無限の航路は見通せぬものの
2011年12月8日(金)
弟と妹がニヤニヤとこちらを見守る中、お母さんがわたしに注意する。
「ゆかり、女の子がしたらいけない顔をしているわよ。気をつけなさい」
「はぁ〜い、気をつけまぁ〜す」
自分でも自覚はある。自宅に帰ってからわたしの顔は弛みっぱなしのようだが、どうか見逃してほしい。
けっきょく名前が思いつかなかったので、Wisperの募集から北欧風のユッカと名付けたシベリアンハスキーの仔犬だけど、これがとってもおりこうさんなのだ。
ユッカを譲ってくれたブリーダーさんによると、この子はまだ生後40日くらいのオスでわんぱく盛りとのことだが、全然そんなことはなく、何をするにも飼い主の反応を窺ってくるのが最高に可愛いんだよね。
ケージから出してあげると色んな物に興味を示すんだけど、ダメだよって言うと「クゥーン」と鼻を鳴らして甘えてくるし、犬用のおもちゃも渡してあげたもの以外は勝手に咥えたりせず、じっと言葉を待つ姿にわたしはもう天才だと確信したね。
トイレも一発で覚えるおりこうさんぶりに、お母さんも「これならケージは必要なかったかしら」と片しちゃうくらい、ユッカはとっても賢かった。
そんなわけで放課後に直帰して愛犬と戯れ、思う存分満喫したわたしは下の子に場を譲ってユッカの天才ぶりを報告したんだけど……サブちゃんときたら、相変わらず重い現実を突きつけてくるんだよなぁ……。
「まあゆかりの言うことなら仔犬にも伝わりますよね。そういう能力ですから、アレは」
おやつを食べる手がピタリと止まるが、サブちゃんが何を言わんとしているか見当もつかない。
「……どういうこと?」
わたしが訊ねると、サブちゃんは両手を腰に当てるとため息をつき、「やはり気づいていませんでしたか」とこれ見よがしに呆れてみせた。
「お忘れですか? ゆかりにはあらゆる『言語』を一瞬で理解する能力がおありでしょうに」
「うん、あるにはあるけど……」
わたしがアーリャと知り合うきっかけになった能力だから十分役に立ってくれたけど……外国語に触れる機会は配信中に海外ニキのコメントを目にするときぐらいだし、あとは外国語バージョンで歌うときにしか使ってないから、イマイチ出番が少ないんだよね。
「でもアレって普段はあんまり使わないから、わたしのチート能力さんの中では比較的地味だよね」
素直な感想を口にすると、サブちゃんが痛ましいものを目にしたような顔になった。
「なによ、その顔……言いたいことがあるんだったら言っていいよ?」
「ゆかりがそう仰るなら言わせてもらいますが、人類が言語という概念を生み出したのは何のためだと思いますか? それを考えればゆかりの才能がどれほど偉大か解ろうものですが」
それはもちろん、おしゃべりを楽しむことではなく……自分の要求を伝えることでもなく……。
「……分かり合うため、かな?」
「おや、今度は正解です。ゆかりのおっしゃる通り、人類が他者という未知の存在と言語を用いて意思を疎通するのは、自分たちは敵ではないと分かり合うためです。よって、意図せずこちらの『能力』を極めたゆかりは言語を解さぬ生物であろうと、何らかの手段で意思疎通を行っている生物なら相互理解が可能です」
うわぁ……なんということだろうか? これまで外国に行ったときに便利くらいにしか思ってなかった、比較的おとなしめのチート能力さんが無限の可能性を帯びてきたんだけど?
「でもわたし、バウリンガルみたいに犬の言葉は解らないんだけど……」
「今はできなくてもそのうちできるようになりますよ。ゆかりの訴求力は半端ありませんから、ゆかりの意図は正確に伝わるでしょうし……そのときに返ってくる反応を『理解しよう』と思えば見逃さないでしょうね。ゆかりはそちらの才能も凄まじいものがありますから」
なんだろう、冷や汗さんが皮膚の下で襲撃の機会を窺ってるようなこの感覚。サブちゃんの言葉がジグソーパズルのピースになって、頭の中で一枚の絵を完成させる。
「あれ? えっと……ちょっと待って? それじゃあ視聴者があんなに熱狂してるのって……?」
「はい、ゆかりの絵や歌はもちろん、言葉にも問答無用の訴求力がありますから当然の結果ですね。……ついでに言わせてもらいますと、私が無意味なものを非表示にして多少は減らしていますが、あの量のコメントを視認しただけで噛み砕いて理解できるのもその才能ゆえです」
なんてこった! できれば知りたくなかったよ……! わたしなりに頑張ってきたつもりだったのに、結局、何から何までチート能力さんの仕業だったなんて!!
