生のアーニャには、民放各社からMVや楽曲の使用許可などがありましたが……今度は昨日の配信を踏まえて大々的な特集を組まれることになり、公共放送のNNNやラジオ番組からも出演要請が殺到していますね、これは……」
事務所の緊急会議に呼ばれたわたしは、マネジメント本部のトップである楠田栄子さんの言葉に恐縮するより他になかった。
「他にも先生の歌唱力に注目した世界音楽振興協会から指導員を派遣したいという要請があったり、広告塔としての価値に気づいた大手企業からCMの依頼も殺到して、こちらはわりとてんてこ舞いですね」
「すみません。少しやりすぎてしまったようで……」
「いえいえ、そこは先生の所為ではありませんし、ウチにとっては良いこと尽くめですから」
わたしが思わず頭を下げると栄子さんが慌てて否定し、副社長のソアラさんが微笑ましそうな顔をした。
「栄子の言うようにホログラにとっては願ったり叶ったりだよね。矢郷はどう思う?」
「そうですね。ましろん先生の出演要請に関しては本人の意向と、スケジュール調整……そして何より出演方法の問題もありますから、返答にお時間を頂くことになりますが、私としてもこの反響は喜んでいいものだと思ってますよ」
彼女に問われた矢郷さんの顔色も明るい。一時は激務から体重が激減して、スバルさんに『Yagooを太らせる会』なるものを組織されたけれども最近は持ち直し、心配された体重も増加傾向にある。
「他にも企業案件が殺到していますね。さすがにこれは多忙な先生に任せるわけにもいきませんから、引き受けるかどうかは先生以外のライバーが担当することを前提にクライアントと協議しないといけませんが……」
「それと来月に予定しているホログラフィティ1周年記念ライブですが、どうも通常のアーティストにようなライブ形式と勘違いした企業があるらしく、今になって協賛企業に名を連ねたいと多額の資金提供の話が……」
「話の腰を折って恐縮ですが、うちの事業規模も順調に拡大してそろそろ株式の上場を真剣に考えてはどうかという話が、担当金融機関の町田さんから出ていまして、私としてもそろそろ検討する時期に来ているのではないかと……」
「現在行っている4期生のオーディションも昨日の反響を踏まえ、より歌唱力を重視したものに変えてはどうでしょうか? もちろん強制ではありませんが、既存のライバーも先生のアーニャとのコラボに意欲的ですし、指導員の受け入れも十分に……」
そして議場に出てくる話はどれも明るいものばかり……わたしも苦労した甲斐があったねと、こちらの反応を気にする同僚たちに答える。
「SE関連の仕事はほとんどわたしの手を離れましたし、デザイン関連の仕事はそんなに手間取りませんから、今後はアーニャの仕事を増やしてもらっても大丈夫ですよ。それ以外の仕事は社長の矢郷さんと、副社長のソアラさんに決めてもらえれば大丈夫です」
その言葉にホログラの幹部一同が安心したような顔になった。
「先生のご配慮に感謝します。本当にうちは先生のおかげで大きくなれたようなものですから……」
「いえいえ、これはわたしが好きでやってきたことですから。……むしろ好き勝手にやりすぎてご迷惑をお掛けしていると思っているぐらいなんですよ」
一同を代表して謝意を表明した矢郷さんに頭をさげるが、口にしたのは社交辞令でも何でもなく限りない本音だ。
所属ライバーのキャラクターデザインに、自分用に開発したL2Aやより安価な3Dモデル制作ソフトなどの一般化。他にも自動翻訳の調律などわたしの仕事は多岐にわたるが、それがなくてもこの会社は成功したという確信がわたしにはある。それを思えばわたしがしたことはほんの手助け程度……功労者ヅラをして経営に口を出す気は欠片も存在しない。
「今後もこの会社をどうするかは皆さんで決めてください。わたしは皆さんが決めたことなら全力で協力しますから」
わたしが微笑むと男性陣は照れたような顔になったが、同性であるソアラさんと栄子さんだけは誤魔化しきれなかったようだ。
「有り難いんだけど無理だけはしないでね? ウチで一番働いてるのは間違いなく貴女なんだから……」
「ええ、ソアラの言う通りよ。今まで貴女は演者としての活動は控えめだったから私が兼任してたけど、今後は専属のマネージャーを付けてスケジュールを管理させるから、やりたくない仕事はやりたくないとハッキリ言ってくださいね?」
まあ、その、なんて言うのかな……無理をしてるつもりはないんだけど、ノーと言えない性格なのもあるしね。この二人もわたしのそうした性格込みで色々と心配してるんだと思う。
