9 彼女
もう、どれだけこの森をさ迷ったことだろう。
「はぁ……っ! はぁ……っ!」
何日も、何年も経った気がする。いや、まだ数時間しか経っていないのかもしれない。……ろくに飲み食いしていないのにまだ生きているのだから、せいぜいが数日くらいだろうか。
「……!」
冷たい雨だ。ただでさえ泥だらけで体がべとべとなのに、薄汚れた服が体に張り付いて余計に不快感が増す。それ以上に、水を吸って服が重くなった。
すでに、体はとうの昔に限界を迎えている。手も足も、痛くない部分を探すほうが難しい。もうこれ以上、一歩たりとも進むことはできない……のに、それでもなお動けているという事実に、自分で自分が恐ろしくなってくる。
そうだ。
こんなところで挫けるわけにはいかない。
動かねば。
「……ふうっ!」
冷たい雨だ。渇いた体によく染みる。久しぶりに採れたまともな水分。泥と血以外のものでくちびるを湿らせられたのは、いったいいつ以来だろう。
これでまた、もう少しだけ頑張れる。
「へこたれるものですか!」
汗まみれ、泥まみれ、血まみれ。おなかはぺこぺこで、もはやその感覚すらなくなった。手足は重く、あちこちに擦り傷。体の芯から疲れ切っていて、油断すれば倒れてしまいそう。
おまけにここは、帰らずの森。凶悪な魔物どもが蔓延る、未開の地。進んだ先に希望があるかなんて、だれにもわからない。
それでも。
それでも、私は進まねばならない。
「……もう少しだけ、頑張ってくださいね」
託された命は──私の冷え切ったこの体よりはるかに重く、温かく、そして尊い。
この子だけでも、生かさねば。少しでも可能性があるなら、あがき続けなくては。
この腕の中の寝顔を──これ以上、苦しませるわけにはいかない。
「……行かなきゃ」
行こう。
この森の中へ。
進もう。
希望を信じて。
歩こう。
最後まで。
▲▽▲▽▲▽▲▽
「よく降る雨だな……」
窓の外でしとしとと降り続ける雨を見て、イズミはふうと息をついた。
空は薄暗く、夕暮れにはまだまだ時間があるというのに、すでに外はどことなく陰鬱な雰囲気で満ちている。深い鬱蒼とした森が余計にその印象を強くさせているのだろう。まるで樹々の奥から悪い魔女でもひょっこり出てきそうな、不気味と言っていいくらいの迫力があった。
「……」
ぱらり、ぱらり。
濃い目のココアと雨の音をお供に、イズミはゆっくりと本を読む。
暗い森とは対照的に、この家の中は明るく、どこまでも暖かい。ココアの深い甘やかな香りが満ちていて、まさに夢のよう。外の様子が様子なだけに、余計にそう思えてしまうのだろう。
「んー……っ!」
一区切りついたところで一度本を置き、イズミは大きく伸びをした。
「平和だなァ……」
連日連夜降り続ける雨。いつから降り出したかなんて覚えていないが、確実に三日間は続いている。さすがに雨が降りしきる中で外を出歩くわけにもいかないから、その間ずっとイズミはこうして部屋の中でゆっくりしていた。
本にビデオに、積まれたゲーム。室内で暇をつぶす方法なんて腐るほどある。暖かなココアやホットミルク、ブラックコーヒーといったお供の準備も万端だ。イケナイお友達としてビールや日本酒だってある。
「化け物どもも、雨の日はさすがにお休みなのかね……」
なんだかんだで、二日か三日に一度くらいはイズミは化け物の駆除を行っている。相手はその時々によって様々だが、基本的にみんな凶暴で、イズミの姿を見た瞬間に襲い掛かってくるようなやつばかりだ。
そんな奴らでさえ、雨の日は寝床で大人しくしていると考えると、イズミはなんだか少しだけおかしな気分になった。
「……」
ぱらり、ぱらり。
ページをめくる手は止まらない。雨の音も止まらない。
気づけば外はすっかり暗くなっていて、ややオレンジ色かかった室内の光が、より一層温かいものに感じられるようになっていた。