「……ゆかりが何を考えいるか判りますが、その話は以前にもしましたよね? 持って生まれた才能や容姿、家柄などに罪の意識を覚えるなど不毛極まりないと。それに才能だけではなく、ゆかりの努力はしっかりと反映されていますので、どうか誤解なさらず。それにゆかりは、これまで数々のやらかしにもめげず、頑張ってきたではありませんか。凄い子だけど、どこか抜けてる。そんなゆかりだからこそ、アーニャというVTuberはあれほどまでに愛されているわけですから、どうかそれだけはお忘れなく」
……そう言われるとぐうの音も出ない。
結局のところ、この後ろめたさの原因は、あの人たちを差し置いてVTuberとして活躍していることにある。しかも努力して会得したわけでもない才能に頼ってとなると、ひどく性質の悪いインチキをしているようで、わたしの小市民的なメンタルをチクチクと刺激するが……だからって今さらどうしようもないもんね。
悪いと思うならしっかりとやりきろう。世界的なVTuberの枠組みを整えることで恩返しするのだ。
「うん、わかった。申し訳ない気持ちもあるけど、わたしがVTuberとしてやってきたことは無駄じゃないって信じてるから、これからも頑張るよ」
「はい、それでこそゆかりです。ゆかりなら人類に敵対的な地球外起源種とも対話可能ですから、これからも平和の歌を世界に響かせてください。それが人類にとって一番ですから」
わたしがペコリと頭を下げると、サブちゃんは満足そうに締め括った。
「でもサブちゃんってば大袈裟だよね。わたしがそんなエイリアンみたいのと交渉するなんて……」
「そうでしょうか? 実際にケイ素生命体とのコンタクトに成功した記録も残されていますが、ゆかりなら十分可能だと思いますよ」
あはは、と渇いた笑いが漏れる。うん、聞かなかったことにしよう。
「まあ小心者のゆかりに配慮してもう少し狭い世界に限定しますが、ゆかりの意図が正確に伝わるのはいいことではありませんか。ワンちゃんもゆかりという優れた統率者に恵まれて幸せそうですし、もっと割り切りましょう」
「うん……まあ、名犬ユッカが誕生しそうだって判ったのは収穫だけどね」
なんか無性に頭の中を空っぽにして愛犬と戯れたくなったが、まだそうするわけにはいかないんだよね。
「それでは時間も押していますし、恒例の作戦会議と洒落込みましょうか」
お馴染みの教鞭で変身したサブちゃんが、パソコンの画面に所狭しとマルチタスクを展開する。
今回はメールやWisperの他にも、どこかの株価や海外のニュースなど報告は多岐に渡りそうだが、その中に……。
「さて、まずは12歳の誕生日おめでとうございます。今朝の広告でそのことを知った方々からお祝いのメールが届いていますよ」
サブちゃんがおしゃれな便箋を手作業で並べるが、そこに書かれている名前はどれもわたしの知っているものばかりだった。
「うわぁ……磐田社長に宮嶋さん、大谷部長に中村さん……あっ、3Gの藤本さんまで」
「他にもご友人のアーリャさまはもちろん、配信でご一緒したレンタル利用者の方々や、以前からファンレターを送ってくださった皆さまからお祝いのメールが届いていますね」
昨日から驚かされてばかりいるけど、個人的にこれが一番のサプライズだった。
何故ならメールを送信した時間は日付が変わった直後で、今朝の広告で知ったというわけではなさそうだからだ。
これが磐田社長たちだけならお父さんから聞き出したと納得したんだけど、本当に社畜ネキさんたちはわたしの誕生日なんてどこで知ったんだろうね?
