勣水精縁編:5 妖精の正体
「──はうすりっぷ」
何が起きたのか、わからなかった。
たった一言──チュチュがそう呟いただけ。たったそれだけで、他には何ら変わったことなんてしなかったはずなのに。
「な……!?」
何の前触れも予兆も前兆も無く。まるで最初からそこに在ったのだと言わんばかりに。
俺たちの目の前に、変わった建物が現れていた。
「こ、いつは……?」
「僕のお家」
家。なるほど、確かに家なのだろう。造りこそ変わっているものの、石塀の向こうには洗濯物が干されているし、なんとなくこう……生活感が漂っている。二階建てのずいぶんと贅沢な大きさの家で、離れまでついているというから驚きだ。俺達の家みたいなじーちゃんの代から続くボロい平屋とは比べるべくもない、立派な自慢の一軒家と言っていい。
──間違っても、こんな山の中に作れるようなものじゃない。そもそもとして、こいつは今いったい何を。
「大丈夫。もう、大丈夫だからね。……このお家は絶対に安全。何があっても、絶対に壊れない。僕たちが認めた存在以外は、絶対にこの中に入れない」
俺もラウルも、驚きすぎてアホみたいな顔になっていた。そしてゴブリンの方も、突然のことに頭が追い付いていないらしい。逃げることも戦うこともせず、なんかヤバいものでも見てしまったかのように呆然としている。
そして。
「──よぉ、テオ」
家とこことの境界となっている、その細い鉄の門扉を開けて。
妙にガタイの良いおっさんが──チュチュのそれとそっくりの鉈を構えたおっさんが、ゆったりとした足取りで俺たちの方へとやってきた。
「い……イズミぃ……!」
「まだだ」
そのおっさん──こいつがイズミなのだろう──は、縋ろうとしてきたチュチュの動きを、その一言だけで止めてみせた。強い言葉ってわけでも、語気を荒げたってわけでもない。本当に……静かにそう言っただけなのに、有無を言わせない迫力がそこにはあった。
「お前が始めたんだ。なら、ちゃんとお前が責任を取るべきだ。──男ならきっちり最後まで責任取れって、教えただろう?」
「う……うん」
「じゃあ、始めたお前が……こんな中途半端なところで俺に甘えるのは筋が通らないよな? それはちゃんと理解できてるよな?」
「……うん」
チュチュの隣に立って。
そのおっさんは、静かな声で語り掛けた。
「それじゃあ……お前はどうする? どうしなきゃいけない?」
ボロボロの俺をちらりと見て。小さく震えるラウルを見て。
そして──ぎゅっと手を握って俯くチュチュを見て。そのおっさんはチュチュの背中をパシンと叩いた。
「お前が通すべき筋は何だ!? お前が果たすべき責任は何だ!? 言ってみろテオっ!」
「──僕たちを助けて! もう、僕だけの問題じゃないから……だから、助けて!」
助けて。恥も外聞もなく、チュチュはそう言った。中途半端なところで甘えるな、責任をちゃんと取れ──って言われたばかりなのに、そんなの関係ないとばかりにそう叫んだ。
それに対する、おっさんの答えは。
「──そうだ、その通りだ。よく言えたな、テオ」
優しそうに笑ったおっさんが、チュチュの頭をがしがしと撫でている。さっきまでのおっかない雰囲気はどこへやら、まるで気のいいおっちゃんみたいな感じで……そしてチュチュの方も、今までに見たことないくらいにゆるゆると安心しきった表情でそれを受け入れていた。
「さて。いろいろと聞きたい話はあるが……あー、キミたち、もう少しだけ頑張ってくれ」
──すぐに片付けるから。
そう聞こえたような気がしたのは、果たして気のせいだったのか。
たった一歩。たった一歩だけ俺たちの前に出た──ゴブリン共の前に対峙したそのおっさんの背中からは、味方であるとわかっているはずの俺がビビるほどに。
「舐めやがってよぉ……ッ!! 畜生風情が、ウチの子に何してくれやがったんだ……ッ!!」
──盛大なまでの怒気を、まき散らしていた。
「おまけにこんな年端もいかない子供を痛めつけやがって……ッ! 上等だよコラァ……ッ!」
ああ、このおっさんめちゃくちゃにキレている。背中を見ただけでブチギレているってことがわかるほどにキレている。なんかもう魔力とかそういうの関係なしに空気がピリピリしているし、ゴブリンたちが見ていて哀れに思えるほどに震えている。
爆発寸前。正直、味方であっても関わり合いになりたくない。この俺でさえおっかなくてたまらない──あ、ラウルのやつ漏らしてら。
「──後悔すんじゃねえぞゴラァ!」
──ギャアアア!?
