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ハウスリップ  作者: ひょうたんふくろう
ハウスリップ
74/99

74 燃え上がるグラス


「…………」


 沈黙に満ちた、暗い部屋。燭台の明かりは十分あるはずなのにそう思えてしまうのは、彼の前にいるこの部屋の主──ティアレット・クラリエスが放つ怒気が、この部屋全体を包み込んでいるからだ。


 それなりに長い間この屋敷に仕えている彼にはわかる。普段からヒステリックで癇癪を頻繁に起こすこの令嬢がこうまでしっかり黙り込んでいるのは、普段以上にブチ切れてるがゆえに肉体がその心情に追いついていないだけだということを。


 もうこの段階で、彼はこの部屋から出て行きたかった。そしてできることなら、何もかも忘れて辞表を叩きつけてこの屋敷との縁を切ってしまいたかった。


 だが、それができない理由がある。


「いやぁ、もう清々しい程に何もかもうまくいかないね!」


 彼の隣で、へらへらと笑う赤づくめの男。その軽薄な声を聴くだけで、彼の胃はキリキリと痛みだした。


「噂の賢者様を取り込むのも失敗! しかもその賢者様は始末したはずの水の巫女様を保護していた! 事が動く前に巫女様を始末しようとするも、それもやっぱり失敗! ここまでくるともう、運命みたいなものを感じちゃうね!」


 ひょい、と赤づくめの男と彼は体を横にずらした。まるで示し合わせたかのようにタイミングがぴったりの動き。悲しいことに、いつグラスが投げられてくるのか、彼はもう本能的に理解できるようになってしまったのである。


 そして、ただでさえ機嫌の悪い主の機嫌がさらに悪くなる前に、新しいグラスにワインを注いで持っていく。このためだけにこの部屋に呼び出されている自分のことが、彼には世界で一番不運な人間に思えてならなかった。


「なんであの女が生きてるのよ……! 始末したんじゃなかったの……!?」


 地獄の底から轟くような、おどろおどろしい声。悪魔もチビって逃げ出すだろうな、と彼はヤケクソのようにそんなことを思った。


「うーん……ガブラの古塔からの生還なんて聞いたことないしなあ。場所がどこにあるのかもわからないし、そこのところは本当によくわからないんだ。ただ、はっきりしているのは」


 水の巫女の生還には、あの賢者が関わっている。どういう因果で巡り合ったのかはわからないが、何らかの方法であの賢者が水の巫女を助け出し、そしてこのオルベニオの街まで連れてきたのは明白だ。


 そう、これまでの失敗の全てにあの賢者は関わってきている。あの賢者さえいなければ、何もかもが思い通りになっていたはずなのだ──と、ティアレットは本気でそう思っていた。


「何なのよ……! あの賢者ってのは何なのよ……! 胡散臭い商人って話じゃなかったの!?」


「馬無し馬車を駆る、珍しい物品を扱う賢者……それが周りから見た彼の認識であるのは間違いないよ。ただ、実際はそれに加えて強力な守護結界を張る能力と、さらに言えば素敵なマイホームを自由自在に呼び出す能力も持ち合わせている。……さすがは賢者様! ぜひともその秘術、教えてもらいたいものだね!」


「開き直ってるんじゃないわよッ!! 私はあいつらを始末しろって言ったのよ!? なのになんでのこのこ引き下がってきているのよッ!!」


 グラスが飛んでこないだけマシだ、と彼は思った。ヒステリックに騒いでいるだけならなんとも思わなくなってしまうくらい、彼の心は草臥れてしまっているのである。


「いやぁ……最初の襲撃で落とせなかったのは痛いね。あの馬無し馬車、車輪がなかなかに燃えにくかったし、普通の馬車と違って安定性も抜群だ。護衛の騎士も素手で我々を打ちのめしたばかりか……見えないはずの僕を狙って剣を投げてきた。敵ながら天晴だよ!」


「だ、か、ら、ぁ……ッ!!」


「──冗談抜きに、敵の実力を見誤っていたというほかないね。あれほど強固な結界を、あの賢者様はあれからずっと……もう、十日以上は連続で休むことなく張り続けている。そんなの、領主さまや水の巫女様にだってできないんじゃないかな」


