77 悉に燃え蝕む炎
「……また、どなたかが壁を壊したみたいですね」
家の外から聞こえてくる大歓声に眉をひそめてミルカが呟く。ボーナスが出ただのあいつに続けだの、まるで壁を壊した人間が英雄であるかのように声がかけられ、そして石塀を叩くハンマーの音はますます加速していった。
「ちっくしょう……壊したのは俺とペトラさんだぞ。それも、日が昇るずっと前にこっそり少しずつ壊したんだ。あいつらはただ、もともと砕けてた奴を落としただけじゃんか」
「全くだ。ボーナスをもらう権利があるのはこっちの方だろうに……っと、どうした、ミルカ?」
「いえ……ペトラもイズミさんも、今この瞬間も壁を壊されているのにずいぶん落ち着いてるなって」
──アルベールからの秘密のメッセージを受け取ってから、イズミたちは毎日少しずつ石塀を壊すようになった。あくまで外部の人間が壊したという態を装いたいのであろうというアルベールの意図を汲み取り、丑三つ時を過ぎた頃合いにいったん起床して、夜な夜なコツコツ石壁を内側から崩しているのである。
ブロック状に壊してしまえば、後はそれをもとの位置にそれっぽく置いておくだけで、手軽に壊れた感を演出することが出来る。イズミ達の予想通り、元から壊れているものだから外からでも簡単に壊すことが……壊れたように見せることが出来て、【賢者の結界の限界が近づいている】ことを演出することが出来ていた。
もちろん、何もかもが上手くいっているわけじゃない。例によって例のごとく、この家には再生か復元かリセットか、ともかく壊れたものを尽く直す性質がある。だから、最初はほんの少し仕込むだけでよかったものの、最近は結構な広範囲を仕込む必要が出てきてしまい、それに伴って早起きの時間もどんどん前倒しになってしまっていた。
「そりゃあな。こんなのただの茶番だってのは、仕込みをしている俺たちが一番よくわかってるし」
「結界とか関係なしに、あの石塀を壊すのって結構大変だからな。そして憎たらしいことに、頑張って壊しても翌日には完全に元通りだ。結界が弱まった気配も、再生能力が弱まった気配もまるでない。工夫を何人増やしたところで、無駄に人件費が嵩むだけだよ」
ガンガン煩いのだけは本当に敵わない──と、ペトラは優雅にコーヒーに口を付ける。あまり夜に眠れず、かといって昼間に呑気に眠ることもできないため、せめてもの眠気覚ましとして最近になって愛飲するようになったものだ。
「お洗濯ものも干せないし、テオのお昼寝だってできない……一体いつまで、これは続くんでしょうかね……」
「アルベールさんはそこまでは触れてないからな。そのうち進展自体はあると思うが……期間が延びて壊す範囲が広がると、仕込みが追い付かなくなりそうで怖い」
「その場合、奥様に協力して頂くほかないな。奥様の水の魔法なら、あの程度の石塀くらい簡単に壊せるだろ」
石塀を少しずつ壊すようになって、なんだかんだでもう十五日ほどは経っている。壊れる範囲が増えたからか、最近は外の活気もかなり良くなっており、家の中に引きこもっているイズミ達にもその勢いを感じることが出来ていた。
「ただ、ちょっと不思議なんだよな」
「不思議、ですか?」
ポツリと漏れたイズミの言葉。律儀に反応したのはミルカだ。
「一応、毎日チラッと外を確認するようにはしているんだが……壁を壊しているの、冒険者とか商人が雇った連中ばかりでさ。クラリエスのチンピラを一切見かけないんだよ」
「それは……でも、この前あれだけ脅されたのですもの。クマよけスプレーであんなに苦しむ仲間を見て、それでなお立ち向かう勇気なんて普通は起きないのでは」
「……ま、そうだよな。今外にいる連中も、よほどの真似をしない限りは俺たちが攻撃しないってわかっているからやっているんだろうし……いや、クラリエスのチンピラを近づけさせないために、あえてアルベールさんが冒険者連中を石塀に張り付かせているのかも」
まさに、そんな話をしていた時であった。
──おい、お前っ!?
──きゃああああ!?
──いったい、なにが……!?
