88 陽動
「ああチクショウ、今日は厄日か!?」
館の裏口に、侵入者が現れた。
そんな連絡を受けて裏口に向かって走っているのは、この道十数年のベテランであるグスタだ。経験と身体的な能力のバランスが最も良いとされる年頃で、実際、この緊急事態に名指しで対応を求められるほどには他者からの評価も高い。さすがは領主の館付きの兵士と言ったところだろう。
「マルコぉ! 応援はどうなってる!?」
『賢者とペトラが動きを変えた! そうすぐには……一気には動けない!』
「だろうな!」
はぁ、とグスタは内心でため息をついた。
裏口に侵入者が出た。それはいい。いや、この領主の館にそんな狼藉者が侵入したというのは非常に由々しき事態だが、そういう時のために自分がいるのだ。たとえ相手が馬無しで動く鉄の馬車を駆って壁をブチ壊していたとしても、まぁそういう魔物だと思えば諦めもつく。
問題なのは──侵入してきた相手が敬愛すべき、仕えるべき水の巫女であり、この一連の騒動は言ってみればただの痴情のもつれでしかないという所だ。
『ペトラが地獄の緋霧をちらつかせてる! というか今なんかちょっとだけシュッてやりやがった! あいつマジでやる気だぞ!』
「ペトラはそういう奴だってお前も知ってるだろ!」
『だけどよぉ!? 腐っても元同僚だぜ!? それなのに……!』
「同僚だろうが、あいつは女だ! そりゃあ、領主さまの味方なんてするはずねえだろ!」
『グスタ! これ、領主さまにも聞こえてるんだぞ!』
「安心しろ! 俺達の領主さまはこんなことじゃ怒らねえよ!」
『その通り。あとグスタ。キミの実力はよく知っているつもりだけど……間違っても、ルフィアに手荒な真似はしないでくれよ?』
「善処しますぜ!」
『対処してくれ』
つくづく、向こうが一枚上手だったな──と、グスタは懸命に走りながら考える。あれだけ派手なことをやっておきながら結局はそれも陽動でしかなく、自分たちはまんまとそれにつられて裏門をがら空きにしてしまった。おまけに対処に向かおうにも動きをけん制され、事実として動けているのは自分のみ。
唯一幸いなことに、向かう先にいるのは水の巫女と商人と神殿関係者だけ──要は、虫も殺せないほどに慈愛に満ちた心優しい人間と、戦闘能力はほぼ皆無と言っていい素人だけだ。だから、自分一人とはいえ無力化して身柄を確保するのはそこまで難しくは無いはずである。
問題があるとすれば。
「無策で来ているわけがねえんだよな……ッ!」
相手には、賢者の秘術がある。馬無し馬車の威力は見せつけられたばかりだし、地獄の緋霧は食らった人間に文字通り地獄の苦痛を与えると聞く。それ以外にも予想のつかない何かが控えていることは想像に難くなく、そしてグスタはこれからそんな相手と対峙しなくてはいけない。
『それについては、本当に申し訳ない。別途追加で手当てを出すよ』
「手当をもらっても、体が無事じゃなきゃ意味がないんですがね」
『僕のルフィアを信じてくれよ。キミに重大なケガをさせることだけは絶対にないさ』
その言葉を誰よりも信じたいのはグスタ自身で、グスタは水の巫女様がそんな乱暴な真似はしないと心の底から断言できる。
だけど、キレた女房が何をしでかすかわからないということも、よくよく知っていた。そして悲しいことに、そういう観点で言えば領主の方には一切の同情が出来ないのである。
「──いた!」
ヴヴヴ、と特有の音を立てながら佇む馬無し馬車に隠れるようにして、どこか見覚えのある人間たちがいる。賢者と同じようにフード付きのローブで軽く変装……というか素肌を保護しているのは水の巫女と商人で、大神官と婦長はいつも通りの装いだ。さすがにレンガに突っ込むのは憚られたのか、突破できそうなところを降りて探しているらしい。
「ええい、頼むから大人しくしてくれ!」