 賢者の守護結界の話は、屋敷勤めの彼の耳にも入ってきていた。曰く、透明で全く見えない壁のようなものがぐるりと敷地全体を囲っており、どんな手段を用いてもそれを突破することはできないばかりか、恐ろしいことに魔法の匂いも気配もしない隠密性に非常に優れたものであるらしい。


 だからこそ、このクラリエス家の私兵団はそれを攻略すべく、色々対策を練っていた。


 そのすべてが無駄な労力となってしまったのは、ただの使用人である──何故だか妙にこの部屋に呼ばれてしまうためにその全容を知ってしまっている彼にとっても、予想外のことだったのだ。


「単純に殴るだけでは消耗した様子はまるでない。時間が経てば少しは弱まるだろうとプレッシャーを与え続けても、依然変わらず」


「商会が邪魔しなければ……! あんなの無視して一日中矢でも打ち込めばいいのよ……!」


「やー、さすがにそれをやったらもみ消せないですって。……でも、おかしいんだよなあ。あの場所に引きこもらざるを得ないくらいに追い詰められていたはずなのに、未だに干上がって(・・・・・)いない。水も食料も用意しているはずがないのに、庭先で水遊びをする余裕すらある。……持久戦で向こうが音を上げるのを待とうとも思っていたんだけど、どうもそういうわけにもいかなさそうだ」


 あの賢者は商人組合に登録されている。だから、こっそり水や食料を差し入れする人間がいるのではないか、その時は結界も解除されるのではないか──と彼らは踏んだのだが、そんな形跡は一切見られない。せいぜいが門扉越しの会話のやり取りくらいで、物品のやり取りも場所代のコイン程度、すなわち小さな皮袋に収まる程度のものしか確認されていない。


 食料はともかく、水が無ければ人は三日で死んでしまう。そのデッドラインを余裕で超えている以上、持久戦でなんとかするのは不可能であるということに他ならなかった。


「彼らが油断して外に出てくるところをしぶとく待ったんだけど、それもダメ……。返す返すも、あそこであのお嫁さんを引きずり出せなかったのは痛かったなあ」


「ヘマしたやつ、クビにして」


「言われずとも、とっくに……というか、向こうの方からもうやめさせてくれって泣いて懇願してきたんだよね」


「ふん。言われる前に自分から動いたんだ。最後だけはちょっとはマシだったのね」


 いいなあ、と彼は心の底からそう思った。マジでいいなあ、と彼は知らず知らずのうちに心の中で復唱した。辞めさせてほしいと願うだけで辞められるのなら彼はとっくに辞めているし、実際以前彼が退職を願い出た時は、敬愛なるこの主は癇癪を爆発させて、まだワインがたっぷり入ったグラスを何のためらいも容赦もなく投げつけてきたのだ。


「それにしても、アレはすごかったよね……ねえキミ、知ってる? 賢者様の秘術が一つ、地獄の鳴剣に地獄の緋霧のこと」


 赤づくめの男がウキウキしたように彼に笑いかけ、長年の友人のような気さくさで肩に腕をかけてきた。


 マジで勘弁してくれよと、彼は心の中で泣きそうになった。


「地獄の鳴剣! なんでも切り裂く悪魔の剣さ! いや、切り裂くって言うよりかは食い破るって言ったほうがいいかもしれない! ひとたび賢者様がその剣に魂を吹き込むと、獲物を食らわせろとばかりにその剣が唸りだして……! 獲物を食らう時は、魂の悲鳴か悪魔の叫びか、ともかく凄まじく耳障りで不気味な音が響くんだ!」


 そんな悍ましい話を、どうしてこの男はこんなにも笑顔で語れるのかと彼は本気で不思議に思った。


「地獄の緋霧! ほんのちょっぴり触れるだけで想像を絶する……まさに地獄の苦しみをもたらす絶望の霧! 体の中から地獄の業火で焼かれるような、無数の悪魔が目玉を突きまわるような……体感した人間にしかわからない苦痛がずっとずっと続く! 光も奪われ、叫びすぎて喉も潰れ……苦しくて苦しくてたまらないのに息をすることもできない!」


 じゃあもう、そんな危ない人とは関わらないほうがいいんじゃないかと彼は心の底から思った。そしてそれ以上に、そんな危ないことを嬉々として話す赤づくめの男のことが、彼は本気で理解できなかった。


