第五曲、狂想曲は突然に、されど迷い子は歩みを止めず
2011年12月16日(現地時間13:50)
さて、とっさに思い付いたデュエットのあと、幼児のように泣き出したみい子さんなんだけど……それが落ち着くとちょっとすごいことになった。
「この馬鹿星! アーニャたんの胸で鼻を噛むヤツがいるか!!」
「あ、あああ……みぃちゃんはなんてことを……」
きっかけはわたしの何気ない一言。泣きじゃくる女の子を抱きしめてよしよしと慰めたわたしは、いったん落ち着く気配を見せたみい子さんがグズグズと鼻を鳴らしているのに気がついたので、あずにゃんに取ってもらったティッシュを手に鼻を噛むように勧めたんだけど、そのタイミングをミスったのである。
まだわたしの胸にすがりついて前も見えない段階でそんなことを言われたら、まあ、そういうことにもなるよね……。
「わぁ! こうして見ると、まるでアーニャの胸に挟み込んで発射『でゃまれっ!?』」
そんなわたしに何か言いかけたグラしゃんがさくらちゃんに頭を叩かれ、あずにゃんとぽぷらさんが問題の粘着物をなんとか拭き取ろうと四苦八苦する光景に、わたしはなんだかおかしくなって笑いが止まらなかった。
「あ、アーニャちゃんには悪いんだけど、笑ってる場合じゃないよね? こんなところを見られたら、ライブの前なのにネットでなんて言われるか……」
「ったく、本気で下ネタ大王だきゃあ……ネタにしていいことと悪いことの区別くらいしっかり付けろってんだ」
「ううん、いいのいいの。むしろ嬉しいよ。こういう気安い関係こそわたしが望んでいたものだもんね」
もちろんわたしにも、今やすっかり『下ネタ大王』の異名が定着したグラしゃんが何を言いかけたのかは理解してる。
さすがにそっちは刺激的すぎたので深く取り上げなかったが、わたしの胸を借りて泣いた友達に服を汚されたことを怒るような精神状態にはないのである。
「あ、アーニャちゃんごめん……アーニャちゃんの服、こんなにしちゃって」
「いいよいいよ。服なんて洗えばいいんだし、代わりはいっぱい持ってきてるからさ」
正気に戻って平謝りする歌姫に伝えるのは、ずっと言いたかったこのセリフ。過剰な天賦で常人離れした容姿に育とうとも、わたしはただの人間、普通の女の子に過ぎない。せっかく出来たお友達に恐縮され、以後敬遠されることほど悲しいことはないと、わたしは微笑む。
「ぽぷらさんとあずにゃんもありがとう。みい子さんも気にしないで。配信のほうは3Dモデルに置き換えられているから、人目に触れるようなものでもないしね」
みい子さんに重ねて心配無用と伝えてから、彼女がわたしの胸で泣いた痕跡を必死の形相で除去する二人に感謝する。ぽぷらさんたちはもう少しなんとかしたかったみたいだけど、どうせこのあとお風呂に入るんだし、胸がしっとり濡れていてもそんなに気にするようなことじゃない。
「とりあえず杏子さんにも伝えたけど、みい子さんとさくらちゃんは明日のライブが終わって、月曜になったら本格的な研修に入ると思います。特に現役の配信者であるみい子さんは今さら研修なんてすっとろいことをしないで、早く配信したいって思うかもしれないけど……まずは全世界を相手取った配信者としてやってはいけないことをきちんと学んで、この道をつまずくことなく歩けるようになってくださいね」
そうだ。ぽぷらさんたちがまたぞろアーニャがエッチなキーワードで検索され、世界トレンドの一位にならないように気にしてくれたように、VTuberになるなら気をつけなければいけないことがいっぱいある。
日本国内に限定しても下手に触れたら炎上必至の話題はいくらでもあるというのに、これが地球上のあらゆる地域、あらゆる国の人々から注目されるわたしの後輩ともなれば、些細な失言一つが命取りになりかねない。
だがそうした懸念を言葉にして伝えると、二人は重々しくうなずいて、それぞれの個性にふさわしい表現でそれに答えるのだった。
「まぁさくらはね、アーニャたんの配信を見て自分なりに研究してきた人間だから、アーニャたんが何を気にしているのか分かるよ。仮に中指を立てて挨拶する人たちがこのお天道さまの下に存在したとしても、それを侮辱と捉える人たちが一緒に見てるなら、やらない方が賢明ってことでしょ?」
「さくらは相変わらずなんちゅう例えを……まぁみぃちゃんもね、ネットリテラシーとコンプライアンスって単語をわりと最近知った人間だから、まずは常識から順番に頭に詰め込んで、焦らずゆっくり勉強する方針です。Re:liveのVTuberとしてデビューして、アーニャちゃんとコラボするのはそれから……コラボしてくれるよね?」
「だから箒星! おまえそうやって念押しするクセを直せよ! そういうところが怖いって言われてるんだと気付け!!」
「あぁ〜、そうだったのかぁ〜! でもみぃちゃん、確約が得られないと不安で……」
うん、さすがは名コンビ。お互いの悪いところに容赦なくダメ出して急成長する二人に、余計な忠告だったねと顔がにやける。
