81 観光、オルベニオの街。
「──えっ、いいの? ホントにマジでいいの?」
「別に今更、止める理由なんてありませんけど……」
とある朝。朝餉を終え、食後のコーヒーをゆったりと飲んでいたイズミは、自分が何気なく漏らした呟きに予想外の答えが返ってきたことに、心の底から驚いた。
「外を適当にぶらぶらと観光したい、でしょう? 特に予定があるわけでも、追われる身というわけでもありません。私に止める理由はないですよ?」
「いや、そうかもだけどさ……」
──たまにはちょっと、外をぶらついてみたい。何気なくイズミが漏らした呟きに、きょとんとした様子で肯定の声を返したのは他でもないミルカだ。いったいどうしてわざわざそんなことを呟いたのか、どうして好きにしないのかを本気で不思議がっているような表情である。
「だって、奥様とペトラさんは仕事だろ?」
「ですねえ」
「ミルカさんだって……その、家事とかテオの面倒だとか」
「ですねえ」
「うー?」
今この瞬間も、テオはミルカの膝の上にいる。ミルカが家事をしている間は構ってもらえないことがわかっているのか、こういうちょっとした休憩の時は必ずと言っていい程にテオはミルカの傍にいるのだ。あるいは、ミルカが家事をしている間は存分にハイハイして運動するために、それに向けて体力を温存していると言えなくもない。
「そんな中で、俺だけ遊びに出かけるのもなんかなー……って」
「そんなこと考えてたんですか……てっきり、テオとずっと遊んでいたいのかなって」
「もちろん、それがかなりの割合を占めてるけどさ」
なんだかんだで、イズミは暇だった。普通の人間なら毎日仕事で忙しいだろうが、イズミは職に就いていない。行商人の真似事をしていたけれども、アレだって結局は偽装工作の一つであり本職ではない。加えて家の仕事はほぼすべてミルカが完璧に受け持ってくれるため、必然的にテオを一緒に遊ぶくらいしかやることがないのである。
さらに言えば、少し前までは家から出たくても出られない状況であり、全てが終わった後も事情聴取やらなんやらでそこまで自由に、気軽に外に出られるというわけではなかった。なんだかんだでいつの間にか普通の生活(?)に戻ったのは間違いないのだが、そのせいでどうにも切り替えるタイミングと言うか、チャンスを掴みあぐねていたのである。
「いいではないですか、外でゆっくりと羽を伸ばすのも。それに、たまには一人の時間だって欲しいでしょう?」
「でも、ミルカさんの負担が……」
「何を仰います、この程度負担でも何でもありませんよ。おかげさまで水汲みも火熾しも必要なければ、食器洗いや洗濯だってあっという間です。これで負担だ何だと騒いでいたら、朝の水汲みに来た主婦の皆様に水瓶で殴られてしまいます」
「ああ……あの水瓶めっちゃ重そうだもんな……」
「……あ、でもでも。あまりうるさくは言いたくないですが、無駄遣いはほどほどにしてくださいよ? お金を持ってるってバレるとスリに狙われやすくなったりぼったくりにあったりします。路地裏みたいな人気の無い所も注意してほしいのと……」
「お、おお……」
「イズミさんの場合、既に顔バレしている可能性が高いので、変な貴族が繋がりを持とうと接触を図ってくる……かも?」
イズミはある意味では有名人だ。人相や名前まで正確に伝わっているかはわからないが、その存在自体はこのオルベニオの街の誰もが知っている。無実の罪で流刑にされた水の巫女を救出し、そして悪の黒幕を見事に返り討ちにした賢者なのだ。むしろ知らない人間を探すほうが難しいくらいである。
そんな賢者が、お忍びでそこらを歩き回っていたとして。その情報が出回れば、これ幸いとよからぬことを考える人間が出てこないとは言い切れない……というのが、ミルカの考えだった。
とはいえ。
「まぁ、この情勢で自分からケンカを売るような人間はいないでしょう。それにイズミさんが出かけるというスケジュールを掴めるはずもありません。だから、注意すべきは何も知らないスリや物盗りのほうですね」