外から聞こえてきたその声。切羽詰まったそれは当然歓声などではなく、悲鳴だろう。家の中からでもはっきりわかるほどに、外はどよめきと混乱に満ちている。
「……噂をすれば、か?」
「進展があったことには間違いなさそうだ……イズミ殿」
「おう」
奥様とテオは家の中に残して。家主であるイズミ、前衛ができるペトラ、そして一応は魔法が使えてイズミのサポートができるミルカの三人で外の様子を窺いに行く。
「う、わ……!?」
まず感じたのは、何かが燃えるような焦げ臭い匂いだった。いや、燃えるようなではなく、門扉のすぐ外で実際に何かが燃えている。あともう少しイズミ達が玄関を出るのが早ければ、それが石塀を壊していた人たちが持っていた槌や鑿といった工具であったことに気づけただろう。
「うそ……!? 壁が燃えてる……!?」
「落ち着け、ミルカ。……アレは元々壊してあったところだ」
そして、石塀の一部が燃えている。本来燃えないはずの石に、なぜか真っ赤な炎がまとわりついている。その炎は勢いこそ強くないものの一向に消える気配を見せず、じわじわとその範囲を広げているようにさえ見えた。
「いったい何が……いや、誰だ?」
ぐるりとイズミはあたりを見渡した。
まず、商人組合に雇われた連中。この集団の中にいる人間としては荒事に慣れていないほうだから、意外とすぐに見分けがつく。一瞬で燃やされた自分たちの道具を見て、すっかりビビッて慌てふためいているものがほとんどだ。
次に冒険者たち。彼らは工具のほかに簡単とはいえ防具を纏っているから、商人連中との見分けも意外と簡単だ。ただ、冒険者の癖にこんなしょっぱい仕事をしているだけあって、謎の炎の襲撃に狼狽えるばかりでその次の行動に移れていない。
そして騎士団たち。雇われたちに比べれば人数が少ないから、実際の作業をしているものはほとんどおらず、むしろ要所要所で現場指揮を執っているものが多い。この明らかな異常事態にもすぐに反応し、お互いが武器を構えて死角を無くすような位置取りを取っている。
「む」
「アルベールたちも来ているのか……」
彼らから少し距離を取ったところに、商人組合でチラッと見た感じの顔とアルベール、そして騎士団長と思しきいつものあの男がいる。ただ、アルベールたち自身も驚いたような顔をしているところを鑑みるに、この事態は彼らにとっても想定外のものなのだろう。
となれば。
この事態を誰が引き起こしたのか、その答えは一つしかない。
「やあやあやあ! どうもどうも、賢者様! しばらくぶりだね!」
「てめぇ……!」
真っ赤な髪、真っ赤な瞳、真っ赤な服の赤づくめの男。クラリエス家の人間……それもおそらくは相当上の地位にいるであろうその軽薄な男が、以前と変わらないヘラヘラとした笑みを浮かべたまま門扉へと近づいてきていた。
彼は後ろにクラリエス家の私兵も引き連れている。ただし、以前とはその数が比べ物にならない。今までは多くてせいぜいが五十人と言ったところであったのに対し、今回は明らかに……その三倍くらいはいるんじゃないか、と思えるほどの人数であった。
その上、さらに。
「ふぅん……賢者の屋敷と言うから期待してみたけれど、大したことないじゃない。着ているものも随分とみすぼらしいのね」
なんとも高飛車で性格のキツそうな、人を見下している目つきをまるで隠そうともしない女も引き連れてきている。そいつだけ妙に衣装が豪華で、しかも豪華な馬車に乗っているものだから、初対面であるイズミにもその正体を察することが出来た。
「ペトラさん、あの性格の悪そうな嬢ちゃんって」
「お察しの通り、アレがティアレット嬢だよ」
イズミ達。アルベールと騎士団。そしてクラリエス家の人間たち──奇しくも、今回の件に係わる役者たちがこの場に勢ぞろいしてしまっている。ただ、今この瞬間に限って言えば、実質的な支配権を持っているのは間違いなくクラリエス家の……赤づくめの男であった。
「何をしに来た貴様らァ! そんな物々しい連中を引き連れて、いったい何のつもりだ!?」
騎士団長が赤づくめの男に食って掛かる。しかし、それでも赤づくめの男は動じない。
