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ハウスリップ  作者: ひょうたんふくろう
ハウスリップ
78/99

78 燼滅:激し燃え憤する劫火


「効かねえっつってんだろうがコラァ!!」


「がフっ!?」



 渾身の力を顔面に受けて、当然のごとく赤ずくめの男は吹っ飛ばされた。腰の入った惚れ惚れするほどきれいなそのパンチは赤ずくめの男の脳ミソをグラグラと揺らし、平衡感覚を一時的とはいえ奪い去る。


 いや、それがなくとも赤ずくめの男は立てなかったことだろう。戦闘技術こそないものの、イズミの肉体はそれなりに鍛え抜かれており、そして赤づくめの体はお世辞にも鍛えられているとは言えない。そんなところにほぼ不意打ちで渾身の一撃が入ったともなれば、むしろ立ち上がれる道理なんてあるはずがない。


「ええおい、散々いたぶってくれたなァ……!?」


 相手の意識が朦朧としているのをいいことに、イズミはそのままマウントポジションをとる。胸倉を思いっきり掴んで引き寄せて、そして。


「オルァ!」


「ギャアッ!?」


 今までの恨みを晴らすかのように、全力で頭突きをした。


「へへへ……! 田舎育ちの悪ガキの、育ちの悪さを舐めんじゃねェぞ……!」


 自らも額から血を滴らせながら、イズミはにたりと獰猛に笑った。


 ぽたり、ぽたりとその赤いものが赤づくめの男に頬に落ちて、どこかの誰かが思わずと言ったように悲鳴を上げた。



「な……何なのよあなた!? どうしてあの炎の剣で切られて無事なのよッ!?」


「あ?」



 耳障りな金切り声。見れば、あのティアレット・クラリエスが癇癪を爆発させて喚いている。幸か不幸か、いつもならそれを宥めるはずの赤づくめの男は朦朧としていて、今はだれも止める者がいない。


「教えるかよバーカ! ちったぁてめえで考えやがれ!」


「……ッ!!」


 教えないんじゃない。本当はイズミ自身にもよくわかっていないだけだ。ただ、それをあえてわざわざ言う必要はないし、諸悪の根源ともいえるこの小娘にご丁寧に教えてやるほどの器の広さはイズミは持ち合わせていない。


「あんたもあんたよ! いつまでも遊んでないでさっさと全部燃やしなさいよッ!」


「い、って、くれる、ね……! かわい、い、かわいい、わがぬしさま……!」


「お」


 意識を取り戻したのだろうか。未だイズミにマウントポジションを取られたまま、赤ずくめの男は小さくつぶやいた。


「まだやるかい?」


「とう、ぜん……!」


 赤ずくめの男が、イズミの腕をがしっと握る。


 ──だが、それだけだった。


「ばか、な……!?」


「握ってるだけじゃあ、どうにもならんだろうよ。それに、握るならせめてこれくらいやれってんだ」


「ぎッ!?」


 別にへし折っても構わないとばかりに、イズミは赤ずくめの男の腕を握り返した。


「ああああ……ッッ! このっ!」


「あっつ!?」


 わずかに燃え残っていたイズミの服が燃え上がり、堪らずイズミは地面に転がってその場から逃れる。真夏のビーチよりも熱せられた地面が容赦なく肌を焼いたが、しかし炎をそのままにするよりかははるかにマシだった。


「なんだよオイ、まだ結構余力があるじゃんか……でも、もうそんなに大きな魔法は使えない感じか?」


「あり得ない……こんなことはあり得ない……! こいつ、いったいなんなんだよ……!?」


「……返事をしないなら、男らしく最後は殴り合いで決めようぜ?」


 ほぼ半裸で火傷の痕が痛ましいイズミ。肉体的に結構なダメージを負っている赤ずくめの男。互いにかなりボロボロとはいえ、殴り合いともなればどちらに軍配が上がるかは、おそらく誰の予想でも同じことだろう。


「なんで、燃えない……!? 僕の炎は、確かにお前の腕を斬った……! お前の服は普通に燃やせたんだ、魔力切れってわけでもない……!」


「……」


「それに、さっきも……! 僕はお前の手首に直接触れて燃やそうとしたんだぞ! たとえ表面に魔力保護をかけていたとしても、あそこまでやれば守護の意味がない……! 確実に魔法が通った感触はあった! たとえどんなに魔力の扱いに長けていようと、人間ならあれから逃れられる術はないのに……!」


 何度も何度も、確かめるように。赤ずくめの男は右手を構えてイズミに向ける……も、イズミの体には何の変化も起こらない。時折、思い出したかのように服の切れ端がぼうっと燃え上がるものの、せいぜいがその程度である。ちょっと強い線香花火に触れてしまったくらいの熱さなので、手痛いことには手痛いが、致命的なダメージにはなるはずもなかった。


