N社の新型ゲーム機『We X』発売前実機配信 〜う◯ち助かる編〜
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ゼロから始めるマイクラ生活初日の夜──わたしたちはなめらかな石を敷き詰めた浴室で最後の作業を行なっていた。
浴室の隅に備え付けたかまどに燃料と水入りバケツを投入して、お湯入りバケツに変化したら回収。しかる後に3×3マスの浴槽をお湯で満たす。浴槽の四隅に投じたお湯は水流を作るも、やがて安定。自分のバケツを片して腕まくりした社畜ネキさんがお湯の温度を確かめ、喜色も露わに現場監督に確認する。
「アチチ……これ出来た? できたよね! これはもう完成したっていう認識でいいんだよな箒星!?」
「うーん……ちょっと殺風景なのと、配色が単調なのが気になるんだよねぇ」
だが、問われて浴室を一望したみい子さんはどこか不満気だ。序盤では貴重な燃料を消費して、大量に確保したなめらかな石を使いきって大理石風の浴室を完成させた彼女の美意識は、余人には窺い知れないほどの高みにあるようだ。
「窓辺に緑も欲しいし、ガラスもさぁ……スモークじゃないと外から見えちゃうでしょ? 別に裸を見られるわけじゃないけど、一応風呂なんだからもう少し何とかしたいなって……」
「仕方ないよ、みぃちゃん。まだシルクタッチがないから葉っぱ回収できないし、気になるところは後で手直ししていこうよ」
「そうそう。そういうのは後からいくらでも直せるだろ?」
そんな天才肌の職人をさくらちゃんが宥めて、ここぞとばかりに社畜ネキさんが押しきる。
「ま、そうだね。どうせ新しい建材を確保したら入れ替えにゃならんとこばっかりだし、今日のところはこれで我慢しよっか」
その甲斐あって現実と妥協したみい子さんがため息をつくのと同時に、社畜ネキさんが「よっしゃ」とばかりにガッツポーズ。見た目は可愛らしいエルフのお姫さまなだけに、違和感がすごいことになってる気がするよね……。
「で、これどうやって入ればいいだ? 服を脱ぎたいんだけど脱げないんだよね、これぇ……」
「馬鹿が、脱ごうとするなよ!? いや、セーフモードが機能しているから人前で服を脱ぐなどハラスメント行為はどのみち出来んが、いちいち抜け穴を探そうとあれこれ試すんじゃない!!」
そうして駄々っ子よろしく自分の服を引っ張って、ヤダヤダとごねる社畜ネキさんを叱り飛ばすターニャちゃんの言葉に、この子がお風呂に入るとオートで湯浴み着に換装されると言っていたのを思い出したので試してみる。
脱げないブーツに包まれたつま先を失礼してお湯のなかに伸ばした瞬間、ポンッという効果音とともに昭和の煙幕が充満し、気がつけばわたしの肢体はおしゃれな湯浴み着に包まれていた。
「えー、情緒……」
そんなわたしを物悲しそうに見上げた社畜ネキさんがぼやくが、まぁ言いたいことは分からないでもないのだ。
「わたしも着替えくらい自由にさせてほしいって思わなくはないけど、配信中だと難しいからね。少なくとも普段着のまま入るよりマシだから、社畜ネキさんも我慢してもらえると嬉しいな」
「うん、そうだよねぇー。贅沢を言ったらキリがないんだから、いまはアーニャたんと一緒に入れることに感謝しないとだよねぇー」
肩まで湯に浸かったわたしが笑顔で呼びかけると、社畜ネキさんの機嫌はそれだけで直った。ルンルン気分の社畜ネキさんが変身を済ませ、そそくさと華奢な体を寄せてくる。
その顔は女の子とは思えないほど限界化しており、みい子さんたちは「配信中にメスを出すな、メスを」って笑ってるけど、別にいやらしいことをされたわけじゃないからわたしから言うべきことは何もない。
出会ってからまだ間もないターニャちゃんは「なんという手のひら返しだ」と頭を抱えているけど、社畜ネキさんをよく知る立場にある三人はめんどくさそうに笑っているだけだ。
デビュー以前から一貫してアーニャへの好意を隠そうともしない社畜ネキさんは、しかし、わたしがみんなと一緒に暮らすために建てたアーニャ御殿への入居を断っているのだ。
わたしと一緒に暮らしたら確実に迷惑をかけると必死に自制しながらも、こうして一緒のお風呂を楽しみにしてくれた社畜ネキさんを嫌いになるなんて、とてもじゃないがわたしにはできやしないのである。
「あー、なんだろうね……心と体がポカポカしてとっても幸せな気分になる」
「うん、お姉さんね……実はお風呂あんまり好きじゃないけど、アーニャたんと一緒なら毎日入れそうな気がするの……」
二人して仲良くひざを抱えて頭の中まで溶けそうになると、目の前で湯浴み着に包まれたみい子さんが「マジィ!?」と悲鳴を漏らした。
「えっ? 社畜ネキって一週間に一度くらいしか風呂に入らんとか? それはみぃちゃん、かなり無理なんだけど……」
「いやそれはさすがにね、女として終わってるから、社畜時代も終電を逃しでもしないかぎり毎日入ってましたよ」