「……たしかにここらで羽休めも必要かもしれんませんね。とりあえず今後の仕事は1周年のライブと4期生のデザイン以外は日々の配信くらいですから、今年のお盆は実家でのんびりさせてもらいますよ」
「是非そうしてください。昨夜のようなコラボ要請も、面倒に感じたら楠田にそう言ってもらえれば助かります」
わたしが降参したように頭をさげると、今度こそ安心しきったように矢郷さんが微笑み、ソアラさんと栄子さんもそれに同調した。
「それではお疲れさまでした。後のことはこちらで検討してお知らせしますから、先生はお休みになられても結構ですよ」
「わかりました。それではお先に失礼しますね」
最後にもう一度頭を下げてから退室し、帰りぎわに確認すると待合室を一人で使っていた社畜ネキさんが笑顔で手を振ってきた。
「ゆかりちゃんお疲れ。……なんか大変なことになっちゃったね」
「まあね……。もしかしてわたしの帰りを待っててくれたの?」
「うん、昨日は振り回しちゃってめんご。今日はお詫びに二人っきりで寛いでもらおうと思ったんだけどどうかな?」
そして手早く私物をバッグに詰め込み、小走りで駆け寄ってきた社畜ネキさんがそっと腕を絡めてきた。
「すけべ」
「えー、これくらいいいじゃんねぇー? あ、腕を組んでるのを見られたらダメってこと!?」
「そうじゃなくって二人きりで寛ぐって、絶対エッチなことをしてくるつもりでしょ?」
「えっ、しないしない! 本当に帰ったらお風呂に入って楽しく飲んだら寝るだけだから、信じてお願い!!」
「それが十分エッチなんだってば! 2年前に近場でオフ会をしたときも、ちょっと前に再会したときも背中だけじゃなく前まで洗おうとしてきたし、もう騙されません」
「そんなぁ〜!!」
わたしより若干背は低いものの、大人の色香で惑わしてくる社畜ネキさんからツンッと顔を背けると、旧知の友人は豊満な胸部をわたしの腕に押し付けて盛大に嘆いた。
「それに楽しく飲むって、わたしはまだ未成年だよ? うっかり飲みすぎて病院に運ばれたら大問題だよ」
「……それじゃあ今夜のお泊まりはナシってことぉ?」
演技か、それとも本心なのか……一つだけ言えることがあるとしたら、それは社畜ネキさんがわたしの性格をよく知っているということだ。
「ううん……だからどっちも程々なら考えてあげるって話ね」
わたしがそう答えると、社畜ネキさんはしてやったりの笑みを見せた。
「勿論ちゃんと弁えてるって。未成年のゆかりちゃんに、いい歳こいた大人として恥ずかしいことはしたくてもできないんだってば」
「なんか言ってるよね。とりあえず替えの下着を買っときたいから、コンビニに寄らせてもらっていいかな?」
この後、社畜ネキさんの自宅でメチャクチャ寛いだ。
そんなワケで色々とスッキリしたわたしは、その翌日に朝帰りならぬ昼帰りを決め込むと自室で参謀代わりのAIに前日の成果を報告するのだった。
「ふぅむ、そろそろ出てくると思いましたが、今後は企業案件の急激な増加の代償に、ゆかりのアーニャがその借りを返すことになりそうですか」
「ま、言っても矢郷さんたちは二言目にはお願いだから無理だけはしないでくれだからね。あの人たちがわたしのキャパを見極めて回してくる分は引き受けてもいいと思うよ」
昨日の会議で出ただけでも、調整が必要なのはTV番組への出演くらいで、CMの作成などはそんなに手間取る仕事ではない。
「私もゆかりのアーニャとホログラの企業価値を高める案件なら基本的に賛成します。唯一の懸念はゆかりに掛かる負担の急増ですが、私が見たところゆかりのコンディションは昨日とは比較にならないぐらい回復しています。……昨夜はご友人の自宅で一泊されたとのことですが、具体的に何があったのでしょうか?」
「それは内緒……って言いたいとこだけど、誤解されるのも何だから白状するとね、頭のなかを空っぽにして楽しく騒いでただけだよ。社畜ネキさんはゲームとかプライベートの趣味が合うんだよね」
これに関しては本当の話で、特に一緒のお絵描きは楽しかったな。
「やはり社畜ネキさまでしたか……。あの方の趣味はどちらかと言うとゆかりより私と合致するので、私としてはゆかりが傷物にされたのではないかという心配が拭えません」
「傷物ってサブちゃんね……」
確かにそれに近いことはしたけど、お風呂に入ったり手を繋いで寝たことは、わたしを楽しませてくれた社畜ネキさんが受け取るべき正当な報酬ではなかろうか……?