「何って……僕らもみんなと同じように、賢者様の結界を壊すのに混ぜてもらおうと思ってね! ……いや、美味しい所だけ頂くつもりって言ったほうがいいかな?」
「!?」
にこりと赤づくめの男が微笑む。それとほぼ同時に、騎士団長が携えていた長剣が真っ赤に赤熱し、そして燃え上がった。
「はーい、注目ぅ! 善良なる一般人の皆さん! 見ての通り、これからクラリエス家の方で最後の止めとしてデカい一発をブチ込もうと思っているよ! 余波だけで色々諸々燃え上がっちゃうだろうから、巻き込まれたくなければすぐにそこから退避してね!」
自分たちの道具ばかりか、あの騎士団長の剣でさえもいきなり燃え上がった。当然の帰結として、結界を壊すべく石塀に張り付いていた人間たちは、所属に関係なく一様にその場から逃げ出していく。
「貴様……! こんなことをしてタダで済むと思っているのか……!?」
「一応、警告のつもりなんだけどね。邪魔をするようなら次は道具じゃなくて体を燃やすけれども」
すっかり開けた視界。炎の残滓がちらちらと揺らめく中、いっそ不気味なほどにキラキラと顔を輝かせた赤づくめと、イズミはしっかりばっちり目が合ってしまった。
今まで以上の強引な手。そしてこうも堂々と姿を現して事を仕掛けてきたことを鑑みるに、向こうもとうとう本気となったか、あるいは確実にこの場をどうにかできる算段が付いたということだろう。
イズミ達と赤づくめの間にはもう、邪魔する人間なんていない。騎士団でさえも恐れ戦いて、その不気味に笑う男から距離を取ろうとしている。
しかし。
「……行かせると思いますか?」
「わぁ。さすが師匠、すごい胆力だ」
その前に立ちはだかったのは、騎士団でも冒険者でもないアルベールだ。
「あなた方も一応は法律に則って行動するというのであれば……騎士団の指揮下で動くべきでは?」
そうしないと、大義名分がないだろう──と、アルベールは言外に告げる。もはやただの建前とは言え、街中で武力を振りかざす正当な理由そのものは必要だ。今までは『騎士団がやろうとしていることを代わりにやっているだけ』というそれがあったが、その騎士団を邪魔しているというのであれば、もうその言い訳も通用しない。
「みんなの武器が燃えちゃったんだからしょうがなくない? それに……そっちはあくまで結界さえ壊れればいいんだろう?」
「……」
「とにもかくにも、あの結界を壊さなければ始まらない。その後はともかく、それまでは僕も師匠もお互い協力関係にあるって言ってもいいんじゃない?」
「……いつから私はあなたの師匠になったんですかね?」
こりゃ失敬、と赤づくめの男はへらへらと笑った。
「ま、ともかく……可愛い可愛い我が主の頼みだ。あの結界は僕らがぶっ壊す。……こっちの私兵、全員を突っ込ませるつもりだよ。こいつらはいつものチンピラと違って、ちゃんとした訓練を受けた兵士だ。もういい加減ぼろぼろのあの結界……この人数で攻められたら、もう終わりだよね」
ただの工夫でさえ壁を壊すことが出来た。ついさっきも壁は壊されていたし、前回は何ともなかったのに今は炎の魔法で一部燃えてさえいる。この上さらに、質も量もある飽和攻撃を加えたらどうなるかなんて、考えるまでもない──と、赤づくめの男は語る。
「だけどさ、師匠。そんなのお互いスマートじゃないよね」
「スマート?」
「うん。……師匠だって、出来ることなら被害は最小限に抑えたいんだろう? 限界を超えて魔力を行使した魔法使いがどうなるか、師匠も知らないはずがないよね? あのレベルの結界を長期間も行使し続けている賢者の集中力はもうボロボロだ。結界を壊した後……気力が尽きるまでそれを行使した賢者がどうなっているか、想像できるよね?」
「そ、れは……」
「それでもって、こっちも同じく……結界を壊すことはできるだろうけど、賢者様に地獄の緋霧を使われたら堪ったものじゃない。あらゆる意味で損害がデカすぎる」
「地獄の緋霧?」
「あの緋色の激痛をもたらす霧のことさ! なかなかのネーミングセンスだろう!」
ああ、まさしくアレは地獄のような光景であった……と、あの光景を見ていた全員がそう思った。そして同時にまた、今でこそ賢者は反撃らしい反撃をしてこないが、本当に追い詰められればなりふり構わずアレをまき散らすのであろうことにも思い当たってしまった。