疑惑の視線を向ける後輩に、社畜ネキさんはやはり見た目とえらいギャップのあるセリフを口にする。
「ただ女ってさぁ、風呂に入るぞー、気持ちいいー、よっしゃ寝るかぁーってわけにもいかないじゃんねぇー? お風呂に入るんだったらその前にメイクも落とさなきゃだし、寝る前に髪を乾かさないと翌日ひどいコトになるし、独身女なら使った後の風呂場の掃除も追加されるし、手間暇かかるんだってばさ」
なるほど……日々の労働で疲れた身にそれはきつい。
「あー……」
みい子さんもそう思ったのか、その顔はどこか申し訳なさそうだった。
「そういうことなら億劫になるのも分からないではないかな。……わたしは基本的に全部お姉ちゃんがやろうとするからさ。頼んでもないのに頭を洗ったり背中を流そうとしてくるし、外に出たらドライヤーを手にしてスタンバってるし……まぁ楽だからいいかなぁーって、前を洗うの以外は全部やらせてたけどね」
「おい、ここに社畜ネキに顔向けできないほどダメな女がいるぞ」
ジト目を向けるさくらちゃんを小突いたみい子さんが「あはは」と笑って誤魔化そうとするも、その顔には紛れもない冷や汗が浮かんでいた。
「まぁ姉星みたいに世話好きなお姉ちゃんがいたらそうなるよねぇー。お姉さんもさぁ、アーニャたんと一緒に暮らしたら確実にそうなるって思ったから、アーニャ御殿に引っ越すのを我慢したんだからさぁー」
「あー、アーニャちゃんも世話好きだから」
「そう! ネットだと性犯罪者になるのは確実だから断られたんだろって言われてるけど違いますから!! お姉さんね、ライブの前日にアーニャたんが髪を乾かしてくれたりぃ、マッサージをしてくれたのがホントに気持ちよくって…… だからアーニャたんと一緒に暮らしたら確実に箒星みたいになるってもう必死よ!?」
「箒星みたいっていうのはハッキリと余計じゃあっ!!」
そんなみい子さんをフォローしてみせたり、追い討ちにしかなっていないこと言ってみたり、こういうことを自然にできるのが社畜ネキさんの魅力なのだ。
とにかく場の空気を読む能力というか、広げた話を上手いところに落とし込む能力というか、そういうのが抜きん出てる社畜ネキさんのトークは耳に心地よくて仕方ない。
そう思ってるのはわたしだけではなく、怒ったフリをしてみせたみい子さんも、楽しそうに笑い続けるさくらちゃんも、入浴を拒否する姿勢を見せた妹を浴槽に押し込むサーニャも、所在なさげに浴槽の隅に身を寄せたターニャちやんもみんな笑顔だ。
「いやぁー、しかし意外と話せるね箒星も。コラボもさくらたんとアーニャたん以外あんまり積極的じゃないし、てっきりお姉さんのこともウゼぇよ馬鹿としか思ってないんじゃないかって不安だったから、仲良くなれて余計に嬉しいわ」
「そんなん思ってないから……むしろ逆。毎回この女スゲーなって、リスペクトしまくりですから」
「えぇー、それじゃあなんで目を合わせてくれないのぉー? そんな露骨に目を逸らされたら説得力ないですけどぉー?」
そして今回のコラボを機会に親交を深める社畜ネキさんとは対照的に、追い詰められたみい子さんは若干苦しそうだ。
「それはほら、親しき仲にも礼儀ありっていうか、お風呂に入ってるのにあんまりジロジロ見たら失礼なんじゃないかと……」
そんな二人の攻防を前に、会話のなかに割って入るのが苦手だというさくらちゃんの横顔があからさまに輝いた。
「さくらわがった! 同期のグラとおんなじだよ! みぃちゃん可愛いのが好きだから、いまの社畜ネキを見たら脳がバグるんだよ!!」
満面の笑顔で暴露するさくらちゃんの言葉にみい子さんが凍りつく。
「みぃちゃんね、姉町が買ってきたぬいぐるみを自分の部屋に飾ってるんだけど、そのなかにアーニャたんとグラと社畜ネキのぬいぐるみがあってね。これねぇお姉ちゃんが買ってきたのって、三人のぬいぐるみを抱いてるのを見たことがあるから間違いないよ」
「『ほほう?』」
この場にいる全員の視線を浴びて凍結が解除されたみい子さんが、水面下でさくらちゃんの太ももをつねりながら苦しい弁明を始める。
「それは、そう……たしかに人形はいた。可愛くって、可愛がってるけど……でも本人にそんな感情ありませんから。見た目も性格もいいアーニャちゃんは全力で可愛がってるけど、性格に難のあるグラと社畜ネキは、むしろそのギャップがいいんだよねって思ってるとかちゃいますから」
「痛い痛いもうやめてみぃちゃんさくらの太ももに爪立てないでぇー」
なんだろう……秘密を暴露されたみい子さんには悪いけど、さっきから口元が緩んで仕方ないのだ。
「なんだよ、ようするにアーニャたんがデザインしたお姉さんのガワと性格の悪さは気に入ってるけど、本人にはなんの感情もないってか? なんて酷いヤツ……どうせあたしのカラダだけが目当てなんでしょ!?」