「ちなみに命名は僕だよ! ……いやあ、いくつになっても最強の武器ってのには心が躍るね! ネーミングセンスもなかなかだと思わないかい? なあ、キミもそう思うだろう!?」


「……炎の魔法は、あなたが最も得意とする魔法だと伺っております。地獄の業火のような苦痛を操るその魔法は……その」


 専門性で先を越されて、悔しくはないのか。およそ真っ当な人間とは思えない反応を繰り返す赤づくめの男に、彼はどうしても聞きたくなってしまった。


「いやいや! そりゃあちょっとは悔しいけれど、むしろ嬉しくて嬉しくて仕方がないんだ! だって……僕らの魔法はまだまだ先がある、未知の世界がまだまだ待っているって証明してくれているのだから! 一流の魔法使いなら誰でもきっとそう言うさ!」


 こんなところで用心棒なんてしていないで、魔法の研究者になればいいのに──と言う彼の言葉は、すっ飛んできた花瓶によって遮られた。


「何を楽しそうに語っているのよ……! だいたいあんた、現場に居合わせていたんでしょう!? ただその場に突っ立っているだけだったらカカシだってできるわよ! いったい何をやっていたの!?」


「心外だね! そりゃもちろん、僕だってお仕事をしていたさ!」


 へらへらと胡散臭い笑顔はそのままに、赤づくめの男は粉々になった花瓶の破片を魔法の炎で燃やし尽くした。


「僕がよく使う、晦ましの炎。熱さを持たないこの透明な炎は、身に纏うことで姿を消すことが出来る。当然、実体はあるし激しく動いたりなんかしたら掻き消えて姿が見えちゃうけれど……十人近く、これで姿を消して潜ませていたんだよ? ここ数日、何時間もさ」


「でも失敗したじゃない」


「やー、そこについては本当に運が無かった。一人引きずり出せればあとはなし崩し的にどうにでもなるって思ってたんだけど……ねえキミ、僕のこと褒めてくれない? 魔法をあれだけの範囲で長時間も行使し続けるのって、それこそ僕以外には賢者様か巫女様、領主さまくらいしかできない超高等技能なんだよ……」


 それだけすさまじい魔法の技術を持っているのなら、こんなことから足を洗って普通にそっちの道で食っていけばいいのに──と、彼はもう何度目かもわからない疑問を心の中で呟いた。


 もちろん、ヒステリックな主の怒りに触れたくは無いので口には出さない。


「……でね、そんな僕でも魔法の同時行使や維持には集中力を使う。ながら(・・・)作業をしていると精度が落ちるってのは感覚的に理解できるだろう? これはどんな魔法使いにも言えることで、だからこそ……賢者様が腕を刺されたときや、人質に集中していたあの瞬間はチャンスだった」


 嫁を助けようと、賢者が腕を刺されて。さらには人質を助けようと、目の前のことに集中していて。とても結界の維持になんて気が回らなかったはずのあの瞬間。結界を力づくで打ち破るにはこれ以上ないほどのチャンスだったはずのあの瞬間。


 しかし、結果は。


「家に何十発も炎の魔法をブチ込んだんだけどね。……さすがにちょっと、自信無くしちゃったなあ」


「は……? あんたの魔法を、何十発も?」


「うん。どんなものでも瞬時に燃え上がらせる……炎を生み出しぶつけるのではなく、対象そのものを(・・・・・・・)炎にする(・・・・)僕の魔法。誰にも見えない、気づいた時には火達磨になっているっていう触れ込みのアレなんだけど……全部、全部結界に弾かれた。結界そのものを燃やそうと何度も何度も打ち込んだけど、ビクともしない」


「…………」


「集中力が切れている状態なら壊せると思ったけど、ダメだった。焦げ目の一つくらいはつけられると思ったけど、ダメだった」


「…………」


「僕なら、このお屋敷くらいはすぐに灰にできるって……それこそ、水の巫女様か領主さまでもなければ太刀打ちできないほどの実力があるって、その辺は愛しい愛しい我が主が一番よく知っているよね?」


 ああ、だからこの赤づくめはこれだけ不遜な態度を取っているのに一向にクビにならないんだ……と、彼は理解した。なんかもういろいろもろもろスッキリして、ほうとため息をついてしまったほどだ。