十分に刃引きした槍を構え、グスタは威嚇するように叫ぶ。少しでも動きを止めてくれれば御の字で、正直な所本気で切り込むつもりは全くない。焦らずとも時間さえ稼げば増援が来るのだから、お互いのために無駄な戦闘は避けたい……というのが本音だった。
「──む! その声……グスタか!」
「尻の青かった坊やが、まァ偉そうに! また昔みたいにお尻を叩いてあげましょうか?」
「勘弁してくれよマジで……」
水の巫女を守るように立ちはだかったのは、大神官と婦長の二人だ。職業柄グスタは二人と顔見知りであり……それ以前に、この街に生まれた人間として子供の頃に結構お世話になっている。文字の読み書きを教えてもらったのは神殿だし、勉強にやってきた他の子供と一緒にいたずらをして、仲良く拳骨をもらった記憶も数えきれないくらいにあった。
「直に増援が来る! 領主さまも巫女様も結局は互いに話し合いたいだけなんだろ!? 『無駄な争いなんてするんじゃない』……って教えてくれたのは婆ちゃんたちだろうが!」
喧嘩なんてするんじゃない、物事は話し合いで解決するべきだ……と、幼いグスタたちに何度も説教をしたのは、他でもない目の前にいるこの二人だ。実力的には二対一でもグスタが勝っているが、出来ることならやりあいたくないというのがグスタの考えだった。
仕事は仕事として割り切ることはできるものの、話し合いの余地があるのなら。ならば、それに賭けたいというのが奇妙な気まずさとやるせなさを現在進行形で感じているグスタの正直な気持ちであり、そしてそれは、幼いグスタが聞いたら耳を疑うような言葉で拒否された。
「ええ、教えましたとも。“無駄な”争いはするなって」
「婦長の説教が終わった後、私はこっそり“こう”も教えたな? ──それでも男なら、やらなきゃいけない時もあると」
ああ、この二人はマジでキレている。神殿関係者──清廉で潔癖な神に仕える聖人という立場をかなぐり捨てて、一個人としての素顔をむき出しにしているのだと、グスタは本能で理解した。
「この件に関して言えば、神殿は……賢者様の言葉を借りるなら、『心の底からブチギレて』おるぞ。ルフィアに対する態度はもちろん、ミルカすらも力ずくで攫ったのだから。私がこの法衣を着てここにいるという意味を、今のお前なら理解できるな?」
「テオ坊ちゃんに対する仕打ちだってそうなのに、こんなことをしでかすなんて……! だから私は最後まで結婚には賛成できなかったんですよ! だいたいグスタ! あなたもあなたです! どっちに正義があるのかわからないのですか! そんな風に育てた覚えはありませんよ!」
大神官は儀礼用のメイスを構えて。婦長は護身用のナイフを構えて。
時に厳しく、そしてそれ以上に優しかった親同然と言っても過言ではない二人が、明確な敵意の下にそれを自分に向けてきている。それも、至極真っ当でめちゃくちゃ共感できてしまう動機だというのだから、グスタは自分の立場を呪いたくなった。
とはいえ。
「……ああ、そうかい。ならしょうがない。俺はちゃんと、一声かけたんだからな」
仕事は仕事で、今の領主のことを信頼しているというのもまた事実なのだ。
「……一度引き受けたことは最後までやり通せって、教えたのは婆ちゃんたちだぞ」
「ああ、その通りだ。だからお前も遠慮なんてすることは無い。今がその時だというのなら、心のままに動くがよい」
「ふふ。懐かしいわねえ。またお説教とお尻叩きのフルコースをしてあげましょう」
「……年寄りなんだから、無理はするなよ」
目の前のそれを除いた一切合切を忘れることにして。
グスタは改めて槍を構え直し──そして、大地を蹴った。
「はッ!」