「どうなってるんだ……っ!? お前、まさか人間じゃなくて本物の化け物なのか……!?」


「ひでぇ言い草だなぁ、おい。俺が本当に化け物だったら、こんなにもボロボロになったり商人の真似事なんてしてないだろうよ」


「あはは……! それは確かに! ここまでくるともう、化け物じゃなくて悪魔って言ったほうがいいかもしれないね……!」


 そして赤ずくめの男は、今までさんざん執着してきたイズミ……ではなく、その後ろの方へ視線を向けた。


 その意味するところは、ただ一つである。


「わかったよ……! もう、僕には賢者様をどうこうする力は残ってない。だけど!」


「なっ──!? まさか、てめえ!」


 赤ずくめの男の頭上に集っていく炎。赤い旋風が渦を巻くように集中していき、轟轟と凄まじい音を立てながら渦巻く炎の球体を形作っていく。


 離れていてもはっきり感じるほどの熱さ。赤く煌めくその炎はさながら太陽のようで、イズミの網膜にくっきりとその光が焼きつけられる。単純な目くらましとしてこれ以上のものは無く、そしてその球体がもしも何かに叩きつけられたのなら──おそらく、この世には灰すら残らないことだろう。


「どうも、炎の神髄は効きが悪いようだ……! だから直接、この炎の塊をぶつけるしかないねッ!」


「てめえ……! これは決闘なんじゃなかったのか!? 俺とお前のタイマンで、後ろの家には手を出さないんじゃなかったのか!?」


「あはは! そうかもね! でも、僕の本来の目的はこの家の結界を壊すことさ! 僕らが卑怯者だってのは賢者様はとっくに知っているだろう!? たとえ賢者様には敵わなかったとしても、目的だけは果たさせてもらおうか!」


 赤ずくめの男が大きく手を振り上げる。おそらく、それが振り下ろされたときにあの小さな太陽は家に直撃するのだろう。


 謎バリアがあるから、おそらく被害は出ない。出ないとイズミは信じたい。だが、もしかしたらという可能性もぬぐえない。家そのものに被害は無くとも、もしかしたらこの熱波自体は素通りしてしまうかもしれないし、本当にありえないことではあるが、謎バリアが砕けてしまう可能性もゼロではない。


「あははは! これが最後だ! 派手に行こうか!」


 そう思わせてしまうほどに、赤ずくめの男には気迫が満ちていた。おそらく残った力を全てあの小さな太陽に集めているのだろう。あとのことなんてもう何も考えていない──今この瞬間さえよければ何でもいいという、もはや狂乱のそれと言ってもいい何かが確かに感じられてしまったのだ。


「くそっ──!」


 イズミは走る。走ってぶん殴って物理的にあの術を止めようと、重たくなった足を必死で動かした。


 だが悲しいかな、彼我の距離は絶望的なまでにあり、本来だったらすぐに到着できるはずのその距離が、今この瞬間だけは果てしなく長い。一歩一歩着実に縮まっているのは間違いないものの、しかしそれでは間に合わないのは誰の目にも明らかだった。


 そして。






「させませんよ、そんなこと」


「へ?」






 かくん、と崩れる赤ずくめの男。ぶわっと揺らめいた小さな太陽が、制御を失って空気中に霧散した。


「え……なん、で……」


「あなたがルールを破った時点で、これはもう決闘じゃあない。なら、私が手を出しても文句は言えない。いや、言わせない」


 傾いていく視界の中。赤ずくめの男は、自分の背後に──自分の足に不意打ちで強烈な足払いをかけた、ただのどこにでもいる商人(アルベール)を見た。


「イズミさんっ! 今です!」


「おうよぉ!」


 せっかくアルベールが作ってくれたチャンス。素人のそれとはいえ、背後からの不意打ちで赤ずくめの男は完全に体勢を崩した。完全に意識の外からの攻撃に体が追いついておらず、そして呆然としていて事態の把握ができていない。


 それはきっと、ほんの刹那のことだったのだろう。だけど、今この瞬間においてはそんな一瞬があまりにも致命的すぎた。


「おらよぉ!」


 イズミは赤ずくめの男の背中に飛び掛かり、そのまま地面に叩きつけるようにして体を押し倒す。機動隊が犯人を取り押さえるアレ……に比べると動きに美しさはないが、やっていること自体はそれと変わらない。赤ずくめの上半身にすべての体重を乗せ、肩と首をがっしりと押さえて、二度と起き上がれないように全力を以て取り押さえた。


「イズミさん、顔もしっかり押さえつけてください。どうも彼は視線で魔法の対象を決めている様子。もうそんな力は残ってないでしょうが、なるべく地面を向かせるように」


「おう」


「あと、出来るだけ密着して押さえつけてもらえますか? 万が一最後の抵抗をしようとも、密着していたら巻き添えで自分も燃えてしまいますから」


「んだな。……そういうアルベールさんはもうちょい離れておけよ。こいつばっかりは何をしでかすかまるでわからないし」


「ですね。では、お言葉に甘えて」


 数歩ほど距離を取るアルベール。赤づくめの頭をしっかりと抑え込むイズミ。もはや勝負は決まったも同然で、そして誰が見てもどちらに軍配が上がったのかは明らかである。


 何もかもわかりきっている本人たちとは対照的に、周りで見ていた騎士団たちも、そして取り押さえられている本人である赤ずくめの男も、今のこの状況がどうなっているのか……先ほどまでは方針の違いで罵声を浴びせあっていたイズミとアルベールがこうも平然と当たり前のように話していることに、理解が追い付いていない。


