86 『イズミさんは』/ホクロ
「……暇、ですね」
整理整頓が行き届いたその部屋の中で、ミルカはぽつりとつぶやいた。
なんだかんだで、カルサスによってこの領主の館に連れてこられて早四日。連れてこられたのが午後だったから実質的には三日間くらいなのかもしれないが、ともかくそれだけの時間が経ったことで、ミルカにも幾許かの落ち着きと言うか、状況を冷静に考える余裕が出てきていた。
結局あれから、特にこれと言って変わったことは無い。カルサスは自分で言った通り、定期的に──午前中に時間を取ってミルカに質問するばかりで、それ以外は本当に一切の干渉をしてこなかった。それはもう、なんでわざわざあんな強硬手段を取ったのだとミルカが本気で訝しむほどであったのだ。
その話し合いだって、都合四回も時間があれば大抵のことは話し終えてしまう。もちろん、ミルカだってバカ正直に何もかもを話したわけではないが、いずれにせよ、十分すぎる時間であったことには違いない。
「……遅いなあ」
だから、ミルカは暇だった。今はあくまでこの館に軟禁されているという立場である以上、侍女として仕事をするわけにもいかないし、そもそもとして同僚がそれをさせてくれない。心配して気を利かせてくれる同僚もそれなりにいるが、ミルカの方からそれを断っている。ミルカ自身はたとえ役職を解かれようが今更なんとも思わないが、彼らには守るべき家族と生活があるのだから。
「はあ……」
そう、ミルカは今、この館の中ではすごく微妙な立場なのだ。敵陣のど真ん中とも言えるし、周りには味方ばかりとも言えるし、ある程度好きに振舞うことが許されつつも、しかしやっぱり館の外へは出られないという、ミルカにとっても周りにとってもやりづらいポジションなのである。
「パソコンがあれば、いろいろ勉強できたのになあ……」
ミルカは考える。
カルサスが何を考えているのかはさっぱりわからない。話せることはもうすでに話した以上、ミルカをここに留めておく理由は無いはずなのだ。話した内容に嘘が無いことはカルサスなら気づいているだろうし、話していないこと──イズミの出自やあの家のことは一連の事件には関係が無い。だから、カルサスもそれを追及することは無いだろう。
なのになぜ、未だに軟禁され続けているのか。そこがやっぱり、よくわからない。
一方でイズミの方であれば、何を考えているのかミルカには手に取るようにわかる。きっと誰よりも怒りを滾らせて、如何にしてカルサスの顔面をブン殴るか──ひいては、ミルカを助けるのかを考えていることだろう。動き出すのが少々遅い気がしなくもないが、そこは無茶な計画を立てたイズミをペトラが諫めたためだろうとミルカはあたりをつけていた。
そう、イズミがここにやってきてくれることを──助けに来てくれることを、ミルカは信じている。いや、確信を抱いていると言ってもいい。それがわかる程度にはお互いに性格を知っているつもりだし、自惚れかもしれないが──そうであってほしいと信じているが、互いに大事な存在だとも思っている。
イズミらしく、真正面から殴りこんでくるか。例えばアルベールの知恵などを借りて回り道で来るか。神殿や商会の伝手を使った搦め手を使ってくるのか、もしかしたらもっと別の思いもよらない方法を使ってくる可能性もある。
つまるところ、違いと言えばそれくらいだけでしかないのだ。その瞬間が訪れるまでは、こうして意味もない質問の時間と長すぎる暇な時間を弄ぶくらいで、ミルカにはただ待つことしかできないのだ。
「無茶はするな、って言ってもあの人は平気でするでしょうし……もういっそのこと、こっちの方で騒ぎを大きくした方が良いのかな……」
──そんな、ちょっぴり物騒なことを言っていたのがいけなかったのだろうか。あるいは、それが運命の引き金にでもなったのだろうか。噂をすればなんとやら……というわけではないが、静かで退屈なだけだったはずのその部屋に、異変が起きた。
──きゃああ……!
──あいつ、何者だ……!?