「それじゃあ二人とも、わたしたちはいよいよ一番顔を出すのが怖いところに顔を出しに行くから、最後に全員集合してご挨拶するまでゆっくり楽しんでくださいね」
「う、うん、またねぇ? それが終わったらアーニャちゃんたちがお風呂に入ってるときに、アーニャちゃんのお洋服のクリーニングをお願いしてくるから、裸になったらお洋服をちょうだいね?」
「おう。またな、アーニャたんたち。箒星、お前はちょっとツラ貸せや。……とりあえず洗面所で顔を洗ったら正座しろ。説教はそれからだ」
「えっ? みぃちゃんもしかしてまた何かやっちゃった!?」
お別れの挨拶もそこそこに、仏頂面のさくらちゃんに連行されて不安そうなみい子さんの表情に笑いをこらえる。
本当にいいコンビだ。本当ならあの二人がそこまでの信頼関係を築けたエピソードも聞きたかったけど、それは今後の楽しみに取っておこう。これより向かうのは一大決戦の舞台である。自然と足元にも気合が入る。
……いや、そうでなければこの先には進めないということか。
ハルカさんとエリカさんのインドカリー。杏子さんのとんこつラーメンに、アーリャのロシア料理。そしてさくらちゃんとみい子さんのイタリアンに突撃した食レポも、残すは二つ。中村さんたちがひっそりと屯する和食の一画を除けば、あとはたった二つしかないのだ。
すなわち、伝統料理がちょっとアレなことをネタにされる祖国の料理を背に、今やすっかりフレンチに傾倒した社畜ネキさんを迎え撃つ、コーデリアさんが援軍を待つ決戦の舞台──イギリス料理VS.フランス料理の一画しかないんだよね。
いや、本当に誰なんだろうね。こんな配置にしたのはさ。わたしが責任者だったらやめて差し上げろって全力で止めたのに。
昨日もWisperでバチバチにやりあってたし、ここでイギリスの料理をこき下ろす展開になったら目も当てられない。
そこまで考えなきゃいけないのが、世界を相手取るVTuberの悲しいところだが……逆に言うと、そこに注目すれば社畜ネキさんの真価が判明するということでもあった。
そのことに注意して見てみると……近づくにつれ、遠くからは見えなかったものが見えてきたのだ。
ここまで二時間近く放置してしまった社畜ネキさんの足元には、あの人が苛立ち紛れに飲み乾したお酒の空瓶が並んでいることもなく、ゆっくりとグラスを傾ける女性の横顔は落ち着いたものだった。
社畜ネキさんは本当に楽しそうにコーデリアさんと談笑して、わたしたちが近づいてくることに気がついても歓迎するように手を振るのみだった。
「アーニャたんたち、向こうの料理はどうだった? こっちはあとで説明するけど、どっちも色んな意味ですごいんだよね」
そう朗らかに笑う社畜ネキさんは、明らかにわたしの知る以前の社畜ネキさんとは別人だった。
「うん、わたしはぽぷらさんと一緒に回ってきたけど、ハルカさんとエリカさんの本格インドカリー専門店と、杏子さんのとんこつラーメンは社畜ネキさんにも食べてほしい美味しさだったよ」
「あはは! 何してんだあいつら!? そんなねぇー、ビッフェ形式の食堂でさぁ、勝手に自分のお店を開いたら、ホテルの人たちも困っちゃうじゃんねぇー?」
底抜けに明るい笑顔は以前と変わらなかったが、あらゆる禁忌をものともしない刺激的な部分は感じられない。内心この人が叩かれることになったらどうしようという、以前の不安はまるで覚えない。
「そういう社畜ネキこそこっちで何やってんだ? オラ、キリキリ白状しろや」
「えーっ、別に何もしてないじゃん? 普通にココさんと飲んでるだけだよー?」
「ええ、しばらくあっちこっちを行き来しましたが、特に問題になる行動はなかったと思いますよ。……おまえもなかったよな? ぽぷらさんじゃありませんがキリキリ白状しろ」
「ブー、してないもんねー。ほんとにコーデリアったら、ぜんぜん信用してくれないんだもん。わたし悲しいよ」
「あ、このワイン、前にテレビで見たことがあるよ? ええと、ロマネ、なんとかの1967? これ作ったときの年かな……ずいぶん昔のお酒なんだね?」
社畜ネキさんだけじゃない……そう言って笑い合うこの子たちの姿はわたしの知らないものだった。
日本には『男子、三日と会わざれば刮目して見よ』という三国志に由来する慣用句があるけど、これは女子にも当てはまると、わたしは声を大にして言いたくなった。
「よかった。わたし食レポの順番を一番後回しにしちゃった社畜ネキさんが荒れてたらどうしようって、ちょっと心配だったんだよね」
「いやいや、アーニャたん、お姉さんそんなね? 頑張ってる年下の女の子に当たり散らすような女じゃないよ? そりゃずっと待ち遠しかったけど、ココさんもいたし、ちゃんと人目を忍んでソワソワしてましたぁー! あ、箒星とのデュエットすごかったよ。鼻水はどんまい。あとでお姉さんたちがお風呂で綺麗にしてあげるから、それまで我慢するようにね」
そして相変わらずキレッキレのトーク。さりげなく横目でぽぷらさんの反応も確認しているし、うっかりラインを越えないように注意もしているのだろう。うん、これなら安心して任せられるね。さっそくいろいろ訊いていこうか。