「ふふっ、社畜ネキさんったら、さっそくユッカの絵を描いて送ってきたね。しかもアーニャがユッカを洗ってあげる絵を描くなんて、相変わらず手が早いんだから」
「まあ平和なイラストですよね。……裏でゆかりに見せられないものを描いていないといいのですが」
裏ってなんだろうと思ったけど、社畜ネキさんの性癖を知り尽くしているわたしは即座に聞いてはいけないことだと判断して、全力で知らんぷりをした。
こっちに添付されたイラストのアーニャは、しっかりTシャツとスパッツを着込んでたけど……いいや、これ以上は考えないようにしようっと。
「なんか頭が痛くなってきたけど、お返しは必要だよね。……Wisperとは別に、メールをしてくれたみんなには、レンタルVTuber全員集合のイラストでも送っとこうかな」
「いえ、その件は少々お待ちを」
わたしが自分の妄想を誤魔化すように液タブを引き寄せると、サブちゃんから待ったがかけられた。
「誕生日のお祝いとは別に、磐田社長からメールがありまして……実はアーニャとの契約を公表して、VTuberの事務所を来週中に稼働させると公表したのを機に、N社の公式ホームページに特設サイトを立ち上げたそうなのですが、少し問題が」
そう言って『N社公認VTuber』と名付けられた特設サイトを表示して、サブちゃんが申し訳なさそうに説明する。
「ご覧のようにゆかりのアーニャや私のサーニャだけではなく、昨日の時点までにレンタルVTuberのシステムを利用して、今後も活動の意思を確認できた皆さまもご紹介しているのですが……社畜ネキさまがゾンビのままなのは、見栄えがあまりにもよろしくないので、なんとかしてやれないかとご相談が」
「ああ……」
うん……たしかにホワイトキャットなハルカさんや、西洋版酒呑童子みたいなエリカさんはともかく、古のオタクゾンビと化した社畜ネキさんの絵面はあんまりだもんね。
「他にも今後の活動を見越して、細部の設定や造形を変更したいという方もおりまして。具体的には、仲上ハルカさまは髪の色を白くして、猫耳や尻尾の色と統一したいと希望され、進藤エリカさまもセーラー服ではなく、和服に着替えたいと思っていらっしゃるようで……水色さまとぽぷらさまも本格稼働の前に、ハンドルネームを一部変更したいと」
なるほどねぇ……まぁこの辺りは、わずか一週間の間に五人のVTuberをでっちあげた弊害みたいなものかな。
打ち合わせの時間も不十分だったし、社畜ネキさんのようにとんでもないガワと設定を押し付けちゃった人もいるし。レンタルから正式に移行するにあたって黒歴史を修正できるのは、こちらとしても有り難いな。
「まあ誰だか判らないくらい変更すると視聴者も混乱しちゃうだろうけど、今はお試し期間中だし、特設サイトできちんと紹介してくれるんだったら構わないと思うな」
「そうですね。最終的にN社の事務所と契約するかどうかは判りませんが、レンタル中はこちらの一存で好きにやっていいそうですから、設定の変更にも柔軟に対応しましょう」
「うん。それじゃあ大した手間でもないし、さっさとやっちゃおうか」
以前のデータも残ってるから手直しは一瞬だ。ハルカさんの髪を白に近い銀色に変更して、エリカさんを晴れ着と縁日グッズで着飾ってみる。
うーむ……ツノを生やした日本かぶれの外人さんみたいになったエリカさんはともかく、髪の色を真っ白にしたハルカさんは猫耳のコーディネートが自然になったのはいいが、以前のセーラー服がコスプレみたいに浮いてしまった。
まさに彼方立てれば此方が立たぬのことわざ通りだね。このままじゃなんだから、幾つか似合いそうな服も描いてハルカさんに選んでもらおう。
「よし、完成っと……。それじゃあハルカさんたちにこれを送って、オーケーなら変更の流れでいいんだけど、社畜ネキさんはどうするかな? あんなガワでも本人は全力で楽しんでるんだし、勝手に変えるのも気がひけるんだよなぁ……」
「社畜ネキさまなら事前に確認しましたが、ゆかりが描いたものなら何でもいいそうです。ただ今さら年齢を引き下げるのも恥ずかしいとのことなので、下げるにしてもハルエリのお二人と同年代までにしてほしいそうです」