「……なーんか、騒がしくありません?」
確かに聞こえた、そんな声。どこか遠くの方で何人もの人間が騒いでいるようで、決してよろしくはない感じのざわめきがかすかにこの部屋に届いてきている。
──がっ、あああ……!?
──止めろ……! 絶対止めろ……!
──いや、いやああ……!? やめて……!
「……」
音はだんだん、大きくなってきている。階上か階下はわからないが誰かがドタバタと走り回っている音が聞こえるし、燭台や机が時折思い出したかのように小刻みに揺れている。扉一枚隔てているとはいえ、その空気の震えは確かに伝わってきており、何かしらの……それも、結構厄介な想定外が起きているということは簡単に察することが出来た。
「ふむ?」
バン、バン、バン……という特徴的な音が、遠くから段階的に響いている。音の感じからして、扉を盛大に蹴破っていると言ったところだろうか。だんだんとそれが近づいてくることを鑑みるに、その主が閉まっている扉を片っ端から開けているということがわかるし、そしてまた、そう遠くないうちにこの扉も開けられるだろうという想像もつく。
畏れ多くも、領主の館でそんな賊の蛮行染みた行いをする人間。ミルカが知っている限り、そんなことをする人間は一人しかいない。
「──舐めやがってこの野郎ッ!! 無駄に扉が多いんだよコンチクショウッ!」
ダァン、と盛大な音と共に。
鬼のような形相で扉を蹴破ったイズミが、部屋の中になだれ込んできた。
「……イズミさん?」
「──ミルカさんっ!」
目と目が合った瞬間。
賊すらビビり散らして逃げ出すようなおっかない顔が、途端に優しげで親しみのある表情に変化した。
「よかった……っ! やっと見つけた……っ!」
あれだけ口汚く悪態をついていたとは思えないほどの、安堵しきった表情。イズミの体はあちこちがボロボロになっており、一部には赤い汚れも付着している。戦闘行為があったことは疑いようがなく、しかしそのことを感じさせないくらいの自然な動きで、イズミはミルカの腕を取った。
「無事でよかった……! 本当に、本当によかった……!」
目に涙をためて。感極まったのであろうイズミが、思わずと言った様子でミルカを抱きしめようとして──。
「やめてくれませんか、そういうの」
ミルカはさっと、その身を引いた。
「え……ミルカ、さん?」
ミルカの視線は、氷のように冷ややかだ。人を見下げ果てているというか、もはや人を見る目ではない。この世のありとあらゆる軽蔑と嫌悪を集めてなおその深みには届かないだろうってくらいに、ゾッとするほど暗い光を放っている。
「ど、どうしたんだよ……? 俺、なにかやっちまったか……?」
「……」
「……あっ! すまん、もしかしてこの血か? 悪い、確かにこんな状態で抱きしめられて嬉しいはずがないよな……」
「……一応聞いておきますが、その血、大丈夫なんですか?」
「ああ、俺はかすり傷だけで大半は返り血だよ。急所は外してあるし、ここには奥様みたいな腕のいい癒し手がたくさんいるって話だからまぁ大丈夫だろ」
「……」
「そうですか……ちなみにですが」
「うん?」
「嫌がったのは服の汚れが理由じゃないんです。……私、今すっぴんで。ほら、ホクロだって隠せていない」
忌々しい顔をまるで隠そうともせず。ミルカは首元のある一点を指で示した。
「私がホクロを気にしているの……イズミさんは知ってますよね?」
「ホクロ? ……そんなの、俺は気にしないって言ったと思うんだが」
とうとう耐え切れなくなって。
ミルカは、そいつの顔を盛大に引っぱたいた。
「え……」
とても他人様には見せられないほどの盛大な舌打ちをしてから。
ミルカは、八つ当たりをするかのように叫んだ。
「イズミさんは! イズミさんは、私のホクロのことを魅力的と言ってくれるんですよ! 目の下のも、口元のも、首筋のも、全部!」
「……」