「とりあえず社畜ネキさんたちがどんな話をしていたのか、そっちのほうも気になるけどこっちの料理はどうかな? なんか見たところ、イギリス料理対フランス料理みたくなってるけど?」
「それなんだけどねー、どっちもお姉さんの口には合う感じだったよ。たしかにフランスはさぁ、お酒と料理、どっちも最高に美味しいんだけど、イギリスもネットでネタにされるほど悪くないというか、意外とイケるんだよね。例えばなんだけど……」
わたしが訊ねると、社畜ネキさんはフランス料理を絶賛しながらも、イギリス料理も悪くないと証言してから、ちょいちょいと手招きした。
そうして社畜ネキさんの手元を覗き込んでみると、そこにはフランス料理さながらに手の込んだ料理のお皿があった。クスクス笑うコーデリアさんの前で、その料理を美味しそうに口に運んだ社畜ネキさんはにんまりと笑う。
「これね、さっきからココさんと酒の肴にしてるんだけど、どっちの料理か判る? はいぽぷらさん、こっちに割り箸があるから試食して当ててみてください」
「うえっ!?」
そして突然の無茶振り。生真面目なぽぷらさんは律儀に鑑定に挑むが、答えを出せずに四苦八苦しているようだ。
「えぇと、えぇと、これは美味しいからフランス料理と思わせて、イギリス料理ってオチかな? でもなぁ……イギリス料理が美味しいなんてあるのかなぁ……?」
「ぽぷらちゃんねぇー、その判別方法はともかく、美味しいなんてあり得ないって言ったらイギリス料理に失礼だろぉ? はい、というわけで正解はイギリス料理でした。解説のココさん、ネタバラシをどうぞ」
楽しそうにケラケラと笑った社畜ネキさんが正解を告げると、驚きがわたしたちを飛び越えて、これを見ている視聴者にも浸透しているようだった。
マジか? イギリス料理が美味いなんてあり得るのか? という感想はかなり失礼だと思うが、祖国の料理をコケにされたコーデリアさんは微塵も怒らず、むしろ楽しくて仕方ないと言わんばかりにその謎を解明してくれた。
「みなさんが驚くのも無理はありません。イギリスの料理は世界一不味いという評価は、私たち英国人をして納得せざるを得ないものでした。私たちは自国の紅茶文化に心酔するあまり、食事など二の次と考えていたんですね。しかしその価値観も近年になって変わってきたと言われます」
ふんふん、とコーデリア先生の授業にうなずく生徒たちの一人。事情通のグラシャラボラスちゃん(13歳)がハイッと挙手して発言を許される。
「でもコーデリア言ってたよね? イギリスでまともな食事にあり付きたかったら、ランチとディナーも朝と同じメニューを頼むことだって。わたしもコーデリアが用意してくれたイギリスのメニューって、目玉焼きとカリカリのベーコンに、ポテトと白身魚のフライくらいしか食べたことがないんだけど?」
「仕方ないじゃないですか! 恥じらう心を持ったイギリス娘が他国の食文化を知る人間に出せる料理などそれしかないのですから! それとも祖国の暗黒面を象徴するマーマイトとどこにでも出てくるデローンとした豆の洗礼を浴びたいのですか!?」
ううむ……こうやって聞いてみると、イギリス料理の実態はわたしたち日本人がネットで見かけるそれと変わらないようだが、そうなるとこの美味しい料理はどこからきたのだろうか?
「まあ、この子の言うように、イギリスの家庭で一般的に食される料理は、少なくとも母が結婚のため渡米するまでは悲しいものがあったそうですが……先ほども申し上げたように、それも近年変わりつつあります! きっかけは欧州連合の成立による域内関税の撤廃です!!」
力説する先生の前で首をひねる三人娘を他所に一人だけ納得する。
「えっ? アーニャちゃん、いまの説明で分かったの……?」
「うん、なんとなくだけど……ほら、関税って外国からの輸入品にかけられる税金でしょ? それがなくなったってことは……」
「わたし分かった! ケン・瀧澤のフライドチキンと、MCドナルドのハンバーガーがアメリカと同じ値段になったんだ! だからイギリスの食いしん坊はみんなそっちを食べるようになったんだね!!」
わたしがあずにゃんの疑問に答えると、グラしゃんのこの身もふたもない回答である。これにはコーデリア先生も苦笑い。満点は付けられないけど合格点は認めざるを得ないようだった。
「この子が調子に乗るといけないから満点はつけられませんが、間違ってもいませんから正解ということにしておきましょうか! その通り! これにより他国の食文化に触れることになった私たち英国人は、自国の食文化のあまりの貧弱さに赤面する一方、負けてなるものかと奮起する人たちもいました。それは祖国の食文化を担う料理人たちです」
コーデリアさんは続ける。もともとイギリスは国内で取れる野菜の数が少なく、水質も悪かったために食文化が発展しなかったと。
しかしEUの成立で他国の料理とともに、豊富な食材が輸入されるようになると、それらを研究する料理人たちも増えてきたと。