体の移動、踏み込み。体の捻りに、腕の動き。そんな動作をほぼ同時に、流れるようなタイミングで行うことで初めて実現する、急激に伸びる神速の突き。想定外の位置から意識の隙を突いて伸びてくるその槍を初見で……いいや、わかっていても避けられる人間はほとんどおらず、頭を使うことが苦手な代わりに運動だけは良くできると褒められていたグスタの、一番の得意技だ。
「ぐッ!?」
「まっ!?」
当然、そんなグスタの必殺技を老人二人が対処できるはずもない。ほとんど動けない状態のまま、グスタの狙い通り……武器を攻撃されて取り落としてしまっている。これが一端の戦士なら、即座に動いて武器を拾うなりそのまま殴り掛かるなりするのだが、年齢か経験の差か、二人ともが反射的に痛む腕をさするばかりで動けていない。
「な、なんという……!」
「レディに暴力だなんて……!」
「レディって年じゃないだろうよ……そら、どいたどいた」
子供の頃は絶対に敵わなかった二人がこうも衰えているのを見て、グスタはほんの少しだけ悲しい気持ちになった。
「武器もないのに立ち塞がるかい? それこそ無謀で意味がない。……悪いようにはしないし、俺も領主さまに掛け合ってみるからさ。頼むから、寝覚めの悪くなるような真似はさせないでくれよ」
「……言うようになったな、グスタ。ついこの前まで、ハナタレ小僧だったはずなのに」
「鼻に木の実を詰めて取れなくなってワンワン泣いていた子が……」
「何十年前の話だよ!」
これだから老人の相手をするのは嫌なんだ──と、グスタはさっさとその二人の横を通り過ぎる。もうこんなバカげた騒動は終わりにして、さっさと帰って景気よくパーッと飲んで何もかも忘れたい……という、そんな気持ちでいっぱいであった。
そして。
「巫女様」
「……」
ようやく、ようやっと目の前に水の巫女を捉えることができて、グスタはなるべく落ち着いた感じとなるようにゆったりと声を出す。
「こんな真似、もう止めましょう? ……いえ、言いたいことはよくわかるし、正直問題があるのは領主さまの方だとは思いますが……」
「……」
「しかし、これはやりすぎですよ。正門も裏門もボロボロだ。いろんな人を巻き込んで……後始末も大変でしょうに」
「……」
「……話し合いに来たのでしょう? ご存知の通り、この館の人間はみんな巫女様を慕っています。一人で領主さまの元に向かうのができないというのなら、みんなが付き添います。何もこんな無理矢理見たいな真似、する必要はないんですよ」
「……」
「……まぁ、巫女様からしてみれば俺たちは頼りにならないってことなんでしょうが。不甲斐ない自分が情けなくなりますな」
「……」
「……」
「……」
「……巫女様?」
はて、おかしいぞ──とグスタは思った。
さっきから水の巫女は俯くばかりで、返事すらしない。放心状態で心ここに非ずという考えもできないことはないが、それにしたって何の反応もないというのは考えにくい。
なにより──水の巫女の傍らに控えている商人が、何のアクションも起こさないというのがおかしい。賢者を囮にしてまで襲撃をかけてくるような人間が、敵を前にして攻撃するわけでもなく、逃げすらもしないという現状が異常だ。
「まさか──商人! おまえ、巫女様に何をしたァ!?」
「……巫女様? はて、巫女様に何かをした記憶はありませんが」
その商人──アルベールは、怒声にひるむことなくごくごく自然な様子で言い返した。
「しかし、裏門については言い逃れが出来ませんね。こちらについては一生かかってでも弁償いたしま──」
途中からグスタにはアルベールの声が聞こえていなかった。
ただ、何か重大なミスをしてしまったのではないかと言う漠然とした不安だけが心の中に渦巻いて、同時にまた、それがほぼ確定しているという奇妙な予感めいた何かを感じている。
だって、おかしいのだ。
いったいどうして──目の前にいる商人は武器を携帯していないのか? 襲撃に来たはずの人間なのに、どうしてほぼ手ぶらで立っているのか?