山が震えるほどの雄たけびを上げて。大地を思いっきり踏み込んだそのおっさんは、一瞬で距離を詰めてゴブリンの前に躍り出た。
で、そのままゴブリンの顔面に悪党も真っ青になるほどの品の無い蹴りをぶち込んだ。
「逃げんじゃねえッ!」
鉈を振り回し、へっぴり腰のゴブリンの頭をカチ割って。
「往生せいやァ!」
ゴブリンの顔を容赦なくぶん殴って。
「あああああッ!!」
すっかり怯え切ってしまっているゴブリンに、執拗に頭突きをして。
蹴るわ殴るわ叩くわ切るわ……人間が戦っているとは思えない、まるで野獣のような戦いっぷり。野獣のような……というか、人の形をした野獣と言われたほうがまだ納得できるほどの暴れっぷり。本物なんて見たことないけど、噂に聞く蛮族以上に野蛮でヤバくてドン引きするような戦い方だ。
もし、もしも。
冒険者が俺たちを救出に来たとしたら──たぶん、このおっさんのほうを敵だと認識すると思う。
「……ふう」
そして、そんなに時間がかかることもなく……ゴブリンたちは、おっさんに皆殺しにされた。どいつもこいつも頭が陥没したり首が変な方向に曲がっていたりで、とても子供には見せられない状態だ。物語の英雄みたいに一太刀で綺麗にすっぱり……なんてことは無く、獣同士が盛大に争ったかのような惨状が広がっている。
「んー……これで全部っぽいな」
そして、こんな惨状を作り出した本人は、さっきまで怒り狂っていたのが嘘であるかのようにけろりとして、辺りの気配を探っている。こうしてみると普通に頼れる大人っぽい感じがして、その落ち着きっぷりが逆になんかこう……ギャップがありすぎて怖い。
──何より、返り血まみれで真っ赤っかだ。村のチビ共が見たら絶対泣くぞコレ。
「イズミぃぃぃ!」
「お」
感極まったのだろうか。チュチュが思いっきり走り出しておっさんに抱き着いた。おっさんのほうは手慣れた様子で腕を開いて、そのままひょいっとチュチュを抱き上げる。
「ぼ、僕っ! 頑張ったんだよ! 怖かったけど、すっごくすっごく怖かったけど……頑張ったんだよっ!」
「おお、わかってるって……ああもう、泣くな泣くな」
「泣いてないもんっ!」
チュチュを大きく抱き上げたまま、くるくると回って。赤ん坊を抱き上げてあやすように。それをするにはチュチュはだいぶデカいんじゃないか……と思えるほどなのに、不思議とその光景はしっくりくるものだった。
「で、だ。……テオ、ちゃんとケジメはつけさせたのか?」
「うんっ! 全部は無理だったけど……ちゃんと、一匹は始末したよ!」
「そうか……そうか! よーしよしよし、さすがはテオだ、よくやった!」
にこーっと嬉しそうに笑うチュチュ。そんなチュチュを、やっぱりうれしそうに抱き上げて笑うおっさん。表情だけ見れば平和なことこの上ないのに、おっさんは返り血まみれで足元にはゴブリンの惨殺体が転がっている。
「──い、イズミ様? 終わった……んですよね?」
「──あっ!」
後ろから聞こえてきた声。ぱあっと顔を輝かせたチュチュの声に釣られて、そちらの方を見てみれば。
「おかあさあああああん!!」
すっげえ美人。めっちゃ綺麗な人。清楚ではかなげで思わず守りたくなってしまうような──ウチの村一番の美人のねーちゃんがただの芋娘に思えてしまうほどの、どこかのお姫様みたいに綺麗な人。
そんな綺麗な人が、優しそうに笑って腕を開いて──飛びついてきたチュチュをしっかりと受け止めた。
「おかあさん! おかあさん! 僕ね、僕ね……すっごく、頑張ったんだよっ!」
「うん、うん……よく頑張ったね、テオ」
ああ、やっぱり。この人はチュチュのかーちゃんなんだろう。目の色はチュチュと同じだし、チュチュと同じくらいに……というか、綺麗な顔立ちがしっかりチュチュに引き継がれている。優しそうにチュチュを抱きしめ頭をなでる姿は本当にこう……うまくいけないけど、なんかすごい。
何より、すごく若くないかあの人。十の子供がいるようには全然見えねーぞ。年代的にはウチのかーちゃんとそんなに変わらないはず……だよな?
