第七曲、其は誰が為ならず、しかして万民ならずとも隣人を愛さん
2011年12月17日(現地時間10:30)
欧州有数の世界都市であるジュネーブ。
レマン湖の南西岸に位置するこの都市の歴史は古く、美しい自然と落ち着いた街並みが融合した風光明媚な古式ゆかしい都市としても有名だったはずだが、これはどうしたことだろうか。
空港に降り立った時点でそこかしこに見かける歌姫の広告。これでもかと観光客を詰め込んだ街中には、さながら有明か幕張の国際展示場のように自作の衣装に身を包んだ熱心なファンが溢れかえっているが、彼らを迎える立場のジュネーブ市民もそうした熱狂と無縁ではない。
今や人類史上前例のない名声を確立した歌姫に、ファーストライブを開催する都市に選ばれたジュネーブ市民の自尊心は大いに満たされ、彼女のファンにどこまでも好意的だった。
政府や企業の後押しもあるのだろうが、飲食店の経営者は無償で料理を振る舞い、なかには自前の軽トラに満載したシャンパンを瓶ごと押し付け、自ら栓を開ける店主もいた。
「すごいんだけど、もっと落ち着きのある街を期待していたわたしとしてはちょっとだけ複雑かな?」
いよいよアーニャのファーストライブを目前にして箍が外れてしまったのか。この熱狂をもたらしたのがたった一人の女の子であるという事実に、やっぱりさすがだねとその少女は誇らしく思った。
「ねぇ、兄さんもそう思うでしょ?」
そう呼びかける少女の名前は天城ソラ。彼女は関係者の身内として自分を連行した兄に呼びかけるが、残念ながら返答は得られなかった。
「兄さん……?」
右を見回しても左を見回しても、人混みに紛れた兄の姿は見つからない。まぁこんなところにお上りさんよろしく放り込まれたらそういうこともあるかと嘆息した少女は、さて、どうしたものかと頭をひねった。
旅券こそ保持しているが現地の通貨を持ち合わせておらず、言葉も通じない自分は最悪大使館送りか。
「なんて、スマホがあるからそこまで困ってないんだけどね」
日本の通信大手三社が国際化を拒否しているために通話こそ不可能だが、無料のWi-Fiはすぐ見つかったので地図アプリを開く。空港から通行不能になるまでタクシーで移動したから、ここから目的地はそこまで離れていない。
人混みをかき分けての移動になったが、時間にして20分も歩くころにはアーニャのファーストライブが行われるコンサートホールらしき建物も見えてきた。
「ただ問題は……あそこに近寄る気になれないことなんだよね」
まず間違いなく世界中から要人が参列しているであろう会場周辺は、パッと見たかぎりでも凄まじい警備態勢が敷かれている。
まさか問答無用で銃殺されることはないだろうが英語にも自信がなく、関係者であることを証明できる書類も持ち合わせていない少女としては、兄とはぐれた自身の迂闊さを恨めしく思うしかない。そんなときだった。
「ソラさん?」
日本語で名前を呼ばれ、驚いて振り返る少女だったが、そこにいたのは同年代と思しき白人の少女だった。
赤みがかった金髪と人懐っこい表情。何一つとして見覚えのないはずの姿は、しかし不思議と記憶を刺激した。そうだ。無念の中断となった3Gのアーカイブを飽きるほど見返したなかで、よく似たゲストを自分は目にしている……。
「もしかしてキアラさんですか? 3Gの配信でキャップたちと一緒に、なっちゃんの卓に混ざった?」
「イエス! アイアムキアラ・クリームヒルト! 一発で見抜いてくれて嬉しかったよぉ〜!!」
間違いない。実物を目にするのは初めてだが、この甘ったるい声と陽キャの圧はそうそうあるものではない。当然のように自分の手を握って嬉しそうにブンブンと振り回す陽気な白人女性にたじろいだ少女は、同時に疑問にも思った。
「後ろから見ただけなのによくわたしだと判りましたね?」
目の前の強烈な人物ほど印象に残る特徴があるならまだしも、自分はとにかく地味で面白みのない女だと自負している。そんな自分を後ろ姿を見ただけで見分けたのは何故か不思議に思ったが、答えを聞いてみれば納得しかなかった。