「いやあ、すみません……。賢者様から馬無し馬車を貰ったのですが、運転がまだ下手くそで」
「まさか、まさかまさかまさか……!」
「おまけに興奮した大神官様がいきなり暴れ出すものだから。ハンドルを奪ってここに突っ込ませようとしてきたときは、冗談抜きに死ぬかと……」
「襲撃じゃないってか……!? あくまで賢者から貰ったその馬車で散歩していただけで、ここに来たのは偶然だってか……!?」
「……そう言っていますけど?」
目の前の商人は、手ぶらだ。当然、襲撃に来るような装備じゃない。
さっき戦った大神官は、メイスを持っていた。ただしあれは儀礼用で、本来は武器として用いるものじゃない。
婦長はナイフを持っていたが、それだって護身用。誰でも持っている物であり、同時にまた、あくまで身を守るためのもの──これから襲撃を行う人間が持つようなものじゃない。
襲撃に来たのに、武器を持っていない。いいや、それ以外にも。
商人と水の巫女は、賢者と同じようにローブとフードで素肌を保護している……地獄の緋霧対策をしているのに、大神官と婦長は神殿の時と全く同じ服装をしている。その段階ですでに、ちぐはぐだ。
地獄の緋霧で切り抜けるつもりだった。だから、まともな武器を持っていなかった。それなら武器を持っていないことの理屈は通る。
しかしそれでは、どうして同じくまともな武器を持っていない大神官たちは商人たちと同じ格好をしていなかったのか。本当に、神殿が本気であるということを見せつけるためにあえて法衣を見せつけていたのか。
いいや、そんなはずがない。
地獄の緋霧対策をしなかったのではなく、できなかったのだ。
「おい! お前!」
グスタは、さっきから俯いて喋らない銀髪の女のフードを思いっきりめくり上げた。
「もうっ! 何するんですかあ! ──せっかくのデートを邪魔しないで下さいよ!」
「ああ……ッ!?」
神殿関係者と一緒にいたから。フードから覗く髪が銀色だったから。そして何より──そんな条件に合致して、このタイミングでここに来る人物なんて一人しかいないと誰もが思っていたから。
だから、遠目に見た時に勘違いしてしまったのだ。
「ああ、紹介しましょう──彼女は僕の妻のニーナです」
身長も体格も同じくらい。ローブの下からちらちら見える服装は水の巫女のそれで、ご丁寧にもカツラで水の巫女そっくりの髪型になっている。顔立ちこそ決定的に違うものの、それをフードで隠してしまえば。
同じ成人女性なら──ニーナと奥様となら、ほとんど見分けがつかない。
「なんで……! なんで巫女様の真似なんてしていたんだ……ッ! その恰好は……!」
「え? “こすぷれでーと”ですけど?」
何を言われたのか、グスタにはわからなかった。
「お話の中の人物になりきってデートするって文化が賢者様の国にはあるって話で。私が水の巫女様に憧れているって話したら、じゃあ服を貸すからやってみなよって巫女様が!」
「な、な……!」
誰が聞いても一発で見抜ける、そんな建前。白々しいにもほどがあり、普段のグスタだったら即座に鼻で笑うか、怒鳴りつけていたことだろう。
だけど、それができなかったのは。
「そ、の、カツラは……!」
水の巫女の綺麗な銀髪。領主の館で働く私兵団の中で、一番目の良い人間が。そんな人間が普通の銀髪と巫女のそれを見間違えるだなんて──ましてやカツラという作り物のそれと見間違えるだなんて、本来はあり得ない。
そんなあり得ないことがなぜ起きたのかと言えば。
「……巫女様の御髪で作ったんだよ」
「……ッ!!」
「……ただのカツラじゃバレちゃうからって。本物を使えば、絶対に大丈夫だって……巫女様はそう仰ったの」
見間違えるも何も、それは水の巫女本人の髪だったから。何か細工があるだとか高度な技術を使ったとか、そういうことは一切ない。唯々単純な理由である。
「まあ、ベースのカツラに表面だけ被せたものだから……全部切ったってわけじゃないけど」
