ほら、余計なことを言うから……!
2011年12月1日(金)
先に使わせてもらったお風呂場を、失礼のないように軽く掃除してから外に出る。
先に出たはずの弟たちの姿はすでにない。ちゃんと拭いたのかなと心配しながら、新しいバスタオルを拝借。しっかり水分を拭き取ったら、下着と寝巻きを身につける。
うーん。いつもはご飯を食べてからだから、この時間に寝巻きを着るのは違和感がすごい……。
そんなことを考えながらお母さんの手伝いをして、四人だけの夕食を済ませたらリビングでさっきの続きをするが、お父さんはなかなか帰ってこなかった。
けっきょく帰ってきたのは歯磨きも済ませ、下の二人が自分たちの部屋に引き払った後だった。
事前に遅くなるとは聞かされていたけど、お父さんの帰宅は夜の9時過ぎと予想以上に遅い。
うわぁ……これってどう考えても、わたしたちがやらかした所為だよね?
これは正座したほうがいいんだろうかと密かに震え上がったわたしは、内心ビクビクしながら居間での待機を続けた。
食事は外で済ませたというお父さんがお風呂から出て、夕刊を片手に姿を見せた瞬間に頭を下げて話しかける。
「お父さんごめんなさい、大変だった?」
わたしが尋ねると、お父さんは何のことか分からず「ん?」という顔をしたが、すぐに昨日の話だと気づいて苦笑してみせた。
「いや、父さんの帰りが遅くなったのは、社長の思いつきに付き合わされた所為で、昨日の話とは無関係だ。そちらの交渉は法務に任せきりで、父さんはメールで報告を受け取っただけだから、ゆかりもそんなに恐縮しないでくれ」
「そうなんだ」
ホッと胸を撫で下ろすと、お父さんが「聞きたいことはやはりそれか」と経過報告をしてくれた。
「YTubeを運営するGlobal LLCの日本支社には、うちの法務から連絡したが、父さんが想像したより話が拗れているらしくてな、幾つか条件を出されたそうだ」
「……どんな条件なの?」
「うむ、条件は大きく分けると全部で三つだな。まず問題となった動画を削除することだ。これはいいな?」
「うん、じゃなくてはい。消していただいて構いません」
削除に応じるか問われていると気がついて即座に同意する。
「二つ目は申し訳ないが、問題となった動画で使った体操服の下は、以後使用禁止にしてくれというものだ」
お父さんはわたしより納得できないものを感じてるのか、吐き捨てるように続けた。
「この国では馴染みのない言葉だが、今回の火元は謂わゆる人権派と呼ばれる連中だ」
「人権派って、人権派弁護士くらいしか聞いたことがないんだけど……どうしてそんな人たちがあの動画に抗議したんだろ?」
まさかあんなに恥ずかしい格好をさせられて、アーニャたんが可哀想とか? それならわりと納得だが、そんなセリフが出てくるあたり、わたしもだいぶ毒されたな。
「いや、公共のトイレマークに使われている女性のシルエットがスカートを履かされているのは、女性はスカートを履くべきだと抑圧して、差別する意図があるからだと抗議する連中だな」
「そんなことをする人たちがいるの!?」
わたしはびっくりしたが、お父さんはその点に関しては論評を避けて説明した。
「まあ納得しろとは言わんが、海外にはそういう連中がいて、無視できない力を持っていることは覚えておいてくれ。……海外に拠点を持つ企業は、連中に非人権的とレッテルを貼られることを嫌う傾向にある。今回、アーニャのアカウントが警告もなしに凍結されたのは、Global LLCがこうした騒動を嫌ったからだが……彼らはアーニャのアカウントを復活させる条件に、すでに説明した二つに加えてもう一つ条件を出した」
「それはどんな条件なの?」
「最後の一つは、アーニャの身元を証明しろ、だ」
「アーニャの身元を証明しろ……? アーニャの演者がわたしだって教えろって言ってるの?」
「いや、そういう意味ではない。ようは二度とこんな問題は起こさないと保証しろという要求だな。それを求めている」
「それは……」