「ねぇー、そういうこと言うのホントにやめてぇー! スタジオで見かけたときは社畜ネキじゃんとしか思わないけど、いまは可愛いから頭がおかしくなりそうなんだからぁー!!」
羞恥に悶えたみい子さんがバシャバシャとお湯をかけてくる。
フラグメントの片割れとして相方のさくらちゃんと悪ノリしていとき以外は、基本的にクール&ビューティーのキャラで通しているだけにギャップがすごいんだけど……なるほど、これがギャップ萌えか。
……しかし話してみないと分からないものである。まさかわたし以外に社畜ネキさんを可愛いって思ってる人がいるだなんて。
まぁ勝手に暴露されたらわたしでも黙ってられないから、油断ならない相方に制裁を加えるみい子さんの怒りは至極もっともとしても、問題は如何にして彼女の傷心を慰めるべきか……。
「よし、それじゃあこうしようか。みい子さんにだけ恥ずかしい思いをさせるのはフェアじゃないから、他の人も一つずつ恥ずかしい話をするの。それでチャラにするのはどうかな」
「おっ、いいねそれ。それじゃあ戦犯のさくらたんから行こうか」
わたしがそう提案すると案の定社畜ネキさんが乗ってきて、名指しで指名されて折檻から解放されたさくらちゃんは、涙目になりながらも大して堪えてなさそうに能天気な笑顔で口を開いた。
「ええと、さくらねぇー、小学生のとき結構な頻度でランドセルを背負うのを忘れちゃって、だいたい途中で気づくんだけど……取りに帰ったら遅刻しちゃうし、お母たんも『なんでこんなに大きいのを忘れるの』って怒るんだよね」
「……それで?」
先をうながしたみい子さんを含め、この時点で全員が半笑いである。
「だから取りに帰るにしてもお母たんが納得できる理由がいると思って、ちょうど公園に水たまりがあったから頭からブワーって突っ込んで、お母たん転んだって言ったら『ランドセル忘れただけなのになんでそんなことするの』って叱られてさぁ」
「馬鹿じゃん!?」
「しかもさぁ、そのときさくら気づかなかったんだけど、なんか水たまりの近くに犬のうんちがあったみたいでね。こう、お腹のあたりにべったりとひっ付いてたから、お母たんもうカンカンになって『どうせウソをつくならもっとマシなウソをつきなさい』って……それでさくらは朝からお風呂に入れられて、お母たんが学校まで謝りに来たの」
「ば、馬鹿の見本……!!」
「ね。お母たんってすごいよね、全部のウソを見抜いてきてさ……この間も実家に送られてきた書類を放置してたら、お母たんにもう全部書いて送ったかって訊かれてね。さくらめんどくさいからもう全部書いて送ったよって答えたら、お母たん隠してあった書類を全部見つけ出して『代わりに出してくるから今この場で全部書きなさい』って……なんでバレたんだろ、あれ」
「それはお母さんだからだよ」
笑いすぎて痛くなったお腹を撫でながら、次はわたしとばかりに手を挙げて割りと最近の失敗談を披露する。
「みんなもユッカは知ってるよね? すごくお利口さんで教えたことはすぐ覚えるんだけど、トイレは一回失敗しちゃってね」
わたしが話し始めると、サーニャがあの話かとばかりに口元を押さえる。
「わたしがペットシーツを叩いてここにするんだよって教えたんだけど、どうもユッカのなかではペットシーツじゃなくて、わたしの手でするんだと思ったらしくって……なかなかしないから抱っこしてペットシーツまで運ぼうとしたら、こう、安心したように大きいのをね……」
この時点で声も出せずに悶絶するさくらちゃんを筆頭に、全員が痙攣済み。
「で、わたしも『えっ!?』ってなって、嬉しそうに顔を舐めるユッカとホカホカのうんちを抱えて立ち尽くしちゃってさ……たまたま居合わせたお母さんに『ちゃんとペットシーツをヒラヒラさせないからよ』って言われて、もう情けないやら恥ずかしいやら散々だったんだよね」
「いやぁー……安心したように、っていうのがまたいいよね。そっかぁー、ユッカきゅん、アーニャたんの手でしちゃったのかぁー」
顔を拭った両手を見つめた社畜ネキさんがその話を締め括ると、次は自分とばかりに潤沢な過去を開陳する。
「お姉さんはこの中で一番長生きしてるから、そういうネタも豊富なんだけど……どれを話そっかなぁー。迷っちゃうなぁー。やっぱりアレかなぁー」
「ステイ、社畜ネキステイ……みぃちゃん笑いすぎて死にそうだから、もう終わりにしない?」
「そんなのみんな同じなんだから黙って聞けや! 決めたわ、やっぱりアレにするわ。中学時代の担任があんなに勉強熱心なのにお姉さんの成績が伸びないことに責任を感じてたって話ね」
みい子さん渾身のステイを却下した社畜ネキさんが立ち上がり、身振り手振りを交えて熱演する。
「お姉さんわりと昔から絵が好きで、授業中もノートに描いてたんだけど……中学のときに、こうね、すごい真剣な顔をして一心不乱に描き込んでたみたいなんだけど、お姉さんの席は後ろから二番目だったから、担任からはお姉さんのマジ顔しか見えなかったらしいんだわ」