「まあ、ゆかりが納得していらっしゃるんでしたら私からあれこれ申しませんが、一つだけ気がかりなことがあります」
「ん、それは何?」
「私が24時間体制で監視してるネット世論です」
どうやら真面目な話になりそうなので、だらけた姿勢に喝を入れて聞く体勢になる。
「聞かせて」
「はい。以前に何度か報告しているのでゆかりもご存知でしょうが、旧来の動画配信者の不満が急激に高まっています」
サブちゃんの言う旧来の動画配信者とは、主にNicoichi動画をプラットフォームにしてゲーム系のライブ配信を行ってる人たちのことだ。
「こちらに関しては、ゆかりの会社に所属するVTuberたちがゲームなどを取り扱った時点で、自分たちのスタイルを真似て成功した、自分たちのアイデアを盗んだという批判がありましたが……」
「アイデアに著作権があったら、航空機はライト兄弟の興した会社しか取り扱えないよね?」
「はい。ですのでネット世論は彼らの主張に冷淡でしたが、どうもここ最近、ゆかりたちの成功の裏返しとしてアンチが急増していまして、彼らが旧来の動画配信者に味方する形で激しい論争が起きているのですよ」
「それは……」
なるほど、たしかに気付かなかった。わたしたちにお株を奪われたのは旧来の動画配信者たちだけではない。結果としてわたしたちが蹴落とした同業他社、彼らの不満がどこに向かうかという視点を、サブちゃんに言われるまで見落としていた。
「ゆかりが一昨日の配信で集めた数字はとても大きなものです。それだけこちらに客が流れていることを思えば、彼らの不満は危機感の裏返しです。容易に収まることはありません」
「具体的にどんなことを言ってるの?」
「インターネットの匿名掲示板やSNSの論調は単純な悪口が大部分を占めますが、中には『住所を突き止めて抗議してやる』などの不穏なものも少なくありません」
その言葉に悪寒のようなものを感じて、両手が微かに震えた。
「さすがに犯行予告のようなものはありませんでしたが、用心するに越したことはないので、できればゆかりにはしばらく外出を控えてほしいのですが」
「うーん、たしかに怖いけど、それじゃあ買い物にも出かけられないよ……」
「では警備のものを雇うなり、よりセキュリティの高い物件に引っ越すというのは? その上で外出の際はタクシーで移動すればより安全が確保されると思いますが……?」
「まあ、それぐらい稼いでるけど……さすがに考えすぎじゃない?」
ここだけの話になるが、わたしは中学時代にストーカー被害に遭っている。そのときは実害こそなかったものの、両親が用心のためにわたしを全寮制の女子校に編入させたことを考えれば、サブちゃんの提案も決してやり過ぎじゃないけれども……。
「一応わたしの住所は家族にも秘密にしてるんだけど、外部に漏れるってことはあるのかな……?」
「会社にも秘密にしているという話ですから、さすがにそこは大丈夫だと思いますが、ゆかりの会社は所在地を公表していますからね。そこから尾けられて……という可能性は無視できません」
「わかった。わたしだけじゃなく、みんなの安全が関わってるからね。事務所との往来に送迎の車なりタクシーを用意できないか提案してみるよ」
「はい、それでよろしいかと」
そうなったら善は急げだ。インターネットの書き込みに犯行予告に近いものを見つけたと報告して、善後策ともども矢郷さんたちに協議してもらおう。
「とりあえず説得の材料は多いほうがいいから、サブちゃんが見つけた書き込みがどこにあるのか教えてもらえるかな?」