「ふう……しかし、ひとまずこれで一段落かね? ……しかし、アルベールさんも酷いよなあ。もっと早くに助けてくれても良かったのに」


「いえいえ、もちろんそのつもりでしたとも。ただ、助けようにも魔法の余波が凄まじくて……」


「そうかぁ? なんだかんだで俺、結構直撃したけど見た目ほど食らってないぜ? 最後のあれだけはヤバそうだったけど」


「……たぶんですけど、そもそも最初からイズミさんには炎の魔法は効いてなかったと思います。いくらなんでもあの魔法にしてはダメージが低すぎる……仰る通り、見た目の割に軽傷過ぎるんです。つまり、それは」


「ふむ?」


「魔法で燃えたんじゃなくて、引火した服の火で火傷しただけ。炎の魔法そのものは食らってなくて、あくまで魔法を叩きつけられた衝撃だけしか食らってない。端的に言えば、ちょっとした火遊びとちょっと強めにどつかれた程度しか食らってないんですよ」


「……そうなの?」


「巫女様が全力を込めた癒しの魔法でさえ、長時間やらないとイズミさんには効果が出ないわけですから。ひょっとしなくとも、この魔法の炎も効かないんじゃあないかと思っておりましたが……」


「そういや、以前そんなようなことを言われたような。……そっか、だから妙に温い攻撃だったわけか」


「ええ。イズミさんなら大丈夫だと信じていたからこそ、私も最大のチャンスをじっくり待つことが──」


 そんなイズミとアルベールの会話を止めたのは、灼熱の地面に押し倒されていた赤づくめの男だった。


「ま、待ってくれ! キミたち、いったい何を話しているんだ!? いったいどうして……何がどうなってる!?」


「あん? なんだよ、いい加減察していると思ったんだが……」


 肩を押さえる力を少しばかり強くして、イズミはもったいぶるようにして赤づくめの耳元で宣言した。


「悪いな。最初から、俺達はグルだったんだよ」


「そん、な……」


 いったいいつの間に、と赤づくめの男は視線だけで問いかける。あえてわざわざ答え合わせをしてやる必要はないし、何より今までさんざん偉そうにしてきた相手がそんな顔をするのが堪らなくおかしくて、イズミはただただしてやったりとばかりににんまりと口の端を釣り上げて見せた。


「くそ……っ! 薄々思っていたけど、賢者様って意外と性格が悪いよね……! でも、いいのかい!? 僕が敗れたということはつまり、この場を囲っていた炎の結界も解けたということ! ウチの私兵団も騎士団も、全員がここに流れ込んでくる!」


 赤づくめのそんな言葉に反応したのは、意外にもアルベールの方であった。


「無論、こっちだって勝算が付いたから動いているのです。……少なくとも、この状況下であえてイズミさんを捕らえようとする人間は、騎士団にも商人にもいませんよ」


「ぐっ……!」


「今この場で私が立場を翻した理由。こうして何事もなくイズミさんと話している理由。最初からグルだったって話はもちろん、そうでなくともあなた方は風聞が悪い。……少し勘の良い人間なら、色々諸々察してくれるんじゃないですか?」


 最初からイズミとアルベールは内通していた。あえて敵対行動をとっていたのに、今この瞬間になってようやくその事実を詳らかにした。一方でクラリエス側はこの前の一件もあってその評判は著しく悪く、ついでに大義名分もほとんど意味を成していない。


 そんなクラリエスの最高戦力は、今はもう無力化されている。それが意味することは、つまり。


「……なによ」


 アルベールの目配せ。その意味を察したのか、あるいは事前にある程度事情を伝えていたのか。やってきていた騎士団うちの何人かがティアレット・クラリエスを取り囲み、そして槍を向けている。突然のその行動を訝しむ騎士たちも何人かいたが、上長から命令が下った瞬間、胸に疑問を抱きながらもそれに倣った。


「なんなのよ! この私に向かって何をしているのかわかってるの!? こんなことして良いって本気で思っているの!?」


 クラリエス家の私兵が、その主を守るべく前に出る。ただ、トップである赤づくめがやられたからか、どうにも戦意に欠けているというか、及び腰になってしまっているものが少なくなかった。


「この私に槍を向けるだなんて……! まさか、本気で私を捕まえようとでも思っているの!? いったい何の罪で!? 何を証拠に!? まさか、答えられないってわけじゃないでしょうね!」


 もしそうだとしたら、貴族に対する不敬罪で逆に縛り首にしてやる──と、ティアレットは令嬢とはとても思えない怒気をまき散らしながら眼力だけで周りに告げる。とんでもなくおっかないヒスねーちゃんだと、こんな時だというのにイズミはそんなことを思ってしまった。


「言ったでしょう? 勝算が付いたから動いたって。……ほら」


 アルベールの言葉。ちらりと視線がこの広場の入口へと向かう。


 この炎の決闘のせいで誰も注目していなかったが、そこでは一人の女性がぶんぶんと手を振っていた。



「だ、誰だアレは……?」


「まて、あの服は見たことあるぞ……」


「そうだ! あの特徴的な服……というか、紋章! クラリエス家の使用人じゃないか!?」



 騎士団か、商人たちか。誰かが発した言葉が波紋のように広がっていき、焦げた匂いが未だに残る広場に新たなるざわめきをもたらしていく。


「アルベールぅーっ! イズミさーんっ!」


「ん……? まさか、あの人は……!」


 人の海を掻き分けて……というか、自然と開いてしまったその道を通ってその女性はイズミ達の方へとやってくる。元気に名前を叫ぶその声にはイズミも聞き覚えがあり、そしてここまで近くに来ればいつもと服装が違っていたとしても──たとえ化粧でいくらかの変装をしていたとしても、間違えるはずがなかった。


