73 引きずり込む腕/振りあがった腕
「今日もいいお天気だこと……」
洗濯物を干し終えて、なんとなくミルカはそう呟いた。
朝の澄み切った空気。じっと見ていると深く引き込まれそうな真っ青な空には雲ひとつ浮かんでおらず、柔らかい陽ざしがキラキラと家を照らしている。ほんのりと香る洗剤の甘い匂いが、ミルカの気分をどことなく落ち着いたものにしてくれた。
「朝のこの時間だけは、本当に平和ね……」
無論、干されているのは外に干しても問題の無いもの……イズミの服やタオル類、それにテオのおしめの類である。浴室乾燥にもそれなりの限界があることを悟ったミルカは、こうしておひさまの力を借りるという原点回帰に辿り着いたのだ。
広場に引きこもる生活も、なんだかんだでもう十五日以上は経っている。それが長いと見るか短いと見るかは、まだ今のミルカには判断できない。出来ればさっさと終わってほしいという自分と、この生活すら順応してきている自分がいることにミルカは気づいていた。
「……さて! 今日も朝ご飯を作らないと」
ぐーっと伸びをして、洗濯籠を持って。朝日に眩しそうに目を細めたミルカは、くるりと踵を返して母屋に向かい──
「ミ゛ル゛ガざあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ん゛!」
背後から聞こえてきたその大きな泣き声に、今日という一日が平穏に終わらないことを悟った。
▲▽▲▽▲▽▲▽
「会いだがったでずう……! ずっとずっと、会いたかったですう……!!」
イズミの前。門扉を挟んだそのすぐ向こうで、どこか見覚えのある少女がぐすぐすと泣いている。もちろん、悲しくて泣いているのではなく、嬉しくて嬉しくて感極まって泣いているのであり、涙とその他もろもろでぐちゃぐちゃなその顔には、これ以上に無いくらいの喜びの表情が浮かんでいた。
「すごい声が聞こえたものだから飛んできたんだが……ミルカさん、その娘は」
「え、ええ……ほら、顔を上げなさいな、アイリス」
「うわああああん!!」
アイリス。神殿に勤めている神官で、あの日こっそりメッセンジャーとなってもらった少女だ。この様子を見る限り、メッセンジャーにされたことなんてまるで気づいていない様子だが、ここにいる人間がミルカであるということについてはどうにかして知り得たのだろう。
よく面倒を見ていて、結構仲が良かったんですよ──と、ミルカがこっそりイズミに耳打ちする。そりゃそうだろうなという言葉を、イズミは心の中だけで呟いた。
「本当に、本当に良かったです……! ミルカさん、巫女様と一緒に賊に襲われて行方不明だって……! そう聞いていたのに、こうしてまた会えた……!」
「んもう……気持ちは嬉しいけど、顔がぐしゃぐしゃになってるんだから。良い年した娘が朝からそれでどうするんです?」
「顔なんてどうでもいいじゃないですかああああ!」
ただでさえ目立つこの家。朝の早い時間とはいえ人通りはそれなりにある。その上さらに門のすぐ前で女の子がわんわんと泣き叫んでいるものだから、いつも以上に耳目を集めてしまっている。
「やっぱり、やっぱりミルカさん……! 夢じゃない……!」
「……ふふ。私もあなたとこうしてまたお話しすることが出来て、とっても嬉しいですよ」
ふんわりと笑うミルカを見て、イズミは少しだけこのアイリスという少女のことが羨ましくなった。イズミはこんなふうに笑うミルカを見たことが無いし、こんな笑顔を向けられたこともない。長年過ごしてきた間柄だからこそでてくるこの表情は、決してイズミには引き出せないものだ。
もしペトラがこの場を見ていたら、じとっと半眼でイズミのことを見ていただろう。この笑顔はイズミに出せなくとも、もっとすごい笑顔をイズミは何度も引き出しているのだから。単純に、自覚がないだけである。
「それはそうとアイリス。あなた、朝のお務めはどうしたの?」
「ぐすっ……今日はお休みの日にしてもらいました。私、凄いスタイルのホクロのおねえさんがここにいるって噂を聞いて……! 水の巫女様もここにいるって話だから、きっとそれはミルカさんだって……!」
「しまった……ッ! 朝だからって、コンシーラーが甘かった……ッ!」
「そこなの?」
外に出る時、ミルカはいつも変装している。今のミルカはあくまで賢者の嫁という設定であり、水の巫女の従者であるとバレるわけにはいかないからだ。この引きこもり生活においてもそれは同様で、朝のこの時間でさえ田舎娘の顔立ちにするため──そして超個人的な理由からわざわざ化粧をしているのだ。
「でも、やっぱり……あの時のおねえさんがミルカさんだったんですね! 顔も雰囲気も全然違うから気づきませんでした! 今だって、声を聞かないとそっくりさんかもって思っちゃうくらい! ……あ! いけない、忘れてた!」