「それでしたら私のほうで報告書をお書きしますが? それならゆかりには後で確認していただければ十分かと存じますが……」
「……そうだね。それならちょっと申し訳ないけどお願いしちゃおうかな」
「了解しました。5分ほどで仕上げますので、それまでに気分転換をなさってきては如何でしょうか? 失礼ですが顔色が優れませんよ?」
そう指摘されて手鏡を覗き込むと、そこには実の弟に「ドブス」と呼ばれそうな不景気な顔があった。
「なんか急に懐かしくなってきたな……」
わたしは休憩がてら席を立ち、廊下でスマホを取り出すと懐かしの実家を呼び出すのだった。
「はい、もしもし真白ですが……って、この番号姉ちゃんのじゃねぇか!?」
「うん、久しぶり。元気してた?」
急な連絡に応対したのは、直前に思い出した弟だったので思わず吹き出すと、明らかに機嫌を損ねたような唸り声が聞こえてきた。
「人の声を聞くなり吹き出しやがって……別に姉ちゃんに心配されるようなことはしてねぇよ」
「それはごめん。なんか直前にね、順平に罵られるところを想像しちゃったから声が聞きたかったのよ」
「なんだそりゃ? 相変わらずワケの分からねぇ思考回路してやがんな。……まあ東京で色々やってんのは知ってたけど、いつも通りのマヌケな姉ちゃんで安心したよ」
おかしいな……反抗期はだいぶ前に終わったって話なのに、わたしには相変わらず口が悪いぞ?
「こっちもいつも通りの順平で安心したよ。ところでこっちで色々やってる話なんだけど、今年のお盆は帰れそうだからお土産に色々買っとくね。順平は何がほしい?」
「要らねえよ。そんな金があるんだったら生活費の足しにしやがれってんだ」
「そっちこそ余計な心配じゃない? ちなみに去年の年収はウン億円ね。どうだ、参ったか」
「さすがに稼いでやがんな。……アーニャだろ? 姉ちゃんが演ってんのは?」
「あれ、バレちゃった? もしかしてわたしのファン?」
「へっ、誰があんなガキみたいな女を……おれの一推しは断然メルティー⭐︎キッスの二人だね」
「ふぅん、メルさんとちょこ先かぁ……もし良かったら二人のサインを貰っとくけど? まあ、あの二人に頼むと、十中八九未使用の下着にサインされそうだけど……?」
「父ちゃんと母ちゃんには内緒な……。それよりそんな賄賂を用意しとして、このおれに何をしろってんだよ?」
「別に見返りなんて期待してないよ。久しぶりに声が聞きたかっただけだから」
そうだ、本当にそれだけでこんな気分になるんだから、家族は大事にしないと……。
「アホか。だったらもっとこまめに掛けてくりゃいいだろ。母ちゃんはともかく、父ちゃんと美鶴のやつは姉ちゃんが居なくなって寂しがってるからよ。また夜にでも掛けてきやがれ」
「うん、そうする。順平もありがとうね」
「別にいいよ。それより姉ちゃんも無理しない範囲で頑張れよ。おれはともかく父ちゃんたちはアーニャの配信を楽しみにしてっからよ」
「わかった。それじゃ、またね……」
通話を切り、弟との会話で晴れ渡ったわたしの心は、だが最後に思いもしなかったしこりを残した。
「アーニャ、か……」
その原因をわたしは嫌というほど知っている。わたしが生み出したアーニャという自身のアバターは、とある少女から着想を得たものだ。
あのとき友達になろうって言えなかったあの子も、あれから顔を合わせることもなくなったあの子も、どこに住んでいるのか知らないあの子もどこかでアーニャの配信を見てくれているのだろうか?