「“気にしない”? なぁに寝ぼけたこと言ってるんですか! イズミさんは……! 私の知っているイズミさんは、私がホクロを気にしているのを受け入れたうえで、本心から魅力的だと言ってくれるんですよ! ええ、あなたとは違ってね!」
「…………そう言えば、彼は異国の人間だったね。価値観の違いってやつなのかな」
これは盲点だったよ……と小さくつぶやいて。
イズミの形をしていた何かがぼんやりと歪み、その正体を現した。
「まさか、こんなことでバレるとは思わなかったな。演技には結構自信があったんだけれど」
あえて語るまでもなく。そこにいたのは、この領主の館の主……すなわち、カルサスであった。
「ふん。妙に大人しいと思ったらこんなくだらないことをするだなんて。いったい何がしたいんですか、あなたは?」
「どうにも、何かを隠されている気がしてならなくてね。僕に話せないことでも、イズミだったら話すだろう? 助けてもらって気が緩んでいる所であれば、上手く誘導して聞き出せるかもって思ったんだ」
パチン、とカルサスが指を鳴らす。
蹴破られたはずの扉が元に戻った……いいや、違う。
最初から扉は壊れてなどいない。扉が修復されたのではなく、壊れたように見せかけていた幻影が霧散したのだ。
「……幻覚の魔法ですか?」
「うん。《惑わしの魔霧》って言ってね。目に見えないほどの小さな魔法の霧を展開して、そこに幻影を張ることが出来るんだ。見た目だけでなく、音や空気の震えの幻すらも作れるすごい魔法なんだ……けど、どうしてわかったのかな?」
きっとこの魔法も火遊びに使われていたのだろうとミルカは思った。そしておそらく……というか事実として、今まで誰にも看破されたことはないのだろう。ミルカ自身も、少し前に似たような魔法の存在を知っていなければ、こんな魔法が存在するという想像すらできなかったはずだ。
それがこうもあっさりと見破られたとあれば、カルサスの疑問も当然と言えた。
「あなたがイズミさんのことを何も知らなかったからですが?」
「それはまぁ、そうだろうけど。でも、キミはその前から気づいていたんじゃないか?」
そうでなければ、助けに来たイズミにあんな態度をとるのはおかしい。
本気でそう言っているカルサスを見て、ミルカは本気でその横面を張り倒したくなった。
「幻覚の声だか何だか知りませんがね。あのイズミさんが、女子供に手を上げると思いますか?」
「……」
「女性の悲鳴が聞こえた段階で怪しかった。治るんだからどれだけケガをさせてもいいだろ……くらいは、男になら言うと思いますが。それでも、女性を傷つけるような真似は、あの人はしない……できない」
「……歯向かう相手になら、やりそうだと思ったんだけどね」
「ええ、歯向かう相手であればそうでしょう。ですが、ここの人たちは武力を持たないただの侍女ですし、奥様の知人でもあるのですよ? イズミさんが彼女らを傷つける理由も、彼女らがイズミさんを阻む理由もありません」
「……失敗したなあ。イズミがそこまでお人よしだとは思わなかったよ」
「それが無くてもダメでしたけどね。あなた、匂いが変なんですよ」
「……えっ」
まさか、そんなことを言われるとは思ってもいなかったのだろう。おそらくは生まれてはじめて言われたのであろうその言葉に、カルサスは初めて──ミルカが知っている限り初めて、明らかに動揺した表情を見せた。
「そ、そうかな……? 体臭には気を使っているし、イズミの匂いも完璧に作り上げたはず……だよ?」
「だからですが?」
「……えっ?」
「これ以上は言う気はありません。せいぜい無駄に悩んでください」
ミルカは知っている。
イズミは、この世界でただ一人、魔法の素養が全くない人間だ。だから、普通の人間だったらほんのちょっぴりでも含まれているはずの魔法の匂いが一切しない。「魔法の匂いが全くない」匂いという、ミルカたちからしてみればかなり不思議と言うか、奇妙で違和感のある匂いがする。
