表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ハウスリップ  作者: ひょうたんふくろう
ハウスリップ
80/99

80 『たった一つだけ、片付けていないことがありますよ』


「どうも、お邪魔します」


「おじゃましまーす!」


 ある晴れた日の午後。相も変わらず例の広場に建っているイズミの家に訪ねてくる影が二つ。その二人は他の人がどんなに頑張っても通り抜けることが出来なかった門扉をあっさりと通り抜け、そしてごくごく自然な足取りでリビングへとやってきた。


「おう、久しぶりだな……二人とも」


「ええ、まったく。ちょこちょこ顔を合わせてはいましたが、こうやって落ち着いて話せるのは……ええと、何日ぶりになることやら」


「この家に入るのだって……それこそ、街に戻ってきてからほとんどすぐに別れちゃったから、下手すると数十日ぶりかも!」


 言わずもがな、その二人とはアルベールとニーナの夫妻である。二人ともが朗らかに笑い、あの日と同じように、定位置となっていたソファへと腰を下ろした。


「悪いが、ちょっと声は小さめで頼むな。隣の部屋でテオがお昼寝してるんだ」


「あっ……ごめんなさい、確かにそんな時間だったかも」


「なぁに、テオの寝つきの良さは二人とも知ってるだろ? これくらいなら大丈夫さ」


 町に戻って、クラリエス家との決着が着いて。なんだかんだで、こうしてイズミ達全員がリビングに集まったのは本当に久しぶりのことである。本当だったらあの赤づくめの男やティアレットが捕まった段階でイズミ達の自由は確保されたようなものだったのだが、アルベール達も奥様の方も事情聴取や後処理などで忙しく、なかなかうまい具合に時間を作ることが出来なかったのだ。


 言い換えれば、こうして普通に会うことが出来たというのは、この一連の事件についてもようやっと本当の意味で一段落したということでもある。


「そちらはいかがでしたか? イズミさんも奥様もなかなか忙しかったのでは?」


「奥様についてはその通りだ。俺はずっと引きこもっていたけどな!」


「もう、イズミ様ったら……」


 イズミのあまりにも適当な物言いに、奥様はくすくすと笑って応える。実際、奥様はほぼ連日神殿か領主の館に赴いていたのだが、イズミの方はほとんど引きこもっていてろくに外に出ていない。いろいろ取り調べを受けるのが面倒くさかったのはもちろん、ケガ人が外に出歩いていいわけないでしょう──という、ミルカの制止が強かったためだ。


「そういうアルベールさんたちはどうなんだ? ……正直、今日だってその辺の近況を共有しに来たんだろ?」


「ええ、まぁ。加えて言えば、半ばメッセンジャー代わりでもありますね」


 この家に普通に入れるのは、あなた達を除けば私達しかいないから──とアルベールは小さくつぶやき、そして語りだした。


「まず第一に……ティアレット嬢ですが、屋敷の土間に染みついた毒が井戸に投げられたそれと同一であると正式な結果が出ました。水の巫女が大罪を犯したというのはティアレット嬢が仕組んだことであり、全ての黒幕は彼女であると断定されましたね。今は牢獄に入れられていますが、時期が来れば然るべき処分がされることでしょう」


 そこらへんは少し、上の方で揉めているらしい。ティアレットが奥様に無実の罪を着せてガブラの古塔へ追放したのは事実だが、結果として人死には誰一人として出ていない。また、偽装工作だったとはいえ公式の記録では奥様はあくまで賊に攫われたということになっている。前代未聞の事件であるがゆえに、いったいどの程度の処分が適当なのか決めあぐねているというのが現状らしい。


「とはいえ、大罪人であることには違いがありません。死罪となるか、流刑となるか……いずれにせよ、もう普通の暮らしをすることは絶対にできないだろう、という噂を聞きました」


「そっか……。でも、あの嬢ちゃんがそれを受け入れるのか? それこそ金や権力を使ってどうにでもしそうな気がするが」


「それがまた、いろいろあったようで」


 ちら、とアルベールはミルカとペトラを見た。


「正直、私も良くは知らないのですが……なんか、あちこちの貴族がティアレット嬢の罪を暴こうと全面的に協力しているみたいで」


 あそこと、そこと、ここ。アルベールが名だたる家の名前をいくつか言うと、ミルカもペトラも合点がいったとばかりに大きく頷いた。


「ティアレット嬢の恋敵たちだな、それ」


「言い換えれば、奥様の恋敵……いいえ、政敵と言ってもいい方たちですわね」


 個人個人の力はクラリエス家に及ばないが、それでも彼ら全員が結託したらそのパワーバランスはひっくりかえる。元より、やらかしてしまったクラリエス家に地位や権力なんて残っているはずもなく、そういった方面でティアレットが釈放されるルートは尽く潰されてしまっているのだと言う。