大の大人が、ほんの少し吹き付けられただけで喉が潰れるほどに泣き叫び、悶え苦しむあの緋色の霧。あの時はたまたま見かねた水の巫女が助けてくれたから事なきを得ていたが、それでも苦しんでいたこと自体には変わりないし、今度もまた助けてくれるとはとても思えない。
「お互いあんなの食らいたくないだろう? だからさ、提案だよ」
「……提案?」
赤づくめの男は、ワクワクした様子をまるで隠そうともせずにイズミに向かって叫んだ。
「賢者様ぁ! ここはひとつ男らしく、僕と一対一での決闘といかないかい!?」
「ああん……!?」
「僕が勝ったら結界を解いて巫女様を引き渡す! 賢者様が勝ったらクラリエス家は全面撤退! もう最終局面だ、遅いか早いかの違いでしかない! だったら、無駄に被害を出さないこっちの方がお互い都合がいいんじゃないかい!?」
赤づくめが決闘に勝てば、どのみち叩きのめされたイズミは結界を維持できない。イズミが決闘に勝てば、赤づくめ以上の戦力を持たないクラリエス家は撤退せざるを得ない。結果が同じである以上、泥沼の消耗戦をする理由はお互いに無いはず。
赤づくめが主張しているのは、つまりそういうことだ。
「かかってこいよ、賢者様……正真正銘、タイマンさ」
赤づくめの男が大袈裟に腕を振るう。どこからともなく燃え上がった炎が地面を舐めるように広がっていき、イズミの家──結界の周りを埋め尽くした。まるで示し合わせたかのようにその炎は門扉の前だけは避けており、赤づくめの男の前までの炎の一本道を形作っている。
「上等だコラァ……! その言葉、違えるんじゃねえぞ……!」
「待ってくださいイズミさんっ! わざわざ向こうの口車に乗る必要なんてないでしょう!? いくらなんでも危険すぎますっ!」
「いいや……! あえてわざわざ、大勢の前で向こうから条件を持ち出してきてるんだ。これで約束を破ったらそれこそ向こうは終わる。仮に俺が負けようとも、その時はガン無視すりゃあいい。元から俺に信用も失うものもない」
「で、ですが……!」
「それに……多少のケガは奥様が治してくれるさ」
「あなたの場合、その傷の治りが遅いから……ああっ!?」
それだけ言って、イズミは門扉に手をかけた。片手に鉈、片手にクマよけスプレーの完全武装の状態で、何日ぶりかもわからない外の地面を一歩一歩踏みしめていく。
まさか本当に引きこもっていた賢者が出てくるとは思わなかったのだろう。息をのみ込んでその様子を伺っていた騎士団が、ハッと慌てたようにイズミの身柄を確保しようと駆け寄ろう……として。
「無粋な真似は止してくれよ」
「「!?」」
赤い炎が燃え広がり、腰ほどの高さの壁となってイズミと赤づくめの男をぐるりと囲う。炎だから実体を持たないはずなのに、その騎士が慌てて振り払った剣がパキンと妙に甲高い硬質な音とともに弾かれた。どうやら見た目通りの炎ではなく、結界としての機能も持っているらしい。
広すぎず、狭すぎず……そんな大きさの炎のサークル。それはまさしく、決闘のために用意されたものに他ならなかった。
「……あの、私が巻き込まれているのですが」
「あはは、ごめんごめん! 師匠は立会人ってことで、この炎の結界の中から僕たちの戦いを見届けてよ! ……でも、安全は保証できないからなるべく隅っこの方にいてね? 賢者様も、それでいいだろう?」
「ああ……!? 裏切り者の身の心配をわざわざしてやるほど、俺は優しくねえぞ……!」
「先に私の信頼を裏切ったのは、あなたのほうでしょうが……!! このわからずやが……!」
ぎろりとイズミをにらみつけてから、アルベールはさっと端の方へと退避していく。これでもう、遮るものは何もない。
「僕にも少なからずプライドがあってね。賢者様個人とは友達になりたいけれど……舐められっぱなしも性に合わない」
「生憎、俺はお前と友達になろうとは思えないが……それでも、舐められっぱなしは性に合わないって所だけは同じだ」
鉈を構え、クマよけスプレーを手にするイズミ。
