勣水精縁編:1 水と戯れる妖精
番外編、開始します。それに伴い、一時的にステータスを連載中に戻しました。
「ねえ、にーちゃん……あれは、妖精さんかなあ?」
妖精。滅多に人の前に姿を現さないというおとぎ話の住人。凄腕の冒険者の武勇伝には必ずと言っていいほど登場するけれど、実際に目にできる人間なんてほとんどいない……俺達からしてみれば、吟遊詩人の話の中にしか登場しない存在。
あるお話の中では、妖精は不思議な力を持つ存在とされていた。あるお話の中では、妖精は無邪気でイタズラ好きであるとされていた。別のお話の中では人間と恋に落ちていたり、かと思えば邪悪な存在として語られていたりもした。
でも、どのお話でも共通していたのは。
──めっちゃ綺麗だ。
すごく、すごく綺麗な顔だった。綺麗で可愛くて、絵本の挿絵からそのまま飛び出してきたかのようだった。
傷の一つ、汚れの一つもない滑らかな肌。
細く、しなやかで真っ白な指。
儚く華奢で、ガラス細工のような美しさを持つ体。
ほんのりと赤みが挿した白磁の頬。
見るものを虜にして引きずり込むような碧の瞳。
何より特徴的なのが──その、艶やかな金髪だ。金髪と言っても普通のそれじゃなくて、髪の先端の方が水色になっている……綺麗なグラデーションになっている不思議なものだ。背中に届くほどの長さのそれはさらさらと透き通っていて、一房切り取ればそのまま高値で売れそうなほど美しい。
もう、「綺麗」とか「美しい」以外の言葉が出てこない。確かに俺は学のないバカだけど、国勤めの連中であっても同じ感想しか出ないと思う。
「ねえ、にーちゃん……」
「あ、ああ……」
そんな「妖精」が、川の中で水と戯れている。ぱしゃぱしゃと水を叩いて飛沫をあげて、そのたびに綺麗な髪がふわっと舞って……なんだろう、とにかくすごい光景だ。
俺、初めて絵描きの気持ちを理解できたかもしれない。この光景を残しておきたいって、いますっげー思ってる。芸術なんて正直意味がわからなかったけど、これが感動ってやつなのか。
「あの妖精さん、服着てるんだね……」
「お、おお……いや待て、そういや羽も無いみたいだぞ?」
妖精には羽があるらしい。けど、俺達の目の前にいる「妖精」には羽が無い。着ている服はすっげー上等なものっぽいけど、妖精の服って感じじゃ……っ!?
「……っ!?」
「……にーちゃん? どうしたの?」
濡れてる服。上等な、肌触りが良さそうで薄い服。
──「妖精」の体のラインがモロにわかるほどに、透けまくっている。
「きれいだねえ、あの妖精さん」
呑気している弟。そりゃまあ、五歳のガキならそんな感想しかでてこないか。
……この光景、俺達が見ていていいものなのか? なんかこう、後で金をとられたり呪われたりしないのか? というかそもそも、なんでこんな田舎に妖精なんてものが現れたんだ?
「ねえ、にーちゃん」
「なんだよ、ラウル」
「なんか変なの、流れてきた」
「あ?」
妖精のいる上流の方から、俺達のいる下流に向かって。よくわからん灰色の変な布が流れてきている。
「んだよ、なんかのボロ布じゃねえか。そんなことよりも……」
「あ、妖精さんがこっち見てる」
「そう、妖精のほうが……えっ!?」
さっきまで水と戯れていたはずの妖精が、その碧の瞳ではっきりと俺たちのことを捉えている。
「や、やべえ……!」
瞬間的に真っ赤に染まった頬。恥ずかしそうに……だけど、吊り上がった目。そんな顔ですら綺麗なのはともかくとして、この後にするであろうことは一つしかない。
そしてたぶん、それをされたら俺は終わる。ラウルはまだセーフかもしれないけど。
ほら見ろ、思いっきり息を吸い込むのがここからでも見えて──!
「それぇぇぇ! 拾ってぇぇぇぇ!」
予想外の言葉。妖精が指さしたその先にあるのは……さっきのボロ布。
「僕のぱんつなのぉぉぉ!」
「全力で拾えラウルッ!! ヘマこいたら飯抜きだからなッ!!」
▲▽▲▽▲▽▲▽
「ありがとぉ……! 本当に助かったよぉ……!」
「お、おう……」
薄い半ズボンのようなそれ。妖精の下着とはとても思えないほど質素で武骨なそいつは、今確かに俺の手の中にある。実際に触ってみて初めてわかったけれど、マジで薄くてボロ布じゃねーかってくらいに簡素だ。
「……にーちゃん、なんで赤くなってるの?」
「うるせえ」
結局、流されていたこいつを確保できたのは俺だった。出来ればラウルに任せたかったけれど、思った以上に流れが速くて、ガキのこいつじゃ無理だったんだ。
成り行きとはいえ、とんでもないものを手にしちまったわけだが……こうして心の底から安心した顔を見ると、俺の選択は間違ってなかったんだとホッとする。
「もう失くすんじゃねーぞ?」
「うん!」
ああ、笑った顔が本当に可愛い。無邪気でちょっと子供っぽい感じがする。身長的に十歳は超えてるだろうって思ったけど、もしかするとそこまでじゃないかもしれない。
……いや、たぶんそうだろうな。ちょっと前まで素っ裸で川遊びをしていたマセガキレベッカは、十を超えた瞬間にいっちょまえに恥じらいなんかを持つようになったし。おまけにそれを真似してマセガキ二号のエマも、ラウルより二つ上でしかないのに無い胸を隠すという矛盾の塊みたいな奇行をしやがるときた。
それを考えると、この「妖精」は見た目以上に幼いんだろう。じゃなきゃこうしてパンツの受け渡しとか笑顔でできるはずがない。
「ねえねえ、妖精さん」
「……うん? それってもしかして僕のこと?」
「うん。……僕はラウル。で、にーちゃんはにーちゃんで……」
「おい、それじゃ説明になってねえだろ……俺はゴーシュだ」
弟の頭をぺしんと軽く叩いて、言葉の続きを引き取った。
「なんでお前、川の中にいたんだ?」
「……」
水遊びってことはないだろう。だったら普通に服を脱ぐ。魚を取っている素振りも無ければ、冒険者みたいに何か探し物をしていたってわけでもない……となると、一体全体何をしていてのかがさっぱりわからない。
というか、どうやったら履いてたパンツが流されることになるんだ?