「あー、それですごく真剣にノートを取ってるように見えたんだ」
「そうなのっ、でもごめんなさい! そのときお姉さんが描いてたのはハ◯ター&ハ◯ターのBL物なの!! 後でそのことが担任にバレて、お前の成績が上がらないことに責任を感じて損したって言われて、後ろの席の親友と爆笑したわ……!!」
「馬鹿じゃん!? 授業中にそんな顔してBL物なんて描くなよっ!!」
配信中だというのにみい子さんですら百面相の惨状に、この光景を見ているとしたら視聴者は耐えられるのか──そんな心配をしたくなるぐらい、みんなの話は傑作だった。
「はぁー、はぁー……貴様らもしや、わたしを笑い殺すのが目的なのか? わたしにもしものことがあったらどうしてくれる……」
「そのときは世界一恥ずかしい死に方をした女として名を遺すだけですから、不満なら踏みとどまりなさい……」
そして段々と笑いの波動がおさまると、その発声に与した四人の視線は観客気取りのメイドたちに集中した。
「…………待て」
その意味が解ったのか、ターニャちゃんが愕然とわたしたちを見渡す。
「まさか貴様ら……この私にもしろというのか? 貴様らのように恥ずかしい話を……?」
そりゃそうだと全員がうなずくと、ターニャちゃんのみならずサーニャの顔色も変わった。
「いや、アレは貴様らが勝手にやったことであって、私にそんな義務は……」
「もちろん無いよ? もともとみい子さんにだけ恥ずかしい思いをさせられないっていう仲間意識から始めたことだし、ターニャちゃんがそう言うなら無理強いはしない……わたしの話を思いっきり笑い飛ばしてくれたサーニャは逃さないけどね」
わたしがにっこりと告げると、サーニャからターニャちゃんに向けられる圧が強まった。
サーニャの死なば諸共の精神はさておき、ターニャちゃんにはできれば話してほしい。そう思う。
「まったく、覚えとけよ……」
するとサーニャの圧とわたしの視線、どちらに耐えかねたのかは定かではないが、どうやら観念してくれたらしいターニャちゃんはぽつり、ぼつりと口を開いた。
「まぁわたしがするのはただの失敗談だからな。たいして笑えなくても知らんぞ」
「いいよ、ターニャちゃん自身の話でしょ? そんならどんな話でも聞かせてもらうよ」
サーニャもわたしの狙いに気がついたのか理不尽な圧を消し、他のみんなも真面目な話だと思ったのか、まだ若干苦しそうにしながらも真摯に耳を傾ける。
「わたしの……いやわたしたちの両親は、子供のすることにあまり関心のない人物でな。天才の名をほしいままにする姉は早々に自立し、わたしは家でひとりぼっち。孤独に耐えかねたわたしは、あるとき両親の気を惹こうと大きな賭けに出た」
それはターニャちゃんというVTuberのカーバーストーリーこそ混在していたものの、紛れもなく彼女自身の話なのだろう。同胞たる未来人たちに置いてきぼりにされたという、彼女自身の過去……。
「まあ、所詮は子供の考えることだ。わたし自身、どうしてそんな結論になったのか今もって不明だが……要はな、大きな音を立てて驚かせてやろうと思ったわけだ」
「なーほーね。いかにも子供の考えそうなことだな。さくら保証する」
「貴様にそう言われると泣きたくなるが……まあ、なんだ。両親を驚かせるにしても大声を上げたり、壁を叩いたりしたら叱られかねん。だからな、どんなに大きな音でもそういうことなら仕方がないと、両親が納得できるだけの理由が必要だと考えたんだが……」
よほど言いにくいのか、段々と歯切れが悪くなるターニャちゃんだったが、幼児の思考に詳しいさくらちゃんはピンと来たようだった。
「もしかしてすっごいオナラをして驚かせようとしたの?」
「……正解だ」
見抜かれたターニャちゃんが赤面して言い訳をするように続ける。
「生理現象ならある程度は仕方ない。両親もそう判断すると思って、こう、色々と頑張ってだな……我慢に我慢を重ねて、お腹がパンパンに張ったところで究極の一撃を放とうとしたら、余計なものまで出てしまったというワケだな……」
遠い目をしたターニャちゃんには悪いけど、他のみんなは半笑いです。はい。
「あのときのわたしの心境と言ったら筆舌に尽くし難いが、両親は優しかったよ。あんなに優しくされた記憶は他にないが、まぁ半笑いだったな。……さあ、遠慮はいらんぞ。笑うなら笑え」
「うん、ごめんね笑っちゃって……ターニャちゃん自身はいまの話、笑えるようになれそう?」
どこか自暴自棄な様相のターニャちゃんに訊ねると、彼女は「難しいな」と言葉を濁した。
「いまの話はわたしのなかではネガティブなものではなく、むしろポジティブに分類されるものだ。考えの足りない子供がやらかしただけの話と言われればそれまでだが、少なくとも行動に結果がともなったわけだからな。ただの脱糞を成功体験と美化するのは些か面映いが……」
忌々しそうに舌打ちして、不機嫌そうに肩を怒らせても、やはり掛け替えのない記憶なのだろう。目元の優しさはこの子に会ってから初めて見るものだった。