そんな特異な性質を持つ匂いが、よりにもよって魔法で構築されているのだ。他の人間ならいざ知らず、相反する矛盾を無理やり押し通したようなそれの違和感に、この世界で一番イズミのことを知っているミルカが気づかないはずがない。
違和感のあるおかしな匂いが、なぜか普通に嗅ぎとれてしまう。普段とは明らかに異なるその状況だけで、ミルカはそれの正体がイズミでないことがわかったのだ。
「あはは……もしかして、魔法で模造したことによる僅かな違和感に気づいたってことなのかな? ……匂いのわずかな違いに気づけるだなんて、僕が聞くのも何だけど……イズミとはいったいどういう関係なんだい?」
「あら、領主さまはずいぶんと野暮なことを聞くのですのね」
わざとらしく自分の頬に両手を添えて。挑発するように、ミルカはにこっと笑ってみせた。
「お互い素肌を晒しあい、同じ褥を共にした仲ですわ」
「……えっ?」
「自分の知らないホクロの場所を、互いに知ってる仲って言うほうがわかりやすいですか? 匂いも、温もりも……この一言で全て説明がつくでしょう? 私が賢者の嫁って呼ばれているのだって、知っているのでは?」
「……キミが? 本当にキミが? 正直、今までで一番の衝撃と言うか……その、賢者の嫁云々も、てっきり方便かと」
嘘は言っていない。誤解を招きやすい表現をしているが、ミルカは決して嘘は言っていない。
なぜだか妙にショックを受けているその男の顔が堪らなくおかしくて、ミルカはあえて、黙ったままにこにことほほ笑み続けた。
「ふー……どうにも予想外なことばかりだ。……もう、この際だから開き直って聞こうと思うんだけどさ」
「はい?」
頭を振ったカルサスは、ちょっと疲れたように笑いながらミルカに問いかけた。
「──ルフィアの予知はどんな感じかな? 精度とか頻度とか、今までと比べて何か変わったりしているかい?」
「……それを知ってどうするんです?」
「水の巫女の予知だよ? それの調子を把握しておくのは領主として当然の行いだろう? 賢者の秘術でそのあたりが強化されていたら嬉しいなって……今に限って言えば、個人的には厄介かもって思っているけれど」
「……」
「前から少し、不思議に思っていたんだ。予知はあくまで受動的で、能動的に行うことはできない。効果は強力な反面、読めるのは天災レベルの脅威であることがほとんどだ。それでさえも、結構ばらつきが大きい」
「……」
「予知が上手く働いたのなら。あるいは、こちらから行うことが出来れば。そもそもの事件だって起きなかったはずだし、こうして僕がミルカを連れてくることもできなかった。……まさかとは思うけど、予知能力が無くなったってことは無いよね?」
伴侶として、奥様のことを心配しているのか。領主として、水の巫女のことを心配しているのか。カルサスの表情からはそのどちらであるかは判別できない。
ただ、結局のところ一人の個人を心配しているのだけは確かだろう。それに、両方が理由の可能性だって大いにある。伝えたところでどうにかなるわけでもない情報なので、ミルカは素直に話すことにした。
「……あれから、一回だけ予知ができてますよ。精度も頻度も変わらないと思います」
「へえ。……ちなみにどんな?」
「ガブラの古塔の前に留まり続けると、魔物の群れの縄張り争いに巻き込まれる……というものです」
「そっか。普段に比べると規模は小さいかもしれないけど……帰らずの森の魔物だし、状況を考えるといつも通りって所かな。やっぱり、賢者の秘術で予知能力が向上する……なんて、都合よくはいかないか」
「ええ。そもそも予知が完璧だったら、あなたみたいな人に騙されてませんからね」
「……言うね、キミも」
聞きたいことはひとまず聞き出せたということなのだろうか。カルサスはミルカに背を向けて、そしてぽつりとつぶやいた。
「……それを聞いて安心したよ。自ら処刑されるのも、ミルカがこうして連れ去られるのも、ルフィアの予知の中ではちっぽけなことでしかない。天災レベルではない……実にちっぽけなことだから、きっとこれも読めないだろう」