「紹介しましょう。彼女は──」


「──知ってるよ、師匠のお嫁さんだろう? 偽名を使って変装していたけれど、さすがにそんなの見落とすはずがない」


「ええっ!? 私の正体、バレていたの!?」


 イズミの下にいる赤づくめがしてやったりとばかりに呟いた。同時にまた、ティアレットの方も勝ち誇ったように笑みを浮かべる。


 一方で彼女──ニーナの方は、まさか正体がバレているとは思わなかったのか目をまんまるにして飛び上がらんほどに驚いていた。


「少し前に使用人の募集をかけた時にやってきた娘だね。大方、潜入して何かの証拠でも掴もうとしていたのかな?」


「マジかよ……ニーナさん、そんなことしていたのか」


「そうそう。しかも師匠ってば、自分が捜査をしていると思わせるためにあえてわざとらしくこっちの屋敷を窺ったりしていたからね。そうすることでこちらの注意をお嫁さんから離したかったのだろうけれど」


 赤づくめの男はそこで言葉を区切って、そして吐き捨てるように言った。


「残念だったね。キミたちじゃあないけど、こっちだってそれは“最初から知っていた”。今まで気づいていないふりをしていたのは、逆にそっちのしっぽを掴んでやろうと泳がせていただけに過ぎない」


「……」


「実際、屋敷からは何も見つかっていないだろう? 証拠なんてあるはずがない。だからいずれ、焦ったそっちが決定的なボロを出すって……」


「──そう思い込んでいたのが、そちらの敗因です」


 赤づくめの男の言葉を遮って、アルベールははっきりと断言した。


「何度も何度も言ったでしょう? 勝算が付いたから動いたんだって」


「……」


「ニーナ。例のものは──証拠は見つかったんだよね?」


「うん! それはもうばっちり!」


「ありえないわ! その女、嘘っぱちを述べているわよッ!」


 キンキンと甲高い声でティアレットは喚きたてる。黙っていれば上品で美しいその顔立ちは、憎しみとヒステリーでこれ以上に無いくらいにひん曲がってしまっていた。


「大体証拠って何よ! さっきから黙って聞いていれば、適当なことばかり言って!」


「それはもちろん──あなた方が水の巫女様を無実の罪で陥れたという証拠ですよ」


 アルベールの言葉に、周りにいた群衆たちにどよめきが走る。うすうすそうじゃないかと感づいていた人間ももちろんいただろうが、改めてはっきりと口にされた言葉に動揺を隠せないものがほとんどであった。


「本ッ気で私を怒らせたいようねェ……ッ!! 公衆の面前でここまで侮辱したんだから、覚悟はできているってことよね……ッ!?」


 ふしゅー、ふしゅーと奇妙な音。例えるならヘビの威嚇か、あるいは自転車のタイヤから空気が抜ける音か。妙に静まり返った広場に嫌に響き渡るその音は、よくよく聞けば限界を通り越してブチ切れたティアレット嬢の口から漏れ出たものだと気づくことが出来ただろう。


「いいわ……! 見せてみなさいよ! その証拠とやらを!」


 証拠なんて、あるはずがない。そんなものは文字通り焼き尽くしてしまったから。この世に存在していないことを知っているからこそのその余裕が、ティアレットにそんな発言をさせた。


 もう少しティアレットが冷静であれば。あるいは、何もかもを焼き尽くすという赤づくめの男のことを……良い意味で、信頼していなければ。その一点に関してだけはティアレットは紛れもなく赤づくめの男を信頼しており、そして自分の目で何もかもが焼き尽くされるのを見てしまっていたから。


 それが無ければ、これから先の未来は少し変わっていたかもしれない。


「ニーナ」


「うんっ、アルベール!」


 ニーナが懐に手を持っていき、そして取り出したのは。


「……なんだ、あれ?」


 思わずイズミは呟いた。


 どんな大層なものが出てくるのかと思いきや、その手の中にあったのはどこにでもある……こういっては何だが、みすぼらしい革袋でしかなかったのだから。


 その上さらに。


 その中から出てきたのは──ただの土だった。少なくとも、イズミには土以外の何かには見えなかった。


「……あっはは! なぁにそれ! そんな土くれが証拠ぉ? あなたたちもしかして、苦し紛れのハッタリでもかましているの? それとも──」


 騎士団も、商人も。それどころかこの騒ぎに集まっていた群衆でさえ。


 ティアレットと、全く同じことを思ってしまっていた。


「そんなのが本気で証拠だと思っているだなんて……頭がおかしいのかしら?」


「……」


 土くれ。そう、土くれでしかない。ニーナの手の中にあるそれは紛れもなく土くれで、それ以上でもそれ以下でもない。証拠というからにはサインや家紋の印が入った裏取引の証文とか、あるいは現行犯の証となる決定的な物品が出てくるだろうと思っていたイズミやその他多くの人間にとって、ニーナが示したそれはあまりにも期待外れで、ともすれば苦し紛れに言い訳する子供のようにしか見えないものだった。