「やはりですか……。騎士団への資金提供や現場へ遠征する際の資材の提供、とにかくあらゆる場面で協力を惜しまず、この一連に係わる捜査全てを全面的に支援しているんですよね」


「おっかしいなあ。あいつら、互いに足を引っ張ることはあっても協力なんてするタイプじゃなかったと思うんだけど」


「いいえ、ペトラ。ティアレット・クラリエスという大きな存在を確実に潰すチャンスではありませんか。万が一を考えたら、この機を逃す道理はありませんよ」


「となると、やはり……推測なのですが、イズミさんに対するアピールでもあるのでしょうね」


「え、俺?」


 女同士の潰しあいならわかる。どこの世界、どんな場所でも大なり小なり似たようなことは起こるのだろう。三十余年生きてきたイズミは、その人生経験の中でなんとなくそのことを理解している。


 ただ、そこにどうして自分が関わってくるのかまではわからなかった。


「考えても見てください。今回、イズミさんは水の巫女である奥様を助け、そしてクラリエス家を返り討ちにしているんです。それも、敵地のど真ん中で絶対防御の結界を張って籠城するという、ちょっと想像できない方法を用いて」


「まぁ、そうだな」


「……で、しっかりばっちり奥様を守り通しています。言い換えれば、水の巫女の裏には賢者という強力な存在が控えているってことです」


「実際は飯とか風呂とか、俺の方が世話になってる感じなんだが……」


「そんな、水の巫女と強いつながりがある賢者。……彼女たちは、自分たちがティアレット嬢と同類だと思われることを恐れているのではないでしょうか」


「ああ、そういう……」


 結果としてティアレットが凄まじいまでの過激派だったというだけで、例のクソ旦那を巡って彼女らが裏でバチバチにやりあっていたこと自体は間違いないのだ。程度の差こそあれど、目的や行動はティアレットのそれと同じである以上、それはつまり生き残っていた水の巫女の敵と捉えられてもおかしくない。


 いいやむしろ、あのクラリエス家を潰すことが出来るほどの力を持っているのだ。パワーバランスとしては賢者と水の巫女の方が圧倒的に有利であり、そしてクラリエスという実例が出た今この瞬間こそが、まとめて始末するのにちょうどいいタイミングでもある。


「奥様が結婚する前までのことは知らないけどさ……。さすがに過去に因縁があったかも、くらいの理由で報復なんてしないっての。どんだけ俺、ヤバい奴に思われているんだか」


「うふふ、あなたったら。以前少しお話ししたでしょう? そういうのが日常的にまかり通っている世界のお話なんだって」


「うっひゃあ……! 貴族の世界のドロドロなお話って改めて聞くと生々しいなぁ……! そういうの、本当にあるんですね……!」


 ともあれ、向こうの思惑がどうであろうと、イズミとしてはきっちりケジメを付けてくれればそれ以上に思うことは無い。


「ああ、そうそう。彼らが全面的に協力してくれたおかげで、更なる証拠も見つかったのですよ」


「へえ。いったいどんな?」


「奥様が井戸に毒を投げ込むのを見たという話があったじゃないですか。あれ、驚くべきことにあの赤い人の仕業だったんですよ。例の姿を消す炎、ですかね? なんかこう、姿を消す以外にも幻惑の炎としても扱えるみたいで、他人に化けることもできるのだとか。赤い人の魔法残滓が現場から検出されたそうです」


 こちら側にとっては運の良いことに、本当にギリギリ残っていた。あちらにとっては運が悪いことに、赤づくめ自身が強力な魔法使いであるがゆえに魔法残滓も濃くて残ってしまっていた。本来だったら調べるはずもないことであり、同時にまたその特性が特性だったため、見つけられたのも半ば偶然に近かったのだという。