そうなのか……ゾンビにしちゃったお詫びにアーリャたちと同年代にしようと思ったけど、余計なお世話になっちゃうのか。難しいな。あれくらいの年齢の女性心理って。
「いいや……もう面倒だし、勝手にやっていいなら、社畜ネキさんにはトラックにでも轢かれて異世界に転生してもらおうかな」
ついでにファンタジーでお馴染みのやたら長生きする種族に転生してもらえば、見た目と年齢のギャップも解消できるね。
「そんなわけで上古のエルフに転生した社畜ネキさんは、持ち前の行動力で迷いの森を抜け出し、数々の冒険をこなして異世界の危機を救い、ギリシャ神話のアルゴー船のような海賊船に乗って、こちらの世界に帰還するのでしたって設定でどうかな?」
「これはまた、あの方に相応しい豪快な経歴ですね。いえ、あの方ならやりかねないという意味ではないのですが……」
「まあ社畜ネキさんなら、異世界に転生しても全力で楽しんで、気づいたらこっちの世界に戻ってそうだよね」
「偏見と言い切れないところがあの方の恐ろしいところですが……他の方にもこれでいいか確認してから、磐田社長にお伝えしますか」
「うん、お願いね」
どっちにしろリニューアルしたイラストがL2Aにどう反映されるか楽しみだ。サブちゃんがメールを飛ばしている間にお返しのイラストを描きあげる。
Wisperには愛犬を抱っこしたアーニャの、メールにはレンタルVTuberが仲良く全員集合したイラストを描いて、こちらもサブちゃんに任せる。
「お疲れさまでした。おかげで助かりましたよ、ゆかり」
一連の作業が終わったら礼を言われたが、なんか照れくさい。
絵を描くのはわたしの仕事なんだからお礼なんて言わなくてもいいのに、ありがとうの精神を忘れないところが、人類に奉仕することを喜びとするサブちゃんの所以なんだろうな。
自然と笑みを誘われたわたしがおやつの残りを口に運ぶと、サブちゃんが妙なグラフを表示させた。赤と青に色分けされたグラフだが、青の割合がずいぶん多いな。
「さて、昨日の報道と今朝の広告により、アーニャの存在はこれまで知られていなかった層にも拡散、急速に認知されています。このグラフは赤が従来のファンの総数、青が今後に獲得が予想されるファンの総数です」
「って、そんなに差があるの? 一気に三倍以上じゃん!?」
「ええ。やはり既存のメディアの影響力は侮れないものがありまして、昨日の報道からチャンネル登録者数が60万人近く増えておりまして……新規に開拓した顧客はYTubeのような動画配信サイトに興味のなかった方も多く、完全にパイを外から持ってきた状態なのですが、そうなるとあまり喜んでばかりもいられません」
何か気になることがあるのか、サブちゃんの表情が曇る。
「こう言ってはなんですが、これまでゆかりのアーニャを熱心に応援するファンの方は、わりと扱いやすい人たちでした。彼らは主にアニメやゲームのオタ……アニメ調の少女であるアーニャというキャラクターを好まれる方々ですから、アーニャがバーチャルの存在であるという前提をすんなりと受け入れてくれましたが、これからはそうもいかないかも知れません」
サブちゃんが何を言いたいか、何となくだがわたしには判った。
「そうだね。これからはさ、アーニャを恋愛対象として見てくる人たちが増えるってことでしょ?」
「はい。そこまで理解されていらっしゃるんでしたら、もうハッキリと言ってしまいますが、いわゆるドルオタと呼ばれるファン層ですね。従来のアニオタやゲーオタと呼ばれるファン層は、一部の声オタと呼ばれる人たちを除いて、アーニャの中の人であるゆかりにそこまで関心はありませんでしたが、彼らはそうもいきません」
「うん、大丈夫。わたしもそのことは識ってるつもりだから」
あの人の記憶にあるあの人たちは、事務所の方針でアイドルとして売り出されて成功したが……反面、かなり窮屈な思いもすることになった。
そのことを識っていながら道を間違え、同じ轍を踏んでは目も当てられない。わたしはすでに六人ものVTuberを擁する身だ。わたしには彼女たちの未来を守る責任がある。失敗はできない。
「わたしはアイドルとしてやっていくつもりはないから、そうした人たちも今まで通り普通の視聴者として扱うよ」