「私も母の友人経由で聞いた話ですが、そうした経緯もあって近年のイギリス国内では食事に関する意識の高まりもあって、一般家庭でもより良い食事を求める動きが加速しているようです。今はまだ他国の料理を英国風にアレンジしたものが多いようですが、独自のメニューを考案するお店も増えているようです。こちらに並んでいる料理も、おそらくフランスのラプラス大統領にネタにされたイギリスの外務省が、国家の威信をかけてそうした店を探し出し、送り込んできたものでしょうね」
そう、イギリスの料理は世界一不味いと言われた時期もあったが、今は他国の料理に学んだお店もいっぱいあると力説したコーデリアさんが誇らしげに豊かな胸を張り、傍でウイスキーのボトルを手にした社畜ネキさんもそれに同調する。
「いいじゃん、いいじゃん、パクリ上等よ! 日本だってもとは和食しかなかったけど、今じゃラーメンとかカレーとかさ、本場の人たちがなんの料理だって驚くほど魔改造しちゃってるって言うじゃんねぇー? イギリス風にアレンジされたマックのハンバーガーだって立派なイギリス料理よ? いまは反発する人がいても、そのうちそれが当たり前になるって!!」
うーん、社畜ネキさんのこのヨイショッぷり……これも研修の成果なのか、他国の文化へのリスペクトぶりはわたしもう見習うものがあるほどだ。こうした発言に嫌味を感じさせないのもこの人の強みだと、わたしはますます社畜ネキさんのことが好きになった。
「ん? どったのアーニャたん、そんなに嬉しそうにしちゃって?」
「……社畜ネキさんには秘密です。でも社畜ネキさんをVTuberに誘ってよかったなって」
見ればわたしだけではなく、ぽぷらさんとあずにゃんも楽しそうに笑っていたけど、社畜ネキさんにはその理由に見当がつかないようだった。
「ま、そっちはあとでゆっくり聞かせてもらうとして……そう言えばなんだけど、さっきグラしゃんが気になることを言ってたよね? ココさんに料理を作らせるといつも同じメニューが出てくるってさぁ……それってようするに、食べ飽きるほど一緒にいるってこと?」
「うん、わたしのお母さん、コーデリアのお母さんの妹なんだけど、仕事の関係で小さいときからよくコーデリアのお家に預けられたの。だからほとんど姉妹みたいなものなんだよ」
「ええ、そんなわけで世話役に任命された私はこの子に振り回されっぱなしです。まったくこの子ときたら悪戯好き、かつワガママに育って目も当てられません」
なんでもコーデリアさんによると、グラしゃんの悪戯好きは一族内でも有名なようで、奔放な妹に振り回された姉として小言の尽きない毎日だったそうだが、この件に関しては犯人にも言い分があるらしい。
「コーデリアはそんなふうに言うけどさ、たまには別の料理が食べたいと言ったらアレだよ? 悪気がないのは知ってるけど、仕返しの一つもしたくなるじゃんか」
痛いところを突かれたのか、コーデリアさんがグッと言葉に詰まると、社畜ネキさんが「なになに?」と詳細を聞きたがった。
「いえ……先ほども申しましたが、私の母はちょうど祖国で料理革命が起きる直前に渡米した人間なので、たまに出てくるのですよ。英国の暗黒面が……」
そこで居た堪れそうに縮こまったコーデリアさんは、体を張って隠していたものを見せながら白状するのだった。
「私がいるときは全力で止めましたが、油断すると出てくるわけですよ! 国民的ペーストのマーマイトやデローンとしただけの豆が! それだけならまだしも特注の材料を集めて自作したものも!! そうです、私はここにハギスを送りつけてきたヤツらは何を考えてるんだと声を大にして言いたい! もしやアーニャさんなら美味しいと言ってもらえると思ったのか!?」
おおう、ないと思ったけどあったよハギス! 誰もでかしたと言ってくれないけど、まさかこの場でお目にかかれるとは……。
「は、ハギスってそんなに酷い料理なの? 見た目はたしかに、怪生物の死骸みたいだけど……?」
「うん、酷いよ。あまりに酷いから作り置きの中身を全部コーンフレークに差し替えたけど、そっちのほうが全然食べられたね。しこたま怒られたけど……」
「う、うん……これはちょっと遠慮したいものがあるぽぷな……」
あずにゃんがこれでも控えめに表現したけど、たしかに見た目はあまりよろしくない。羊の胃袋という滅多にお目にかかれない食材に、これまた主に羊の内臓のミンチを茹でたものを、消臭目的のハーブやその他もろもろと一緒に詰め込んだこのハギスという料理は、初見なら物珍しさに手に取ることも躊躇わせる異様な風体であった。
でもそんな料理が成立した背景を識っているわたしとしては、嫌いになるのも無理な相談だった。驚くコーデリアさんの前でハギスのお皿を手に取ったわたしは、備え付けのスプーンで中身をほぐしながらこう口にした。
「この料理は戦時下の食糧不足のイギリスでね、それまで食べずに捨てられていた部位をなんとが食べられないか工夫した料理なんだよ。これはわたしの想像なんだけど、たぶんね、お腹を空かせた子供たちに、なんとかお肉を食べさせてあげたいと思ったお母さんが生み出した料理なんじゃないかな? そう考えたら嫌いになんてなれないよね」