「さ、これでわかったでしょう? どこまで行ってもあの賢者もその取り巻きも気狂いでしかない。水の巫女を名乗る人間もきっと偽物で──そうでなくとも、水の巫女は大罪人。あなたたちが槍を向けるべきはこの私じゃあなくって、あっちのイカれ共の方よ」


「──果たして本当に? この土が何なのか、聞かなくていいんですか?」


 にやりと笑ったアルベールは、よく通る大きな声で語りだした。


「水の巫女様が捕らえられたのは、井戸に毒を放り込むという大罪を犯したためと聞きました。しかし、要らぬ不安と混乱を防ぐため、賊に襲われて行方不明ということにして処刑した。井戸に毒を放り込んだのは、毒の被害者を救済することで自分の地位を確保し、その信仰を確かなものにするため──自作自演のため」


 ここまではただの確認。あるいは、決定的な証拠を突き付けるための前準備──動かぬ証拠となるように、ギャラリーに説明しているだけ。アルベールが言いたいのは、あるいはイズミが聞きたいのはここからだ。


「ですが、そもそも最初の時点でおかしいのです。よりにもよって水の巫女が水を汚すような真似をするでしょうか?」


「ふん! 実際にやったから捕まったんでしょ? 井戸に毒を放り込む姿を見たって村人が何人も出てきたじゃない! 無実だというのなら、そのあたりの言い訳を言ってみなさいよ!」


「さぁ。それについては私にはなんとも。どういう手管を使ったのかさっぱりわかりませんね」


「なっ──!?」


 あっけらかんと言い放つその姿に、ティアレットだけでなくイズミも……いいや、その場の全員が驚愕した。


「あ、あなた……本気で言ってるの……? もしかして、本当に頭がおかしいの……?」


「ご心配なく。決定的な証拠というのは──その、井戸に投げられた毒の方です。私たちは犯行に使われた毒を見つけ出すことに成功しました」


「……」


「──発見場所は、ティアレット・クラリエス様。あなたの屋敷です」


 水の巫女が使用したという毒が、なぜか関係ないはずのティアレットの屋敷で見つかった。水の巫女は無実を主張していて、投げ入れたのは別人であるとしている。つまり、井戸に毒を入れた真犯人は、犯行に使われた毒を所持していたティアレットである──と、アルベールはそう主張している。


「……あなた、もしかしなくても本当に頭がおかしいのね。いいえ、さすがにそれは侮辱し過ぎかしら?」


 ティアレットは、せせら笑いながら言った。


「私を犯人に仕立て上げたいばかりに、妄想が独り歩きしているわよ。自分で言っていて無茶苦茶だなって思わないの?」


「……」


「それが私の屋敷から出てきたという証拠は? ……水の巫女が犯行に使った毒を、さも私が隠していたように見せつけているだけじゃない。毒の処分も、罪の擦り付けもできる美味しい一手よね。……実現不可能だという所に眼を瞑れば」


 はぁ、とわざとらしくティアレットはため息をついた。


「おおかた、その土は例の井戸の底から集めたものかしら。たしかにそれなら毒が出てくるかもしれない……というか、まさに犯行に使われた毒そのものだろうけど。たったそれだけで私を犯人扱いするなんて、バカげているにもほどが──」


「──だから、何度も言っているでしょう? この毒はあなたの(・・・・・・・・)家から見つかった(・・・・・・・・)


「「!?」」


 有無を言わせぬ雰囲気で、アルベールは断言した。覆しようのない確定事項だと突きつけるように、アルベールはティアレットを睨みつけていた。


「そん、な……バカな……。そんなの、僕が全部焼き尽くした……」


 小さな小さな、掠れるようなうめき声。赤づくめの男のそんな声が聞こえたのは、おそらく取り押さえていたイズミだけだろう。


 自白ともとれるそれだったが、もうそれすら必要ない。もうすでに、決着はついているのだから。


「あんたねえ……ッ!! よくもまあ適当なことをペラペラと……ッ!! そんなものが私の家にあるわけないでしょう……ッ!!」


「ええ。家にはない……もう無いのでしょう。普通の人間であれば、そんな証拠となり得るものはとっくに処分しているはず。特にその真っ赤な方がいれば、焼却処分に困ることも無い。その点についていえば、なるほど確かに完璧だ」


「だったら──!」


「家には無くとも、その下は? 毒もその容器も何もかも燃やし尽くしていたとしても」


 ふう、とアルベールは息をついて、そして。


「毒を保管していた部屋の下。土間となっているその土の中。私たちが見つけた毒はそこのものですよ」


「!?」


「お貴族様は知らないでしょうけどね! 服の染料は袋も箱も貫通して土に染み込むものがあるの! 物を保管するのはだいたい地下倉庫で、そんなところがわざわざ板張りになっていることなんてありえない! 井戸に残り続ける強力な毒だというなら、染料と同じように染み込んでいても全然おかしくない!」