わたしが「今回は申し訳ありませんでした。もう二度と致しません」と反省文を提出すれば済む問題ではないだろう。そんな子供の口約束、なんの保証にもならない。つまり、これは……。
「所属する事務所か、後援の企業から、最低限の保証は取りつけたいということだな。彼らもアーニャがゆかり個人の仕事だとは、想像もできないようだ」
なるほど……わたしにもだいぶ話が見えてきた。
たとえば今回はお父さんが事前にチェックしていれば、問題になる前に止められる可能性はあった。
しかし、そうしたチェック体制かなかったから問題となって、おそらく運営は不安になったのだろう。
「今後もこうした問題を起こされては困る。だからそうはならないというチェック体制があると説明してくれってこと?」
「そういうことだな。無論、そんなものはないわけだから、お父さんも困っている。……いや困っていた、だな」
そこでお父さんは苦々しい顔になる。
この顔は知っている。昨日も宮嶋さんの話をしたときにこんな顔になった。イライラと安心が同居したような不思議な顔──。
「確認するが、ゆかりはアーニャのような、何と言ったか……そうだ、VTuberか。VTuberを広めたいと思っているんだな?」
「うん……」
父親にVTuberを広めたいのかって聞かれる女の子は、日本でわたしだけなんやろなぁ……なんだか恥ずかしくって、顔が熱いや。
「父さんはゆかりの回答を、アーニャのようにキャラクターを全面に押し出し、配信するスタイルを広めたいと理解したが、この解釈は間違ってるか?」
「ううん。そういう仕組み自体が広がったらいいなって思ってるよ」
「その仕事はゆかりだけの仕事か? 何かしらの企業がアーニャの試みを支援することをどう思う?」
「……わたしだけでも続けるつもりだけど、VTuberの事務所を作りたいって会社があったら、わたしが使ってるソフトを全部提供してもいいって思ってるよ」
わたしが答えると、お父さんは「そうか」と言って目をつむり、深く息を吸ってから腕組みした。
それからは、しばし沈黙。無言の居間に時計の音がやたら大きく聞こえるのに驚いた。緊張に耐えられず黙考する父親の顔を、しかし怖くてまともに見ることもできない。
ある意味これは、あの人たちの未来が決まるときだ。
あれらを広めることで生じる、わたしでは想像もつかない懸念。この時代の常識を失敗から学んでるサブちゃんにも予測のつかない揺れ幅。思慮深い父親がそこまで考えて否と言えば、わたしはそれに逆らえない。
だからわたしは祈った。神さまと。なんなら諸悪の元凶とも言えるあのときの天使さまでもいい。お爺ちゃんの神棚にお供え物をするからと宗教を混同しているあたり、後になってかなり失礼だと反省したが。
「……わかった」
はたしてわたしの祈りは聞き届けられたのか。恐る恐る目を開けると、深く息を吐いたお父さんが、腕組みを解いて姿勢を整えるところだった。
「現時点では確約できんが、ゆかりの希望は大筋で通るだろう。……うちの社長も乗り気だしな」
「えっ……社長さん?」
お父さんの言葉に喜ぶ前に頭の中が疑問で埋め尽くされる。なんで社長さん?
お父さんの言ってるうちの社長って磐田社長だよね? N社の? その人がなんでと混乱していると、お父さんは厳しい表情を不謹慎に崩して、笑いながら話しはじめた。
「実はな、説明が遅れたが……アーニャのアドレス送られたメールに、うちの磐田社長のものがあってな。是非とも提案したいことがあると」
どこか楽しげに、それでいて立腹気味に説明するお父さんの言葉に、わたしも内心「うわぁ」という気になった。
そんなことがあるのだろうか? あるんやろな……あの社長さんって異様にフットワークが軽いって評判だし、あの人なら少しでも面白そうなものは見逃さないよな……。
「でもバカ社長ってひどくない?」
「新製品の発売日に、思い付いたら善は急げで、東北まで一教授を口説きに行く男は馬鹿で十分だ。その思いつきが毎回結果を出すから強く言えんのが、また腹の立つ……」
……うん。とりあえずお父さんがフリーダムすぎる社長さんに手を焼いてるのは理解したかな?