「……ね、ねえテオ。その、嬉しい気持ちはわかるの。あなたが頑張ったってこともよくわかったんだけど……その、そっちのお友達は」
「あっ!!」
あ、チュチュのかーちゃんと目が合った。
──ラウルの野郎、ガキの癖に赤くなりやがってる。ガキが照れるとか百年早いっていう。
「そうだ! おかあさん、ゴーシュが!」
かーちゃんの手を引いて、チュチュが俺の所へとやってきた。チュチュのかーちゃんは俺の傷を見て一瞬だけ悲しそうな顔をして──そして、ふわりと優しく笑ってくれた。
「もう大丈夫……すぐに、治してあげるからね」
「う、ぉ……」
その人が、優しく俺の体に触れたかどうか……ってだけなのに。なんだかあったかい風のようなものが体を撫でて、さっきまで泣きそうなくらいにジンジン痛んでいた傷の痛みがあっという間に消え去っていく。
腹の痛みも、背中の痛みも……転げた時にできた、擦り傷や切り傷までも。体中のありとあらゆるものが癒されたのだと、感覚的に理解ができた。
「す、げえ……!」
「そうでしょ! おかあさんはすごいんだから!」
もう、普通に立ち上がることができる。立ち上がるどころか、全力で走り回ることもできそうだ。ここ数日で一番調子がいいんじゃないかってくらいに体が軽くて、なんなら今から村まで走っていくことだってできそうな気がする。
……癒しの魔法ってやつか? 街に行けばそんな魔法を使える人がいるとは聞いたことがあるが……こんなにすごい魔法だなんて、いったいいくら金を払えばいいんだ?
「ん……ほら、あなたも」
「あ……ありがとう……」
「ふふっ、どういたしまして」
「……」
──ラウルの野郎、大してケガなんてしてねえくせにちゃっかり治療を受けてやがる。この人が優しいおねーさんじゃなければ、治療費ぼったくられてたところだってのに。
「んー……これで傷は全部治ったはずだけれど。でも、体の方は疲れたままだから、しばらく安静にしていなきゃダメだよ?」
俺達の体をもう一度診て。ついでにチュチュにも癒しの魔法をかけて。そんな風に優しく声をかけてくれたチュチュのかーちゃんは、チュチュに目線を合わせてから問いかけた。
「ねえ、テオ。ここはどこなの? 聞いてたところとちょっと違う……ような?」
「えーっとぉ……そのぉ……」
ちら、とチュチュが助けを求めるようにこっちを見てきた。
「──フェルダ村の北西の方にある山っす。今からだと村まで歩いて……日暮れ前につくかどうかって感じですね」
「ゴーシュ!? 秘密の場所なんじゃないの!?」
「いや、そんなこと言ってられない事態だろ」
だいぶ派手に抉れた山。なんとなくスルーしちゃってるけど、突如として現れた立派な家。蛮族もチビって逃げるような野蛮なおっさんに、ある意味想像通りの──いや、想像以上なチュチュのかーちゃん。
いろんなことが起こりすぎていて、正直俺にはなにがなんだかわからねえ。今この瞬間に起きていることに比べれば、ラブラズベリーの秘密の場所なんてちっぽけなことだ。
「じゃあ、二、三時間って距離かな……子連れともなると、日暮れ前に辿り着くのはちと厳しい感じがする。おまけに山は暗くなるの早いしなあ」
「ねえ……イズミぃ……!」
チュチュが、じいっとおっさんを見つめた。
おっさんは、その大きな手の平でチュチュの頭をがしがしと撫でた。
「──しょうがねえ、今日はここで泊りだ!」
「やったぁ! イズミ、だーいすきっ!」
どのみちここじゃ車も使えないしな、とおっさんが笑う。
「しかしまぁ、どいつもこいつも泥だらけでボロボロだな……よぉし、お前ら全員風呂に直行だ!」
「ちょうど、もう少しで沸くところでしたものね……着替えはテオのお古が使えるかなあ。……ごめんだけど、そっちのキミは私の替えで我慢してね?」
「え、あ、お構いなく……」
なんか知らんが、どうやら俺もラウルもここに──チュチュの家に泊まることになったらしい。でもってテオの家にはお貴族様の家にしかないっていう風呂があるらしい。さらにさらに、着替えまで用意してくれる上に……えっ、今この人なんて言った?