へらへらと笑いながら、右の手のひらを構える赤づくめ。
誰が合図をするでもなく、二人ともが自然に距離を取り、互いに構えて、そして……。
「吠え面かかせてやらァ!」
「来いよ賢者様ッ!」
──決闘が、始まった。
▲▽▲▽▲▽▲▽
最初に飛び掛かったのは、意外にも真っ当な戦闘経験のないイズミの方であった。およそ現代日本に生きる人間とは思えないほどの勢い──それこそ獣のような獰猛さを隠そうともせずに赤づくめの男に突っ込み、その鉈による一撃を食らわせようと腕を振り上げる。
「その手は──!?」
「なんてな」
が、イズミはそこでぴたりと動きを止めた。後ろへ跳んだ赤づくめを追おうともせずに、にやりと笑って片手のクマよけスプレーを突き付ける。
相手の意表を突いた、その瞬間。鉈による一撃と思わせての、クマよけスプレー。いきなりのリーチの外からの攻撃。普通に考えれば避けられるはずもない。
「オラァ!」
目の前に噴霧される緋色の霧。刹那の瞬間がスローモーションとなり、ゆっくりとなった世界でイズミの瞳はそれが赤づくめの男の顔面にぶち当たるその瞬間を──
「むん!」
「!?」
轟音。咄嗟に腕でかばった顔。凄まじい熱が服越しに腕を焼き、激しい空気の震えが鼓膜を揺らす。
本能的に転がり込むように後ろに逃げたイズミは、同じ場所に留まらずにゴロゴロと動き回り、未だジンジンと痺れる耳を無視して立ち上がった。
「いやはや……間一髪だったね。賢者様、ホントに魔法使い? 僕としたことがついつい、あんまり格好良くない真似をしちゃったじゃないか」
「てめえ……!」
赤く揺らめく炎の残滓。その向こうに、ぱたぱたと服を叩いている赤づくめの男がいる。服の端こそいくらか焼け焦げているもののクマよけスプレーを食らった形跡もなく、そして当然のごとくまともにダメージが入った様子もない。
「あの地獄の緋霧も、僕の魔法なら燃やせるようだ。……思った以上に良く燃えたのは、魔法同士の相性が良くて共鳴干渉でもしたからかな? なんにせよ、あんな爆発を起こすようじゃお互い至近距離じゃ使いたくはないよね」
もちろん、中距離だったらそもそもあたることもない。それがわかっているからこそ、赤づくめはわざわざそれを口にしているのだろう。
「さて、今度はこっちの番だ……ほぅら!」
「!」
赤づくめの背後に、都合十個ほどの火の玉が浮かび上がる。大きさとしてはバスケットボール程度だろうか、正直なところそこまで大きいというほどのものでもない。
しかし、それが一斉に撃ち出されたのなら。
「あはは! やっぱり賢者様、もう魔法を使う余裕はないのかな!? 逃げることしかできないじゃないか!」
逃げるしかない。自身を狙って撃ち出される火の玉から、イズミは必死になって逃げまどう。
幸いにも、打ち出される速さは目で追えないほどじゃない。少々行儀の悪い話だが、田舎の悪ガキどもが河原で打ち上げ花火を人に向かって発射しあうそれと大差ない。拳銃やマシンガンを乱射されることに比べれば、まだまだ全然マシと言っていい。
ただ、反撃の隙もないというのはいただけないことだった。
「ぐっ!?」
「イズミさんっ!」
膝に感じた衝撃。悲痛に満ちたミルカの悲鳴。
さすがにそうそうずっと逃げ切れることも無く、とうとうイズミはそれに被弾してしまう。服の燃える嫌なにおいが鼻をつき、妙にひりつく膝にイズミは思わず顔をしかめた。
ただし。
「……む?」
おかしい、とイズミは思った。あんなにも高火力な魔法を扱う人間の攻撃にしては、ばかにダメージが少ない。無論、イズミが火の玉なんてものを食らったことなんて今までに一度もないが、それにしたってせいぜいが熱せられたバレーボールの直撃を食らったかどうか、くらいのそれが魔法本来の威力とは考えにくい。
「やるね、賢者様。さすがに最後の守りくらいは備えているか。その調子でもっと楽しませてくれよ」
「言ってろ」
野郎、遊んでやがる──と、イズミは思いあたる。さすがにここまで舐められるのはトサカにくるが、しかし今に限って言えばなかなかありがたいことではあった。
となれば。
「そんなへなちょこ、何十発貰おうが痛くも痒くもないんだよッ!」