ミルカは立ち上がり、そしてもう随分長い間使っていなかった財布──この国では巾着型のそれが一般的だ──を取り出した。ちゃりん、ちゃりん、ちゃりりんと無造作にその中にコインを突っ込み、そしてずっしりと重くなったそれの紐をきゅきゅっと締めた。
「はい、あなた。食べ歩きでも買い物でも、お好きなように楽しんできてください……でも、夕飯までには帰ってきてくださいね?」
「おう。……お土産、期待しといてくれよ」
「うふふ、楽しみにしてますね」
──こうして、この異世界に来てから初となるイズミ一人での観光は始まった。
▲▽▲▽▲▽▲▽
「よぉ、賢者様。なんだかんだで久しぶりだな」
「よっ、ラルゴさん」
オルベニオの街の、第一広場のすぐ近く。ラルゴの店はそんな商いにはばっちりのロケーションにあった。
「ここで会うのは初めてだよな。……どうよ、俺の店は」
「いやあ、でっけえなあって思ったよ。ここらの建物じゃ一番デカいんじゃあないか?」
「そうだろそうだろ!」
適当に出店を冷やかし、適当に屋台に売っているものを食べ歩いて。ただ宛てもなくさ迷うのもなんとなく憚られたイズミが思いついたのが、このラルゴの店だ。あれからラルゴたちとは一度も話せていなかったので、挨拶ついでに店を覗いてやろう……という、そういう心つもりだったのである。
ラルゴの店は、思っていた以上に大きかった。アルベールからこの辺では一番の商人であるということ自体はイズミも聞いていたのだが、行商人として活動している姿の方が強く印象に残っていたため、ここまでしっかりとした店を構えているとは思っていなかったのだ。
「それにしても一人だなんて珍しいな。……何かあったのか?」
「今日は単純に、この前の件のお礼を言いに来ただけだよ。なんか裏でいろいろ動いてくれたし……というか、あのクラリエスの屋敷にカチコミしてくれたのもラルゴさんなんだろう?」
「ああ、例の証拠の土の件か。がら空きの屋敷に剣とスコップをもって突っ込むだけでいいってんだから、ボロい仕事だったぜえ?」
「……なんか、ありがとな」
「そう思うなら、もっと美味い儲け話を持ってきてくれよ! それに黄金酒の再販も! いい加減、行商を再開する気はないのかよ!」
「残念ながら、もうやる理由がなくなっちゃったからなあ。……それにマジのド素人だってバレてる以上、こわーい商人さんにぼったくられそうで……」
「ちげえねえな!」
立ち話も何だし、奥まで来いよ……という言葉に誘われて、イズミはラルゴの背中をついていく。扉二つ隔てたところにあったその場所は、いわゆるVIPルームのそれであるらしい。そこそこ豪華でかなりしっかりした机が一つに、ふかふかの豪華なソファが二つ。ラルゴが一声かけただけで、机の上には上等であろうお茶が用意された。
「──で、今日はどうしたんだ? わざわざ一人で来たってことは、またのっぴきならない事件にでも巻き込まれたのか?」
先ほどまでの雰囲気をがらりと変えて、真剣な面持ちでラルゴがイズミの目を真っすぐ見つめる。その様子に多少たじろぎながら、イズミは取り繕うようにして言葉を紡いだ。
「いや……その、気を使ってもらってなんだけど、今日は本当に挨拶をしに来たくらいなんだ。いろいろ巻き込んじゃったし、あれから大丈夫だったのかなって」
「あ……? 本当に、それだけ……?」
「う、うん」
「脅かすなよ……」
ふう、と一息ついて。お茶に一口だけ口を付けてからラルゴは語りだした。
「おかげさまで評判は上々だよ。アルベールもそうだが、俺の商会だけは裏で賢者様と繋がって一連の騒動を解決するために動いていた……って広まっているからな。加えて現状、賢者様と繋がりがあるのは俺とアルベールだけだ。なぜだか別ルートの脈が出来たり、太い客が出来たり……どこかの貴族が凄く優遇してくれたり、な」
「じゃあ、俺達を助けたことでなんか大変な目にあったりとかは……」
イズミの念押しに、ラルゴは面白そうに笑いながら答えた。