「箱を処分するのであろうことはわかっていました。いえ、箱を処分したからこそ。あなた方も毒が箱に染み出すところまでは予想していたはず。だけど、それだけだった。長期間保存していたのなら……それだけでなく、土の奥まで見るべきだった」


「まさか、まさか、まさかまさかまさか──!」


 ティアレットの顔は、憤怒の怒気によって真っ赤……を通り越し、赤黒くなってしまっている。あともう少し頭に血が上れば、そのまま血管が切れてしまうだろうことは疑いようがない。


「ええ。あなたがたがこうやって総襲撃をしかけてくれたからこそ──潜入したニーナが、屋敷の地下倉庫を洗いざらい掘り返す余裕ができた。そうでなければ、ここまで大胆な行動はできなかった」


「ああああッッ……!!」


「──私はずっと、この瞬間を待っていた。あなた方がしびれを切らして屋敷を離れる瞬間を、ずっとずっと待っていた。……調べに回せば、この毒と井戸の毒が同じものであるという結果が出ることでしょう。あなたが本当に無実だというのなら、どうしてこの毒があなたの屋敷から見つかったのか……その理由をどうかお聞かせ願いたい」


「ふー……ッ! ふー……ッ!」


 ティアレットはわなわなと震えている。ぎりりと口の奥から歯を食いしばる音が聞こえ、そして口の端から赤い血がつーっと垂れている。あえて確認するまでもなく、唇を強く噛みすぎたために出血したのだろう。普段のティアレットを知る人間からしてみれば、こうまでしてなお喚き出さないのは奇跡的ともいえた。


「も、や、せ……!」


「……はい?」


「あんた! いつまでそこで寝ているの! 燃やすしか能がないのなら、せめてその仕事を成し遂げなさい!」


 すうっとティアレットは息を吸って、頭にキンキン響き渡る金切り声を上げた。


「燃やせ! 全て! 何もかも! 全部全部燃やしなさい! そうすれば証拠なんて消えてなくなるわ!」


 その言葉自体が、犯行を認めたと同じようなものだろう。騎士たちの目が一層厳しいものとなり、突き付けられた槍がほんの少しばかりとはいえティアレットに近づく。既に騎士たちはティアレットを明確な敵として捉えており、それに疑いを抱いているものは一人たりともいなかった。


「あんたたちもよ! 今この場さえ乗り切ってしまえばあとはどうにでもなる! なんとかして──あの小さな袋を奪うのよッ!」


 ティアレットが喚き散らしながら私兵団に命令する。


「──動かないで! それ以上勝手な真似をしたら容赦しませんよ!」


 それを遮ったのは、いつの間にかクマよけスプレーを装備していたミルカだ。既に噴霧は終えており、風の魔法でいつでも展開できるように頭上に渦巻かせている。ほんのちょっとでも動きがあればそれを私兵団に叩き込むことができるであろうことは明白で、それを悟った連中の何人かがぴしりと体を強張らせていた。


「もういっぺん、あの地獄の苦しみを与えてあげましょうか……!? いいえ、それよりも!」


 ミルカは親の仇を見据えるかのような顔で、ティアレットをにらみつけた。


「ようやっと白状しましたね……! 奥様とテオを危険に晒した罪、今ここで清算してあげてもいいんですよ……!」


「ふんッ! あざとらしいカマトト巫女の取り巻きが偉そうに! あんたも前々から気に食わなかったのよ! このアバズレ女が!」


「あばっ……!? 言うに事欠いてなんてことを……! これだからヒステリーは見苦しいんですよ! その口、二度と利けないようにしてあげましょうか!?」


 クマよけスプレーを含んだ緋色の霧が勢いよく渦巻き、轟轟と膨れ上がる。巻き込まれたらたまらないとばかりにティアレットたちを囲んでいた騎士たちが後退した。


 ミルカはもう、すっかりやる気だった。取り巻きたちも含めて、まとめてクマよけスプレーをブチかますつもりでいっぱいだった。自分たちの命を狙ってきた性悪女に情け容赦をかけるほどミルカは優しくないし、どうせめちゃくちゃ苦しいだけで死ぬほどではない──はずなのだ。


 ならば、躊躇う理由なんてない。


「ええい!」


「……させ、る、かァッ!」


「こいつ!?」


 イズミに取り押さえられていた赤づくめの男が、体の奥底から絞り出すようにして声を上げる。


 ──ティアレットに叩き込まれようとしていた緋色の霧が、勢い良く燃え上がった。


「こいつ……まだこんな力が!?」


「あっはははは! そうよ、それでいいのよ! やっぱりあなたが一番まともね!」


 もはや赤づくめの男には、その言葉に応える気力は無いらしい。いつもだったら軽口の一つや二つは叩きそうなものなのに、顔から脂汗をびっしり流しながら荒い呼吸を整えようと必死の努力をしている。


「う、そ……!」


 さすがはプロというべきか。クマよけスプレーは一切の影を遺すことなく燃え尽きた。赤づくめの男はミルカの風の魔法ごと、ティアレットにも取り巻きたちにも被害を出さずに、完全にその霧を燃やし尽くしてみせたのだ。