 何より驚きなのが、あのワガママでヒステリックな雇い主が彼の言葉を否定しないばかりか、苦々しい表情をしながらもそれを是と認めている所である。


「僕で無理なら、他の人だって無理。事実として、それは理解できるよね?」


「わかってるわよ……! あんたに燃やせないなら、この世の誰にも燃やせない……! それこそ、地獄の業火でも持ってこない限りは無理でしょうね! でも、だからといってやられっぱなしでいいはずないでしょ……!?」


「そうなんだけどねえ……正直もう、私兵団のみんなはビビって戦意を喪失しているんだよね。同僚が地獄の緋霧にあんなにも惨たらしくやられて、下手をすれば地獄の鳴剣に魂ごと引き裂かれそうになったんだ。あんな化け物に立ち向かうってだけでも御免被りたいのに、その上さらに」


「なによ」


「敵対しているのが、偽物じゃなくて本物の水の巫女だもの。巫女様に刃を向けるのなんてそもそも心情的に無理だし、その巫女様はそんな相手にも慈愛の心を持って接し、地獄の苦しみから救ってみせた。……ねえキミ、一般的な感性として、敵であるにもかかわらず地獄の苦しみから救ってくれた巫女様に刃を向けたいと思う?」


「いや、その……」


「うん、まあ無理だよね。よっぽどのイカれでもない限りは」


 そのよっぽどのイカれがこの部屋に二人いることに、果たして彼らは気づいているのだろうか……と、彼は考える。おそらく一人は気づいていなくて、もう一人はわかったうえでやっているはずだ。タチが悪いのは果たしてどちらなのか、彼にはわからなかった。


「街のみなさんもその様子をしっかりばっちり目撃していたからね。癒しの魔法の匂いは強烈だったから、別人と間違えるはずもない。あの結界が頑丈なのは水の巫女の加護を受けているからだ……って噂も出てきている。もう完全に、世間は水の巫女様の味方さ」


「世間なんてどうでもいいわ。言わせておけばいいのよ」


「そういうわけにもいかないよ? 現に、クラリエス家(うち)が不当に水の巫女様を害そうとしているからって……そんな家にはいられないって何人もの使用人が辞めちゃったからね。いや、正確には逃げ出したというべきか。引継ぎも何もなしにいなくなっちゃったものだから、現場は大混乱!」


「え……ちょっと待ってください!? そんなの私、聞いてませんよ!?」


「そりゃ言ってないもの。ただでさえお嬢様の相手をして普段から心労が祟っているキミにこんなこと言ったら、本当に胃に穴が開いて倒れちゃうでしょ?」


「……ッ!」


「だから僕、キミにバレないように裏で色々頑張ってたんだ! 大丈夫、既に何人か新しい人が入るのが決まっているから、その人が慣れるまでの辛抱だよ! ちゃんと次の手まで既に打ってあるって……僕ってすごく気配り上手の有能だろう?」


 ぱんぱん、と気安く叩かれる背中。すごく自慢げにウィンクしてくるあのうさん臭い笑顔を、彼はこれほどまでに叩き倒したくなったことはない。気配り上手なら問題が起きる前に何とかすべき話だし、どうしてその逃げ出した連中の中に自分は入れないのかと、本気で自分の現状に絶望した。


 胃の穴の心配をするくらいなら、せめてこの部屋にはもう二度と呼び出さないでほしい。有能で気配り上手な人間なら、自分の代わりに執事の真似事でも何でもしてほしい。


 思わず出そうになってしまったその言葉を……遮ったのは、この部屋の主であった。


「そっちの気配りなんてどうでもいいのよ……! だいたいあんた、その晦ましの炎は姿を変えることだってできるんでしょう!? バカ正直に突っ込むんじゃなくて、変装でも何でもして侵入すればよかったじゃない!」


「うーん、そうは言うけどねえ……」


「ひっ……!?」


 彼のすぐ横。肩を組まれているがゆえに、半ば抱き着かれているようにも思える……そんな至近距離。赤づくめの胡散臭い笑顔があった場所に、この部屋の主と全く同じ顔が現れた。