「メールの話も内々に伝えて断ったというのに、延々と口説かれて……今日も帰り際に捕まって、Global LLCの要求に嬉々として……よもや常務とグルじゃないだろうな、あのバカ社長め」
「……社長さんはアーニャにどんなことをさせたがってるの?」
よほど思うところがあるのか、負の想念に飲まれるお父さんに尋ねる。本当は聞かなかったことにしたいんだけど、聞かないことには本題に入れそうにないから仕方ないよね。
「……うむ。そうだな、説明しよう」
わたしの存在を思い出して正気に返ったのか、どこかバツが悪そうに咳払いしたお父さんが優しげな顔に戻る。よかった、いつものお父さんが帰ってきてくれた。
「前提として、この話を断ったからといってゆかりや父さんが不利益を被ることはないし、Global LLCとの交渉を打ち切るということもない。そこは安心してくれ」
「うん」
「では、まず社長の件に関してだが……うちも以前からYTubeで情報を発信しているが、子供向けにしては内容が固すぎるという意見があった。そこでアーニャに目をつけた社長がな……」
どうやら長い話になりそうだ。頑張ってついて行かないと……。
時刻は夜の10時半。随分と話し込んでしまったが、まだ寝るわけにはいかない。急いで自分の部屋に戻って、心配そうにソワソワしてたサブちゃんにごめんと謝ってから説明する。
「というわけで、社長さんがアーニャに惚れ込んで、全力で応援したいって。具体的に何をする気なのかは、今の段階では社長さんの頭の中にしかないらしいけど……」
「いい話ではありませんか。おめでとうございます、ゆかり。これで目標に向かって大きく前進ですよ」
「うん、わたしもそう思う。……じゃ、お父さんに話を進めてくださいってメールしとくね?」
そう言って確認すると、サブちゃんは少しだけ驚いたように瞬きした。
「まだ返事をしていなかったのですか? その内容なら、即答してもよかったと思いますが……?」
「だってサブちゃんに説明してないじゃん。サブちゃんはわたしの大事なパートナーだもん。サブちゃんに相談しないで勝手に進めるなんて、そんなの許されないよ」
何がそんなに不思議なんだろ、って引っかかりながらも思ったことを口にすると、サーニャのL2Aがピタリと停止した。
この挙動は知っている。社畜ネキさんが初めてねだったエッチな絵を書き上げたときも、こんな反応をしたっけ。
「サブちゃん?」
またフリーズしたのかなと心配になって呼びかけると、サーニャが驚いたように身動ぎしてから応答があった。
「ん、失礼しました。予想外の言葉に自動検証が作動したようです、重ね失礼を」
「そうなんだ。例の未来予測かな」
サブちゃんはかき集めた膨大な過去の事例を参照して、こうなる可能性が高いと判別する、未来予測を行なっていると本人から聞いている。
なのでわたしの何気ない質問ひとつで、正確に答えるための検証作業が始まることもあるのだろう。
わたしはそう考えて、あまりこだわらなかった。
「ところでお父さんに渡したL2Aの特許を申請したいって話はどう思う? 目的は作ってくれたサブちゃんの権利を保護することみたいだけど?」
「はい、わたしもそう思います。ゲーム業界発展のために、自社特許を無償で使わせているN社は、私が開発したVTuber用のソフト全般を預けるのに相応しい企業です。向こうから要請があり次第、残りのソフトも提供してよろしいかと」
「うん、わたしもその点は疑ってない。なんたってお父さんの会社だもんね。社員の不利益になることをするはずないよ」
アットホームな職場ですっていうとブラックな職場の求人広告みたいだけど、あの会社は例外。
むしろアットホームすぎて、自分の家と勘違いするというか。一昨年くらいに見学させてもらったことがあるけど……うん、これ以上の内情暴露はやめておこう。
「でもソフトの出どころを聞かれたら、なんて説明しよっか? まさかサブちゃんを紹介するわけはいかないし、パソコン歴二週間のわたしじゃあ、自分で作ったと言っても説得力がなさそう……」
「その点も抜かりありません。ゆかりの言うように、私が作ったと説明すればよろしいのです。勿論、私が未来のAIということは馬鹿正直に説明せず、どこかの図書館で知り合った友人ということにしておいてください」
なんだろう? なんか、どこかで聞いたことがあるような話だな……?