そう言って口にしたハギスはハーブの癖が強く、肉自体の旨みも後から付け足された牛脂によるものが大きく、たしかに万人に勧められる料理ではないかもしれない。
でも美味しかったとは口にできなくても、わたしにはこれを口にした子供たちの喜ぶ顔が浮かんできて大いに満たされた。だからこれはそれで十分なのだ。
「ごちそうさまでした。この料理を生み出した先人の努力に敬意を表します」
そう、嘘偽りの心情を口にすると、わたしを取り囲む五人は感心したように、そして少しだけ心配するように溜め息をつくのだった。
「いや、脱帽です。私は英国人でありながらアーニャさんと同じ視点を持ち得ませんでした。このハギスは先人に感謝するための料理でもあったのですね」
「ねぇー、ココさんもそう思うでしょ? お姉さんもね、前から思ってたけど……アーニャたんには聖女の素質もあるよね。いつか自己犠牲の精神が行き過ぎないか、お姉さんちょっと心配だわ」
社畜ネキさんの言葉に、ぽぷらさんたちが「うんうん」と深き同意するように首を縦に振るのを見て、わたしは少しだけ居た堪れなくなった。
わたしの言動は完全に無垢なものではない。世界各国の注目を浴びるアーニャとして相応しいものをという計算は無意識のうちに働いている。さっきの一評とて、実態以上にネタにされているハギスの論評を巧妙に避けたと言えなくもない。
だというのに聖女という評価にドキリとしたのは何故だろうか?
わたしは別に人身御供になる気はない。以前はみんなの道筋を確かなものにしたらひっそりと消えようかとも思ったけど、みんなと遊ぶ楽しさを知ったいまのわたしは岩に食らいついてでもVTuberを続けるつもりだ。
そんな浅ましい子供であるはずのわたしが、アーリャのように信仰を貫いた聖女であるはずもなし。たぶん社畜ネキさんが口にした聖女というワードに、前世の煩悩に塗れた記憶を刺激されて慌てただけだと結論づける。
だけど、それが逃避にすぎないことはすぐに判明した。この光景を世界中に発信してるモニターの配信画面から「正気ですか?」というサーニャの声が聞こえてきたからだ。
「どうしたのサーニャ? 何か問題でも起きたの?」
わたしが訊ねるとサーニャは呆れたように、それでいて苛立つように歯噛みしてからこう答えた。
「正直なところ、ここまで彼らが愚かだとは思いませんでしたが……仕方ありません。あまりお見せしたいものではありませんが、隠したところで意味はありませんのでお見せしますが……どうか皆さま、血圧にご注意を」
そう言ってサーニャがグループ配信の要領で中継した記者会見の様子に、わたしは自分が何者であるかを思い知るのだった。
◇◆◇
2011年12月16日(日本時間22:20)
首相らの思いつきによる緊急の記者会見に同席を強いられた政府与党の政調会長、野々宮倫太郎は目もくらむ思いだった。
先ほどの緊急閣議で合意された内容を、個人的な同志である自由党の阿部隆一元総理に伝え、いかに日本の国益を損なわずに政権交代を成し遂げるかに腐心していた野宮にとって、この会見はまさに青天の霹靂だった。
(まさかコイツらがそこまで愚かだったとは……)
同席する首相、前首相、内閣官房長官の横顔を確認すれば、彼らが何を考えているか判別は容易だ。野々宮は直前まで誤解していた。彼らは現実を正しく認識できないのではない。彼らは自分たちの信じることが全てなのだ。
アーニャのファーストライブというオリンピック級のイベントに対応するためか、普段の半分程度しかいない記者団の前で頭を抱えた野々宮は、不幸にもこれまた同席を強いられた警視庁警備部の本部長と視線を交わした。
これはもうどうにもならない。最悪の共通認識を得た両者は内心で激しく憤慨し、そして納得もするのだった。
この愚行によって日本の国益は著しく損なわれる。前首相の代で戦後最悪と言われた日米関係はますます悪化し、諸外国の信用も大いに失われるだろう。だが甘受すべきでもあった。
その悪夢はこんな政権の樹立に手を貸した全ての人たちが等しく背負うべき負債だ。先の会合の延長で、缶ビールを手にした官房長官が酒臭い息とともに特大の爆弾を投げ込むのを、野々宮は無念の思いで見守るのだった。
「失礼……官房長官はいまなんと仰られたのですか?」
絶句する記者団の前で、記者クラブという『報道内容に責任を持たずに済む自由』を管理する壮年の記者が震える声で尋ねる。ジャーナリストの魂を早々に売り渡したその記者をもってしても、いまの発言を聞かなかったことにするのは不可能だった。
「聞こえなかったのかね? 中国の領空を侵犯した米軍機に登場した真白ゆかりとかいう小娘を、先ほどの閣議で証人喚問にかけることを決定したと言っているのだ」
再度の爆弾発言に絶句から立ち直り、唖然とする記者たちの反応に気をよくしたのか、トラブルメーカーの前首相が余計な口を開く。