「お、まえ……」


 ──その代償に、赤づくめの男からは血の涙と鼻血が盛大に噴き出ている。ボタボタと垂れたそれが未だに熱い地面に触れて、しゅうしゅうと小さな音を立てていた。


 もちろん、それだけで終わるはずがなかった。


「さぁ! その調子であの土も──ひう」


「私を忘れてもらっちゃ困るな」


 燃え盛る炎と陽炎に紛れて。


 いつのまにやら外に出てきていたペトラが──ティアレットの背後を取っていたペトラが、イズミ愛用の包丁をティアレットの首に突き付けていた。


「すでに自白したも同然。証拠だってニーナの手の中にある。騎士団に囲まれていて、お前の取り巻きたちはこちらの二発目(・・・)で無力化できる。……首にナイフを突きつけられてなお、まだ抗うか?」


「この……ッ! 脳筋男女が……ッ!!」


「お褒めの言葉をありがとう。……で、どうする?」


 私としては、抵抗してくれた方が憂さ晴らしが出来ていいんだぞ──と、ペトラはティアレットの耳元でこっそりと囁く。それは紛れもないペトラの本音であり、そしてまた、プライドの高すぎるティアレットの考えと一致するものであった。


「燃やせ! ナイフも土も何もかも!」


「正気かこの女……!?」


 ナイフを首に食い込ませながら。首元に大きな血の跡を付けながらも、ティアレットはその金切り声で叫びだす。


 もちろん、ペトラも本気で首を掻き切るつもりはなかったのだろう。だけど、まさか貴族の令嬢が首にナイフが食い込むのも違わずに抵抗するとはまるで想像していなかった。結果としてそれは隙をつかれる形となり、次の瞬間には手に持っていたはずの包丁が盛大に燃え上がる。


「あっはははは! 殺す覚悟もないくせに、大きな口を叩かないでよね!」


 じくじくと痛む首を押さえながら、ティアレットはさっとペトラから距離を取る。ペトラが慌ててそれを追おうとするも、取り巻きたちがそれを阻んだ。


「この真っ赤っか野郎ッ!! まだ動けるのか!」


「落ち着いてイズミさんッ! その人はもう、とっくに意識を失っています!」


「でも……!」


 赤づくめの男の顔面に拳骨を叩きこもうとしたイズミを、アルベールが必死になって止める。精も根も尽き果て、魔力も体力も、文字通り最後の気力を振り絞ったその男──血涙と鼻血で顔中が真っ赤に染まったその男をさらに強く殴ったとあれば、本当に死んでしまいかねないのは誰の目にも明らかだ。


 さすがのアルベールも、そうまでして赤づくめを追い詰める必要はないとわかったし、なによりイズミに人殺しをさせるのは良くないことだと直感がそう叫んだのだ。


「でもこの野郎……ニーナさんが持ってた土まで燃やしたんだぞ!」


 イズミの視線の先。突如手の中で燃え上がった革袋を慌てて放り投げたニーナが、必死になって手を振って炎を振り払っている。勢いよく燃えたそれは他の例に漏れず、地面に落ちるころにはもうすっかり灰となり、風に吹かれて消え去ってしまっていた。


「うふふ……! さすがね、さすがよ! あいつだけはちゃあんと仕事をこなしてくれた! もう本当に、百点満点のこれ以上に無いくらいの働きだわ!」


 クラリエス家の使用人たちが聞いたら耳を疑うようなその言葉。ティアレットは上機嫌に頬を釣り上げ、そして高らかに宣言した。


「さあ! これでもう証拠の土も無くなった! 現物が無いのなら、あなた達の話なんでいくらでももみ消すことができる! ……この私をここまでコケにした報いは必ず受けてもらうわッ!」


 証拠さえなければ、事実なんていくらでも捻じ曲げることが出来る。普通ならそんなことできないと誰もが考えるだろうが、ティアレット・クラリエスは一度はそれをやってのけている。あの水の巫女に大罪を擦り付けて流刑にすることが出来たのだから、この程度のことであればそれこそ息をするように誤魔化すことが出来るだろう。


 ただし、それは証拠がこの世にない場合の話だ。


「──何度も何度も言っていますが」


「……はあ?」


 アルベールは、うんざりした様子を隠そうともせずに行った。


「私たちは、勝算が付いたから動いたんです。……もうすでに、ラルゴさんやアンナさん、そして神殿の方たちがあなたの屋敷に突入して、例の毒を保管していた部屋を押さえていますよ」


「なっ……!?」


「言ったでしょう? あなた方が総襲撃をかけて、屋敷から離れる瞬間をずっと待っていたと。ニーナがここに来たのは単なる結果報告に過ぎません。彼女がここに来た段階で、とっくの昔に決着はついているんですよ」


「ぐっ……! ぐぎ、ぎぎぎ……ッ!!」


 それが、止めとなる決定的な言葉であった。すぐに騎士団の何人かがこの場を離れてティアレットの屋敷へ向かい、そしてミルカは今度こそ逃げ道と抵抗する余力を削ぎ落すべく、先ほど以上のクマよけスプレーを噴霧して撃退態勢を整えている。赤づくめの男は完全に気を失っており、そしてティアレットの悪行はこの広場にいる全員が確かに耳にしていた。