「ヤバそうになるなら最初から助けてねえよ。いや、良いことも悪いことも含めて……全部見込んで俺たちにとって利益になるって思ったから動いたんだ。賢者様が気にすることじゃない。……そっちこそ、色々大変なんじゃないのか? あの騒動が一段落ついてから、まともに外に出たって話を聞かないが」
「単純に、タイミングがつかめなかっただけだよ。最近はもう暇を弄びすぎているくらいだ。んで、ミルカさんがたまには一人で遊んでくるのもいいだろう……って言ってくれたから、今日は一人でぶらぶらっとね」
「なんだよ。やることがないってんならマジで再開を考えてくれよな。黄金酒の問い合わせが本当に多くて困ってるんだ」
「ははは、まぁ考えておくけど、今日は無しだ。……そうだ、せっかくだから聞きたいんだが」
「うん?」
「なんかいい店、知らない? この辺のことには疎くって」
「お前……」
ぎょっとした表情を隠そうともしないまま、ラルゴは告げた。
「あんな美人の嫁さんがいるのにか? ……まぁ、夫婦間にはいろいろあるんだろうが、そういう店はほどほどにしとけよ」
「変な勘違いしているところ悪いが、普通に昼飯の店な?」
「なんだ、つまんねえ」
顎を軽く撫で、やや思案したラルゴは背後にあるキャビネットに手を伸ばし、中にあるものを手に取ってイズミの前に置いた。
「これは……」
手のひらに収まる程度のサイズの、記念メダルかあるいはエムブレムか、ともかくそういう感じの何かである。きらきらと黄金色の光沢を放っているものの、サイズ的に考えると金であるとは考えにくいため、おそらくは真鍮製なのだろう。その中央にはどこかで見たシンボルマークが飾り彫りされていた。
「俺の身内だってことを示すメダルだな。これを見せれば仲間内での融通が利く。三番通りにあるラージャの店に、俺の紹介だって言ってこいつを見せれば美味い飯をたらふく食えるぞ」
「貰っていいのか? 俺、商人じゃないけど」
「いいんだよ、そんなの。こいつは賢者様に対する期待の顕れだ。大なり小なり、どの商会でも似たようなモンを作ってるぜ」
身内に限らず、その人からの紹介を受けたという意味合いでこの類のメダルが用いられることもあるらしい。いずれにせよ一種の信頼の証であるということには間違いなく、そう簡単に手に入れられるようなものではないことは明らかだ。
「その代わり、渡したはずのそれを売り払ったりなんかしていたら、まぁ信用は地の底に落ちるよな。無論、止む無く売らざるを得なかったとか、あるいは盗まれたってこともあるかもしれんが……」
「その証明が難しい、ってか。でもまあ確かに、単純に売るだけでも結構な値段しそうだもんなあ」
そんな大事なメダルを上衣のポケットに入れて。ポケットの上からその硬質な感触を確かめてから、イズミは目の前に置いてあったお茶を一息で呷った。
「ありがとう、ラルゴさん。こいつはありがたく使わせてもらうよ……さっきの黄金酒の話、ちょっと前向きに考えておく」
「おっ、さっそく効果があったようだな。なるべく早い返事を期待しているよ」
イズミはともかく、ラルゴはあくまで仕事中だ。あんまり長居するのもよろしくなかろうと、イズミは丁寧にお礼を言って接待室を後にする。帰り際に一応の儀礼として適当な菓子をいくつか購入すれば、もうすっかり気分は昼餉のそれになっていた。
「三番通りのラージャの店……っと」
第一広場から見て、ちょうど三本ほど大きな道を挟んだところにラージャの店はあるらしい。直線距離的にはそう大したことは無いのだろうが、このオルベニオの街は建物が結構密集して造られているほか、裏路地なんかはかなり入り組んでいるため、よほど土地勘が無い限りは大きな道に迂回して進む方が確実だろう。
というかそもそもとして、あまり人気のない道は通るなとミルカに言われている。無駄にリスクを背負うつもりはイズミにはさらさらなかった。
「これで安全だって言うなら、裏路地通って風情を感じるのも良かったんだけどな」