「……は?」
「さっき、予知が強化されていたら個人的に厄介かもって言っただろう? まさかキミは、領主が他の手を打たないとでも思っていたのかい?」
「まさ、か」
夕飯のリクエストがあれば聞いておくよ──と、そんな言葉だけを残してカルサスは部屋を後にする。当然のように扉には水の魔法による封印が施されていて、ミルカは再び軟禁状態となった。
「……ちっぽけなことだから、じゃないです」
どうせ届かないとはわかっていつつも──それでも、ミルカは言葉にせずにはいられなかった。
「ちっぽけだからじゃない。奥様の予知が働かないのは……たとえ天災だろうと、あの人の傍なら安心できるってわかっているからです。だから──」
おそらくこれから起こるであろう……あるいは、すでに起こっているであろうその出来事に対し、ミルカは心の底からの祈りを捧げた。
「──信じてますよ、イズミさん」
▲▽▲▽▲▽▲▽
時と場所は少し変わって。
カチコミ準備真っ最中の賢者の家の前に、ふらりと現れた一つの影。この国では見かけないデザインのエプロン姿に、十人いれば十人が振り返るほどの整った綺麗な顔立ち。容姿も体付きも──今この瞬間に限って言えば纏う雰囲気すら妙に妖艶なその女性は、周りにいる人間が自分を見て驚く様子を気にすることも無く、家に向かって声を上げた。
「イズミさん……! 私です、ミルカです……!」
目に涙をいっぱいに溜めて、懇願するように。男の庇護欲をこれでもかと刺激するその声は、どうやらしっかりと家の中にまで届いたらしい。
「──ミルカさん!?」
「はい、ミルカです……! あなたの、ミルカですよ……!」
家から慌ただしく出てきたその主──イズミ。イズミの姿を見た「ミルカ」は、堪えきれないとばかりに涙をポロポロと流して、そして嬉しくて嬉しくて堪らないとばかりににっこりと笑った。
「待ってろミルカさん! すぐに行く!」
──傍から見れば。何も知らない居合わせた街の人々から見れば、それはとても美しい光景に見えたかもしれない。
とんでもなく別嬪な賢者の嫁。領主に攫われたらしい彼女がどういう経緯か伴侶の元に戻ってきて、こうして奇跡の再会を喜び合おうとしている。
そう、誰もそのことを疑っていない。賢者の嫁が朝早くにここで洗濯物を干すところをこの近所の人間は毎日見ているし、何なら井戸端会議的な雑談だってしている。声も見た目も丸々同じ人間がこの世に二人といるはずがない以上、今こうして門扉の外に出てきた賢者に抱き縋ろうとしている彼女は、間違いなく賢者の嫁であるはずなのだ。
「会いたかった……! 本当にもう、怖かったんですからあ……!」
意外と分厚くたくましい賢者の胸板に寄り縋って涙を流す彼女を見て。
街の若い男は、賢者が羨ましいと思った。スタイルも顔もいい美女にあんな風に抱き着かれるだなんて、一体いくら金貨を積めばいいのかと本気で思った。
街の若い娘は、彼女のことが羨ましいと思った。あんな風に心の底から信頼できる相手がいるだなんて、女として純粋に羨ましいと本気で思った。
初老の女は、ちょっぴり懐かしい気持ちになった。自分もかつては純真で情熱的な時期があったと……今はもうすっかり色あせた思い出をその光景に重ねて、あの日のことを思い出していた。
初老の男は、なんかもう目の前が滲んで良く見えなかった。自分では決して認めないものの、年を取ってからとにかく涙腺が緩くなって、とりわけこの手のシチュエーションにはめっぽう弱くなっていたのだ。
そんな、いろんな意味で心が揺さぶられるその光景。
「あー……うん、そういうアレかあ」
当の本人であるはずのイズミは、どこか居た堪れないというか、申し訳なさそうな顔をしていた。
「イズミ、さん……? いったいどうされたんですか……?」
「ミルカ」が泣きはらした目をこすりながら、不思議そうにイズミを見上げた。