「これもまた、そちらの方面に明るい別の貴族のバックアップがあったからわかったことですね。……何が何でも証拠の一つを見つけたかったようです」


「うへえ……あの赤い奴、そんなことまでできたのか。炎で姿を変えるだなんて、いったいどんな発想力をしているんだか。燃やす以外の使い方をしている魔法使い、他に見たこと無いぞ」


「まぁ、姿を消せるってことは見た目も変えられることに不思議はないが……今から思えばあいつ、すごい奴だったんだな」


「……すごい、なんてものじゃないみたいですよ? あの赤い人、なんかその筋では伝説的に有名な人らしくて。実在するかどうかもわからない、半ばおとぎ話の存在となっていた暗殺者なのだとか」


「え……」


「文字通り、仕事は確実にこなしていたがために、目撃者が誰もいなくてその存在が疑われていたらしいです。それで、伝説に挑戦して名をあげようとした有名な魔法使いが、ローブの燃えカスだけ残して消えたりとか」


 曰く、ある有名貴族出身の異端児。曰く、王族と行きずりの娼婦の間に生まれた怪物。曰く、秘密計画によって意図的に炎の血が濃くなるように調整することで生まれた実験体。如何にもそれらしい噂はたくさんあるものの、結局のところ正体不明の存在であることには違いないらしい。


「……なんでそんなのがあのねーちゃんの所に雇われていたんだか」


「さぁ……かなり好奇心旺盛で規律を嫌うタイプのようですし、好き放題やるのに都合がよかったんじゃないですかね」


 そんな赤ずくめの男は、今は獄中で大人しくしているらしい。


「最後に彼が放ったあの炎の魔法。もうとっくに限界が来ているのに無理して使ったものだから、その……」


「……深刻な後遺症、とか?」


「……ええ。少なくとも、数か月は魔法は使えないそうです。回復しても、今までと同じように使えるかはわからないという話で。本人は、下手な魔法拘束をされなくてラッキーだ、キミたちも余計な心配がなくなって良かっただろう……なんて言っていたらしいですが」


「……」


 あれだけ魔法にこだわりを見せていた人間が、魔法を使えなくなる。この世界での魔法がどんな立ち位置なのかはイズミはまだどうにもつかみ切れていないが、決して簡単に済ませられるような問題ではないはずだ。今まで当たり前に出来ていたことが出来なくなるというその恐怖は、イズミにはまだわからないし、知りたいとも思えない。


「……あいつの最後の魔法さ。自分の為じゃなくて、あのねーちゃんを助けるためだったんだよな」


「……ですね」


「血涙流して、鼻血ダラダラで、余裕なんて無いはずなのに……もう魔法が使えなくなるかもしれないのに、誰かを助けるために魔法を使ったんだよな」


「……」


「……そういう覚悟は好きなんだけどな。なーんで悪い人間になっちまったのかね」


 赤ずくめもまた、処分を待つ身であるのだという。一連の事件の実行犯としてその罪は確定的なものであり、そうでなくとも井戸に毒を入れるというそもそもの罪を犯したのは赤づくめだ。ただ、こちらはティアレットに命令されて行ったことであるため、そこにどの程度の強制力があったのかが争点となっているらしい。


「『獄中は暇で暇でしょうがないから、ちょこちょこ面会に来てくれると嬉しいな』……って」


「伝えてくれって、言われたのか?」


「まさか。渋い顔した騎士団長が、伝えても伝えなくてもいいって言ってただけです」


 とても困ったことに、赤ずくめは非常に捜査に協力的で、聞かれたことには全て嘘偽りなく答えているらしい。自分から真実を話そうとはしないものの、問いかければ確実に正しいことを答えてくれるため、騎士団も少し対応に困っているという話であった。


「答え合わせというんですかね。あるいは謎解きや問答を楽しむような感じで質問に答えるらしいですよ。なんかもう、尋問している気がしないって騎士団長がボヤいておりました」


「奴さん、マジで暇なんだな」


「感心しないで下さいよ、あなたったら……。あの時どれだけ肝が冷えたか、何度も伝えたつもりなんですけど」


「悪い悪い。……でも、これで一応は全部解決したってことでいいんだよな?」


「ええ、まあ。……唯一、気になる点があるとすれば」


「あるとすれば?」


「あのティアレット・クラリエスが、妙に大人しくなっていることくらいですかね? もう、まさに燃え尽きたかのような放心状態で、あのギラついた目つきも執念もまるで感じられないって」