どうせ時間はたっぷりある。そして、今日のそもそもの目的は観光だ。ちょっぴり遠回りするのも何ら問題なく、なんならそんな「お散歩」自体が結構楽しかったりする。
──そんな風に、油断していたのがいけなかったのだろうか。
「……っと」
どん、と不意に誰かとすれ違い際に体がぶつかった。肩が軽く当たったと言うには強く、かといって体当たりされたと言うには弱い程度の、なんとも微妙な当たり具合。もっと言い換えれば、意図的なのか偶然なのか、文句を言うべきか言わざるべきか判断に困るような絶妙な感じだ。
「んだよ、挨拶くらいしろっての……」
ローブのフードを目深にかぶっているから、そいつの人相まではわからない。だが、体格とぶつかってきた体の感触からして男であることは間違いないだろう。浮浪者のそれと言うほどではないものの、身なりは結構ボロボロで、あまり近寄りたくはない雰囲気を醸し出している。
「やだねえ、こっちの世界にもああいうのはいる、ん、だ……?」
そして、イズミは気づいた。
まさかそんなテンプレ染みたことは無かろうと、しかし念のため手を伸ばした上衣のポケット。
指先に感じられるはずの硬質な感覚が、消えてなくなってる。
「野郎てめえッ!!」
慌てて振り向く。まさにその瞬間、薄汚いローブの男は全力でダッシュを始めた。
「待ちやがれゴラァッ!!」
物盗りだ──と頭で判断するよりも早く、イズミは怒声を上げて走り出す。もちろん、待てと言われて待つようなバカはいるはずもなく、辺りには急に走り出した二人──そのうちの一人は烈火のごとく怒り狂っている──に驚いてサッと道を空ける人間しかいない。
「ふざけんじゃねえぞコラァ!」
広がる喧騒。それに連動するように割れていく人の波。妙な争いに巻き込まれたらたまらないとばかりに人が道を開けてくれるのはいいが、そのせいで良くも悪くも走りやすくなってしまっている。ほんの十数メートル先にある背中がなかなか近くならず、右へ左へそいつが角を曲がるたびに、見失ってしまいそうになってしまう。
「くっそ……ッ! 舐めやがって……ッ!!」
そして悲しいことに、地の利は完全に向こうの方にあった。進路を自由に決められるそいつと後ろから追うイズミでは間違いなく向こうの方が有利であり、イズミはどうしたって反応がワンテンポ遅れてしまう。
「ち……ッ!」
加えて、イズミの体力の限界が近い。日本で普通に生活していたころよりかははるかに体力がついている……体が仕上がっているものの、それは筋トレによって鍛えた筋肉によるものだ。腕力や脚力と言った瞬発力こそかなりのものとなっているが、引きこもり生活を続けていた弊害か、いわゆるマラソン的な意味での持久力はあんまり大したことが無かったりする。
──せめて、誰かが一瞬でもあいつの動きを止めてくれたのなら。
痛みだしてきた肺と脇腹のことを考えないようにしていたら、そんな考えが頭をよぎった。そうして追いつくことさえできれば、二度と離さないまま叩きのめす自信がイズミにはあった。
「……ッ!」
だが、そんなイズミの願いに反して、卑劣なるスリを止めようとする人間は現れない。そりゃ、自分から面倒ごとに首を突っ込みたくはないよな──なんて、イズミの頭のどこか冷静な部分が、至極真っ当で理性的な判断をする。
そして。
「──ほいっと」
「……あ?」
もう何度目かもわからない、どこかの曲がり角。
開けた視界の先には、物の見事に空中で一回転する物盗りの姿があった。
「ああ、やっぱりスリか……この街にはちゃんとそれなりの仕事があるはずなんだけど」
空中でくるくる回る煌めくコイン。おそらく、この物盗りがすっ転んだ際に放り出されたのだろう。そして、先ほどまで異常なバランス感覚と見事な健脚を見せて逃げていた男がこれほどまでに盛大に転んだのは、決して偶然なんかじゃない。
「……っと。これが盗品かな?」