そう、間違ってもイズミのそれは伴侶と──大切な人と奇跡の再会をした人間がするようなそれではない。異国の人間とかそう言うのを抜きにしても、明らかにこの状況にはふさわしくないものであった。
「……俺さ、こういう状況本当は結構苦手なんだよ。だから、ちょっと許してくれよ? 仕掛けてきたのはそっちだからな?」
「あっ……ゃん」
さっと素早く、されど優しく。
イズミは「ミルカ」の髪をかき上げて、その白いうなじを陽光の下に晒した。
「も、もう……イズミさんったら。いったい何を……?」
「──本人も知らないだろうし、普通は見えないんだけどさ。本当ならうなじのここ……髪の生え際の近くに大きなホクロが二つある」
「え」
「ついでに髪の整え方がおかしいんだよ。確かに最近はそれのことが多かったが、その髪型をするのは余所行きのとき……化粧でホクロを隠せる時だ。あの人マジでホクロを気にしているからな。化粧が出来ない時は、髪型を変えてなるべく目立たないようにしてるんだぜ?」
「……」
「あと、これが一番大事なことなんだが」
「……なんです?」
イズミの胸にすがったまま。
目から表情を消した「ミルカ」は、小さな声で答えを促した。
「本物はもっと綺麗で色気たっぷりだ。どういう手段か知らんが、ちょいとクオリティが低いな」
「……はぁ。こんなに盛大に惚気られるだなんて。やってられないよ、もう」
ミルカの形をしていた何かがぼんやりと歪んで。
そこには全く見知らぬ、一人の女が立っていた。
「やっぱり魔法で変装していたのか……あの野郎の差し金だな?」
「うん。でも、バレちゃったからこれ以上は何もしないよ。全面的に降伏。元々、その家の中の様子を見聞きしたり話を聞きたかっただけで、危害を加えようとは全く思っていなかったから」
「……信じられるとでも?」
「『僕が命令したって言えば、イズミはキミのことを恨んだりしないはずだよ』って、カルサス様が言ってたから。……今この瞬間も睨みつけるだけなんだもん、あなた、女子供には手を上げられないタイプだね?」
「その通りだよコンチクショウ! 野郎、わかっててこんな手段取りやがったな!」
「女癖が悪い以外は、本当に有能な人だからねー。人を見抜く目だって、当然持ち合わせているよね」
悪びれた様子もなく、その女はイズミから距離を取る。いや、イズミから距離を取ったというよりかは、玄関先に控えていたペトラがこっちに向かってきたのを見て、警戒を強めたといったほうが正しいだろう。
「イズミ殿、大丈夫か!? ……やっぱり偽物だったか!」
「ありゃ。もしかして最初からバレていた感じ? カルサス様、誰にも見破られたことの無いとっておきの魔法だって言ってたんだけど……。匂いも感触すらも模倣するすごいやつだって」
「ふん。生憎、似たような魔法のせいで痛い目を見たことがあったからな。それにあの領主が本気を出したのなら、侍女でしかないミルカが逃げられるはずもない」
ペトラは片手に持っていた鉈を構えて、いつでも切りかかれる体勢に入った。
「お、おいペトラさん? いくらなんでもそいつは……」
「そうだよ。私、本当に武器なんて持ってないのに」
「どうだか。……イズミ殿、こいつは元々はこの街に潜入していたいわゆるスパイだ。尤も、どういう経緯か領主さまに口説かれて寝返ったんだがな」
「えっ」
「どこに何を隠しているかわからんぞ。ブーツの中か、袖の下か。パンツの中か、あるいは乳の下かも」
「……えっ?」
「現に……未だにほら、残ってるだろ」
ほんのちょっぴり顔を赤らめて。それも、怒っているわけでも寒いわけでもないのに赤くなった頬のまま、ペトラはその女をにらみつけた。
「んー……やっぱり、誘惑の術は普通に効いているんだよなあ。なのに賢者様はちーっとも反応しない。男なんてちょっと抱き着いて色目を使えばすぐに挙動不審になるのに」