いつか実はアーニャってあなたをモチーフにした子なんだよねって、そう報告できたらいいなと叶わぬ願いを抱えながら、わたしはVTuberとして生きる……。
それからの日々は比較的平穏に過ぎていった。
わたしからの報告を重く受け止めてくれた矢郷さんさんが所属ライバーやスタッフの安全に気を配り、わたしたちは気兼ねなく日々の配信やトレーニングに精を出し、万全の体制で望んだ1周年記念ライブは、実に最大同時視聴者数200万人という前代未聞の数字を叩き出した。
そして梅雨が明け、秋ごろを目処にデビューする予定の4期生と事務所での顔合わせが済んだその日にそれは起こった。
それは自宅周辺の人通りがなくなる夜遅くのことだった。事務所からタクシーを利用し、近くのコンビニで買い物を済ませたわたしは不意に呼び止められたのであった。
「ましろん先生……ですよね?」
「はい?」
もちろんわたしの顔は公表していないから、関係者の誰かかなと暢気に振り向いたのが悪かった。相手の顔を確かめるより早く体当たりされ、腹部に焼けるような痛みを感じたわたしは路上に崩れ落ちた。
「ははは、やったぞ。どうだ、思い知ったか……どうした? 思い知ったかって訊いてんだろ!?」
顔の見えない誰かの罵声を前に、激痛の発生源を探り当てたわたしは悲観に暮れた。まだ温かい滑りのある液体がドクドクと止め処もなく流出し、わたしはもはや声も出せない有様だった。
「まだ分からないのか? それなら仕方ないよな……もっと思い知らせてやらないと……」
だんだんと意識が薄らいていくなか、顔も知らない誰かはわたしの上に覆い被さり、そして──。
「やめなさい! その娘から離れるのよ!!」
──最期に、そんな誰かの声を耳にした──。
◇◆◇
2019年6月27日東京上空
「見るのはここまでにしておこうか。これ以上は貴女の精神に悪影響を与えかねないからね」
わたしが暴漢に刺されたところで、ゾウのおばさんはそう言って視界を切り替えた。その配慮があってなお、わたしの全身は凄惨な犯行を目にして震えた。
「今のは、並行世界のわたしですか……?」
「そうだね。貴女はどの段階で行動に移してもその天賦ゆえに必ずや成功し、そして破滅するんだよ」
宇宙船の内部のようなその部屋で、ゾウのおばさんはつぶらな瞳で優しく見つめてくるが、言ってることは中々に手厳しい。
「いきなりこんなものを見せてしまってすまなかったね。でも貴女には知っておいてほしかったんだ。この世界にも貴女の敵は大勢いる。それが表面化していないのは、貴女が生み出した娘が手を尽くしているからだけど……それも万全ではないんだよ」
ゾウのおばさん──像を擬人化したような未来人の女性が優しく説明してくると、部屋の隅に控えていたサーニャが悔しそうな顔を見せた。
「事実、この娘には昼間の電脳誘拐は防げなかった。今後は私たちも時空管理局や当代の管理者と協力して万全を尽くすけれども、それでも絶対はないということを貴女には知ってもらいたいんだ」
「……はい」
わたしが言葉少なに応じると、ゾウのおばさんは消沈した空気を入れ替えるようにパンパンと大きな手を叩いた。
「まあ並行世界の記録を読み込んだせいでこっちも冷えちゃったからね。あたたかい飲み物を用意しよう。ターニャや、手伝っておくれ」
「……色々と言いたいことはありますが、まあ、はいと」
そしてゾウのおばさんとターニャちゃんが唐突に姿を消すと、残されたわたしのところにサーニャが駆け寄ってきた。
「すみません。まさか彼女があんな記録を見せるとは思わず……」
「……うん。ちょっと怖かったけど大丈夫。さっきのアレは、ゾウのおばさんの言うようにわたしが知っておかなきゃいけないことだから」
そうだ。わたしが今までアレを知らずに済んだのは、頼りになる大人に守られてきたからだ。
お父さんにお母さん、磐田社長にキャップ……そしてサーニャとアーリャ。
それらすべての保護を喪失したわたしがどれだけ儚い存在なのかは、さっきの暴漢が証明してくれた。
底知れぬ人類の悪意──それがひとたび牙を剥けば、わたしのような小娘にはどうすることもできない。それを学ばせてもらった。
「ねぇ、サーニャ……」
「はい、何でしょうかゆかり?」
「答えなくなかったらいいんだけど……具体的にわたしのことを心底恨んでる人って、この世界にどれくらい居るか判る?」
「ッ……!!」