「さて、わたしの話はこんなところか……次は貴様になるが、覚悟はいいだろうな」
「仕方ありませんね……それでは悪辣な友人Aに騙されて、とんでもないゲームの制作をさせられた話でもしますか。ゲームの名前は『ザ・アフターワールド』」
「おい馬鹿やめろッ!? それダメージが全部あたしに来るヤツじゃねぇか!!」
最後に悪戯っぽく笑ったターニャちゃんに急かされて、とんでもない暴露をしようとしたサーニャが社畜ネキさんに全力で止められる。
そんなやり取りにクスリと笑みを漏らしたわたしは立ち上がり、全員に呼びかける。
「その話は後でしよっか。もうかなり長湯してるし、湯当たりする前に引き上げよう」
バスタブ代わりのなめらかな石の上に立ち、外に向かって半歩踏み出すと何度も見たエフェクトが表示されて普段着に更新される。
不思議なことに濡れた髪も一瞬でサラサラになりながら、心と体はポカポカしたままだ。わたしに続いて同じ体験をした社畜ネキさんが感動したように全身をあらためる。
「……これ、ぶっちゃけ便利じゃね?」
「うん。確実にさっぱりしたのに、髪まで一瞬でサラサラとか……みぃちゃんお風呂はこっちで入るようにしようかな」
みい子さんも似たような感想を口にするが、そんな女のユメを呆れ顔のメイド姉妹が打ち砕く。
「何を勘違いしてるか知らんが、こちらの世界で風呂に入ってもリアルに放置した本体は汚れたままだぞ。基本的にこちらの世界で感じたことは全部錯覚だと思っておけ」
「本来はその錯覚すら規制対象ですからね。ゲームの世界に面倒ごとを押し付けようとするより、もっと女子力を鍛えたほうがよろしいのでは?」
なんとも耳の痛い正論もあったものだが、生憎とその程度でへこたれる神経の持ち主はこの場に一人もいないのである。
「でもそれってさ、お姉さんたちのカラダごとこっちの世界にログインすれば解決しそうじゃない?」
「あー、いまは五感をこっちに繋いでるだけだから、本体にフィードバックしないんだっけか」
「おー……それならさくらたちのカラダごとこっちに来たら、向こうの心配をしないで済みそうだよね」
ここにいるのはその才能を配信者に必要な技能に全振りした天才たちばかり──発想からして常人とは違うと、あらためて思い知らされる。
「……貴女たちの言っていることを実現するには、最低でも肉体をデジタル情報に変換して、こちらの世界に送り込むことが必要になりますが、できると思いますか?」
「『えっ!? サーニャたん(ちゃん)にもできないのぉ?』」
同時に放たれた無理難題のハーモニーに、サーニャがくっと喉を詰まらせる。技術者としてできないとは言いたくないけど、安易にうなずくにはあまりにも危険──きっとそんな心境なんだろうと助け舟を出す。
「サーニャなら将来的には実現できるかもしれないけど、現時点で世に出すのは賛成できないかな」
「なんで?」
「だってゲームは1日1時間って言っても守れない子供ばっかりなのに、全部ネットで事足りる世界を用意したらみんな引き篭もって誰も出てこなくなっちゃうよ」
そうして社会の維持すら困難になったのが未来人の現状だと言うけど、わたしもこの世界に来て少しだけ実感した。
現実の物理法則よりゲーム内のシステムを優先することができるこの世界は、その気になればどこまでも快適にできる。
現状でもこの世界で迎える明日が楽しみで仕方ないというのに、諸々の制約が取り払われたら誰がその誘惑に打ち勝てるのだろう。
「随分とこの世界が気に入ったようだな……」
そんな堕落への片道切符のような提案をした社畜ネキさんたちに、未来人の現状に歯噛みするターニャちゃんが見せたのは、敵意と呼ばれる感情だろうか。
「なんなら私が用意してもいいぞ、貴様らの望む世界を……どうだ、この機会に永住を希望するか?」
そう問い詰めるターニャちゃんに危険なものを感じたのか、サーニャが一歩前に出ようとするのを押し留める。
なぜ止めるのです──そう問いたげな瞳に微笑み返し、彼女たちの返答を待つ。そう選択した根拠は、彼女たちへの信頼、これに尽きる。
「えっ? しないけど?」
真顔で「なに言ってんだこいつ」とばかりに応じたさくらちゃんに、ターニャちゃんが目を瞬かせる。
「さすがに永住はねぇ……たまに遊ぶならまだしも、ずっと引き篭もるとかあり得んわ」
「まぁナシ寄りのナシで」
続いて社畜ネキさんがはっきりと論外と口にして、みい子さんがにべもなくターニャちゃんの提案を拒絶する。
「なぜだ……?」
それが意外だったのか──あるいは意外なんて言葉には収まりきれないほどの衝撃を受けたのか、彼女の言葉は震えていた。
「お前たちは無限の拡張性をもったこの世界を体験したばかりだろうに……究極的には生身を保ったまま、どこまでも自分にとって都合のいい世界に作り変えることができるというのに、お前たちは向こうに戻れるというのか……?」