「OH……ちょっと失礼な話なんですけど、背中を丸めてコソコソと歩いてる姿と、カエルの小物からピンときまして。こうしてソラさんご本人の表情を確認すれば納得しかありませんが、サーニャさんのL2Aはやはり画期的なソフトウェアですね」
たしかにこうして本人を目の当たりにすれば、カメラの前の人物の仕草や表情を再現するL2Aの精度に驚くしかないが、卑屈な猫背を指摘されたソラ本人としてはその見分けかたはどうなのと思わざるを得なかった。
「これでもずいぶん前向きになったつもりなんだけどなぁ……ビクビク背中を丸めるクセは変わらないか」
「ソーリー。失礼を申しましたが、ワタシもソラさんを見かけるまでは似たようなものでしたよ。磐田社長にせっかくの機会ですからと誘われてチャリを飛ばしてきたのはいいものの、あの警備ですからね。さすがに話しかけるのは躊躇われて……」
「あ、そうなんだ。わかる、わかるよ。わたしも最悪ここで兄さんが出てくるのを待つしかないなって……」
意外と常識的なコミュ力に親近感を覚えた少女は笑顔で共感したが、そこで絶対に聞き逃してはならない単語が混ざっていることに気がついた。
「えっ……? いまチャリで来たって……もしかして自宅からここまで自転車で移動してきたってこと?」
「イエス、ちょうど実家に帰省中でして……手持ちの資金に不安もあり、ミュンヘンからジュネーブならいけるかと思って母親のママチャリを借りたんですが、さすがに無理があったようで……途中で中破して乗り捨てることになりまして。個人的に非常に心細かったので、ソラさんに会えて本当に励まされましたよぉ」
いやいや、待て待て待てい。幸いにも言葉にする前に飲み込むことに成功したが、天城ソラは自身のなかで増大するかねてよりの疑問に押しつぶされそうな心境だった。
本当にどうしてRe:liveのVTuberに見込まれたヤツらはこんな化け物じみた女傑しかいないのだろうか? そしてどうして磐田社長は兄の紹介があったとはいえ、自分のような一般人の加入を認めたのだろうか……?
よもや同類と思われたのではあるまいな? 急に不安になった少女は溜め息をついたが、そうしてばかりもいられない。
「とりあえずどうしよっか……兄さんにメールして合流したほうがいいんだろうけど、あの兄さんじゃなぁ」
何しろとにかく心配性で、気がかりなことがあると途端に冷静さを欠けることになるあの兄のことだ。さすがに大声を張り上げて自分を探し回ってることはないと思うが、はたしてメールでの連絡に気づいてもらえるか心許ない。
「そういうことならご多忙のなか恐縮ではありますが、サーニャさんに連絡してみましょうか? フロンティア・スピリッツ号の設計者であるあの方なら、光の速さで対応していただけるかと」
「いやいや、いくらキャップが完全宇宙空間なら光速で飛行できるって言ったからって、サーニャちゃん本人が光速で動けるわけじゃ……」
オレンジ色の髪を振り回したキアラの提案に、最初こそ面白い冗談だと笑っていた笑顔が次第に引き攣る。一糸乱れず会場を警備していた州兵と米兵が一斉に敬礼し、その向こうから数人の護衛に囲まれたロシア風の少女がこちらに向かってきたからだ。
「わぁ……さすがコミケ会場。本物そっくりのコスプレだね」
「ソラさんしっかり! あれは間違いなく本人ですよ!!」
いまや国連の事務総長が人類が次なるステージに進むために欠かせない人物と絶賛する世界最重要人物。そんな要人中の要人をメール一本で呼び出してしまったと知って、天城ソラは意識が遠くなるのを自覚したが、呼び出されたサーニャ本人はそうした評価にどこまでも無関心だ。
「はい、私は間違いなくアーニャのメイドで、永遠に下っ端のサーニャ本人です。どうやら物々しい警備がプレッシャーを与えてしまったようで誠に申し訳ありませんが、私当人は皆さまに奉仕すべき立場にあるスタッフの一員にすぎませんから、どうか遠慮せずご命令いただければ幸いです」
世間の評価よりも自分自身が定義した役割のほうが重要だとばかりに、サーニャことアレクサンドラ・タカマキは満足そうに微笑むが、背後の護衛は笑いを堪えるのに必死だ。
(どうしろと……?)