「みなさんもアメリカのなんとかいう飛行機にその子が乗ってたのは知ってるでしょう? だとしたらその子はパスポートを使わずに出国したわけですから、これは密出国、そして国境侵犯です。国民に真実を知らしめなければならない我々としては、国会で厳しく追及しないといけないわけなんですよね」
すると「なんだそれは」と記者団が騒つく。密出国とは非合法的な手段で国内から逃亡した犯罪者を指す罪状だが、今回の事例ではそれに当てはまるとは思えないのだ。
在日米軍の活動は非合法なものではなく超法規的なものだ。日米地位協定によってそうなっているのだ。ならばアーニャの演者である真白ゆかりと米国が同意しているならば、今の日本政府がどんなに歯噛みしても彼女たちの行動を罪に問うことはできない。
まして国境侵犯だと? 未だに尖閣諸島周辺に居座る中国海軍の軍艦から目を逸らしながら何を言うか。若い記者たちが憤慨する様子にまとめ役の記者たちは慌てるが、咥えタバコの首相はその反応を都合のいいように受け取ったようで、自信満々に持論を展開した。
「悲しいことだが腐ったみかんは取り除かなければならんと言うことだ。仮に米軍機の国境侵犯が小娘の指示によるものなら、小娘は共犯ではなく主犯だ。君らもあの騒々しい小娘には迷惑しているだろう? ここは法治国家として未成年であろうと罪は罪として厳しく罰してやるのが、私たち責任のある大人の役目というものじゃないかね?」
「もちろんあの小娘が作ったリなんとかという会社の人間と、子分のブイなんちゃらとかいう女どもも同罪だ。女なら女らしくしていればいいものを、いっちょまえに目立とうとするからこうなると国民に知らしめねばならなんな。もちろん家族も同罪だし、N社の監督責任も問わにゃいかん」
ここまで来ると完全に支離滅裂で、野々宮は曲がりなりにも法治国家の体裁をとる日本政府の人間として恥ずかしくて自身の存在を消し去りたかった。
だが、この恥ずべき持論も彼らのなかでは唯一の真実である。どうした理由からか、彼らは世界中で似たような思考を経て、似たような結論に達するのだ。そのことを野々宮は歴史から学んだ。
例えば左派活動家の残忍さを日本中に露呈した麻隈山荘事件のように。彼らが必要とするのは自己批判によって己の軍門に降った手下だけだ。
まともな論理的思考や常識の持ち主など、自分たちの楽園を蝕む害虫と変わず、独善と非寛容の精神に基づく彼らは外敵にはどこまでも残忍だった。その狂気が現代まで生き残っているわけがないと、野々宮は甘く見ていたのだ。
だが実際には前政府与党とその権力を支えるものを悪と定義し、それを駆逐するためならどんな常識外の醜態を晒しても開き直った彼らの正体は、この国の権力を掌握してから段々と露呈したというのに……。
国会の証人喚問を自分たちが自由にできる、私的な裁判か何かだと思い込んだ彼らの妄言はとどまるところを知らなかった。
「特にね、今回のことは中国さんも怒っているわけですよ。もともとその子は、中国国内で、ええと、ワイなんちゃらだったかな? それの違法視聴を助長させてるとかで、たしか騒乱罪に問われてるんでしたっけね?」
「前首相は博識ですな。これまでは体裁が悪いから保留にしておきましたが、どうせあの小娘は死罪だ。ならば中国に引き渡しても問題ない。もちろん見返りとして尖閣から手を引いてもらうようお願いせにゃならんでしょうがね」
「まあ、あの小娘も見た目だけは中々だからな。連中に引き渡したらさぞかし可愛がってもらえるだろうから、これは小娘本人にとっても悪い話じゃない。どの道たかが小娘一人の身柄で日本の安全が買えるなら、悪い話じゃ──」
「『この売国奴がッ!!』」
その無責任な妄言に激昂した若い記者たちが首相に飛びかかり、あっという間に馬乗りになって殴打する。
これまで彼らはずっと我慢してきた。万年野党と腐敗したマスコミ。長年の共犯関係の談合と大規模な世論操作により成立した今の政府に、彼らはずっと憤っていた。
国民に真実を知らしめる記者の仕事に誇りを持って大手の新聞社に入社したものの、自分たちの預かり知らぬところで醜態を晒す政府と上層部の愚行により、親類縁者からも共犯者として指弾され、軽蔑されながらずっと堪えてきた怒りがいまこそ爆発したのだ。
「ヒィッ!?」
突然の凶行に腰を抜かした前首相が這々の体で逃げ出そうとするも、前首相が逃げるぞという叫びととも殺到した若い記者たちに捕まり、あっという間に血だるまに変えられる。そうした若い記者たちの暴力を、だが先輩の記者たちはまるで制止しようとしない。
彼らにも彼らの言い分があった。彼らが入社する以前に成立した記者クラブという言論統制機関に憤る時期もあったが、現実などこんなものだと妥協し、その枠内ですっかり飼い慣らされてしまった古株の記者たちも、目の前でひき肉に変えられる首相らに忠誠を誓った覚えはなかった。
「なんだ! SPどもはなにをしてる!? 私を護れ、護らんか! 護れと言っておるというのに!!」
幸運にも突き飛ばされて殴られずに済んだ内閣官房長官が悲鳴を上げるが、背後に立つ警備の動きは緩慢だった。