女の子にも効くほど強い術なんだけど、とあっさりとネタ晴らしをした彼女は、無邪気な笑みを浮かべて言った。
「ミルカって人が本当に羨ましいよ。こんなにも真っすぐ、大切に想ってもらえるだなんて。……あの人もそれ自体は間違いないんだろうけど、私だけを見てくれることはないから」
「……だったら、どうしてこんな真似を」
「賢者様なのにそんなこともわからないの? 女の子なら、誰でもわかるんだけどね」
イズミが攻撃なんてしないと、確信を抱いているのだろう。彼女はそのままくるりと背を向け、もうここに用はないとばかりに歩き出す。武器も持っていなければ構えを取っているわけでもない……本当の意味で無防備な背中がそこにあって、一応は一般的な常識を持ち合わせているというイズミからしてみれば、そんな彼女を攻撃したり捉えたりすることなんて間違ってもできるはずが無かった。
「……イズミ殿?」
「いや、いい。ここであの娘をどうこうしたところで、俺達には何のメリットもない。もしまたやってきて、今度こそ俺が騙されても……どのみち家には入れない。ペトラさんも知ってるだろ?」
「……まぁ、イズミ殿がそう言うのなら」
「──っと。でも、ただで返すのは勿体ないな。……おい!」
イズミの声に、彼女の足がぴたりと止まった。
「カルサスに伝えてくれ。近々、正式に果し状を出すからなって。こんなアホな真似なんてしないで、悪役らしく根城でどんと構えてろって」
「……あの人、領主としては真っ当なんだけどねー?」
「領主以前に、人として真っ当じゃない奴なんて信用ならねんだよ。……もしミルカさんに傷一つでもつけていたら、前歯全部ブチ折って二度と人の前に出られないツラにしてやるからな。やると言ったら俺はマジでやるぞ」
「……本当にあなた、賢者なのぉ? その脅しの仕方、私の故郷にいるヤバい蛮族と同じなんだけど」
それだけ言って、今度こそ彼女は広場を後にした。
あとに残ったのは、イズミとペトラ、そして賢者の「宣戦布告」を耳にした街の人間のみ。
あるものは高度な魔法を見事に見破った賢者のその慧眼を讃えて。
あるものは賢者とその伴侶を結ぶ真実の愛に感激して。
またあるものは、賢者がさらっと口にした物騒なことに恐れ戦いて。
感じ入るものこそ違えど、誰もがその瞬間が──何か大きな出来事がそう遠くないうちに起こるであろうことを、本能で予感している。そしてきっと、その大いなる予感は彼らを通してどんどんと伝播し、やがてはこの町全体を包み込むのだろう。もしかしたらすでに、一部の聡い人間は確信しているのかもしれない。
「──やるぞ、ペトラさん。さっさとあのバカ旦那を殴り飛ばしてやりたい」
「ああ、私も同じ気持ちさ」
──決戦の時は、近い。
▲▽▲▽▲▽▲▽
「ところで、イズミ殿」
「うん?」
「アレが偽物だって見抜けたのは、うなじのホクロが無かったからだ……って話だったが」
「うん」
「──うなじを見る前から、ミルカじゃないと確信していたよな? だからこそ、万が一を考えて私を玄関に残したんだよな」
「……」
「……ホクロじゃないなら、なぜわかった? 少なくとも見た目は、完璧にミルカだったと思うんだが」
「……本当は」
「本当は?」
「……魔法の変装だったからかな。俺には中途半端に本来の姿が被って見えていた。たぶんアレ、魔法を使った本人に作用しているんじゃなくて、それを見ている人に作用するタイプのものだったんだと思う。だから、匂いや感触も込みで騙せるんだろうな」
「……」
「真っ赤っか野郎も姿を消す魔法を使っていたけど、アレはあくまで本人に作用する魔法だから俺にもわからなかった。……仕組みや技術としてはカルサスの方が上等なんだろうけど、単純に相性の問題……なんだと思う」
「愛の力で見破ったってわけじゃ……」
「……誘惑の魔法はマジに効かなかったんだから、そういうことにしておいてくれないかな」
「言えないよ、こんなこと……」
──決戦の時は、近い。