ここで護衛の人たちが釘を刺すように睨んできたら『いやいやそんなことはありません』と言えたが、笑われてしまっては合わせるより他になさそうだ。
「さすがサーニャさん、クールなツンデレぶりですね! 天才科学者としての立場よりアーニャさんのメイドとしての立場が大事、ワタシはいいと思います!!」
「ふふふ、キアラ・クリームヒルトさまですね? その通り、アーニャのメイドが務まるのはこの私だけです。ならばどちらが重要かなど論じるまでもありません」
そして早くも意気投合する出会ったばかりの友人にハラハラさせられるが、おかげで何個か理解できたことがある。
ひとつはこの性格は設定をもとにした演技ではないこと。ならば配信中に自分のことはサーニャと呼ぶように繰り返したことからも、そちらに合わせたほうがいいということ。
そしてもうひとつは、この少女が自分の主人と見定めたアーニャこと真白ゆかりを本当に敬愛しているということだ。
「ええと、ごめんねサーニャちゃん、忙しいところを呼び出しちゃって。止めようと思ったんだけど、気づいたら手遅れでさ。わたしは木曜の配信でお世話になった天城ソラ。よろしくね」
「ええ、こちらこそよろしくお願いします、ソラさま」
アーニャの配信を思い出せば、この少女とどう付き合えばいいのか、模範解答はいっぱいある。ひとつのハードルを飛び越えた天城ソラは差し出された手を握り、その柔らかさに内心ドギマギしながらも微笑む。
「さて、立ち話も何ですし、時間も押しています。お二人ともゆかりのところに案内しますので、どうぞこちらに」
「えっ? もしかしてゆかりちゃんに逢わせてもらえるの!?」
「はい、本人がそう望んでいるのもありますが、他に皆さまをご案内できる席がないんですよ。一般席は各国のテレビ局のスタッフと報道関係者でごった返していますし、貴賓席は私の義父が我が物顔で占拠しているだけなら追い出せたのですが、先ほど英国のエリザベート女王陛下が到着して……なので窮屈かと思いますが、関係者用の控室と展望席で我慢していただきたいのですが」
「我慢するも何も身に余る光栄ですが、ソラはどう思いますか?」
「う、うん! わたしも同感……他に言葉なんて思いつかないよ……」
「なら決まりですね。ゆかりときたら本番前だというのに弛んでいるところがありますから、しっかりしろと喝でも入れていただければ」
そう冗談めかして踵を返した少女の背中を、今度は見失わないように追いかけながら、天城ソラはえらいこっちゃと、ちょうど前日の春日マリナと似たような感想を抱いた。
本人はそう呼ばれることを好まないかもしれないが、アーニャにはこの時代のトップアイドルとしての側面がある。その華々しい活躍に多くの少女たちが憧れ、ファッションや化粧を真似して、身につけている小物を欲しがるのも故あってのことなのだ。
自分とてあの輝かしいサクセスストーリーを歩む少女に憧れ、自分もああなりたいと烏滸がましくも足掻いている立場の人間だ。多くの理想を体現したあの娘に会える。そう思うと胸の鼓動が高まって平静ではいられなくなる。
出会ったらなんて言おう。まずは恥ずかしくないようにきちんと挨拶して、それから、それから……ダメだ、何も思いつかない。
そんなことを思いながら未来に向けて歩き出した少女はその扉を潜った。
◇◆◇
2011年12月17日(現地時間11:40)
「いやぁー、社畜ネキなら大丈夫っしょ。イケるイケる。むしろこの大舞台でやらかしてこその社畜ネキじゃね?」
「そうですね。笑い物になるのを承知で真っ先にアーニャさんのコラボ要請に飛び込んだ蛮勇をもってすれば、仮に人類の歴史に拭いようのない汚点を刻んでもむしろご褒美でしょうし」
「ねー、みんなもこう言ってるし社畜ネキ頑張って? いまから声を出さないで笑う練習をしておくからさ」
「やめろお前ら! そんな成功して当然って顔でお姉さんの失敗を期待すんな!!」
磐田社長に誘われて日本から応援に駆けつけた四宮恋歌に竹生ヶ丘美緒、紺野茉莉といった2期生以降のメンバーに弄ばれた社畜ネキの演者、蛍崎海音の悲鳴が響くなか、真白ゆかりの豪胆さ、あるいは鈍感さは見あげたものがあった。
「負けんなよ、姉ちゃん。おれ応援してっからさ」
「みつるも応援してるから、お姉ちゃん頑張ってね」
「二人とも大げさだね。普通に歌って普通に帰ってくるだけなんだから、頑張るも何もないと思うな」
一度は渡航を諦めた父親が磐田社長に説得され、家族総出で駆けつけても特に驚いた様子もなく、リラックスした雰囲気で愛犬を抱きしめ、弟たちの激励に微笑んでいる。
「いやぁ、さすがはゆかりさんだ。私もここに来るまで激励の言葉を用意してきたつもりなんだが必要なかったな。真白くんもそう思うだろ?」
