85 伝播する不安
「ちくしょうが……ッ!!」
夜。煌々と輝くLEDの室内灯の下で、イズミは振り下ろすことのできない拳を持て余していた。
いつもだったら、この時間は夕餉を済ませてのんびりとしている頃合いである。食後のコーヒー、あるいはお酒なんかを片手にソファで寛ぎ、和気藹々と談笑しながら団欒の時間を過ごしていたはずだ。
だけど、今は。
「……」
「うー……」
テオを膝に抱く奥様の顔は、今までに見たことが無いほどに暗い。顔は青ざめていてまるで死人のようであり、一切の活力が感じられなかった。
そんな奥様の異変を、赤ん坊なりに感じているのだろうか。いつもだったら大好きなお母さんの膝の上できゃっきゃとはしゃぐはずのテオも、心なし不安そうな顔をしてずっと辺りをきょろきょろと見渡している。
「……もう、夕飯の時間だったな」
「あ……そう、だね。確か今日は……あ」
いいや、もしかしたら。
テオが辺りを見渡しているのは、本来いるはずの人がこの場所に居ないからかもしれない。
「やれやれ……ミルカがいないと家事の一つもろくに出来ないとは。自分のことながら、実に不甲斐ない」
適当に何か焼いてくる──とリビングを後にしようとしたペトラを、イズミが鋭い言葉で遮った。
「──飯なんて、今はどうでもいいだろ?」
「……」
台所に向かおうとしていた足をぴたりと止めて。
ペトラは、ゆっくりと振り返って言った。
「飯は大事だよ。むしろ、こういう時こそな」
「……」
「……私がいない間に、まさかそんなことになっているとは思わなかった。自分を責めているのかもしれないが、それは違う。あんなの誰にも予想できないし、肝心な時にいなかった私にも責任はある。だから──」
「そんなこと言ってるんじゃねえッ!」
突然の大声。びく、と奥様の体が確かに震えた。
「責任だとか誰が悪いだとか、そんなのどうでもいいんだよ! 単純に、ミルカさんをすぐに助けるのが先決だってだけだ! 俺達が今やらなきゃいけないのはそっちだろうが!」
「だから、落ちつ──」
「うわああああん!」
ペトラの言葉を遮るように、テオが盛大に泣きだした。そのまんまるな目からは涙がいつも以上にぽろぽろとこぼれ出て、必死であやす奥様の服に小さな染みを作っていく。
「うわあああん! うああああん!」
「テオ……! おねがい、泣き止んで……!」
背中を優しく叩いても。頭の後ろを優しく撫でても。ぎゅっと抱きしめても、ほおずりしても、高い高いをしてもテオは泣き止まない。いつもだったらこれで絶対泣き止むはずなのに、今日に限っては何をしても泣き止む気配もなく、そして当然のごとく、おなかが空いたわけでも、おしめの交換を求めているわけでもない。
不安。言葉にするなら、おそらくその一言。テオがわんわんと泣き叫んでいるのは、不安が心に満ち満ちているからだ。
「うわあああん!」
「こんな泣き方、初めて……やっぱりミルカがいないから、なのかな。大丈夫、大丈夫だからね、テオ……!」
本来いるはずである人がいない。いつもは母と同じくらいに優しく抱きしめてくれる人がいない。これで不安にならないほうがおかしい。
ただし、それと同じくらいに。
いつもは優しい人が、そうでなくなっているのも理由なのだろう。
「うわあああん! うわあああああん!」
「テオも泣くな! 男だろ!」
「うわあああああん……!」
「ミルカさんなら、俺がすぐに──!?」
次の瞬間。イズミは力強い何かに思いきり胸倉を引っ張られ、そして気づけば吐息のかかる距離にペトラの顔があった。
「おうコラ、平民風情が。誰に向かって口きいてるんだ?」
「……っ!」
それはおそらく、イズミが初めてペトラが護衛の騎士として働いたのを間近で見た瞬間であり、同時にまた、イズミが初めてペトラに冷ややかな視線を向けられた瞬間だった。
「水の巫女様とその御子に対するその態度──ましてや何の罪もない婦女や赤子に対する態度じゃあない。クソチンピラが、ぶちのめすぞコラ」
「あ……」
さーっと冷たく、鮮明になっていくイズミの視界。血の気が引いて──引きすぎて凍えそうになっている脳ミソは、イズミに自分が何をしたのかを正確に理解させた。
「うー……!」
「あ……」
「っ!」
視線その向こう。今までに見たことが無い程に震えた奥様と、涙をこぼし続けるテオがいる。
二人が自分を見る目には、明らかに今までのそれと違う……そう、ある種の怯えが含まれていることに、イズミはようやく気付いた。
「お、れは……」
イズミの瞳が大きく揺らいだことに気づいたのだろう。ペトラは胸倉をつかんでいたその手を緩め、代りに肩に優しく両手を置いて、真っすぐイズミの顔を覗き込んだ。
「……テオ坊ちゃんも奥様も震えている。私の知っているイズミ殿なら、間違っても二人を怖がらせる真似なんてしないはずだよ」
「ごめん……今のは完全に、俺が悪かった……」
「ああ、そうだな」
一人っ子のはずなのに。何故だかイズミは、姉に優しく怒られているような気分になった。
「悪ぃ、ペトラさん」
「なんだ?」
「ちょっと頭を冷やしたいのと戒めを込めて、殴ってほしい」
「任せろ」
「え」
思いのほかあっさりと返ってきた返事。その内容を咀嚼するヒマもなく顔面に強く速く硬いものがブチ当たり、イズミの目の前がチカチカと点滅する。幸いなことに鼻血は出ていないようだが、打たれたところがジンジンと熱を持ったかのように痛み、ついでと言わんばかりに口の中を切ったかのような感覚も襲ってくる。