どんな人でもファンの一人として公平に扱い、決して特別扱いはしない。私の答えを知ると、サブちゃんは安心したように息をついた。
「はい、それがよろしいかと。すでにゆかりは彼らを基盤とせずともやって行ける下地を整え、世界的な需要を発掘しています。そのことは新設する事務所にも伝えて、基本的な営業方針として確認したほうがよろしいでしょう」
「うん、わたしもそう思うよ」
「まあゆかりの歌に惹かれて入ってきた方々のように、オタク以外のファンも増えると予想されますから、そこまで大きな声にはならないでしょうが、あらためてご注意を」
「ありがとう。わたしも十分気をつけるね」
これで方針は決まった。あとはわたしが腹を括るだけだ。
「ところで今夜はどうしよっか? 何かやっておいたほうがいいことはある?」
「それなんですが、今夜はゆかりの誕生日なのですから、夜はご家族と過ごされるんですよね? でしたら今夜の配信はお休みしますにしますが……」
「うーん、うちはその辺りわりと淡白だよ? 晩御飯はわたしの好きなものを作ってくれるし、自分の誕生日だから手伝いに行ってもお母さんに台所から追い払われるけど、そこまで大袈裟なパーティーはやらないと思うな。誕生日のプレゼントも前もって受け取っちゃったしね」
高価なゲーミングPCと配信用の機材一式のみならず、シベリアンハスキーまで飼ってもらっちゃったしね。これだけあってサプライズが止まらずプレゼントまで渡されたら、小心者のわたしとしては却って申し訳ない。
「そうですか……そういうことなら配信の告知は直前まで保留にして、やるにしても他の方を誘わず、久しぶりに私たち二人だけでやるとしますか」
「それが無難かな? 昨日は集会所の星4まで行けたから、みんなと一緒に3Gを遊びたい気持ちもあるけどね。視聴者のみんなもすごい盛り上がりだったし」
さすがにそこまで打ち合わせをする時間は取れなそうだしって続けると、サブちゃんは意味ありげにほくそ笑んだ。
「ところがこれまでにご一緒したお三方はもちろん、そうでないお三方もやるなら直前になってもいいから声をかけてほしいとのことです。特にぽぷらさまは、PCで使えるコントローラーを購入するために、10年ぶりに遠出をされたようで、大変だったとこちらのメールにも書いてあります」
おおう、それはなんて言うか……買い物ひとつに遠出とは大変と言うべきか、10年ぶりに買い物に行ったことに驚くべきか、なんとも反応に困る。
「そうするだけの魅力がゆかりの配信にあったということですから、ここは素直に喜んでもいいでしょう。おかげで本日発売された3Gは世界中で完売しまして、買いそびれたファンの方がPC版を利用しようと、高価なゲーミングPCに群がって、各地でうれしい悲鳴が続出しています」
「そっか……転売屋に目を付けられないといいんだけどね」
「さすがに転売屋が買い占めるには市場規模が大きすぎるので、心配はご無用かと」
なるほど……転売行為の問題は安く買って高く売ることではなく、事業者集団が買い占めて値段を吊り上げるカルテルにあるが、今回は大丈夫そうか。
「よかった……。これで視聴者の大半が買えなかったら、3Gの配信をしても自慢してるみたいになっちゃうもんね。COPCOMさんにはここで油断せず、安定供給お願いしたいな」
「そちらは十分心得ているようで、すでにN社の全面的な協力のもと大規模な増産が行われています。この分なら品薄は週明けにも解消されるでしょう。また、C社の成功を目の当たりにして、これまで様子見に徹していたその他のメーカーも、ぜひ自社のソフトで遊んでほしいと申し入れてきたそうです」
ここでサブちゃんが随分と人の悪い顔をする。
「一度そのような申し入れを行ったのですから、今後もN社の許諾申請は両手を挙げて歓迎するでしょう。良かったですね、ゆかり。これで配信中はゲームを遊び放題ですよ」
そこまで言われればわたしの頭でも理解できる。なんということだろうか。サブちゃんがここまで計算してCOPCOMさんの善意を利用してたなんて。
「うーん、お主も悪よのぅ三河屋、ってやったほうがいいかな?」
「いえいえ、そのネタはお腹いっぱいなので」
黒い黒い! サブちゃんの笑顔が黒いよ!!