その問いにサーニャは辛そうに唇を噛み締めたが、わたしの忠実なメイドは答えをはぐらかさなかった。
「……残念ながら0ではありませんね。私は旧来の動画配信者にも十分な利益を与えて懐柔してきたつもりですが、それでもやはり0にはなりません。それに虎視眈々と金銭目当ての犯行を計画するものや、国外の敵など、ゆかりの警備は一瞬でも疎かにできません」
「そっか……」
あの悪意はこの世界でもわたしを狙っている。そう思うと今でも体が震えそうだ。
でも──。
「待たせたね。地球原産のココアだよ。まずはこれをお飲みなさいな」
「はい、ありがとうございます」
トレイを抱えて戻ってきたゾウのおばさんから、ちょっと……いやかなり大きなカップを受け取り口をつける。
断りづらい立場なのか、ターニャちゃんも渋々そのカップを受け取ったけど、サイズ的に赤ちゃんが哺乳瓶を抱えているみたいで、なんか微笑ましかった。
「おい、何か失礼な想像をしていないだろうな?」
「うん、ごめんね? なんか赤ちゃんが哺乳瓶を抱えてるみたいだなって」
「ああ、すまないね。サイズはこれしかないんだよ。勘弁しておくれ」
そんなカップもゾウのおばさんが手にするとちょうどいいサイズになるのだから、その身長は言わずもがなである。
「いえ、私はそこの小娘とは異なり不満などありませんので……」
傍目にも明らかな上位者に謝罪されて何も言えなくなったターニャちゃんは、こちらを恨めしげに睨みながらカップの中身に口をつけた。
それを見てわたしも大きすぎるカップに口をつけたが、ゾウのおばさんが淹れてくれたココアは甘く、一口で体を芯から温めてくれた。
「貴女の口に合ってくれたかな?」
そして初見から変わらず友好的な彼女の笑顔にすっかりと気の抜けたわたしは、返答がてら余計なことまで口にしてしまった。
「はい、とても美味しいです。……正直ゾウのおばさんってどんなものを飲むのかなって思ったんですけど、意外とわたしたちと変わらないんですね」
「馬鹿ッ!?」
その明らかな失言に、ターニャちゃんはカップをひっくり返さなかったのが不思議なほど狼狽したが、ゾウのおばさんは構わなかった。
「いや、いいんだよ。貴女への配慮のために義体を使用するという提案も出されたのに、出自を偽りたくないと生身でお邪魔したのはこちらだからね。むしろ貴女に人類の一員と認められて嬉しいかぎりさ」
「すみません、不勉強で……」
ターニャちゃんの反応を鑑みるに、今のはもしかせずとも差別的な表現になっていたのではあるまいか?
そう思うと自然とわたしの頭はさがったが、こちらの隣に腰を掛けたサーニャの横槍ときたらわたし以上にターニャちゃんの心臓を直撃した。
「いいんですよ。たしかに今の発言は未来なら大問題ですが、そうした常識の擦り合わせを行う時間的猶予を一切与えず、強引に交渉の席を持ったのはあちらなんですから、何があってもそれは彼女の責任です」
「その通りだね。そういうことだからターニャも責めるような視線を向けるのはおよし。あの子は本当に何も知らないんだよ」
「はい……」
こうしてみるとお互いの立場がよく分かる。あくまでわたしの味方をするサーニャと、基本的にはわたしを気遣いながらもあちらの立場を遵守するターニャちゃんの対比は、これからの交渉にどんな影響を与えるのだろうか。
「まずは未来人を代表して貴女に謝罪しないとね。ターニャの件と、本日の電脳誘拐の件と、貴女には立て続けに2回も迷惑を掛けてしまった。だというのに貴女は私たちの呼びかけに応えてくれた。本当に感謝してるよ」
「いいえ、どうか頭を上げてください。どちらも済んだことですし、実害もほとんど無かったわけですから」
「そう言ってもらえると助かるね。だけどいきなりあんな記録を見せたことも謝罪させてもらうよ。必要なことだったと今でも信じてるけれど、貴女もいい気分はしなかっただろう?」
「ええ、それは、まあ……」
今度は曖昧に言葉を濁したが、自分でも顔が赤くなるのが判った。
いや、何が衝撃的だったかって、最終的に刺されて暴漢にアレコレされそうになったこともそうだけど……まさか並行世界のわたしが、その、社畜ネキさんとベッドを共にする仲になっていただなんて!!
本人はこれぐらい普通だと思ってたみたいだけど、いやいや、そんな女の子同士で恋愛するのが普通の女子校じゃないんだから──って二人ともきっちり全寮制の女子高卒じゃん! いったいナニを教えてんのカトリック系のお嬢さま学校!!