 むしろ、逆境であればあるほど癇癪を爆発させるタイプだと思っていたんですけどね……と、アルベールは小さくつぶやく。プライド的な意味でも、政争的な意味でも決定的に追い詰められて、今まで感じたことのない挫折を味わえば、そうなってしまうの無理はないんじゃないかな……と、イズミは思わないことも無かった。


「赤ずくめはともかくさ。あのねーちゃんに関しては……やらかしてくれた割には最後があっけないというか、不完全燃焼気味というか。出来ることならあの時一発ぶん殴っておけばよかったって思うぜ」


「演劇やお芝居ならともかく、現実なんてそんなものですよ。……それにあなた、もしそのチャンスがあったとしても殴れるんですか?」


「え……そりゃあ、殴れると思うけど」


「あなた、なんだかんだで女の顔は殴れないってタイプじゃありません?」


「む」


 ミルカに言われて、イズミは何となく想像してみる。


 赤ずくめの男の顔は、何のためらいもなく殴れる。


 でも、ティアレットの顔は。いくら憎き相手とはいえ、若い年ごろのお嬢さんの顔を……それも、無防備で抵抗できないところを一方的にぶん殴るのは。


「……あっ、ダメかも」


「ほら、やっぱり」


 こちらの世界に来てずいぶんと常識も変わってしまったが、それでもイズミの根底にあるのは日本男児、大和男子としての少々古臭い価値観である。女子供は男が守るものであり、そんな男が女の命である顔を、ましてや無抵抗の所を一方的にブン殴るだなんてできるはずがない。たぶん、最後の最後で手を止めてしまう。


「なんだよ、イズミ殿は女に弱いタイプだったのか?」


「いや、そういうわけじゃないんだが……俺の世界の倫理常識とは全然違うからな。そりゃあ、殺されるかどうかの瀬戸際だったら躊躇いなく殴れるだろうけど、いくら相手が敵とはいえ、無防備なのを殴るのはちょっと……」


「うふふ。まぁ、もしそういう機会が訪れた時は、あなたの代わりに私が殴ってあげますよ。男が女を殴るのは問題でも、女同士なら問題ないでしょう?」


「ミルカさん、怖い」


「ええ、女は怖い生き物なのです」


 物騒な話は終わりだ、と言わんばかりにわざとらしくミルカが咳払いをする。隣に座っている奥様の顔がいい加減青ざめてきて大変なことになりそうだったからだ。やはり、この手のバイオレンスな話は未だにちょっと刺激が強すぎるらしい。


「さて、良い時間ですしここらで少し休憩をしましょうか。……少々お待ちくださいね」


 そう言ってミルカは席を立ち、そして台所へと向かっていく。


 ややあってから、戻ってきたときには。


「わあっ!」


 嬉しそうに笑ったニーナが歓声を上げる。その様子を見て自慢げに笑ったミルカは、その大きなお皿を机の真ん中──みんなの真ん中に置いた。


「なんておいしそうな……ピーチパイ! さすがはミルカさん!」


「うふふ。そうでしょう、そうでしょう。せっかく今日はこうして集まれるからと、少々頑張ってしまいました」


 実は秘かに、午前中からせっせと仕込んでいたそれ。桃缶の美味しさにすっかり目覚めてしまったミルカは、かつての大好物──野イチゴとラズベリーの焼きたてパイをあの桃缶を用いて作ることが出来ないかと考えた。で、同じパイなのだから作り方はそう大して変わらないだろう……という考えのもとに一発で焼き上げたものである。


「えへへ、実はミルカさんのおやつ、とっても楽しみにしていたんです! 前は毎日のように食べられたのに、もうずっとお預けを食らっていたから……!」


「あら。言ってくださればいくらでも作ったのに。潜入捜査という危険な任務をこなしたニーナさんであれば、それくらいのご褒美は許されるはずでしょう?」


「み、ミルカ……! わ、私も頑張ったからご褒美貰えるよね……!?」


「もちろん、奥様もです。……というか、それこそ奥様であればいくらでも作って差し上げますのに」


「だって……ミルカも忙しいかなって思ったんだもん……」


 ナイフを使ってミルカがそれを小皿に取り分けていく。甘い良い匂いがするのはもちろん、サクサクという小気味よい音がなんとも素晴らしい。イズミはそこまで甘いものに執着するタイプではないが、それでも思わずおなかの音が鳴ってしまいそうなほどに、そのピーチパイは美味しそうな見た目をしていた。