「と、まあそんな次第で、上手いことやったC社から、海外の売上の一部を正当な対価として支払うとの申し出が。最終的な金額が幾らになるか現時点では不明ですが、おそらくビルの一つや二つは建てられるかと。良かったですね、ゆかり。チャンネルの収益化を達成する前に億万長者が確定ですよ」
真っ黒なサブちゃんがさらなる凶報をもってわたしをゲンナリさせる。
「やめてよ、東北大の川◯教授じゃないんだから……事前に約束してないし、わたしはぜったい受け取らないからね」
「ゆかりが受け取らなくても、ゆかりのお父さまが代わりに受け取って事務所の資金になるだけですよ。どうも見たところ、そういう流れになりそうですし」
説明不足と感じたのか、わたしの態度に黒いものを引っ込めたサブちゃんがもう一歩踏み込み、裏面の事情を詳らかにした。
「つまりC社としては、ゆかりのアーニャを商業的に利用したことで叩かれることを避けたいという思惑もあるのですよ。よって広告費の名目でN社に出資し、ゆかりのVTuber事業に協力的だとアピールしたいわけです。もともと海外での販売に期待していなかったC社にとって、今回の売り上げはあぶく銭ですからね。今後のためにも有効活用したいといったところでしょうか」
「……そういうことなら事務所がお金を受け取ることは認めるけど、本当に今回だけだよ? 今後は事前に金額を決めて、納得できなかったら協力しないからね?」
「はい、今回は例外ということで周知徹底します。裏でそんな大金が動いてると知ったら、小心者のゆかりは気軽にゲームを遊べなくなりますからね」
解ってるんだったら前もって教えて欲しかったけど、今回は色々と急だったからね。
発端もわたしが配信中に3Gを楽しみにしているって漏らしたのを、プロデューサーの藤本さんが知って、それなら配信で使ってくださいって善意でソフトを預けてくれたのが始まりだもんね。
大人の事情があるのは仕方ないけど、人の善意を疑うことはしたくないな。
「まぁ悪いのは、これだけ世間を騒がせておいて、まったく対応できないわたしのメンタルだもんね。ここは生まれてきてスミマセンの精神で乗り切るとしようか」
「どんな精神ですかと言いたいところですが、ゆかりはまだ12歳になったばかりの子供ですから仕方ないのでは? 何か問題が起きそうなら私がお止めしますから、ゆかりは子供らしくのんびりと構えていてください。視聴者の幸福から考えてもそれが一番ですよ」
「うん、そうするね。サブちゃん、いつもありがとう」
なんとなく照れくさいものを感じて目を逸らすと、画面の右下の時計が目に入った。現在時刻は5時52分──もうこんな時間か。
やっぱり楽しい時間はあっという間に過ぎるようで、夢中になったわたしとしては少しだけ気恥ずかしいものを覚える。
「そろそろわたしは下に行くけど、他に急いで伝えることはあるかな?」
おやつの皿とカップを片しながらそう言うと、サブちゃんは心得たように微笑んだ。
「いえ、今はこれといってありませんね。強いて言うなら、N社のVTuber事業が公表されたことで、以前のメールではレンタル制度に言及しなかった方が利用を申請したことくらいですが、こちらはご存知のように準備に時間がかかりますから、相談するのは明日以降にしましょう」
「うん、それじゃあ後はよろしくね、サブちゃん」
「はい、こちらこそ楽しい時間をありがとうごさいました、ゆかり」
楽しい時間か……それはこっちの台詞なんだけどな、と食器を手にして立ち上がり、自分の部屋を後にする。
本当にわたしは恵まれている。これ以上ない家族に囲まれながら、怯えるように人目を避けていた以前の自分が信じられない。自分の部屋に閉じこもっているときも孤独とは無縁で、そして──。
「クゥーン」
「あれ、もしかして迎えにきてくれたの?」
「ワンッ」
「こらこら、吠えたらダメだよ。そういうときはね、もう少し声を抑えて『ワン』って言うといいよ」
「ワン」
相変わらず何をいってるのか解らないが、向こうは正確に把握してるようだ。
これってたんにこの子がおりこうさんってだけじゃないかなって微笑ったわたしは、食器を落とさないように苦労して愛犬を抱き上げた。
ユッカは食器に残った食べ物の匂いを嗅ぎ取ったようだが、勝手に舐めたりせず、わたしを見上げてじっと許可を待っているようでもあった。
そんなユッカのつぶらな瞳がおかしくって、今度は我慢できずに笑いだしたわたしは重ねて注意するのだった。
「そんな顔をしてもダメだからね。人間の食べ物はどんなに美味しそうな匂いがしても、ユッカが食べるのには適してないんだから、舐めたらお腹が痛くなるよ。はい、分かったら『クゥーン』って返事をして?」
「クゥーン」
やっぱりおりこうさんじゃんって堪えきれなくなったわたしは、台所に食器を置いてから家族の待つリビングへと向かった。