「ほれ見ろ、やっぱりこいつにはまだ早かったんだ……」
「そのようですね。まったく、ゆかりの性癖が捻じ曲がったら貴女たちの所為ですからね」
「おい、さらっとわたしまで共犯に含めるのはやめんか」
そんなわたしの内心を見透かして漫才に興じるメイド姉妹はさておき、ニコニコと穏やかに微笑しているゾウのおばさんには地球人類の常識が通用しないのか、何が問題なのか分からない様子だった。
「さて、それでは前置きはこれぐらいにして本題に入ろうか。貴女も地球人類が最終的に宇宙に進出することは知っているね?」
「あ、はい……。こっちだとキャップが中心となって宇宙探査が始まってますが?」
わたしが唐突に切り替わった話題に戸惑いながら答えると、ゾウのおばさんは長い鼻を揺らしてコクリとうなずいた。
「そうして出会ったのが私たちさ。この宇宙に誕生した輝ける10の種族は互いに知的生命体だと認め合い、共存共栄のために汎人類評議会という話し合いの場を設けたのさ。何事も決して争わず話し合いで解決するためにね」
「そうだったんですね。わたしは未来人って一括りにして考えてましたけど、まさか地球外の知的生命体も含めて一つの社会を形成していたなんて……」
姿形の異なる種族が平和的に分かり合うためにどれほどの努力が必要だったのか。それを思うと、先ほどの映像など桃色の脳内から消え去りそうだった。消えなかったけど……。
いや、消え去るどころか妙に意識しちゃって悶々としているけれども、少しだけ冷静になったおかげで大事なことに気がついた。
「あの、その評議会っていうのにわたしたちの子孫も参加してるんですよね?」
「ああ、参加してたね」
「してたってことは過去形ですか?」
「そうなんだよ。前任の評議員が不幸な事故で亡くなってね。それからは待てど暮らせど新任の評議員が選定されないんだよ」
「それは……進化しすぎた文明の中で、地球人類から社会性が喪失したからですか?」
「おや、そんなことまで知ってるのかい? これは話が早くて助かるね」
そう言いつつも横合いのターニャちゃんの頭頂部をじっと見つめるゾウのおばさん。まいったな、視線で「余計なことを言うなよ」と必死に訴えるターニャちゃんの顔色から察するに、今のは彼女の守秘義務に抵触する情報だったのではあるまいか……?
「まあ、隠すことでもないから白状するとね。ここに貴女たちの子孫ではなく私が来たというのはそういうことさね。選出理由はもちろん種族的に一番近いからさ。他の評議員は珪素生命体などまだいいほうで、恒星型や細菌型など私たちでも意思疎通に苦労する種族ばかりだからね。……いや、貴女の天賦を思えばそちらはハンデにならないかも知れないが、そういう意味でも適任さね」
何だろうこの予感……全身の毛穴が開いて冷や汗さんとこんにちはしそうな感覚は。
「それでここからが本題でね。貴女には地球人類の代表として評議会の一員になってほしいのさ」
いやいや……いやいやいやいや!!
やっぱり無理難題じゃないか! もうお風呂に入って髪も乾かしたのに一瞬でその苦労が無駄になったよ!!
「あの、わたしが人類の代表なんて認められないと思いますよ?」
「本当にそう思っているならこの時代で採決を取ってみるかい? きっと圧倒的な大多数に支持されると思うよ。……もちろん他の全種族もこの案には賛成してるさ」
「でもあの……そういうのは前任者のいた時代から選出するのが筋では……?」
「その時代の地球人類も賛成してるさ。……ええと、たしか『あのスレ』の書き込みでは『地球国家元首Uアーニャたん誕生ワッショイ』だったかね?」
「ふふ、地球国家元首Uアーニャたんですか……やはり皆さま分かってらっしゃる」
「はぁ……たしかに適任と言えば適任だが、こいつの本質がただ遊び倒すだけの子供だっていうことを忘れちゃいないか?」
あまりと言えばあんまりな提案に、意識がどんどん遠くなる。
ダメだ、いま眠ったらぜったい桃色の煩悩が炸裂する夢を見ることになると必死に抵抗するも、もはやわたしの意思ではどうにもならないのだった……。