「ねぇチュチュ……お風呂ってなーに?」
「水浴びのあったかくってぽっかぽかなやつ! ラウル、一緒に入ろうね! 僕が色々教えてあげるから!」
「……うんっ!」
たぶん、年上ぶりたいのだろう。この段階ですでに、チュチュはラウルの面倒を見る気で満々だ。ラウルの方は間違いなく何もわかっていなくて、単純にチュチュの家で何か面白そうなことをする……程度の認識でしかなさそうだ。
「あー……ラウル、くれぐれも粗相をするんじゃねえぞ。……チュチュ、割とマジにこいつのこと頼むな」
もうすでに粗相をしているというのは置いておくとして。俺もラウルも、風呂の作法なんて知るわけがない。気心の知れているチュチュが一緒にいてくれるというのは、正直言ってかなり心強い話だ。
……ああ、ちくしょう。俺一人で入るのかなあ。マジでやり方なんてわからないし、何かやらかした時に「知らなかったから」で許してもらえるかなあ。もうこの際このおっさんでいいから一緒に入ってほしいんだけど。
「……え? 何言ってんの、ゴーシュ?」
「あん?」
「ゴーシュも一緒に入るんだよ?」
「はァ!?」
「なんだ坊主、そんなデカい声出して……アレか? 風呂が嫌いなタイプか? それともまさか、奥様と一緒だと思ったか?」
さすがにそれはないから安心しろ、とおっさんが笑う。
この子の友達なら構いませんけどね、とチュチュのかーちゃんが笑う。
ああ、ダメだこの人たち。
うすうすそうじゃないかとは思っていたけど……根本的に、俺達と価値観が違う。常識ってものをまるで持ち合わせていない。チュチュの常識知らずは、間違いなくこの人たちが原因だ。
「体を清潔に保つってのは大事なことだからな。そうでなくとも、そんな泥だらけの恰好じゃ俺の家には上げられねえぞ」
「いやいやいやいや……! そうじゃなくて! ガキのラウルはともかくとして、俺は男ですよ!?」
「俺から見ればお前だって十分子供だぜ? ……子供が遠慮なんてするもんじゃないし、どうせその服も泥だらけだ。今ここで脱いで素っ裸になっちまえ」
「脱ぐって、そんな……」
「ラウル、ばんざーい!」
「はーい!」
ああ、ラウルがチュチュに脱がされている。あの野郎、命の恩人たちの前で正真正銘の全裸フルチンスタイルだ。ガキだからこそ許されているようなものの、とんでもなく失礼なことをしている自覚はあるんだろうか。お兄ちゃんはもう泣きそうだよ。
「よーしよしよし、良い脱ぎっぷりだ。テオ、お前もさっさと脱いじまえ」
「うん、わか──」
「待て待て待て待て!!」
服に指をかけたチュチュを、慌てて止めた。
「お前、何やってんだよ! なんで外で普通に脱ごうとしてるんだよ! もしかしてマジにそういう趣味なのか!?」
「えー? だって、脱がないとお家の中汚れちゃうじゃん。どうせこんな山の中だし、他に見てる人なんていないよ?」
「俺がいるだろ!?」
「ゴーシュしかいないじゃん?」
ああ、どうしよう。
チュチュは脱ぐ気満々で、そのことに疑いすら覚えていない。傍らにいるのはそれが当然だとばかりに全裸のラウルで、そしてチュチュのかーちゃんもこのおっさんも、チュチュのことをまるで止めようとしていない。
そう──この中で唯一まともなのは、俺しかいない。そして悲しいことに、俺は男として見られていないらしかった。ちくしょう。
「あのな……チュチュ。よく聞いてくれ」
「なぁに?」
綺麗な顔で、じいっと上目遣いで見つめてくるチュチュ。本当に、これほどまでに無自覚だとまともに嫁入りできるのか心配になってくる。赤の他人の俺でさえそう思うのに、どうしてここの大人は何も思わないのか。唯一まともなミルカって人はいったいどこにいるんだ?
「いいか……大事な話だ」
いくら兄貴だからって──なんで俺が、他所の家のお嬢さんにこんなの話さなきゃいけないんだろ?
「女の子はな、むやみやたらと人前で脱いじゃいけないんだよ。……お前みたいなかわいい娘なら、なおさら」
「──は?」
体の芯から凍てつくような、冷え切った声。一瞬確かに、時が止まった。
あれ、なんかおかしいぞ……と俺が思ったときにはもう遅い。
今まで見たことないくらいに頬を膨らませた──目を吊り上げているチュチュがいる。
「ねえゴーシュ……僕のこと、女の子だと思っていたの……?」
「えっ」
いやだって女の子だと思っていたも何も、こいつはどこからどう見ても可愛らしい顔立ちのお嬢さん──待て、なんであのおっさん、腹を抱えて笑ってるんだ?
「くっくくく! そういやァお前、ちゃんと言ったのか? さっきからチュチュって呼ばれてるし、もしかしなくてもこの坊主、勘違いしてるんじゃないか?」
「そっか……そうだよね。言われてみれば、チュチュって名前は女の子みたいだったね……」
名前じゃなくて、見た目の方がどこからどう見ても女の子にしか見えないんだけど──という言葉を心の中で留めておく。
まさか、いや、そんなこと……えっ?
「ねえ、ゴーシュ」
神妙な顔したチュチュが、俺の前に立って。
「薄々感づいていただろうけど……チュチュっていうのは偽名。僕の本当の名前は──四辻テオラウル。家族からは、テオって呼ばれていて」
そしてチュチュは──いや、テオは。
「──ゴーシュと同じ、男だよっ!」
俺の前で、盛大にズボンをずり下げた。