イズミには戦闘技術も経験もない。あるのはせいぜいが付け焼刃の最低限のそれだけ。真っ当な剣術で勝負するなんてことが出来ない以上、後に残されたのは気合と根性しかない。
「うああああッ!!」
「ちょ、え、本気!?」
容赦なく自身に叩き込まれる火の玉を無視して、イズミは赤づくめの男に突っ込んでいく。
「いや、いやあああ!」
「や、やめてよ賢者さま! 僕はこんな勝負を望んでいたわけじゃないんだよ!」
一発、二発、三発。
火の玉がぶち込まれるたびにミルカの悲鳴があたりに響き、そして意外にも赤づくめの方が狼狽えた声を出している。しかもそれでいて、イズミの突進を止めるべく攻撃の手を緩めず、真正面からばかりか背中や足の方など、多角的に攻撃を仕掛けてくるというから侮れない。
「こなくそァ!」
「うっわ!?」
イズミの渾身のタックルが、赤づくめの男に決まった。決して頑強とは言えない赤づくめの男の体がくの字に曲がり、イズミもろとも吹っ飛んでいく。
もちろん、それで終わりにするイズミではない。決して逃れられぬよう、赤づくめのローブを思いっきり握ってマウントポジションを取ろうとして──
「ちィッ!」
「うっひゃあ……参ったね、これは」
ひっつかんだローブがたちまちのうちに燃え上がり、イズミは慌てて距離を取った。
「僕としてはさ。賢者様と魔法の研鑽をしたかったんだよ。まだ見たことの無い魔法を直に体験して、その上で賢者様の魔法を尽く焼き尽くしたかったんだ。そうじゃなければ、いつまで経ってもあの結界を壊せなかった僕がバカみたいじゃないか……なのに」
赤づくめの男は、苛立ちを隠そうともせずに告げた。
「さっきから補助魔法の一つも使おうとしない。やってることは……やろうとしていることは物理的な攻撃だけ。そりゃあ、ちょっとは守りの魔法を使っているみたいだけど、こんなの全然魔法使いの戦いじゃない。……賢者様、いくらなんでも舐め過ぎじゃない?」
「うるせえ。お前相手に魔法なんて必要ないってだけだ」
「またまた。もう結構ボロボロじゃない。お嫁さん、すっごい悲痛な面持ちでこっちを見ているよ? 護衛の騎士様だって僕のことを親の仇みたいな顔で睨みつけているし……ほら、師匠だって心配そうな顔だ」
背中も、おなかも、足も。イズミの衣服は至るところが焼け焦げて、その下の肌が露わになってしまっている。軽い火傷を負ったのか、遠目から見てもわかるほどに赤く腫れていた。髪の先でも焦げたのだろうか、嫌なにおいがイズミの鼻を突き、そしてタイミングを見計らったかのように焼け残っていた服の袖がぽとりと落ちる。
命に別状はない。ただし、全身のあらゆるところを打ち付けているうえに、軽く火傷をしている。真っ当な人間なら、さっさと病院に行って然るべき処置をしてもらうような状態だ。
「──最後くらい、全ての魔力をこの戦いに集中したらどうだ? こんなお遊びしかできないのなら、こっちも付き合う理由は無くなるんだよね」
「……」
「本当にもう、隠し玉は無いのかい? 地獄の緋霧は使えないにしても、あの地獄の鳴剣は使えるだろう? 何故使わない?」
「……もしかしてチェーンソーのことか? 使う必要がないからだ、って言ってるだろ?」
嘘だ。チェーンソーだと重すぎて、鉈のように気軽に振り回せないというだけである。仮にそれができたとして、下手をすれば相手を殺しかねないし、何より自分のことも傷つけかねない。ものを斬るという一点においては凄まじい優位性を持つものだが、相手も自由に動ける戦闘という意味では、チェーンソーはあまり優れた武器じゃないのだ。
「あ、そう……これでも?」
「うわっ!?」
イズミがしっかり握っていたはずの鉈が、突如として燃え上がった。
慌てて放り投げれば──もう、そこには灰しか残らない。
「さぁ、これでもう武器は無くなった。次の手を考えてくれよ、賢者様」
「拳一つあれば、十分だな」
「……ふーん」
拳を構えるイズミを詰まらなさそうに眺めて、赤づくめの男は小さくため息をついた。
「──どうやら僕の見込み違いだったようだ。魔法戦闘にも長けているって、勝手に期待し過ぎちゃったみたいだね」
「「!?」」