アイリスは、背筋をぴんと伸ばしていった。
「遅ればせながら、ご結婚おめでとうございます! どうかお幸せに!」
「ちょっと、アイリスっ!?」
「ミルカさんってば、照れちゃってぇ! ……実はもう、赤ちゃんもいるんでしょ? ……えへへ、私にも抱っこさせてくださいよ!」
「こ、こ、この子ったら……! イズミさんっ! あなたもへらへら笑ってないで、何とか言ってくださいましっ!」
「なんだよ、ミルカさん……結婚してるのも、赤ちゃんがいるのもホントのことだろ?」
くすくすと笑いながら、イズミはあえてそんな言葉を口にしてミルカの肩を抱く。結婚しているのはあくまで設定であり、赤ちゃんがいると言ってもイズミ達が産んだ赤ちゃんではない。それでも、目の前でキラキラと瞳を輝かせるこの少女の期待を裏切ることは、イズミにはできなかったのだ。
「ほら、やっぱり! あの時もすごく仲睦まじそうに腕を組んでいて……! 私もこんな旦那さんと巡り合えたらなって、本当にそう思ったんですよ!」
「ちょっとアイリス、あなたいったん口を閉じなさい……! だいたいあなた、子を宿して産むまでにどれだけかかるか、知らない年齢じゃないでしょう……!? 私がこの街を去ってまだ数か月なのに、子供を産めるはずが無いじゃない……!」
「ほへ? そりゃまー、そこは賢者様の秘術でちょいちょいって? それにミルカさんなら、いつでも素敵なお母さんになれそうでしたし!」
「ちょっとそれ、どういう意味か説明してもらえますか……!? あなた、今どこみてそれを言いました……!?」
「……えへ?」
なんだかんだ言いながらも、ミルカも精神的に参っていたのだろう。アイリスと話す今のミルカの表情はずいぶんと柔らかいようにイズミには思えた。あるいはこういう立場で振舞うミルカをイズミが初めて見ただけなのかもしれないが、二人が楽しそうの話しているのは紛れもない事実である。
「まったく……本当にあなたは変わらないんだから……」
「そう言うミルカさんだって! ……でも、冗談抜きに前よりなんか綺麗になってませんか? 髪もお肌も……やっぱアレですか、恋すると人は変わるってやつですか? それと、ミルカさんってたとえ恋人であろうと人前で肩を抱かれるのって嫌がるタイプだと思っていたんですけど」
「……これは賢者の秘密の石鹸のおかげですよ。あとは、良いものを食べてぐっすり寝て……ストレスのない健康的な生活を送ったからですね」
最近はちょっとアレですけど、とミルカは続ける。人の目に晒され、この家の敷地からは一歩も出られないこの状況は、とてもストレスが無い生活とは言い難い。肉体的な危険はないが、精神的には結構なストレスと言っていいだろう。
ちなみに、肩を抱く云々についてはミルカはノーコメントであった。少なくとも未だに振り払われる素振りが無いのは事実であるが、果たしてそれはどう受け止めるべきなのか。冗談交じりで回したこの腕を解くタイミングを見失って、イズミは何となく落ち着かなくなる。
「そだ、ミルカさん……! 巫女様もこちらにいらっしゃるんですよね!? どうか、一目でいいので会わせて頂けませんか?」
「む」
ちら、ミルカはイズミを見た。
現状、イズミが許可した人間しかこの家の中には入れないことになっている。厳密には敵意のある人間が入れないようになっているらしいのだが、それも結構認識がアバウトと言うか、「家主に許可なく門扉に手をかける」程度であっても弾かれてしまうのが実際のところだ。故に、敵意なんて抱く余裕のなかったミルカでさえも、最初は門扉に阻まれてしまっていた。
だから、基本的に敷地内に人を招くためにはイズミか、あるいはすでに敷地内にいる人間の許可が必要となる。
「どうしましょう、イズミさん」
「この子だけなら入れてあげてもいい気がするが……この中に人が入れるということを見せるのは良くない気がする」
そろそろ慣れてきつつあるとはいえ、周りには結構人がいる。遠目で伺っている人間たちの中に、クラリエス家の息がかかったものがいないとも限らない。イズミはこの家の謎バリアのことを信用してはいるが、何か少しでもヒントになりそうなことを教えるつもりもなかった。
「ま、そうですよね……いいですか、アイリス。よく聞きなさい。あなたも知っての通り、私たちは今命を狙われていると言っていい状況です。本当なら、迂闊にこうして外に出ることもよくないことなのですよ。……だから、今日はもう帰りなさい。そして、もう二度とここには近寄らないように」
「え……!? そんな、どういうことですか……? ミルカさん、近寄るなって何かの冗談ですよね……?」
「私があなたに冗談を言ったことがありますか? ……今日はお話が出来て、私もとっても嬉しかったですよ」