パシッと良い音を立ててメダルをキャッチしたそいつ。壁際に寄って道を空けていつつも、さりげなく足を前に出している──つまりは、足を引っかけて転ばせたのだろう。道を塞いで動きを止めるよりも、ある意味ではスマートで賢いやり方であった。
「なあ! それ、俺の!」
「……うん?」
息を切らして立ち尽くすイズミの姿を見て、そいつは少しだけ警戒心を露わにした。
「被害者って割には、ずいぶんおっかない顔してるね……悪党どもの仲間割れかな?」
「物を盗られたら誰だって気が立つだろうよ……じゃなくて! そいつ!」
ほんの一瞬。自分に対する注意が誰からも無くなったことに気づいたのか。あるいは、チャンスが今しかないと悟ったのか。もしかしたらただ無我夢中だっただけかもしれないが──ともかく、そんな一瞬の隙を突いて転んだ男が立ち上がり、そしてあっという間に逃げ去っていく。
盗んだものを失ったばかりか、このままいればしょっぴかれる未来しかなかったのだ。至極賢明な判断だったと言えるだろう。
「ちくしょうこの野郎ッ!! てめえ、覚えてろよッ!」
「……本当に被害者か、この人?」
消えていく背中に苦し紛れの罵声を浴びせるイズミを見て、メダルを手の中で弄びながらその男が首をひねる。果たして自分は正しいことをしたのかどうかと、どうにも得心がいかないというのがありありと伝わる態度であった。
「一応聞くけど、スリの被害者は君で合ってる……のかな?」
「おう。盗られたのはラルゴさんの所の商会のメダルだ。疑うってんなら今すぐこの足で確認しに行ってもいいぜ」
「そっか。まぁ、状況的には間違いないか……あー、あのスリ逃げちゃったけど、たぶんもう捕まんないだろうね。被害はこのメダルだけ?」
「ああ」
「じゃあ、騎士団に言っても時間の無駄かな……。この街は治安が良いほうとはいえ、貴重品なら気を付けたほうがいい」
ぽん、とそいつはイズミの手の上にメダルを置いた。特に気取った様子もなく、ごくごく自然な動作である。
「……どうした?」
スリから盗品を取り返し、元の持ち主に戻す。至極当然な、何ら違和感のない模範的な行動だ。先ほどの男のように、窃盗を働く人間とは比べるべくもない善性の行いである。
ただ、イズミが気になってしまったのは。
「いや……なんか」
「……ああ、そういうこと」
そいつ──その人物は、なぜだかフードを目深に被り、素顔を晒していないのだ。さっきのスリとは違って被っているのは上等なそれなのだが、晒しているのは顔の下半分だけであり、人相はまるで分らない。
ありていに言えば、なんだかんだでこいつもそれなりに怪しい格好なのである。少なくとも、イズミはこの国の人間でここまで目深にフードを被っている人間は見たことが無い。
「ちょっと理由があって、素顔を晒せないんだ。尤も犯罪者とかそういう奴じゃないけどね。簡単に言うと……おしのび、みたいなものだと思ってもらえれば」
「……」
髪はフードの中に納まっているから、長いか短いかもわからない。体格は細身でしなやかだから、男性でも女性でも通じるような気がする。唯一判別できそうな声はと言うと、男にしては高く、女にしては低い感じで判断に困るようなもの。ただ、歌手にでもなれそうなほどに綺麗な声であるのが印象的だった。
つまるところ、男か女か判断するための決め手に欠ける。しいて判別するならば、男装の麗人かコテコテの少女漫画に出てくる美青年のどちらかだ。
「……どこかのお貴族様か?」
そうだったらちょっとヤバいかも、なんて思いつつイズミは探りを入れる。
「君、男装した令嬢か何かだって今思っただろ? ……言っておくけど、僕は男だ。でもって君が想像しているようなお貴族様じゃあない」
「じゃあ、いったい?」
フードの下の、顔半分。はっきりとわかるほどに、形の良いくちびるがにいっと吊り上がった。
「──僕の名前はサスラック。君が聞いて僕が答えたんだ、今度は僕の質問にも答えてもらうぜ?」
──なんかまた、別の意味でやべェのに絡まれちまったなあ。
それが、その瞬間のイズミの嘘偽らざる本音であった。