「きゃっ……!? ちょっとペトラ!? イズミ様、大丈夫ですか!?」
「大丈夫です、奥様。これくらいは男のコミュニケーション。下手に心配すると却ってプライドが傷つきます」
まず間違いなく、イズミが生きてきた中で一番強烈な一撃だったことだろう。少なくとも、幼いころに取っ組み合いで喧嘩した時も、学生時代にかなり派手に喧嘩した時も、これほど痛む拳を受けた記憶はイズミには無かった。
「いっつつ……ひでえなあ、ペトラさん。ちょっとくらい加減ってもんは……」
「欲しかったのか?」
「いや、いらなかった。最高の仕事だよ」
ぱしん、と両手で自らのを頬を叩いて。心の中で自分に思いつく限りの罵声を浴びせてから。
イズミは、いつも通りに笑って──少なくとも自分の中ではそのつもりで、テオを抱っこした。
「ごめんなあ、テオ。驚かせちゃったな。本当に、本当に俺が悪かった……ごめんな」
「う……?」
「大丈夫。大丈夫だ、テオ。ミルカさんはすぐに俺が助け出す。すぐにいつも通り……みんなで夕飯が食えるようになるさ。抱っこだって、きっといっぱいしてもらえるぞ」
「……ま?」
「ああ、本当だ。俺がお前に嘘をついたことがあったか?」
「……んま!」
「ああ。……だから、今は俺の抱っこで我慢してくれよな」
テオの顔にある涙の跡を指で優しく拭って。イズミは奥様に向かって頭を下げた。
「奥様も、ごめん。俺、完全に頭に血が上っていて周りが見えていなかった。許してほしい……なんて言わないけど、頬を張るでもぶん殴るでも、奥様の好きにしてもらっていい」
「イズミ様……」
儚げに笑った奥様は、ぺち、と優しくイズミの頬を叩いた。
「ふふ……私、初めて人の頬を叩いたかもしれません」
「……いいの? もっとこう、思いっきり派手にやってくれた方が俺としてはありがたいんだが」
「まぁ、イズミ様ったら。そんなことをしたら私の腕が折れてしまいますよ。それに……私にそんな資格はありませんもの」
「……」
「イズミ様のあの気持ちは、ミルカを想ってのことですもの。想いそのものを咎めるだなんて、私にはできません。いつもの優しいイズミ様に戻ってくれたのですから、それ以上私が望むことなんてありませんわ」
「……本当に、ごめん」
「激しい流れは時として人を傷つけることもありますが、水の恵みとして大地を潤すこともあります。激しい流れそのものが悪いのではなく、その行先が悪かったりやり場が無いことが問題なのです。ペトラが流れを変えてくれたのだから……イズミ様の気持ちというその強い流れは、きっと私たちに恵みをもたらしてくれますよ」
だから、と奥様は続けた。
「これからのことを、考えましょう。私が言えた義理ではありませんが、いつだってそうしてきたじゃないですか!」
「……そうだな。これからのことを考えなくちゃ」
テオを抱っこしなおして、そしてイズミはいつもの場所に座る。いつのまにやらペトラも腰を下ろしており、話し合う体勢はばっちりだ。
ソファのいつもの所──ミルカがいないことが余計に強調されてしまっているが、しかし今のイズミはもう迷わない。
「ミルカさんを助けて、またいつも通りにみんなで暮らす。そのために何ができるか……それを考えなくっちゃな」
「……とはいえ、奥様が綺麗にまとめてくれた後で言うのは少し憚られるが、やること自体はもう決まりきっているんじゃないか?」
「えっ」
ペトラの言葉。それは実に、単純なものだった。
「私たちがやれることって……つまりはカチコミだろ? イズミ殿、そういうの好きじゃないか」
「ええ……いや、確かにその方が性分には合ってるけどさあ」
「ティアレット嬢の時とは違って、受け身になる理由は無いんだ。そのうえ向こうの方から待ってると言ってくれている。で、さらにこれが一番大事なんだが……」
「ふむ?」
ちら、とペトラが奥様に視線を向ける。その意味を理解したのか、言葉を引き継いだのは奥様であった。
「ええ……あの人はあそこにいる。元々、私はあの人に会うためにこの街に連れてきてもらった。……昼間は突然のことで動けませんでしたが、もう」
「奥様……」
「──もう、覚悟は決めました。私は私の意思を持って……そう、“カチコミ”をしたいって思ってます」
「そういうわけだ。あとはそれを、どう調理するかってだけ。……あの純真で清楚な奥様が、カチコミだなんて言葉を使うようになったのは間違いなくイズミ殿の影響だぞ? 責任取って、立派なカチコミを見せてくれよ」
「もうっ! ペトラったら!」
「なんです、事実でしょうに……昔の奥様なら、うじうじして部屋に籠ってしょぼくれてたんじゃありませんか?」
「そうかもだけど! ……ペトラも、昔に比べてなんかちょっと意地悪になったよね」
「それもイズミ殿の影響でしょうなあ。人とは元来、そうやって影響しあう生き物ですよ……さて」
にっこりと笑って、ペトラはイズミに問いかけた。
「異界の賢者様が、いったいどれだけ素晴らしいカチコミを見せてくれるのか……期待して良いんだよな、イズミ殿?」
期待に満ちた、ペトラの顔。
信頼に満ちた、奥様の顔。
よくわかってないけど、みんなが笑っているからついついぱあっと笑ってしまったテオの顔。
そんな三つの顔に見つめられている中で、イズミは獰猛に笑って答えた。
「──全てを使った、総力戦だ。目にもの見せて、あの野郎の性根を叩き直してやる」