「……恐縮です。ここ最近ゆかりには驚かされてばかりですが、これも成長したということなのでしょう」
普段は自分を振り回して遊んでいるくせに、こういうときだけ有無を言わさぬ行動力を発揮する上司に、真白軍平は複雑そうな表情で娘の成長を認めた。
父親である真白軍平の知るかぎり、娘のゆかりは何も望まない娘だった。いつも満ち足りたように、それでいて寂しそうに微笑する娘を、軍平は妻と一緒に心配しながら見守ってきた。
そんな父親である真白軍平がそう言うのだ。真白ゆかりは本来もっと内向的な少女だったはずだ。実際半月前に会ったときも、彼女は著名人である磐田社長らの訪問におどろき、言葉もなく立ちすくんでいた。
だがそこから立ち直ったとき、そんな内気な少女は確かな意志の強さをみせた。はたして彼女は父親の言うように成長したのか、それとも優れた才能とともに開花しただけなのか、それは真白ゆかりがアーニャとして活躍してからの姿しか知らない中村みゆきには判らなかった。
だだひとつ言えることは、彼女はようやくその才能に相応しい舞台に立てるようになったということだ。さながら籠の中の小鳥が解き放たれ、大空に羽ばたくかのように。ここが彼女のあるべき場所なのだろう。
だが、真白ゆかりの一見華麗なる成功を見守ってきた中村みゆきは、一番大事なことも見逃していなかった。
「失礼します。最後のお客さまをお連れしましたよ、ゆかり」
「あっ、良かった! ソラおまえダメじゃないか、こんな大事なときに迷子になったら」
「ごめん兄さん。でもはぐれたことに気が付かなかった兄さんに言われるのは、なんか釈然としないわね」
その場所は独りで立てる場所ではない。真白ゆかりは相棒となるサーニャとめぐり逢うことでその場所を目指すための足がかりを確立し、多くの友人と駆けあがることでようやく人々の脚光を浴びたのだ。
「ようこそお越しくださいましたソラさん、キアラさん。お会いできて光栄です」
「えっ? アーニャちゃん、じゃない、ゆかりちゃんがそれを言うの? どう考えても最後のはこっちの台詞なんじゃ……」
「そうですね。世間一般の評価を考えればその通りですが、そうしたものに囚われない庶民感覚が彼女の魅力ですから。ここは配信中のノリに合わせてしまったほうがいいかと」
ならば自分の果たすべき役割は明白であると、中村みゆきはこの日最後となる友人との邂逅を噛みしめる真白ゆかりの横顔を目に誓った。
「さて、いよいよゆかりさんの出番まで10分を切ったけど、そちらの準備は万全でしょうね」
「ウィッス。機材の配置と楽団との打ち合わせは完璧なんで、こっちは何の心配もいらないんスけど、そっちはどうですかねのぞみちゃん?」
「はい、日本各地の自治体に引き渡した機材の配置は完了済みですが、各国政府に引き渡した機材のほうは一部で遅延が目立っています」
「そう……残念だけどそちらに関しては諦めるしかなさそうね。あとで遅れが生じた国の状況を教えてくれる? 今回は無理でも次回に活かせるならそうしたいしね」
「わかりました。それまでにディーエスコードで確認できるようにしておきますね」
「ええ、それじゃあ予定通り日向はサーニャさんのサポートに回って、北上は引き続きメンバーのサポートを頼むわよ。ここからのスケジュールは秒刻み。失敗は許されないわよ」
表舞台で脚光を浴びるのは彼女たちの役目。自分たちは裏方としてその活動を全力で支える。昨夜のような例外でもなければ基本的に日の目を見ることはなく、地味であり、失敗すればファンから無能と叩かれる辛い立場だが、それを苦痛に思う不心得者はRe:liveにはいない。
この社名は、今や伝説とまで言われるアーニャの復帰ライブをスタート地点とする自分たちのプロダクションに相応しいものだ。アーニャのライブに関して──そんな表向きの説明には、しかし中村たちの執念が隠されている。メールなどの返信に使われる『Re』に『Reply』の意味を込めたのは事実上の社長である中村自身だ。
いつかあの感動を自分たちの手で再び。その機会を手にした中村たちRe:liveスタッフの奮闘は鬼気迫るものがあった。
「それじゃ、10分前になったんで、ゆかりさんはそろそろステージに上がってください。それとゆかりさんのご家族の方や、磐田社長らお客さんの方には申し訳ないんですが、ここからは部外秘なんで2階の展望室に案内しますんで、そっちから見てもらえますかね」
「はい、わかりました。それじゃあみんな、行ってくるね」
「うむ。またな、ゆかり。本番を楽しみに……いや、失敗してもいいから悔いだけは残さないようにしなさい」
「ふふ、いやですねあなたったら。余計なプレッシャーを与えないようにしたんでしょうけど逆効果よ。これが緊張している子供の顔に見えますか?」
