8 檻の中の獣
敷地と森を隔てる謎バリアの存在が発覚してから、イズミは少しずつその存在を検証していた。より正確には、検証せざるを得なかったともいう。
まず第一に、あの狼もどきと遭遇した日を境に、少しずついろんな生物が家の近くまで現れるようになった。今まで見なかった小動物の類はもちろん、顔の厳ついチンパンジーみたいな生き物に、立派と呼ぶにはあまりにも禍々しくて攻撃的な角を持ったシカらしき生き物、さらには岩のようにゴツゴツした体を持つ猪みたいな生き物──要は、はっきりとわかるほどの危険生物たちだ。
狼もどきという最初の犠牲者が出てきてくれたからか、それとも単純に時間経過で警戒心が薄れたのか。家の周囲にできた生き物の気配、痕跡に惹かれるようにそいつらは姿を現すようになった。
もちろんこれには、イズミも大いにビビった。
が、結局のところ、一匹としてあの謎バリアを越えられる生き物は存在しなかったのだ。
あの謎バリアは、どうやらかなり強固にこの家の敷地を囲んでいるらしかった。そっくりそのまま、イズミの家の敷地と異世界の境界に存在しているらしく、門扉でなくとも、石垣の上にもその存在は確認できた。
それも、どうやらかなり高いところまでその壁は続いているらしい。凶悪そうな鳥が一度も敷地内の空を飛んでいないところを鑑みるに、まず間違いないだろう。
言葉通りの絶対安全地帯が保証されていることがわかれば、あとは早い。
イズミの姿を見て飛び掛かってくる獣や、すでに互いに喧嘩して暴れまわっているそいつらに、イズミは石垣の上からクマよけスプレーを噴霧する。連中が激痛に悶絶して行動不能になったところで、大きめの石を投げつけたり、電動草刈り機や高枝切りハサミといったリーチと威力を兼ね備えた武器で止めを刺すだけである。
なんせ、こっちから一方的に攻撃できるのだ。度胸と覚悟さえあれば、それほど難しい話ではない。
そして、当然のようにクマよけスプレーも消耗品として復活対象になっていたので使い放題だ。リソースの心配をしなくていいというのも、非常にありがたい話であった。
ちょくちょく現れる獣──化け物どもを安全地帯から殺す日々が続いて、変わったこともあった。
まず、夜に化け物どもの遠吠えの声が響くようになった。大きく伸びる、山彦のような遠吠えだ。ひどいときにはそれが一晩中続いて、まるで一睡もできなかったことがある。
最初の方こそ大いにビビっていたイズミであったが、連日連夜それが続けば、不安や恐怖よりも苛立ちのほうが大きくなってくる。
『やろう、目にもの見せてくれる』──と、徹夜で張り込んだイズミが見たのは、日中イズミが殺した化け物を貪り喰らう、また別の化け物たちの姿であった。
どうやらそいつらは夜行性であったらしい。それでもって、森の真ん中になぜか大量に放置されている餌を見て、これ幸いとばかりに群がっていたのだろう。そういえば、いつの間にやら死体が消えていたな──と、イズミはその時になってようやく気付くことができた。
が、便利な始末屋とはいえ、凶暴なけだものであることには間違いない。実際そいつらも、家から出たイズミを見た瞬間に襲い掛かろうとしていた。
──そのほとんどは、強力な懐中電灯の光とクマよけスプレーによって無効化されたのは、ある意味では当然のことなのだろう。
何回か夜の殲滅戦を繰り返すうちには、遠吠えの声も幾分落ち着くようになった。あるいは、イズミのほうが慣れてしまったのかもしれない。いずれにせよ、何の憂いも心配もなくイズミがぐっすり眠れるようになったのだけは間違いない。
日中に出現する化け物も、一時期の勢いに比べれば明らかに落ち着いたものとなっていた。さすがに何十匹と殺せば、連中も【コイツの縄張りはヤバい】と理解したのだろう。
時折、イズミに挑んで無様に返り討ちにされたものが出ては、どこに潜んでいたと驚くほどにいろんな獣がやってきてそのご相伴にあずかっていたが、さすがのイズミもその程度の輩にかまうつもりはない。この程度なら好きなだけくれてやる──と言わんばかりに、お目こぼしをしていた。おこぼれを狙うことしかできない弱者なんて、敵ではないのだから。
さて、そんな日が続けば、やがてそれすらきっかけとなって環境が変わっていく。