「はい、あなた」


「おう、ありがとな」


 いったいどうして、家にあるだけの材料でここまで本格的なお菓子が焼けるのか。イズミはちょっと、そのあたりのことが不思議でならなかった。


「──そうだ、アルベールさん」


「はい?」


 アルベールに渡そうとした小皿をピタッと止めて。


 ミルカは、今日一番の笑みを浮かべてみせた。


「先程、今回の事件は一応すべて解決したと仰ってましたが……たった一つだけ、片付けていないことがありますよ」


 つい、とミルカは少しだけ、ピーチパイの乗った小皿をアルベールから遠ざけた。


「え……ミルカさん、もしかして怒ってらっしゃる……?」


「どうでしょうかねえ?」


 ああ、この人結構マジで怒ってるな……と、その場にいた全員が同じことを思った。


「ちょ、ちょっと待ってください……今、必死に心当たりを探していますので……!」


「へえ……必死になって探さないとわからないんですかあ……」


「ああっ!?」


 クラリエス家を失墜させるためにあれだけの策略を張り巡らせたアルベールが。奥様を安全に街に入れるために様々な知恵を出したアルベールが。そんなアルベールが、たった一人のメイド相手に致命的すぎる失言をしてしまった。


「早く思い出せよ、アルベール。せっかくの焼きたてパイが冷めちゃうぞ」


「待ってください……! 本当に心当たりがないんです……だってそもそも、まともに話すのだって久しぶりだというのに……!」


「……まさかミルカさん、アルベールさんが途中で裏切ったことか? アレはただの演技だって……」


「わかってますっ! もっともっと、別のことですっ!」


 ぷっと赤くなって頬を膨らますミルカを見て、気づいたのは奥様であった。


「あ……もしかして、ミルカ……」


 言ってみれば、それも演技の一つであったことに違いない。本心でも本意でもなく、ただのその場のノリと勢いだけのものだ。


 だけど、その言葉のチョイスが悪かった。


「アルベールさんに……そ、その、淫婦呼ばわりされたって話のこと?」


「えぇ!?」


 奥様のその言葉に驚いた声を上げたのは、アルベールではなくニーナの方だ。


「ちょ、ちょっ……アルベール!? ミルカさんにいったいなんてことを!」


「ご、誤解だよニーナ! 裏切ってるってことを……操られていたってことを話すときに、言葉の綾というか勢いみたいなもので!」


「だとしても! もっとこう言い方あったんじゃないの!? というか、なんで真っ先にちゃんとそのこと謝らないの!?」


「いや、でも、嘘だってわかりきっているし……」


 ちら、とアルベールが助けを乞うようにイズミのことを見つめてきた。


 イズミは笑って、さっと目を逸らした。


「ああもう、アルベールったら! ミルカさん、本当にごめんなさい! 私からも良く言っておきますので!」


「ええ、ええ。いいんですよ、ニーナさん。アレはその場の方便で、敵を騙すための嘘なんだってわかっていますから。……ただ、形だけでも謝ってほしかったなあって」


「アルベールーっ!」


「ごめんなさい! 本当の本当にごめんなさい! どうか、この通り!」


「ああ……ミルカさんが久しぶりに拗らせた面倒くさい感じになってるな……」


「ふふ……でも、あのミルカがここまで砕けているのも珍しいな……」


 本当にミルカが怒っていたのなら、おそらく一切の口を利かないし、もっと露骨に態度を変えることだろう。こうやってちゃんと話している時点で、ミルカのそれはあくまでポーズであるということは誰の目にも明らかであった。


「どーせ私は淫婦ですよっと」


「そ、そんなことないですよ! むしろミルカさん、一途なタイプでしょう!? だよな、ニーナ!?」


「そう言えば……いつの間にか「あなた」呼びが普通になってますね? それ、行商人として外で演技している時だけの話じゃありませんでした?」


「み゜っ」


 ニーナに思わぬところを突かれて、ミルカの喉から変な声が漏れた。ミルカも、そしてイズミもまるで気づいていなかったが、最初はあくまで演技としてそうしていただけのはずのそれが、最近はもう普通になりつつある。