そうしてマネージャーに呼ばれた娘がステージに向かおうとする直前に両親が声をかけると、全員の期待と若干の不安にあふれた視線を集めた少女は振り返り、そこで一変した。
「そうだよね。わたしは普通に歌ってくるだけだよ。自分の部屋だと近所迷惑になるかと思って、なかなか出せなかった本気でね」
「ゆかり……」
これがあの臆病な娘だろうか。いつも見守っていたから逆に気づかなかった。自分の娘はこれまでの配信を通して、これほどまでに揺るがぬ自分を手に入れていたのか。
「みんなも失敗したらどうしようかなんて考えることないよ? 文句は全部わたしが黙らせるから」
そこにいるのはもはや気弱な少女ではない。神々しいとすら感じる完璧な偶像を演じているわけでもない。人々の理想に殉じる聖女などほど遠い。真白ゆかりはさながら悪童どもに奪われた公園に殴り込みをかけるガキ大将を思わせた。
あくまで自分自身がそうしたいと思ったからこそ、自分にとって大事な人のためにという我欲を燃料に闘志を燃やしていると彼女自身は自己分析している。
「聞いたかお前ら? アーニャたんってカッコいいよな。うちらは社会人にも息抜きは必要だとか、こうした付き合いも重要だとか言い訳ばかりしてるのにさ、アーニャたんが友達と遊ぶのは自分が楽しいからなんだよ」
そんな真白ゆかりを眩しそうに目を細めて見送った蛍崎海音が誰ともなくつぶやくと、磐田肇が熱心に応じた。
「ええ、それこそがゆかりさんの最大の魅力なんでしょうね。あの子を見ているとそうした虚飾をはぎ取られてしまうんですよ。だから誰もがあの子に嘘をつく必要がない最愛の家族の姿を重ねるんだ……それこそがアーニャという世界中で愛される家庭的なキャラクターの秘密かもしれないね」
二人の言葉に中村みゆきはその通りだと切なくときめく自分の胸を抱いた。
本当は誰もが持っているものだった。でも繰り返される日常で誰もが鮮度を失い忘れてしまった。幼児が自分の家族に向ける絶対の信頼と親愛。家族と友人を愛する無垢な心を中村自身もアーニャの配信を通して取り戻した。だからただひたすらに愛しくて訳もなく抱きしめたくなる。そんな人類の根源とも言える善性を体現しているからこそ、アーニャは──真白ゆかりは愛されるのだ。
そしてこの気持ちを誰かに伝えたいという気持ちこそが人々の善性を揺り動かし、隣人から隣人へと循環し、大きなうねりとなって現れたものがこのファーストライブなのだ。
中村みゆきはこの時点で確信した。このライブは必ず成功する。それどころか人類史に刻まれる歴史的な成功になると。
「さあ、気合を入れていくわよ。ゆかりさんの言うように失敗したときのことは考えなくていいわ。ただ後になって後悔しないように全力で食らいつくわよ」
その場に残った全員を激励した中村は秒刻みのスケジュールを進行させるために全体の指揮を取るのだった。
◇◆◇
2011年12月17日(現地時間11:59)
予定された開演の時刻まで目前となりながらも、このジュネーブ音楽院フランツ・リストホールに招かれた観客たちはさすがであった。
ここにいるのは貴賓席の各国首脳クラスと、展望室の関係者、ならびにその家族を除けば報道関係者ばかりだったが、彼らは日本のマスコミとは価値観はもとより、根本的なところで異なる遺伝子を有している。
各国の言論界が選りすぐりの精鋭として送り込んだ彼らは、命懸けの潜入で歴史的な瞬間を全世界に報道した者もいれば、危険を顧みず自国の軍隊を告発した者もいる。
普段は自国の王族や政治家に意地悪な記事を書いたとしても、それは公権力を監視するというジャーナリストの使命ゆえにしたことであって、個人としては尊敬に値する人物ならば人種や国籍を問わず賞賛する人物がほとんどだ。開演が目前になっても一向に姿を現さない主催者に下品な野次や罵声を飛ばしたりせず、それどころか小声で私語を交わす姿すら見られない。そこが日本のマスコミとは根本的に異なる。
ペンは剣より強しと確信しても政治的な武器として振りかざすこともなく、人間として当然の敬意と常識を忘れることがない。日本のマスコミが公共放送のNNNを除いて同業者から締め出されたのは、残念ながら彼らは忘れたつもりでも世界中のジャーナリストが忘れていなかったからにすぎない。
日本の報道各社は共同で抗議の声明を出したが取り合うものはいなかった。そもそも直接のきっかけは最前列への強引な横入りと、会場内での飲食にあった。主催者の一人である女史も彼らの品性に疑念を表明したため、自らの行為が返ってきただけの話だ。同情には値しない。