しかし、こうやって人を騙せる程度にはばっさり切っている。おそらく、もう単純な後ろ姿やヘアスタイルだけでは水の巫女と識別できることは無いだろう。そして、たったこれだけのために髪を切るだなんて、生半可な覚悟ではできるはずがない。そんなの、グスタでさえも理解できる。
『グスタ! どうした!? 水の巫女様は!?』
「……」
魔法で伝わってくるその声。どうやら、伝令はまだこの場にいる人間が水の巫女だと思っているらしい。
『……おい!? なんで返事をしない!? 魔法か何かを食らったのか!?』
たった一言だけ発することができれば、自分は役目を全うすることができる。そんなのわかりきっているはずなのに、グスタはどうしても声を出すことができなかった。
『もう少しだけ待ってろ! もう、最低限の戦力だけ残してみんなをそっちに向かわせている!』
「……」
ああ、それこそが本当の狙いだったんだろうな……と、グスタはぼんやりと考えた。そりゃあみんな、なるべく穏便に水の巫女様を確保したくて、そのためになら全力を尽くすに決まっている。数が多ければ多いほど、向こうの諦めも早くなるのは当たり前のことであり、だからこそグスタたちはこの馬鹿らしい痴情のもつれに戦力として参加しているのだ。
「……なんかいろいろ連絡が来ているようですが、いいんですか? 大声で叫べばそれだけでもう、片付くと思うのですが。もしかして見逃してくれたりします?」
「バカ言え。仕事を放棄するような真似、できるはずがないだろ」
意外そうに問いかけてきたアルベールの言葉に、グスタは絞り出すようにして応えた。
「ただちょっと、返事に時間がかかっているだけだ」
「……」
少し遠くの方から、金具がこすれ合う特徴的な音が近づいてくる。武器を持ったまま走った時に出てしまう音だ。思った以上に大きい音であることを鑑みるに、かなりの人数が、持てる力を振り絞って走っているのだろう。荒い息遣いやドタバタとした気配まで感じられるようになったのだから、まず間違いない。
「いたぞ! グスタだ!」
「見ろ! すでに無力化してる! 身柄を確保するだけだ!」
たっぷりたっぷり──日常の一コマとして見る分には短く、そして何かを行動を起こすにしては十分すぎるほどの時間が経ってから。
ようやっとやってきた味方の増援に対して、グスタは怒鳴りつけるようにして叫んだ。
「バカ野郎! 全員戻れ! ──こっちも陽動だ!」
▲▽▲▽▲▽▲▽
時はほんの少し遡って。
領主の館の前庭では、必要最低限の人数の私兵たちが賢者たちの動きを阻もうと……ありていに言えば、時間稼ぎに勤しんでいた。
「無理することは無い! 巫女様の身柄さえ押さえればそれで終わりだ! 俺達は時間を稼ぐだけでいい!」
最初はこのまま館に突入するものだと思っていた。だが、実際はこっちが陽動で、本命は裏門の方であったという。相手の目的は私兵団をこちらに釘付けにすることであり、そして一番やってほしくないのは向こうに加勢に行かれることだ。
実際、ついさっきまでは自分たちの動きを遮るように戦っていた。少なくとも私兵たちにはそのように見えていた。
だから、その推測が間違っていただなんて夢にも思っていなかったのだ。
「……あ?」
それは、本当に偶然だった。
私兵の一人がたまたま……時間になったために動き出したその影に、気づいたのだ。
「おい! 誰か!」
「なんだよ!?」
「馬無し馬車! まだだれか乗ってるぞ!?」
「何ィ!?」
最初に降りてきたのが二人だったからと言って、それ以上乗っていない理由にはならない。賢者と暮らしているのが賢者を含めて四人だからと言って、それ以外の人間が協力していないとは限らない。
あるいは、馬無し馬車──自動車という存在の特異性ゆえに、賢者以外の人間がそこから出てくる姿を想像できなかったのかもしれない。
「いったい誰だ!? 賢者とペトラと巫女様以外で……まさか、例のつるんでいたアルベールって商人か!?」
「いや違う……あれは!」
──パァン!
乾いた破裂音。一瞬確かに空気が止まり、賢者たちと相対して剣を交えていた人間でさえも、その音の方向に注目してしまった。
「──あれはババアだ!」
「誰だよマジで!?」
──パパパパパ!