もともと彼らも現政府が諸悪の元凶と決めつけ、散々に嫌がらせをしてきた警視庁のお役人である。組織内トップの警備部長が黙して首を横に振っているのだ。法の何たるかも理解していない無法者のために、法の番人を気取るつもりはまるでなかった。
そうして若い記者たちに捕まって、首相らの仲間入りを果たした官房長官を尻目に、初めて口を開いた野々宮は、ひどく深刻な溜め息のあとに「国民の皆さん」とカメラの向こうに呼びかけるのだった。
「政治というものは自らを侮辱するものを決して許しません。政治とはひどく面倒で、できれば関わりたくないとお思いでしょうが、そうした無関心がどのような結果をもたらすのか、これだけは忘れずにいてください。もし主権者である皆さんの一人一人ががこの光景を忘れたとき、再びこの日本には似たような政府が成立することでしょう。法治国家のなんたるかも知らず、自己の妄想と合致する他国に媚びへつらい、嬉々として自国民を売り渡そうとするそんな政府がです。我々民社党政府は今宵をもって消滅することになるでしょうが、どうか国民の皆さまにおかれましては、この光景を教訓として銘記していただきたい。私からは以上です」
暴走した若い記者たちは野々宮にも飛びかかろうとしたが、本能的に違うと察した彼らはその言葉を最後まで聞き届け、次第に落ち着きを取り戻した。
少なくともこの男がいる限り、今や国民的なアイドルでもある真白ゆかりが出鱈目な裁判にかけられることはない。そう自分を納得させた若い記者たちは、警備部長が不幸な事故として搬出させた首相らの姿に、多少なりともばつが悪そうに顔を見合わせるのだった。
◇◆◇
そんな悲鳴と怒号が飛び交う記者会見の中継により、こちらまで大変なことになった配信を急遽終了させたわたしは、ホテルのベランダで異国の風に揺れていた。
ぼんやりと見つめる夜景は心に響かず、物思いに耽るわたしの頭を占拠するのは社畜ネキさんのあの言葉と自分の決断についてだった。
社畜ネキさんは言った。わたしには聖女の素質があると。
そして首相らがわたしの罪を鳴らしたとき、わたしはなんて思ったのか……わたしの傍から離れようとしない愛犬だけが、つぶらな瞳で見上げるわたしの苦悩を見透かしてくる。
「夜風は体に障りますよ。皆さんもお待ちになっておりますし、そろそろ温かい湯に浸かってリラックスされてはどうですか、ゆかり」
いや……まるでわたしのお母さんのように見つめてくるこの子の眼も誤魔化せないか。
わたしの娘はどこまでも優しく温かい瞳で、わたしの心身を案じてくる。そんなこの子に心配をかけるようじゃお母さん失格か……。
「何をそんなに気にしているのです? 近く彼らが暴発することは報告済みで、ゆかりも納得済みだと思っていましたが……」
「うん、そうなんだけどね……」
サーニャの言うように、わたしは事前に知っていた。台湾や香港の友人からアーニャの存在を知った中国の人たちが、違法にYTubeを視聴して国内の統制を強める中国政府が苛立っていたことも。
利益供与を断った地元議員により、わたしの悪評を真に受けた日本政府が、近く中国政府に迎合して自滅することも、ちゃんと事前に聞かされていた。
だからそっちのことはいいのだ。たとえサーニャたちの予測をものともしない迅速さで自滅したことも、よりにもよって大事な配信を台無しにしてくれたことも、これが戦争であることを考えれば妥協するより他にない。
わたしはとっくの昔に彼らと闘うと決めた人間だ。今さらそんなことで怯みはしない。
でも……。
「わたしね、配信中にイギリスの料理に敬意を表したとき、社畜ネキさんに言われたんだ。わたしには聖女の素質があるって。……そのときは心の中で笑い飛ばしたんだけど、日本政府にメチャクチャな罪状を突きつけられ、家族を人質に取るようなこと言われたとき、わたし思った。いますぐ出頭しなきゃって……」
「ゆかり……」
「そして気がついたの。頭の中がいつも他人のことで一杯で、他人の視線を気にしてばかりのわたしは……もしかしたら漫画やゲームの世界でよくある聖女のように、自分っていうものがないのかなって……」
そのときザァッと吹き荒れた風が髪をなぶり、視界を狭めるが、そのなかでサーニャは微動だにしなかった。揺るぐことのない親愛と忠誠の瞳に弱音を吐いた自分が恥ずかしくなる。
「ふふ、何を悩んでいるのかと思ったら……ゆかりにもありますよ? 揺らぐことのない自我と我欲という紛れもない貴女自身が」
「それは何……?」
「ゆかりがどれだけ深く家族を愛しているか、私でも知っています。家族にもしものことがあれば居ても立ってもいられず飛び出したくなる……そこに貴女の揺らぐことのない根源があると私は思います」
「だよね……だってわたしにはそれしかないからさ……」
前世のわたしもそうだった。ひどい家庭に生まれてそれぞれ父親と母親の違う弟妹を必死に守り、そして全てを使い果たしてボロボロになって亡くなった。