そんな輩と同類に思われるほど不本意なことはないと完璧な自制心を発揮した観客たちだったが、定刻まで10秒を切るとさすがに何かあったのではないかと、この日の主演アーティストである歌姫の身を案じる声も漏れてきたが、そんな不安は直ちに驚愕に塗りつぶされた。
正午ちょうどに、一瞬たりとも目を離さなかったステージの上に、いま世界で最も高名な少女が姿を現したのだ。その仕掛けを事前に知らされていなかった観客の驚きようは大変なもので、ちょっとした悪戯が成功した少女は足元の愛犬ともども、優雅に一礼するのだった。
「ほう? 今のがアレクサンドラ・タカマキ博士の立体映像投影技術を使った光学迷彩かね?」
「それもあるが、ミス・ユカリの可憐な姿にみんな参っているのさ。これまで公開された写真は一枚だけだったからね。実物はそれ以上だと想像しても、まさかここまでとは思わないから二重のドッキリって寸法さ」
そんなどよめく観客たちを愉快そうに眺めて、ロシアとアメリカの首脳が親しげに会話すると、上座のエリザベート女王が感心したように漏らした。
「本当に素敵なお嬢さまだこと。孫たちがあの子にうつつを抜かしていると知ったときは呆れたものだけど、今となっては納得しかないわね。エリック、あなたもそう思わない?」
「はい、基本的に同意しますが、一部保留を。殿下らの名誉のためにも申し上げますが、彼らはミス・ユカリを女性として見ているわけではありませんので、その点だけはお間違えなく、女王陛下」
「あら、私はそこまで言っていないわよ。そこで孫のためと称して言い訳をするのは自分のためでもあるのかしら?」
主君の前で膝をつくならまだしも、同じ場所で席に座るのは畏れ多いと直立して待機する首相をやり込めた女王が愉快そうに笑う。思わず「おっかない婆さんだぜ」と言いかけた男の腹を肘で小突いたロシアのラスプーチン大統領が、無言で口を慎めと睨みつける。
この辺り、アーニャの配信を見たことのない女性にはなかなか理解してもらえないことだが、世の男性ファンが彼女に抱く愛情は小児性愛とは断じて異なる。少なくとも当事者としてはそう主張するしかないが、やはり興味のない奥方の視線は厳しいものがあった。
だが、それもここまで。真白ゆかりの挨拶に会場を包み込む万雷の拍手に参加しながら、ラスプーチンは実物を目にしては頑固な老婆も変わるしかあるまいとほくそ笑む。
思えば自分もそうだった。ロシア風の少女であるアーニャなるキャラクターに世界中が熱狂して、国民の自尊心が大いに満たされていると報告を受け、どんなものかと軽い気持ちでチェックしたらすっかり魅了されてしまった。
それ以来、側近たちが丸くなったと噂しているのは小耳に挟んだし、自分でもそうだろうと認めている。もちろん国益のためならどんな非情な決断でも下す覚悟ではあるが、それでもあの娘を悲しませないようにより犠牲の少ない道を選びたいと思っているのだから……。
「『おおっ!?』」
突然切り替わった風景にどよめきの声を漏らしたのは誰だったか。少なくとも自分ではないと口元を押さえるが、実のところあまり自信はない。事前に知っていたが、やはり実物を目にすると驚愕に心が揺り動かされる。
「すごいわね……これは何なの、エリック?」
「ドクター・タカマキの立体映像投影技術……所謂ホログラムであると伺っています、陛下」
これがそんなにチャチなものかとラスプーチンは額の汗を拭った。ステージ上の真白ゆかりはもちろん、背後の楽団すら完全に見えなくした立体映像の質感ときたら、まるで本物の風景を切り取って持ち込んできたかのようだった。
唯一の救いは、自分と同様に事前に教えられておきながらあまりの迫力に開いた口が塞がらない友人の姿か。この青二才をそう呼ぶのは業腹だが、他に適切な呼び名がない。仕方のないことだと、二重の意味で自分に言い聞かせる。
だが本当の意味で落ち着けるのはこのライブが終わったときになりそうだな。ラスプーチンは一面に生い茂る金色の小麦畑にある曲を連想して、初恋を覚えた少年のように高ぶる胸のときめきを必死に自制したが──。
「Аню разбудил первый снег, возвестивший о прибытии генерала Зимы.(冬将軍の訪れを知らせる初雪に、アーニャは目覚めたんだよ)」
「……一曲目にこの曲を持ってくるか!?」
今やアーニャの代名詞とも言われる『祈り』のロシア語版。YTubeの配信でも用いられたアニメ調の映像にはますます磨きがかかり、演奏を担当するのは世界最高峰のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団。その完成度と迫力たるや、小さな画面を眺めているときとは次元が異なる。それもあるが……!!