「……まずね、僕の名前は……てっ」
「て?」
「……ごめん、今の無し。忘れて」
「……」
「ごほん、気を取り直して……僕の名前はよちゅちゅ……っ!」
「よちゅちゅ?」
「ひーん……!」
こいつ、自分の名前を言おうとして舌噛んでやがる。
「……チュチュ? 妖精さんの名前はチュチュって言うの?」
「……うん、もうそれでいいよぉ。あと、僕は妖精なんかじゃなくて普通の人間だからね?」
どうやらこいつ、妖精じゃなくてただのめちゃくちゃ綺麗な人間らしい。あからさまな偽名を名乗っているってことは、もしかすると偉いお貴族様なのだろうか……って思ったけど、お貴族様があんな風に川に入るとは思えないし、妙に世間知らずで抜けているというか、放っておけない感じがするんだよなこいつ……。
あれか、ごっこ遊びが好きな年ごろってやつか? 村のマセガキ共はしょっちゅうお姫様ごっことかしてるしな。
「で、何で川の中にいたんだ?」
「……言わなきゃ、ダメ?」
「……ダメだ。放っておくとまた同じことをしかねないからな」
そんな風に上目遣いで見つめてくるの、やめてほしい。兄の威厳が崩れそうになる。顔が良い奴はお願いのポーズがあざといから困る。
「……笑わない?」
「ああ」
「ラウル、ゴーシュ……外でおトイレしたくなったら、どうする?」
「……んっ?」
どうするもなにも、そんなの答えは一つしかない。俺たちにできることと言えば、それはもちろん……だけど。
「普通に立ってそこらでやってるよ? チュチュも、そうすればいいじゃん」
さすがは五歳児。何の躊躇いもなくぶっこみやがった。
「だ、ダメっ! 僕、トイレはちゃんと座ってじゃないとできないのっ!」
「バカ野郎……俺達とちげーんだ、立ちションなんてできるわけねーだろ……」
「で、出来ないわけじゃないからね!? ただ、盛大に失敗したことがあって……!」
「やったのかよお前!?」
「あるよ! そりゃあ! ……でも、どうしても無理なの! お家では座ってやるのが普通だし、何よりお家の以外はどこ行ってもばっちいんだもん! 外とかでやるのも絶対無理!」
つまり、なんだ。
こいつ、凄まじいまでの潔癖症で、普通にそこらで済ませるのが無理だから水の中で……ってことか。水と戯れていたように見えたアレも、色々諸々誤魔化そうとしていた結果ってことか。で、パンツが流れたのもそう言う理由で……って、いくらなんでも酷すぎねえかコレ。
「うう……僕だって立ってできるようになりたいよ……。でも、立ってしたら怒られるし練習のしようがないんだもん……しょうがないじゃん……」
「あー……まぁ、普通の常識があればそうだろうよ」
なんだろうこいつ、あらゆる意味で常識知らずというか、なんかちょっとズレている気がする。顔の良さだけに良い所が全部持ってかれて、もしかしなくてもラウル以上にバカかもしれない。
間違っても、こんなバカがお貴族様ってことは無いだろう。というか、親御さんの苦労がこんな俺にでさえひしひしと伝わってくる。将来変な男に騙されそうでマジで心配になってきた。
「……待てお前、もしかして今」
「……濡れたものは穿けないからね。直だからすーすーするけど、僕すーすーするの嫌いじゃない……というかむしろ好きだから大丈夫」
「お、おおう……」
やべえぞこいつ。世間知らず以上にナチュラルな変態かもわからん。見た目だけはめちゃくちゃいいのに中身がマジでただのガキだ。
「お前、ここらの出身じゃないだろう? 親御さんも心配してるだろうし、マジでもうさっさと街に戻れよ」
純粋な善意。ほんのちょっとだけ下心も無いわけじゃなかったけど、それ以上に兄貴としての本能が、俺にその言葉を選択させた。
だけど、チュチュから返ってきたのは。
「……まだダメ。僕にはやることがあるから」
さっきまでとは違う、真剣さを帯びた瞳。子供っぽいガキの顔から、一瞬でチュチュは妖精の──物語の登場人物であるかのような本気の顔になった。
「ゴーシュ、ラウル。キミたちはここらの村の人だよね? ……僕にちょっと、協力してほしい」
忘れていた。物語に出てくる妖精には、まだほかにも役割が──登場人物たちを冒険へと導く存在としても語られていた。そしてチュチュが俺たちに投げかけたその言葉は、まさしくそんな妖精を体現したものであり、俺達を小さな冒険へと誘うものでもあったんだ。
「それができるまで、僕は家に帰るつもりはない。そのために、準備だってばっちりしてきたんだから」
そういって、チュチュが指さしたそこには。
──見慣れぬデザインのリュックと、かなり使い込まれた鉈が置かれていた。