手を加える方法さえ解れば、欲しいものは何でも生み出せることは拠点の近くに村を生成したサーニャが証明している。
この世界に永住すれば、おそらくは人間という種の限界を超えてありとあらゆるしがらみから解放される──だというのになぜそれを拒めるのか。相も変わらず真顔のさくらちゃんの返答は的確だった。
「そらみんなが待ってるし、お母たんも心配するから帰るに決まってるよ」
「まぁみんないいヤツだけど、さすがに永住となったらねぇ……このままアーニャたんを独占したら何を言われるか判ったもんじゃないし、実は今まで内緒にしてたけどお姉ちゃんがいるのよ」
「おー、社畜ネキのお姉ちゃん?」
「うん、しかもぽぷらとかあずにゃんとか比較にならないレベルのド陰キャでさぁ……一応いまは働いてるけど、辞めない理由は上司に辞めたいって言えないのと、再就職で面接をするのが怖いからって言うんだから大概だよね」
「あー、それで自分が面倒見なきゃって思うのか……うちのお姉ちゃんもねぇ、妹離れができない人だから、みぃちゃんが一人暮らしするって言っても反対するし、アーニャちゃん家でお世話になるって言ったら当然のようについて来ちゃうし……本当に世話が焼けるよぉ」
そう──さくらちゃんたちの言うようにみんなが待ってる。家族が、仲間が、友人が、お世話になった人たちが大勢待っている。だから帰る。帰らなきゃいけない。わたしたちに選択肢などないも同然だった。
「────」
そのタイミングでみんなを信じて押し留めたサーニャから驚いたような反応があった。
何事が生じたのかはあとで確認するとして──いまは必要なことをしよう。
「ま、続きは明日にして今日はもう寝ようよ。もちろん、きちんと歯を磨いてね」
茫然と立ち尽くす女の子の肩に抱いてそう提案すると、手のひらに吹き出すような衝撃が伝わってきた。
「肉体をともなわぬ以上、この世界で歯を磨いても磨いた気になるだけだと言ったばかりだろうに」
「気分の問題だよ。サーニャ、みんなの分も歯ブラシある?」
「ありますよ。まったく、そういうところを気にするのは、いかにも貴女らしいですね」
「まぁ歯磨きは大事だよ。サボるとお母たんに叱られる」
「みぃちゃんもアイドルだから歯は命だし、アーニャちゃんに嫌われたくないから面倒でも頑張る」
「おい箒星、後半はあたしが言おうとしたことじゃねぇか……馬鹿、勝手に使うな」
そうして和気藹々と雑談しながら歯磨きして、終わったらそれぞれの部屋に分かれて就寝の準備をする。
みんなまだ話し足りなそうな雰囲気だったし、流れ的には一箇所に集まってパジャマパーティーって感じだったけど、サーニャたちと運営サイドの話があると説明してご理解願った。
「で、今回の仕掛け人はもう撤退したってことでいいのかな?」
ベットにゴロンと横になって訊ねると、サーニャからどうやらそうらしいと説明があった。
「はい、当初の三次元領域を丸ごと消去されそうになりましたが、そちらは管理権限を掌握済みであったために未然に防止し、現在はWe XのFDVR機能で本来使用すべきデータベースに全情報を移転。外部との接続も回復し、YTubeとの接続も有効であることを確認しています」
「あちゃー……そうなるとわたしたちの恥ずかしい話も聞かれちゃったかな? コメントが『うんち助かる』で埋まってなきゃいいけど……」
意味ありげにターニャちゃんのほうを向くと露骨に嫌な顔をされたが、フンッと鼻息を荒げて「勝手に助かってろ」と応じたあたり、だいぶ距離が近くなってきた気がする。
「ただ司直の手が及んだと報告もないのに一方的に放棄したことから、何か裏があるのではないかと警戒しているのですが……」
それはさておきサーニャとしては、犯人がなぜそうしたのか合理的な理由が見えないところが不安であるらしい。
「たしかに意味不明な行動ばかり目につくけど……どうして手を引いたのかはなんとなく解るんだよね」
もう一度チラリと視線を向けると、ターニャちゃんは「馬鹿馬鹿しすぎて人工知能には理解できない理由だ」と同意してくれた。
「やっぱり……そんなことは言われないでも分かってるって逆ギレしちゃったんだね」
「まぁな。いかにも未来人らしい、子供の癇癪のようなコミニケーションだな」
わたしが訊ねると、ターニャちゃんは何かを投げ捨てるようなジェスチャーをしながら自身の推測を明かした。投げ捨てたのはきっと匙だろうと、ターニャちゃんの言葉に耳を傾ける。
「なんてことはない。ヤツらとしては宣伝目的、引き抜き目的だったのさ。こんなにすごい世界があるから一緒に遊ぼうよってな」
「なるほど……だから貴女が永住を提案したとき、社畜ネキさまたちが論外と称したことが気に食わなかったと?」
「それはちょっと違うね。きっと自分たちではどうにもならないことが判っちゃったんだよ。わたしたちにはみんながいる。だからどんなに楽しくても時間になったら帰らないといけない。でもあの人たちには、たぶん誰もいないんじゃないかな」