「すごいわ……これは本当に現実世界の光景なの?」
そんな女王のつぶやきに、忠臣である首相がまったく答えられなかったのには理由がある。アーニャの歌手としての真の力量は彼女の復帰ライブにあるというのが通説だが、とんだ誤りだった。
たしかにあのライブでは、それまで世界中の音楽関係者に必要以上の衝撃を与えぬよう、あらゆる意味で劣化させるという制約こそなかったが……そのときに真白ゆかりが全力を発揮できていたかというと疑問符がつく。
彼女は防音室が完全ではないことを知っている。近所迷惑になるという懸念と、アーニャの正体が露見するという不安。それが全力で歌うことを躊躇わせた。
だが今回の舞台は世界最高のコンサートホール。自身の正体もとっくに公開している。ならば全力で声を出しても誰の迷惑になるものではない。よってその歌声は過去のどんな歌声よりも深く大きく、そして明瞭でありながら余韻があり、あらゆる音域を自在に歌いきったが、さらに今回は真白ゆかりの心身が万全な状態なのも見逃せない要素の一つだ。
あらゆる過去のしがらみから解き放たれた真白ゆかりは気持ちの入り方からして違う。歌声に込められた心も以前とは完全に別のものだ。
もはや彼女に自分の歌声が混乱をもたらすという懸念はなかった。もはや彼女に自身の才能を疑う気持ちはなかった。もはや彼女にこの歌声が届かないという不安はなかった。
彼女の心は歌声を通してそれを耳にする人々の心に飛び込み切実に訴えかける。気づけばラスプーチンは自分が涙ぐんでいることを自覚したが、それを恥と思うことはなかった。
「おい熊野郎、いい年こいたオッサンが何を泣いてやがる……」
「貴様こそ……」
そうだ、アーニャの歌にもあるようにロシアの冬は厳しい。摂氏マイナス50度を下回る異常な寒波に村ごと凍りつくのも日常茶飯事だ。冬将軍が勢力を増すごとに強まる自分の力に、雪の妖精であるアーニャが疑念を確信に変える。自分こそが人々を苦しめる元凶だと思い至った心優しい少女は驚くべき行動に出た。
それは周囲の熱を奪うのではなく自身の熱を与えること。雪の妖精であることに叛逆したアーニャは、雪に埋もれた村で懸命の救助活動を行い、春を待たずに力を使い果たし、最期にもはや満足に動かない手で掘り当てた植物の芽を抱いて、良かったとつぶやいて消えていく。それがこの歌の結末だったが……アーニャが消えても曲は終わらなかった。
「『まさか……?』」
北国の悲哀と優しさを歌ったこの曲はしかし、目の前で驚くべき進化を遂げようとした。例年にない早すぎる春の訪れに積雪をかき分けた村人たちが登場し、彼らはやがて発見する。それは猛烈な吹雪のなか原野の木陰で必死に耐えた村人が、安全な雪洞を作ってくれた少女にお礼として渡した帽子だった。
彼らは誰一人として忘れていなかった。不思議で心優しい自称旅人の少女が、自分たちを何回も救ってくれたことを。アーニャの正体を知らない彼らは、恩人の少女がこの場所で命を落としたことを察して涙し、一人、また一人と彼女の冥福を祈り──その無垢なる願いは大いなる存在に聞き届けられた。
そこでステージの立体映像に表示された曲名が変貌する。『祈り』から『祈り、そして再会』に。曲自体は前日の冒頭ですでに歌われていたために、物語の全貌はこの時点で判明していたが、そんなことは関係がなかった。
「おい、アーニャ=タンが……」
「解ってる。少し黙ってろ……」
無論、これがただの創作に過ぎないことは十分に理解している。だが歌と同様に物語もヒトの心に訴えかけ、感動させる力がある。
「ああ、なんということなの……神よ、貴方の慈悲に感謝を……」
もはや言葉もない。お人好しの天使に電子の妖精として新たな使命を授けられたアーニャは再会を喜ぶ故郷の人たちと別れ、母犬とはぐれたシベリアンハスキーの仔犬を連れて南を目指して旅立ち、多くの出会いに恵まれることになった。
森で迷ってはレンジャーの少女に親切にされ、海を眺めてはイルカの少女と友達になり、仲良く無人島に打ち上げられては野生味あふれる少女に助けられ、通りすがりのドラゴンに三人揃って救助され、いつかの再会を約してさらなる南を目指し、雪化粧に彩られた京の都で自分の居場所を見つけたアーニャはVTuberとなり、その配信を目にした友人たちと無事再会したというストーリーだ。
物語として見るならご都合主義だとか陳腐だとかいう批判は十分に成立する。だがそんなことは関係がないのだ。この歌を目にしたものはアーニャが救われたことをよかったと喜ぶしかない。
会場の観客も、貴賓席の要人たちも、展望室の関係者も──そしてこの光景を目にした世界中の人たちも、等しく目頭を熱くしてアーニャの歌声と物語に惜しみない拍手を送るのだった。