 そしてあえて確認するまでもなく、普通は伴侶でも何でもない人をそういう風に呼ぶことは無い。


「そう言われてみれば、そんな気もするな……あれ、いつぐらいからだ? イズミ殿、わかる?」


「いや……正直俺も言われるまで気づかなかったな。行商人やってた時からあんま変わらないと思うんだが」


「全然違いますよ! ペトラさんや奥様は今までずっと一緒にいたから気づかなかったんでしょうが……明らかに、街に入る前と今とでは雰囲気からしても、もう!」


「……だ、そうだが?」


「ぜひとも意見を伺いたいな?」


「なんであなたがそっち側で話を振るんですかあ!」


「ほら、また“あなた”って!」


「ああああん、もうっ! アルベールさんが変なこと言うから! もう何もかも、アルベールさんのせいですからねっ!」


 ずい、とミルカはピーチパイの乗った小皿をアルベールに突き出した。ついでに自分のほっぺを両手で包み、恨みがましい視線でアルベールをねめつける。どうやらもう、何もかもをアルベールのせいにすることに決めたらしい。


「うう……こんなことなら、変な作戦なんて立てなきゃよかった……」


「いやいや。冗談はともかくとして、今回はアルベールさんたちのおかげでなんとかなったんだから。むしろ、俺達はマジで引きこもってばかりだったんだから、一番の功労者はアルベールさんたちだろう?」


「そうでしょうか……結局のところ、安全に引きこもれるというそれありきの作戦でしたし、あちらには領主さまの帰還という明確なタイムリミットがあった……つまり、究極的には時間切れ狙いでも全然問題なかったんですよ?」


「いつ帰ってくるかもわからん領主を待ってなんていられないって。それに決定的な証拠を見つけてケリをつけたのはアルベールさんたちじゃないか。俺は、守ることしかできなかったんだぜ?」


「いえいえ。それだけできれば……いえ、それができるのはすごいことですよ。万物を燃やすことよりも、金の力を使うことよりも」


 私には絶対できないことですよ、と柔らかく微笑んでアルベールはピーチパイにフォークを入れた。隣ではすでにニーナが美味しそうにピーチパイをほおばっており、同じくミルカも、話題が変わったのをいいことにお供の紅茶を楽しんでいる。


「それだけしかできない……なんて言わないでくださいよ、イズミ様」


「奥様」


 一足早くピーチパイを堪能した奥様は、上品に口元を拭い、そしてゆったりと笑いながら言った。


「それだけしかできない、じゃなくて。それだけは絶対に負けない、ってことです。イズミ様にもアルベールさんたちにも……今回も私はみんなに助けられてばかりで、何もできなかった。なのに、そんなイズミ様が自らを卑下するならば、私はどうなっちゃうのでしょう?」


「水の巫女様に言われちゃいましたよ、イズミさん」


「奥様に言われちゃ、しょうがねえな」


 ふと、イズミは考える。確かに自分は今までずっと奥様達の面倒を見てきてはいるが、結局のところ、イズミの方もまた、奥様達には助けられているのだ。知り合いも友人もいない、文化や風俗が違うどころか文字通りの異世界に来てしまったイズミにとって──正真正銘一人ぼっちであるはずのイズミにとって、一緒にいてくれる存在と言うのはそれだけで心の支えになっているのである。

 

「それだけしかできないけど、それだけは絶対に負けない……か」


 もし。もしも。


 もしも、これからミルカたちと別れて暮らすことになったら。もしも、何らかの理由で奥様達を守ることが出来なかったら。おそらくそれだけで、もう自分は立ち直ることはできないだろう……という、確かな確信がイズミにはあった。


 だからこそ。


 だからこそ、イズミはミルカたちを守り続ける。他の誰でもない、自分自身のために守り続ける。そう思ってしまうほどに、既にイズミの中ではミルカたちの存在は大きくなっているのだ。


「──そうだな。これからもずっと、守ってやる。たとえ嫌だって言いわれても、守り続けてやる」


 ──小さくつぶやかれた、確かなる決意の声。そんなイズミのつぶやきはティータイムを楽しむ和やかな笑い声にかき消され、穏やかな空気と甘い香りの中に溶けて消えていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] まだクズ旦那との決着がついてないからなぁ……
[良い点] 「み゜っ」 w へいわだなぁ~w [気になる点] やはり死罪かな と見せかけて・・・ [一言] これからもずっと、守ってやる この言葉結構重いぞw
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