断続的に響く破裂音。いくつにも連なった爆竹だ。その性質上、盛大で軽快な音こそ出るものの、結局はそれだけで武器として使うことはできないものである。
「──悪かったね、ババアでさ。……ほぅら追加だ!」
「っぶねぇ!?」
ただし、何も知らない私兵たちからしてみれば危険物以外の何物でもない。何かが破裂しているのは誰が見ても明らかだし、そんなものを近くに投げ込まれたとあれば、逃げ惑うのは当然の反応である。
「あっははは! 楽しいねえ、楽しいねえ! 今度は十連のやつをくれてやるよぉ!」
「な……! おい、そこのババア! お前も賢者の仲間か!? さすがにそれは人死にが出るレベルだろ!?」
「はん。めちゃくちゃ痛いけど死にはしないって賢者様は言ってたよ。……それよりも」
火をつけた爆竹を盛大にまき散らし、火薬の匂いと立ち込める白い煙に包まれながら。
ババア──ラルゴの妻であるアンナは啖呵を切った。
「嬢ちゃんが……ウチのシマの娘が攫われたんだ、黙っていられるわけないだろがィ! あのスカタン領主め、とうとうトチ狂いやがってよォ!」
何かあった時のために、イズミ達が日頃からコツコツ溜めていた爆竹。そんな爆竹に一斉に火をつけて、アンナはとても老女一歩手前の年齢の人間とは思えないほど豪快なフォームでそれを投げつけた。
「た……退避ーっ!」
乾いた破裂音が響き渡り、私兵たちは追撃を免れんとほぼ反射的にアンナから距離を取る。
もちろん、アンナの行動がそれで終わるはずが無かった。
「な……あのババア! なんか別のごっついやつも持ってるぞ!」
「アレも賢者の秘術でつくったものか!?」
「いいや、違うね。これはウチの製品さ。冒険者じゃないあんたらには馴染みがないかもしれないが……」
手の平にはちょっと収まらないサイズの丸い球。ご丁寧にも導火線が伸びていて、もちろんその先端ではパチパチと火花が踊っている。
「ま……まさか! それを投げるってのか!? こっちには賢者たちもいるんだぞ!?」
「知ってる」
そんなあからさまにヤバそうな何かを、アンナは一切の躊躇いも無く投げ込んだ。
「に、逃げ……!」
「いや違う、これは……!」
爆発はしていない。ただし、煙は出ている。
煙が出ていて、その量が尋常じゃない。今この瞬間にも視界を埋め尽くし、三歩先にいるはずの人間の姿でさえ見えなくなっている。
「──煙幕だ! 逃げるんじゃない、固まって身を守れ!」
誰かの叫びは、こうやって視界を塞がれたときの行動としてはそれなりに理にかなったものであった。視界を奪われた以上、下手に動いたら同士討ちの可能性もあるし、そうでなくとも相手からして見れは不意打ちのし放題だ。であれば、背中合わせに一か所に固まったほうが、目の前だけに集中することができて結果として適切な対応ができることだろう。
さらに、それに加えて。
『煙が! 煙幕が前庭を──!』
『うん、聞いてた。……さすがにこれは、介入すべき事態だろうね』
彼らには、この国で一、二を争うレベルの強力な魔法使いがいる。
『──吹き荒べ』
たった一言。
たった一言だけカルサスが呟いた瞬間、春風を思わせる強力なそれが、前庭に吹き降ろされた。
「──わっ!?」
「ペッ! ペッ!」
領主の部屋から──かなりの遠方から、感覚だけで解き放たれたその魔法。強い強いその風は煙幕を吹き散らしたばかりか、あまりに強すぎたせいで砂まで巻き上げてしまい、ちょっとした砂嵐のようになってさえいる。
「よし、視界が晴れた!」
「みんな無事だな!?」
せっかく張った煙幕が、あっという間に吹き散らされて。私兵団の中には手傷を負ったものもおらず、現状は何も変わらない。打ってきた策を見事に打破したのだから、相手の目論見を潰すことができた──と。
現場にいた私兵たちは、誰もがそう思ってしまった。
「いい加減、観念し、ろ……?」
「あ、ああ……?」
だから、目の前の光景のことが、一瞬理解できなかった。
「ペトラ……ペトラ、だよな?」
「前よりずいぶん女らしくなったが……ペトラだな?」
「……酷い言い草だ、本当に」
強風によってすっかり捲れあがってしまったフード。戦いをする中で蒸れて熱くなったのだろうか、ペトラは先ほどまではずっとしていたはずのフードを戻すこともせず、再び得物を構えた。