「でも独立まで支援したあの子達は連絡が付かず、一度も見舞いに来てくれなかった。だからわたしはどこで間違えたんだろって、そうならないようにいい子であることに固執したんだ……」
「ふむ? それがゆかりの魂に根ざすトラウマの正体ですか?」
たぶんそうだとサーニャにうなずく。
なんてことない。わたしは究極的には他人の善意を信じられないのだ。だからそうするだけの根拠を誰よりも気にするのだろう。
やれ家族だからと。やれここまで尽くしたのだからと、見捨てられない理由ばかりを気にして自分を安心させようとする……。
「やれやれ、そうして自分を追い詰める傾向は変わらないのですね、ゆかりも」
そんな臆病者のわたしの隣に身を寄せてきたサーニャは、こちらが何かいうよりも早く、自分の唇に人差し指を当ててどこか悪戯っぽく微笑した。
「サーニャ?」
「どうか今からご覧になるものは内密に……別に禁じられているわけではありませんが、死後の世界を覗き見るのはあまり褒められたことではありませんからね」
わたしにはこの子が何を言っているのか判らなかった。わたしたちの胸元に浮かび上がる光景も、それの意味するところもすぐには理解できなかった。
「あっ……」
だがしばらく眺めていると否応なしに理解させられた。これはあの人の葬儀だと。病に倒れ、親類縁者が引き取りに現れなかった前世のわたしは、無縁仏として荼毘に付されたと思っていたが、違った……。
「どうやらこちらの方が以前の弟さんで、こちらの方が以前の妹さんですか。どことなく今世のお二人の面影があるのですから、魂とは分からないものです」
そうだ、間違いない。この子たちはあの子たちだ。あの子たちはどちらも大変な悲しみようで、ひどい両親から逃げ出すのに利用するだけ利用されて、利用価値がなくなったら見捨てられたと思ってたけど、違ったんだ……。
「どうも連絡がつかなかったのは不幸な行き違いがあったようですね。お望みならもう少し並行世界の観測を続けますが、今のゆかりに必要ですか?」
「ううん! それさえ判れば、もう十分だよ……」
熱いものが込み上げてきた目を押さえながらも、わたしは自分勝手な思い込みに顔まで熱くなるのだった。
なんてことない。アーリャにロシアのラスプーチン大統領から書簡を届けられたと聞かされたときにやらかした勝手な決めつけを、わたしはこっちでもやっていただけだったんだ。
「さて、ゆかりの家族愛は決して一方通行なものではないと判明しましたが……どうしますか? お望みならゆかりの死後、こちらのご家族がどのように反応されるか計測してみせますが?」
「サーニャって、やっぱり辛辣だね……しないよ、だって、する必要がないもん……」
途端に足元で弧を描き始めた愛犬を抱き上げて意地悪メイドに答える。同じようにわたしを気遣う瞳もいまは嬉しそうで、ペロペロと熱い水滴を舐め取ってくれるけど、これって単に塩分を補充してるだけじゃないよね?
「ふむ、それではゆかりも納得してくれたようなので戻るとしますか。皆さんお待ちかねですよ。具体的にお風呂でキャッキャうふふを待ち侘びてもいらっしゃいますが、あのようなかたちで閉幕となった配信以降、浮かない様子のゆかりのことも心配なさっておられるご様子です」
「あ、やっぱり? お風呂で揉みくちゃにされるのは構わないけど、ちょっと気まずいかな? 配信のほうはもう少しやりようがあったと思うし……せめて最後にきちんと挨拶できたらよかったんだけど」
「あれはコメントも暴動が起きかねないほど荒れましたから仕方ないのでは? しかしそうなると3Gに続いて二連敗ですか。明日のライブで逆転したいところですが、運営として責任を感じますね」
そんな話をしながら母親の帰りを待つ子供たちの前に姿を見せる。
どうやらわたしの正体は自己犠牲の化身ではなく、お人よしな迷い子だったようだが、それでいい。それがいいといまは思う。
だっていまは迷っていない。本当に大事なものを何も手放していないのだから。
帰るべき家にたどりついたわたしに不安はなく、後ろめたい過去もなくなった。だからわたしはこれまでのすべての家族と愛すべき隣人たちに感謝して、いまはこの素敵なホームパーティーを楽しもうと、大理石の浴場に飛び込む。
すると居るわ居るわ。女性ばかりで大胆に脱衣するうちの子たちが。
「あっアーニャたん、お風呂の用意バッチリオーケーだけど、アーニャたんはどうする? お姉さんが何かやらかすんじゃないかって不安だったら、お姉さんね、向こうの警備の人たちにどこか適当な個室に監禁されとくけど!?」
「なに言ってるの? 社畜ネキさんたちと一緒のお風呂、ずっと楽しみにしてたんだから、今さら逃げようたってそうはいかないからね?」
まったく、わたしにゆっくりお風呂に入ってもらおうと気を使ったんだとしたら見当違いもいいところだ。
わたしはこの期に及んで急に慌て出した社畜ネキさんの前で服を脱ぐと、手近のタオルで前を隠して脱衣所の先に身を躍らせるのだった。
入浴シーンは省略されました。感想欄にワッフルワッフルと書き込んでも読めないので悪しからずご了承ください。