 いいや、それどころか。


 彼の肩に気安く手をかけているその人物は、服装も含めてまさしくティアレット・クラリエスその人だ。あの癇癪持ちのティアレットとは思えないほどの柔和でにこやかな笑みを浮かべている所だけが、唯一にして最大の違いである。


 こうしてみるとすごく魅力的できれいな顔立ちなのに……と、彼は無意識にもそんなことを思ってしまった。悲しき男のサガである。


「結界の性質を考えると、それは避けたいんだよね。仮に入れたとして……その瞬間にこの炎が吹き飛ばされて、正体がバレる可能性がある」


「それがなんだってのよ。入れさえすれば正体なんてどうでもいいでしょ!」


「いやいや。他人の姿に化けられるってことがバレるのが問題なんだよ。だってそれって……井戸に毒を入れた巫女様が、実は偽物だったって言っているようなものでしょ?」


 彼の隣にいるティアレットの顔が、穏やかで優しそうな水の巫女の顔に変わる。本物の水の巫女はこんな派手な服装はしないだろうな、ずっとその顔でいてくれたらこの職場でのストレスも少しは和らぐだろうな……と、彼はそんなことを思った。


「その顔止めて。マジでムカつく」


「はいはい、仰せのままに」


 飛んできたグラスが、ぶつかる直前に燃え尽きる。この灰の始末もどうせ自分がやることになるんだと、彼は憂鬱な気持ちになった。


「ともあれ。我が主の命令通り、そっちの証拠は全部僕が焼き尽くした。毒も、それが入っていた木箱も、何もかも……文字通り、全部焼き尽くして(・・・・・・・・)隠滅した(・・・・)。もうどれだけ探そうと、この世に証拠は残っていない。チリ一つ残さず燃えていくところは、我が主も見ただろう?」


「……」


「なのに、あえて別の証拠となり得るものを匂わせるのは悪手さ」


 証拠となるものはすべて焼き尽くした。燃えカスの一つも残っていない。毒も、器も、取引に使った台車でさえも。当然、怪しい金や証書の類も何もかも……一切合切を魔法の炎で焼き尽くしている。


 何をどう探そうとも、この世に証拠は残っていない。だから、下手に相手に切り口となり得る情報を与えるわけにはいかないのだと、赤づくめの男はそう言い切った。


「でも……でも! だからといってグダグダしている暇はないのよ! カルサスさまが帰ってくる前に何とかしないと、あの女がまた……!」


「うんうん、そうだね。こっちが罪人として捕らえられることはなくとも、水の巫女様が再び領主さまの正妻としてその寵愛を一身に受けることになるだろうね……いやあ、我が主も恋する乙女ですなあ。こういう姿は年相応で可愛いなって思うよ」


 赤づくめの男は、元のその胡散臭い笑みを顔いっぱいに広げた。


「大丈夫、安心して。次の手はもう打ってある。それも、結構期待できそうなやつだ」


 知りたいだろ、と赤づくめの男は彼に問いかけてきた。どうせ聞くまで絡まれるので、彼はしぶしぶ頷くことでそれに応えた。


「なんとなんと──面白い人物が協力……うん? 協力でいいのかな? ともかく、あの結界をブッ壊すことに名乗りを上げてくれたのさ。だから我々もそれに乗っかってしまおうってわけ!」


 この実力だけは確かな赤づくめの男でも壊せなかった結界。クラリエス家が全力をあげてもどうにもならない結界を、壊そうとする誰かがいる。


 そんな誰かが気になって、彼はついつい聞いてしまった。


「……誰なんですか、それって」


 赤づくめの男は、にっこりと笑って彼の背中を叩いた。


「我々以上に……いいや! あの賢者様以外で一番あの家のことを知っている人さ! なんせ、彼は──」


 床に散らばった花瓶の破片が。ワイングラスだった灰が。赤づくめの男から放たれた炎の魔法によって燃え上がり、薄暗い部屋を一瞬だけ赤く照らした。


「──賢者様たちの師匠(せんせい)だからね」

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[良い点] 相当焦っているヒス女でしたw つかこの赤男とんでもねえな もう一人の男の胃がいつまで持つかw [気になる点] 赤男はヒス女のいうことをなぜ聞いてるんだろ? 実力はありそうだし・・・ [一…
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