具体的には……イズミの家の敷地の周囲に、森に生息する生き物の中でもかなり臆病で大人しい、すなわち弱肉強食で言えばお肉になる側の生物が住みつくようになったのだ。
どうやら連中は、暴れたりしなければイズミが駆除にやってこないことを学習したらしい。また、仮に血気盛んな連中が襲ってきたとしても、イズミが駆除してくれることを本能で理解してるようだった。
説明するまでもないが、イズミだって好き好んで生き物を殺しているわけではない。殺さずとも問題ないのであれば、それに越したことはないのだ。大きな力を持つからと言って、むやみやたらとそれを振るうほど人格は破綻していない。
だからこそ連中は、自分たちの代わりに外敵を駆除してくれる──自然界であれば大いなる暴れん坊であるはずのそいつの住んでいる場所に、住みこむことを決めたのだろう。
「こうしてみると、意外と動物園みたいだよなァ……」
日課として定期的に、イズミは敷地の外の様子を窺うようにしていた。理由としてはもちろん、敵性生物の駆逐がメインであるが、見たことのない生き物の観察というのもそれなりのウェイトを占めている。
ここにいる生き物は、そのほとんどが日本で見られないものなのだ。日本どころか、世界で一番大きな動物園でも……ファンタジーの空想の中でさえ見ることは叶わないものもいる。暇をつぶすのにはもってこいと言えるだろう。
「……」
たとえ見た目が不細工な生き物でも、気性が大人しければ愛おしく見えてくるものである。呑気にのほほんと昼寝をしていたり、もそもそと地面に生えている草や若い芽を食べていたり。なんとものどかで微笑ましい光景である。
油断していると次の日にはどこぞの化け物のご飯になっていることも少なくないが、それなりに情がわいてくるのもある意味では自然なことなのだろう。
「ほーれ」
気まぐれに、イズミは適当にちぎったパンを安全地帯から外へと放り投げる。割とみすぼらしいウサギのような生き物が三匹ほど、よちよちと競うようにしてそれに群がってきた。
「こんなナリでよくこの森で生きていけるよなァ……」
動きは比較的緩慢で、爪や牙といった武器らしい武器もない。臆病な気質らしく、大きな音を立てると途端に逃げ出そう……として転び、そのまま死んだふりをする。その状態で二時間も三時間も過ごせるというのが生き物としての特技らしい。さすがに可愛そうだから埋めてやろうかと親切心を発揮したイズミをビビらせた、すさまじいスキルである。
「こらこら、喧嘩するな」
餌の匂いに釣られてか、これまた不細工であまり可愛らしくない小鳥もやってきた。ウサギもどきのパンくずを奪い取ろうと嘴を割り込ませてきたため、イズミは追加のパンくずを投入していく。
ちなみにこの鳥。尾羽がやたらと長くて派手だった。そいつ自身はイズミの手のひらに乗る程度の大きさなのに、尾羽は真っ赤でイズミの腕より長い。飛ぶのに絶対に邪魔だろうが、どうやらこれは雌に対するアピールポイントになっているらしい。
「ははは、動物園の檻を見てるみたいだ」
言ってから、気づく。
「……いや、檻の中の珍獣は俺の方か?」
秘境の森の真ん中にぽつねんと佇む異質な生き物。森の住人達からしてみれば、イズミの方こそ檻の中に引きこもっている珍獣のように見えるのだろう。実際、イズミの生き方は森での一般的なライフスタイルとあまりにかけ離れすぎていた。
「まぁ、いいや」
最後のパンくずを投入。どうせこれも、明日になれば復活するものである。
「おっかないのが来る前に、さっさと寝床に帰れよな」
凶暴な獣たちの駆除をするようになって、二つだけよかったことがある。
一つは、この弱弱しい小動物を見て癒されること。
もう一つは──
「少なくとも、退屈はしなくなったよなァ」
命と命のぶつかり合い。引きこもっているだけでは得られない、確かな充足感と満足感。
現代日本人としてはあまりにも全うでないが、今のイズミは、引きこもっているときよりもはるかに肉体的にも精神的にも健康な状態にあった。
「今日の夕餉はどうしようかねェ?」
暖かくて安全な寝床。尽きる心配のない食料に安全で綺麗な水。適度な運動にちょっぴりの刺激と癒し。
──よほどのことがない限り、イズミが死ぬことは無くなった瞬間であった。