◇◆◇
2011年12月17日(日本時間20:10)
アーニャのファーストライブはYTubeのライブ配信は当然として、各国のテレビ局を通して世界中の人々に送り届けられたが、それ以外にもより直裁的な手段で実態を知ってもらう努力をした。
開発者であるアレクサンドラ・タカマキ博士が米国という代理人を通して、世界中のあらゆる地域、あらゆる国家に無償で配布した立体映像投影用の端末は、例えばこの日本ならRe:liveと関連企業各社により全都道府県に委ねられ、駅前や各種公共機関、そして病院などに設置され、この世のものとは思えないほど幻想的な映像と歌声に足をとめた人々を魅了した。
「あ、あぁ……」
そして札幌市内の病院に入院して必死のリハビリに励むその少女もまた、駐車場から聞こえる歌声に立ち上がり、呆然と敬愛する歌姫を見上げるのだった。
「アーニャさんが、アーニャさんが歌ってる……」
半年前の事故で一命を取り留めるも右足が動かなくなり、何回も繰り返す再手術と一向に快癒しない自分の身体に絶望して、無気力になったところで偶然目にしたアーニャにその少女は勇気付けられた。
何ら特別な出自でもない一般人の少女が、全く未知の航路を切り拓き世の大半を味方につけるそのサクセスストーリーに、彼女は強く憧れるのと同時に己の過去を顧みて強く反省した。
自分とそこまで歳の変わらないアーニャが前を向いて頑張ってるのに、自分はリハビリを諦めて下を向いてばかり。あの子は人の悪口をぜったい言わないのに、自分はこうなった責任を他人に求めてばかり。情けないにも程がある。
そう隠れて泣けるだけ泣いた少女は、翌日には担当の看護婦が目を見張るほど前向きになったが……少女は一つだけ嘘をついた。
本当はVTuberという仕事にそこまで興味がなかったのに、さも熱意なら誰にも負けないように振る舞って得た機会を私的に流用した。彼女がそうしたのは偏に憧れの少女に会ってありがとうとお礼を言いたかったから。
その願いは叶ったが、憧れの少女すらもその嘘に巻き込んだと言う自責の念は、生来生真面目な彼女の心を苦しめるのに十分だった。
こんな話は何かと親切にしてくれる担当の看護婦にも言えることではない。
「うっ、ううっ……」
「なに泣いてるの、凛花ちゃん?」
「ううっ、シラ姉……」
だが即座に異変を察知した担当の看護婦──白鷺風華が様子を見に来たとき、凛花と呼ばれたその少女は耐えられなかった。
「ごめんなさい。わたしずっとウソをついてたの……本当はVTuberなんてどうでもいいのに、アーニャさんに会いたい一心でシラ姉や磐田社長を騙してたんだ……」
「そうなんだ……でもいいんでない? その程度の方便を嘘と言ったらさ、あたしなんてどうなんのって話だよね。内心くたばれこのくそジジイって思ってる院長に毎日ハイハイ言ってるんだよ? まぁ口が裂けても言えないよね、本人にはさ」
堰を切ったように泣き出した少女を抱きしめ、よしよしと慰めた女性はどこまでも優しく、とびっきりの解決策を処方した。
「それにラプちの場合は嘘で終わらせなければいいだけの話なんでないの? とりあえずアーニャちゃんと会えたわけだけど、実際に会ってみてどんな感じだった? また会って一緒に遊びたい?」
「うん、わたしまた会って一緒に遊びたい。早く足を治して自分から会いに行きたいよ」
「よしよし、だったらそれを次の目標にしようか。最終的にVTuberになる、ならないは傍に置いといてさ。無理をしないで少しずつ、少しずつ歩いていけばいいんだよ。体だけじゃなく心のリハビリもさ……」
その言葉に何度もうなずいた少女はそこで顔を上げ、グスグスと鼻を鳴らして泣き言を漏らした。
「どうしようシラ姉……吾輩、アーニャさんの新曲をほとんど聴き逃した。せっかく大迫力のホロ、ホロなんだっけ?」
「あー、アレね。ホログラムだっけ? しばらく貸してもらえるって話だから、明日になったらアーニャちゃんのアーカイブから再生してあげるよ」
「あーん、シラ姉しゅき、いっぱいしゅき……もう結婚して? お嫁さんにしたい……」
「はいはい、ラプちが大人になったらそうしよっか。そんときゃあたしも立派なおばさんだから、他に結婚したい子ができたら早めに言ってね。この泥棒猫って罵って身をひいてあげるからさ」
口では適当にあしらいながらも、まだ足が不自由な少女のために車椅子を用意した白鷺風華は、身だしなみを整えてやった少女を窓際まで運ぶと、遠い異国の地で奮闘する少女も「がんばれ」と激励するのだった。
アーニャちゃんねる
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