「この……ッ! こンの……ッッ!! 商人風情が……ッ! 胡散臭い賢者が……ッ!!」


「大人しく投降するか、それとも証拠が来るまで粘りますか? いずれにせよ、あんな劇薬が屋敷から見つかった時点で捜査対象になるのは間違いありません」


「ふー……ッ! ふゥゥー……ッ!」


 そして。


 結末は──誰もが予想していない形で訪れた。




「あああ……ッッ!!」


「……あっ?」




 飛び出そうなほどに目を開いたティアレットが──突如として、白目をむいて倒れたのだ。




「……か、確保! なんだかよくわからんが確保だ!」


 突如倒れた雇い主。その隙を見逃さず突っ込む騎士団。最高戦力が失われたばかりか、事実上のトップがいきなり倒れた。私兵団に走ったその動揺は生半可なものではなく、そんな烏合の衆に後れを取るほど騎士団は生温くない。


 結果として……あまりにも呆気なく私兵団は無力化され、そして事件の首謀者であるティアレットは、気絶したまま捕らえられることとなった。


「……なんか、終わったみたいですね?」


 アルベール自身もまた不思議そうに、白目をむいたまま運ばれていくティアレットを見ている。一連の事件の首謀者が捕まって、そしてこちらも一応はみんな無事という一件落着であるはずなのに、どうにも腑に落ちないという感じが顔に出ていた。


「あのねーちゃん、いったいどうしたんだよ? あれもアルベールさんの仕込みか?」


「まさか。そんなのこっちが聞きたいくらいですが……イズミさんの仕業ではないのですか?」


 それこそまさかの話である。イズミはこの赤づくめの男を取り押さえるのが精いっぱいで、あちらの方に何かをする余力は無かった。いいや、赤づくめの男のことがなかったとしても、ごく普通の日本人であるイズミに離れた相手をいきなり失神させるような妖術が使えるはずもない。良くも悪くも、イズミにできるのは家を呼び出すことだけだ。


「ああ……アレは単純に、あの人自身が招いたことですよ」


「ミルカさん」


「正直私達には縁が無いことですが、噂として聞いたことがあります」


 返り血で真っ赤に染まったイズミの顔を、ハンドタオルで拭いながら。ミルカは、なんともやるせない表情で呟いた。


「あのティアレット嬢の癇癪はこの業界では有名です。常に何かに怒っているわけですが……その怒りが頂点に達すると、ああして失神してしまうという話です」


「……」


「憤死、とはまたちょっと違うのでしょうけれども。少なくとも私は、怒りで我を忘れて気絶するなんて人はお話の中でしか知りませんでしたよ……」


「どれだけあのねーちゃん、キレてたんだよ……」


 熱気を払うように涼やかな風が吹き、そして何もかもが終わったことを悟った群衆が歓声を上げる。騎士団はそんな群衆に現場から離れるように大声を上げ、そして騎士団長がイズミの下で伸びている赤づくめの男を回収すべくこちらに近づいてくるのが見て取れた。


「なんにせよ……とりあえず、終わったんだよな」


「ええ。これで奥様の無実も証明できるでしょうし、諸悪の根源も捕まりました。もう、私たちが誰かに追われて過ごすことも無いでしょう」


「……なんか、実感わかないなあ。不完全燃焼気味というか、最後の最後ですっきりしないというか」


「終わったからいいではないですか。正直もう、精神的にくたくたですよ……あなたってば、こっちが止めたのにこんなにボロボロになって……」


「げ」


「こっちがどれだけ心配したのか、わかっているんですか……!? あなたは魔法の効きが悪いって言っているのに……! こんなに火傷して、真っ赤になって……!」


 ミルカの目に浮かんでいるのは、紛れもなく大粒の涙だ。まんまるでキラキラ輝くそれがみるみる大きくなって、ぽろぽろ、ぽろぽろとその滑らかな頬を伝って地面に落ちていく。


「わ、わかったから! わかったから泣くなってば!」


「いいえ! あなたは全然わかってませんっ!」


 自分の腕の中でわんわんと泣き縋ってくるミルカをなんとか宥めすかして。視線だけで送ったヘルプコールをアルベールに思いっきりガン無視されたイズミは、ミルカを優しく抱き留めながら、この窮屈な生活が終わることに確かな安堵を抱いた。


▲▽▲▽▲▽▲▽


 ──事件の首謀者であるティアレット・クラリエスとその部下の身柄の拘束。そしてその屋敷から出てきた動かぬ証拠。


 このオルベニオの街を揺るがした水の巫女の謀殺事件は、巫女を救った賢者とその仲間たちの活躍により、幕を下ろした。

 最終章は一気に投稿したほうが盛り上がるため、しばし書き溜め期間に入ります。

 秋の段階ではこの時期には書き切って投稿できる段取りだったけど、しゃちくには勝てなかったんだよ……。

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― 新着の感想 ―
[一言] 楽しみにしてます。
[良い点] 怒涛の展開ですなw ま ヒス女はこんなもんでしょうw やっとここから出られるw [気になる点] 赤男 そこまで忠誠心があったのか もしやなにかで操られていたりして [一言] お仕事 お疲…
[一言] 脳卒中や脳溢血に成りそうな女だよね。 放って置いてもそう遠くないうちに病気で死にそう。
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