決闘を見守っていたギャラリーたちでさえ感じた、灼熱の炎による熱風。周囲の温度が確実に五度は上がったであろうと思えるほどに、赤づくめの男からは強烈なの炎の魔力が迸っている。炎の魔力が熱気を生み出し、その熱気が陽炎を生み出して、辺りはさながら地獄のような光景となっていた。
威嚇のために出された炎の魔力。たったそれだけで石畳が乾ききり、そのままステーキを焼けてしまえるほどに熱くなってしまっている。隙間から生えていたのであろう名もなき植物が一気に燃え上がって、地面にちろちろと炎を灯していた。
「自分で説明するのも恥ずかしいけどさ。賢者さまなら、僕が今までどれだけ抑えていたかってのはわかっているよね?」
結局、究極的には赤づくめの男は遊びたかっただけなのだ。だから、あえてわざわざ弱い火の魔法しか使っていなかったのだ。もし互いに本気を出していたら、あらゆる意味で一瞬で勝負がついて辺りの被害も甚大になり、勝負を続けるどころではなくなってしまう。
だからこそ、大規模な魔法は使わなかった。その気になれば火の玉なんてケチなことは言わず、炎の竜巻だろうが炎の壁だろうがなんでもできたのに、あえてそうしなかったのだ。
しかしもう、そんなことをする理由はない。
「最後に教えてあげるね、賢者さま」
にこりと笑って、赤づくめの男は手のひらを天に向けた。
「見ての通り、僕は炎の魔法使いだ。水の巫女様と対極の位置にいると言っていい。もちろん、属性だけでなく熟練度も巫女様と同じ……いいや、それ以上のものがあると自負している」
「……」
「そんな僕が辿り着いた、炎の神髄。強烈な炎、熱の無い光の属性を極めた姿晦ましの炎、そして炎なのにあらゆる形状を成す炎……この辺までは他の炎使いも到達できるかもしれないけれど、これができるのは現状僕しかいない」
赤づくめの男の手のひらに、何かがある。いや、魔力の感じられないイズミには全く見えないのだが、そこだけ空間が歪んでいて──空気が揺らめいていて、透明なのにその姿を隠しきれていないのだ。
「炎を生み出し、炎を操る……のではなく、対象そのものを炎にする魔法。燃えるとか燃えないとか関係ない、食らったが最後その場所自体が炎になる炎の神髄。今の賢者さまの魔力でこいつを防げるか、ちょいと試してみようじゃないか」
魔力に当てられた人たちの顔が、真っ青になっている。後ろの方ではミルカが悲鳴に近い叫び声をあげていて、ペトラが炎の結界に押し入ろうと鉈をガンガンと叩きつけているのがイズミには聞こえた。
「【万炎の剣】。僕はこの炎の剣をそう呼んでいる。くどいようだけど、炎の力を持つ剣ではなく、切ったものを炎にしてしまう剣──故に、万物を斬ることができる剣。ま、実際は狙ったところだけを炎にできるように、炎の神髄を剣の形にしただけのものなんだけどね」
武器も防具も何もないイズミ。相手が勝手に期待しているであろう魔力の防御もあるはずがなく、正真正銘無防備と言っていい。
相手の方もイズミに為す術がないことがわかっているのか、焦った様子も見せずにイズミの下へと近づき、そしてその見えない炎の剣を振りかぶった。
「安心して、賢者さま。僕だって無駄な殺しは趣味じゃない。命だけは助けてあげるから……目が覚めたら、存分に魔法について語り合おう。どうせ、しばらくはベッドから動けないんだし」
息をのむ音。誰かのの悲鳴。イズミと敵対しているはずの騎士団の人間たちまでもが静止の声を上げ、商人連中や街の人間たちはその惨たらしい光景から目を背けようとした。
「じゃあね」
「いやあああああ!」
つんざくような、ミルカの悲鳴が聞こえて。
不可視の炎の剣が、イズミの右腕を薙ぎ払う。
「うそ……ですよ、ね……?」
ぺたんとミルカは崩れ落ちた。だって、紛れもなくあの禍々しい炎の魔力はイズミの腕を斬り飛ばしたのだから。気のせいでも錯覚でもなく、あの剣はイズミの腕に触れてしまったのだから。
つまり、もう、幾許の余裕もないうちにイズミの右腕は燃え上がり──
「効かねえっつってんだろうがコラァ!!」
「がフっ!?」
全くもって無事なその右腕を使って、イズミは赤づくめの男の顔面を盛大に殴り飛ばした。