だから誰もいなくなった遊び場で、さっきまで楽しく遊んでいたおもちゃを叩き壊したその子は、膝を抱えて泣いているのだ……。
「……ちなみにさっきの笑い話は、全くの作り話ではないぞ? だがな、まだ家族という最低限の枠組みが維持されていたわたしの代でさえ、自分の子供とどう接していいのか判らない大人は珍しくもなかった。わたしが生まれた西暦2700年代後半ですらそれだ。ならば大したコストも必要とせず、あんな世界を用意できる世代の人間たちは一体どうなっているのだろうな……」
進化しすぎた文明は人々をあらゆる苦行から解放しただろが、そのなかに人付き合いが含まれていたことは皮肉というしかない。
「だがお前たちの姿を目にして学んだ。わたしたちの世代はまだ引き返せるところにいると。どんなに面倒でも関わることを諦めたらいけなかったんだと」
そこでターニャちゃんは大げさに嘆いて見せてベットにひっくり返った。
「いや本当に面倒だぞ? わたしたちの代から見たら、お前たちは意味不明な怪物のようなものだ。違うっていうならせめてどう助かるのかわたしに説明してみろってんだ」
「それはわたしもいまだに理解できないかな……本当にどう助かるんだろうね」
「ふむ……どうしてもと仰るのでしたら、私のほうから統計に基づいた回答を提示できますが? まず彼らが『うんち助かる』と言うのは、推しの脱糞に性的な高揚を──」
「言うな言うな! そういうのは永遠に謎にしておけ! おい、貴様も笑っていないでさっさっと寝ろ。誰か一人でも就寝を拒否すれば、マイクラの夜時間は終わらないんだからな!!」
ガァーッと怒鳴り散らして不貞寝する女の子に微笑み、困ったものだと目を合わせたサーニャを誘って目を閉じる。
ここが未来人の用意した異世界であろうとも、根底にマイクラのシステムがあるなら優先されるのはそちらであり、心地のよい微睡みから夢も見ない深い眠りに誘われるまでの時間は本当にあっという間だった。
「んっ……?」
寝るまでがあっという間なら、目覚めのほうも窓から朝日が差し込むと同時に意識が覚醒して、起き抜けの肉体は倦怠感とはまるで無縁の至れり尽くせりぶりだ。
あまり大きな声では言えないけれども、VTuberになって夜更かしが増え、睡眠不足に悩んでいるわりに寝付きの悪さを自覚するわたしとしては、あまりの快適さにさっきの冗談──せめて寝るときだけでもこっちの世界に真白ゆかりの肉体ごとログインするのもアリかな、なんて誘惑に駆られそうになる。
「おはようございます。……どうしたんです? 朝からそんなに悪知恵を働かせる小悪党のような顔をして?」
「うえっ、わたしそんな顔してる!?」
当然のように同衾して、ほぼ同時に目を覚ましたサーニャがこっちを見るなり訊いてきたので自分の顔付きを確認するが、鏡を見ても『悪知恵を働かせる小悪党の顔』とやらが何なのかは判らずじまいだった。
「冗談です──ですが間抜けは見つかったようですね」
フフン、と意地悪く微笑するサーニャを見てハメられたことを悟るも、時すでに遅し。
「どうせ貴女のことですから、せめて寝るときだけでもこちらの世界に肉体を持ち込みたいと思ったのでしょう」
「いやだってさ、はっきり言ってすごくない? もう寝なきゃと思ったらすぐ眠れて、時間になったらバッチリ目が覚めるわけでしょ? これが普通なら、快適に寝るためのソフトとしても売れると思うんだけどな……」
わたしの心を読むことにかけては無類の洞察力を発揮するメイド(姉)に必死で言い訳するも、その話を横から聞いたメイド(妹)は鼻で笑って一蹴するのだった。
「それな、マイクラ世界の1日は20分だから、仮に実行するとしたら最低でも2週間は昼夜を問わず寝ていないと、向こうに戻った途端に睡眠不足で苦労することになるぞ。もしたった10分の就寝で睡眠時間を短縮できると思ってるんだったら、悪いことは言わん。そっちのメイドに血めぐりの悪い脳みそを取り替えてもらえ」
そう言って、二人してわたしの「寝つきが悪いなら、こっちで眠ればいいんじゃない?」っていうささやかな希望を粉砕した性悪メイドたちは、同時に腕組みしてこれ見よがしにため息を吐き出すのだった。
「まあ、この世界が現実より快適になるように調整されていることまでは否定せんが、だからこそお前たちは心せねばなるまいよ。もうあんなにめんどくさい世界に帰りたくない──そう思うようになったら、お前たちはヒトとして終わりだぞ。せいぜい気をつけることだ」
その言葉は『帰れない世界』に囚われた人々を観察して、人の心を究明しようとした科学者とは思えないほど慈愛に満ちたものだった。
それはもはや、わたしたちと一連托生の諦観から出た言葉ではなければ、人類の善性を否定する性悪説から出た言葉でもない。