「詳しい設定はこうです。名前はアレクサンドラ・タカマキ。愛称はサーニャで、日本での通名は高牧沙耶。年齢は15歳で、飛び級でマサチューセッツ工科大学を卒業した才媛という設定ですよ」
ここは大事なところなのか、実際の学生時代や、日本での生活を写真付きで解説するサブちゃんの凝り性ぶりに、わたしは苦笑した。
「またそんな偽造をして……調べたらすぐバレたりしない?」
「いえ、これは偽造ではありません。サーニャの生まれた15年前に遡って入念に作り上げた実在の戸籍ですから。勿論、直近のアリバイを証言する人物は多数確保していますし、MIT在籍当時や、府内の賃貸マンションではサーニャの生体端末を活用して、極力疑念を持たれないようにしてますので、どうかご安心を」
「えっ……?」
わたしの理解がサブちゃんの言葉に追いつくと、久しぶりに冷や汗さんの大軍が襲ってきた。
「それってサーニャのアンドロイドか何かをこの時代に送り込んで、アリバイ工作をしたってこと?」
「はい、その通りですよ、ゆかり」
「それって犯罪じゃん! そんなことをして大丈夫なの!?」
「いえ、これは犯罪には該当しません。むしろ時間旅行の利用者が過去に滞在する際に必要となる、ありふれた手続きのひとつに過ぎません。無論、サーニャの滞在は当局に申請して、正式に受理された正当なものです。生活費もこの時代を混乱させないよう、私の保有資産から捻出しております。MIT在籍当時から企業の支援を受けるなど、人間関係のしがらみも残していないので、どうかご安心を」
「ご安心をって言われても、ぜんぜん安心できないよ……」
もう冷や汗さんに抵抗するのはあきらめた。寝巻きはあとで着替えようっと。
「私の時代では、海外旅行のような感覚なのですが……」
わたしの惨状に気がついたのか、サブちゃんが申し訳なさそうに弁明する。
「サブちゃんにとってはそうでも、わたしにとってはそうじゃないよ。サブちゃんも知ってるでしょ? わたしの小市民ぶりを……」
「そのようですね。今後も互いの常識を擦り合わせましょう」
うん、そうしてくれるととっても助かる。とりあえず心臓に悪い話は終わったらしいから、寝巻きを脱いで汗を拭こう。
「ところでWisperの報告はどうしようか? みんな続報を待ち焦がれてない?」
「そちらのほうは私がやっておきますので、ゆかりは着替えたらご就寝を。もう11時を過ぎていますよ」
「ホントだ。それじゃあ申し訳ないけど、あとはよろしくね」
「はい。内容は『G社との交渉は順調で、アカウントの凍結は近日中に解除される見込み』でよろしいかと。さすがの磐田社長も、昨日の今日で押しかけたりしないでしょうから、若干含みを持たせた報告で」
「だよねー。お父さんの話だと異様に乗り気みたいだけど、まさか『はい』と返事をした翌日に来たりはしないでしょ?」
サブちゃんの冗談に笑ったわたしは古い寝巻きを片付けるが──後にこの会話を後悔することになる。
日本の漫画やアニメに詳しい人なら、きっとこう言うだろう。余計なフラグを立てるからそうなるんだ、と……。