「……む」
一冊丸々読み切ったところで、ようやっとイズミは日が完全に落ちていることに気づいた。今日は元々雨で薄暗かったものだから、明かりの変化に気づきにくかったのだろう。あるいは、それだけ本を読むのに集中していたということか。
「はは、すっげぇ暗い」
カーテンの外。今日は月明かりや星明りもないものだから、文字通りの暗黒が広がっている。日本じゃ田舎でもないと早々お目にかかれない、光の一切ない光景。雨や風の音が聞こえなかったら、この窓の向こうが底知れぬ闇の世界と勘違いしてしまうことだろう。
「……否定できないのが怖いんだよなァ」
すでに、扉を開けたらその先が異世界だった──なんて奇天烈な体験をしているのだ。本当に窓の外が宇宙空間のように何もない闇につながっていたとしても、不思議ではない。
「化け物の目の光も、あれでけっこう無いと寂しいもんだな」
立ち上がり、イズミは思案する。
風呂か、飯か。どっちから取り掛かるべきか。
ここ最近はずっと部屋でゆっくりしていたから、そこまでおなかは減っていない。手の込んだものではなく、簡単にさっと作れるもので済ませてもいいだろう。となると、風呂を沸かしている間に食事の支度をし、おなかが膨れてからゆっくり風呂に浸かるのが正解か。
いや、どうせそんなにおなかが減っていないのなら、お風呂を存分に楽しんだ後、冷たいビールとおつまみで夕餉を済ませてしまうのもいいのではないか。それこそが一番、時間を有意義かつ楽しく過ごせるのではないか。
「悩むねぇ……」
時間も余裕も、何もかもたっぷりある。
だからこそ、悩むのだ。
暇だからこそ、悩むともいう。
「ううむ……──ッ!?」
聞こえた。
確かに、聞こえた。
「どこのどいつだこんな時にやってくるやつァ!?」
ガシャン、と聞き慣れてしまった硬質の金属音。雨の音に紛れてわかりにくいが、確かに鳴り続けている。しかも今回はなかなかにお行儀の悪いやつなのか、いつも以上に音がうるさい。ずっとずっと、ガンガン叩いている。
「ちくしょう、舐めやがって! 今何時だと思ってやがる!」
ヘルメット、プロテクター一式。愛用の鉈に、クマよけスプレー。最低限の化け物駆除セットはすぐに装着できるように準備されており、そしてイズミはすでに何度もこの一式を装備している──要は、着こむのに慣れている。
時間にして、たったの一分。たったのそれだけで、夕飯と風呂、どちらを先に済ませるべきかという贅沢で幸せな悩みを抱えていた人間が、烈火の如き強き光を目に宿した、慈悲も容赦も欠片もない駆除人に変身した。
「武器よし防具よしスプレーよしィ!」
どんなに急いでいても、確認だけは怠らない。万が一なんて、絶対に有ってはならないのだから。
「待たせたな──!」
無駄に声を挙げながら、イズミは雨の夜へ至る扉を開ける。
そして、気づいた。
「な、あ……!?」
「……っ!」
人だ。
人がいる。
人が、門扉にすがるようにして立っている。
それも。
「お、おい……あんた……!」
鉈もスプレーも落とし、雨に濡れていることにすら気づかないまま、イズミは思わずその人の下へと小走りで駆けた。
「どうか……っ! どうか、お願いします……っ!」
──綺麗な人だった。一瞬イズミが何もかも忘れてしまうくらいに、綺麗な人だった。雨と泥と血に塗れ、服も薄汚れて饐えた匂いさえするというのに。
その──給仕服姿の女性は、イズミが今まで生きてきた中で見た一番綺麗なその人は、門扉を開いたイズミに懇願した。
「どうか……この子を、助けてあげて──」
「お、おい!」
自分のことなんて、目に見えていないかのように。その給仕服姿の女性は抱いていた赤ん坊をイズミに手渡すと、安心したように微笑んで──
そして、力尽きたように倒れ込んだ。