人間は変わる。わたしも変わった。この子も今まさに変わりつつある。それが嬉しくって、わたしは叱られたばかりだっていうのに笑顔で抱きついてしまった。
「うん、ターニャちゃんありがとう。わたし基本的にかなりのダメ人間だから、堕落しそうになったら今みたいに叱ってね」
そんなわたしの態度が気に食わなかったのか、慌てて何か言いかけたターニャちゃんが口を開くより早く、事件性しかない悲鳴が響きわたった。
『うわぁあああ何だこいつら!? ねぇー、ちょっと待って! こっちに来ないで、ねぇったらねぇー!!』
悲鳴にしか聞こえないのにどこか楽しげで、それでいてそこはかとなく滲みでる必死さが笑いを誘う──そんな悲鳴を放てるのは世界にただ一人、社畜ネキさんしかいない。
「なんだ、朝から騒々しい……まったくあの元気がどこから出てくるのか、科学者として興味深くはあるがな」
「アーニャですよ。社畜ネキさまはアーニャを燃料にして激しく燃え盛る性質をお持ちですから……無論、あらゆる意味においてですが」
「やめてよ、どうせエッチな意味なんでしょ? わたしだけならともかく、社畜ネキネキさんは誤解されやすいんだから、こっちで気をつけてあげなきゃ……」
そんな会話をしながらドアを開けると、外では社畜ネキさんがゾンビの親子に追い回されており……。
「……さくら2階の湧き潰ししてくれた?」
「してない。面倒だから柱の上はいいかなって」
そしてわたしたちより早く現場に駆けつけて、憂鬱そうに視線だけでその行進を追いかけるさくらちゃんとみい子さんが、どこか反省でもするかのように確認作業を行なっていた。
「なるほどねぇ……普通は下まで降りてこないけど、さては社畜ネキのヤツ、うっかり早起きして上の様子でも見に行ったな」
「にぇ。放っときゃ勝手に浄化されるのにね」
「ねぇー! 見てないで助けてよ痛い痛い痛お姉さん死にたくないんだけど!?」
「……どうする?」
「助けよっか。死ぬのも勉強になるけど、見捨てたことを責められてもめんどくさいからさ」
うなずき合った二人が石の斧を手に軽やかに身を踊らせて、社畜ネキさんに追いすがるゾンビの親子に痛撃を食らわせる。
横からの一撃に、もともと朝日を浴びて体力が減少していたと思われるゾンビの親子は空中で絶命し、九死に一生を拾った社畜ネキさんは思った以上に平然とUターンして、興奮したように捲し立てるのだった。
「サンキュー、助かったわ……ところで今の顔色の悪い親子は何? お姉さんメッチャ怖くてリアルなら間違いなく漏らしてたんだけど?」
「あ、怖かったんだ? そうだよね、それが当事者として普通の感想だよね?」
思わず横から口出ししてしまったが、たしかに社畜ネキさんの言うこともわかる。
オリジナルのデザインを踏襲しているため見た目はそこまで怖くないが、足を止めたら死ぬかもしれないという状況は間違いなく恐怖に値する。
「うん。もうね、お姉さん三回くらい死を覚悟しちゃってさ、必死に肉を頬張りながら祈っちゃったもん。こんなことならもう少し欲望に正直に生きとくんだったって」
「そんなに怖い? みぃちゃん普通に笑えたんだけど……」
「それは被害者が社畜ネキだからだよ。みぃちゃんだって、最初の夜はさくらに抱きついて、鼻水を垂らしながらごめんねって痛ったぁあああい!!」
って、笑顔で返したさくらちゃんの頭がゾンビを仕留めた斧で容赦なく叩かれる。
「みいちゃああん!?」
「あははっ!!」
なんというか朝からとんだ撮れ高もあったものだが、こんな調子で最後まで腹筋が持つのかなって心配になる。
この世界が未来人の手を完全に離れ、YTubeとの接続と一緒に確認できた時刻は、まだ午後2時半を少し過ぎたばかりと、まだ30分しか経っていない。
この配信は2時間の予定だから、最低でもあと4日はこの世界でやっていかなきゃいけないのに、わたしときたら昨日から笑い転げる心配ばかりだ。
「でもさぁ、お姉さんもゾンビに追いかけまわされて解った。これはマズイ。マズイですよ箒星さん」
「ん、何の話をしてんの?」
「だから昨日メシ食ってるときに話したじゃん? 地下室にゾンビを敷き詰めて、落とし穴かなんかでなっちゃんをご招待するってさぁ……あれホントにやったら洒落にならんかもしれんって、お姉さん反省しちゃってさ」
「それならゾンビは柵で囲って動けなくしたらいいよ。あと落とし穴じゃなく階段かなんかで地下室まで通路を作ってさ、そうすりゃただの見学みたいなもんだから、なっちゃんも平気でしょ」
まだ言ってるのかっていう、ターニャちゃんのぼやき声にまたしても腹筋が刺激される。
推しの笑顔は視聴者にとって最高の養分かもしれないけど、何事も過ぎたるは及ばざるが如し。
少なくともいま堪えているものを吹き出したら酷いことになると自覚しているわたしとしては、せめて笑わせるのは朝食が終わるまで待ってくれと、気もそろぞに冷蔵庫代わりのチェストを覗き込むのだった。