「どうした、続きをやらないのか?」
「ペトラ……お前……」
自分たちはさっきまでペトラと対峙していた。そして今この瞬間も、目の前には素顔を晒したペトラがいる。そこには何の不思議も無いし、矛盾が生じているわけでもない。
しかし、それでも。
拭いきれない違和感は確かにそこにあった。
「ペトラ──なんでお前が鉈を構えている?」
「……」
賢者とペトラ。私兵たちはこの二人と戦っていた。戦っていると思っていた。少なくともペトラについては間違いのない話である。
問題なのは、目の前にいるペトラが「賢者」の得物である鉈を構えているところだ。
もっと言えば、ペトラはさっきまで「賢者」がいた位置とほぼ同じ場所に立っていた。
「……ッ! そのフードとマントは……地獄の緋霧から身を守るためのものじゃなかったのか! “賢者”じゃなくて、お前が賢者のフリをしていたのか!」
「ご名答」
身を守るためじゃなくて、身を隠すため。それの本当の役割は素顔を隠して誰だかわからないようにするためのものであったことに、この瞬間になってようやく私兵たちは気づくことができた。
「待て、じゃあ“ペトラ”は!?」
「いないぞ! どさくさに紛れてどこかへ──!」
『そっちの“ペトラ”は、ルフィアだったんだね』
「!?」
前庭でのことも、裏門でのことも掴んでいるカルサスには、状況を推測することができていた。
『“賢者”と“ペトラ”が真正面から襲撃してきたと見せかけて、“水の巫女”を裏門から侵入させる。陽動に引っ掛かったと勘違いした僕らがそちらに戦力を割いたところで、陽動だと思わせていた本物のルフィアが堂々と真正面から突入する……二段階の囮作戦、それも本命を囮として使うだなんて、さすがは賢者だね』
地獄の緋霧対策をしていて真正面から乗り込んできた。だから、賢者とペトラだと思った。
神殿関係者が一緒だった。だから、水の巫女だと思った。
そういう目的があったからローブとフードという出で立ちであったことに納得出来ていたのに、真の目的はまた別にあった。
そう、現状の全てにおいて、イズミ達の作戦は見事に成功しているのだ。
「え……カルサス様? 巫女様は裏門にいるって……」
『そっちも陽動だって、さっき連絡がきたんだ』
「じゃ、じゃあ……本物の巫女様は」
『──もう、館の中にいるよ』
煙幕が晴れる直前。愛しさと懐かしさを感じる魔力反応が屋敷内に入ってきたことを、カルサスはしっかり確認している。たとえ視界を塞いでいようとも、どんなに物音を立てずにいようとも、この館に張り巡らされた魔力感知の術式があれば、カルサスが侵入者を見落とすはずがない。
『ペトラに伝えてくれるかい? 前庭での戦いはもう終わりだって。こうして見事に目論見を通されたんだ、これ以上争ったところでお互い何の意味もないからね。キミたちももう、仕事は終わりだ』
「し、しかし……! それではカルサス様が……!」
『僕のほうは大丈夫。愛しい妻と話すだけなのに、何を心配することがあるんだい? 元々今回の件はただの痴情のもつれだって……そう言っただろう?』
「いや、でも……! 我々がここで対峙していたのがペトラと巫女様だというのなら!」
『うん?』
カルサスは、己の魔法の実力に絶対の自信を持っていた。事実としてこの国では一番と言っていいくらいの腕前であるし、自分以上の魔法の使い手にはここ十数年ほど会ったことがない。幼い頃ならいざ知らず、今となっては魔法を失敗するといったこともなくなっている。
だから、魔力感知で捕らえたそれが水の巫女ただ一人であることに──侵入者はたった一人しかいないことに、何の疑いも抱いていなかった。
「本物の賢者はいったい、どこに行ったというのです!?」
至極尤もな疑問。
それに応えたのは、カルサス──ではなく。
『カぁぁあぁルぅぅぅううサぁぁああスぅぅううう!』
「ぎゃっ!?」
「なんだ今の!? 化け物の雄叫びか!?」
館の屋根で休憩していた鳥が一斉に飛び立って。
前庭にいた人間にも、裏門にいた人間にも轟いて。
カルサスの部屋の花瓶や額縁をカタカタと揺らし、何なら敷地の外にまで遠吠えのように響いたその声は。
『出て゛こ゛い゛や゛コ゛ラ゛ァ゛ッ゛!!』
──館の中から、聞こえていた。