あなたの安全のためなんですからね、とミルカはふわりと笑った。わがままを言って不貞腐れる子供を宥めるような、優しいほほえみだ。
アイリスもこれ以上はどうにもならないと悟ってしまったのだろう。悲しそうに唇をかみしめ、そして最後にたった一つのお願いを言った。
「なら……なら、せめて。いつもみたいに、頭を撫でてくれませんか? 私、すごく頑張ったんですよ。悲しいけどお勤めはがんらばきゃって、ミルカさんにはもう頼れないから自分でなんとかしなきゃって……だから、いつもみたいにご褒美に」
「……ま、それくらいならいいでしょう」
門扉越しに、ミルカがすっと腕を伸ばす。アイリスはふにゃっと顔をほころばせて、甘えるように頭を傾けた。
頭をなでる。たったそれだけ。この閂を開ければ直接触れ合うことが出来るのに、今はそれだけしかできない。すぐ目の前にいるというのに、それだけしか許されない。
だけれども、アイリスは幸せそうに目を細めて──そして。
「取ったぞッ!」
「きゃっ!?」
どこからともなく現れた手が、ミルカの腕をがっしりと掴んでいた。
「いや……っ! 離してっ!」
ミルカが腕を振るう。が、その大きなたくましい手の力は緩む様子もなく、ミルカの腕は掴まれたままだ。
「な、なにこれっ!? 手だけ浮いてる!?」
というか、そもそもが色々おかしい。ミルカの腕を掴んでいるそれは紛れも無く手だが……中空に手首だけが浮き上がっていて、手首より先がどこにもない。
「暴れんじゃねえ! 引きずり出してやるっ!」
「痛……っ! いや……っ!」
「ミルカさんっ! てめえこの野郎ッ! なにしやがんだコラァ!?」
体ごと持っていかれそうになるミルカを必死に抱き留め、イズミは中に浮かぶ手に拳を振るう。ただ、態勢が悪く腕が振り回されていることもあって、なかなか渾身の一撃が決まらない。
「イズミさん……っ! 見えないけど、誰かいます……っ!」
「わかってる! もうちょっとだけ辛抱してく……あ゛あ゛ん!?」
「イズミさんっ!?」
門扉の外に出ていたイズミの腕に、ナイフが突き刺さっていた。ものとしては小型であるが、見てはっきりとわかるほどに深く突き刺さっている。
「舐めんじゃねえぞコラァ……!!」
しかし、だからといってミルカを引きずり出そうとするこの謎の腕をほったらかしにしていいわけがない。イズミの脳ミソは瞬時にそう判断し──というか無意識のうちに、腕の痛覚を完全にシャットアウトしている。
結果として、腕にナイフを突き立てられながらも、鬼の形相で見えない誰かの腕を万力の如き力で締め上げる光景が生まれることとなった。
「い……っ!? 化け物かこいつぁ……!?」
「ミルカさんを離せえ!」
一瞬生まれた膠着状態。その隙を見たアイリスが、誰もいないはずのその空間を思いっきり蹴り上げる。
情けも容赦も遠慮も無いその一撃。大好きな先輩を助けたい一心で行われたその行為は、奇跡的にも急所に当たった。
「が……っ!?」
「オラァ!」
緩む手。ミルカがそれを振り払い、ほぼ同時にイズミがミルカを体ごと敷地の中へと引き倒す。勢い余って倒れ込むような形になってしまったが、きちんと頭を守ってミルカの下敷きになれただけ上出来だったのでは──と、イズミは重力に体を引っ張られる感覚を味わいながら思った。
そして、視界の端に映るその男。元々見えていた右手を中心として、その姿が虚空からにじむように浮かび上がっている。例えるなら透明のペンキで滲んだ絵が本来の姿を取り戻すような、あるいは極端に強いモザイクが晴れていくかのような、ともかくそんな感じだ。
アイリスのそれが結構いいところに当たったのだろう。その男は蹲っており、そしてその姿は──午後になると毎日のようにやってくる、クラリエス家の人間のそれであった。
「あーっ! こいつら、例の……! ええい、ミルカさんの仇──むぐっ!?」
「アイリス!?」
蹲る男の顔面に止めの一撃を与えようと足を振りかぶったアイリス。その動きが、一瞬にして止められた。
「むぐ……! むぐぅ……!」
「野郎……! まさか……!」
見えない何かに──透明人間に羽交い絞めされたかのように、アイリスの体は止まっている。イズミ達からはアイリスが奇妙に口をもにょもにょと動かしているのが見て取れるが、おそらく透明なそれの手によって口を押さえつけられているのだろう。
それを裏付けるように、アイリスの衣服には不自然な皺が出来ている。
「一人じゃねえな……! こそこそしてないででてこいやコラァ!」
「……ま、ここまで来たら隠す意味もないか」
先ほどの男と同様に、アイリスの背後からぼんやりと人の影が滲み出て、そしてイズミ達の前にはっきりとその姿を現した。
あえて確認するまでもないが、こっちもやっぱりクラリエス家の人間である。
「むーっ! むーっ!」
「暴れんなよ、嬢ちゃん。大人しくしてるうちはこっちだって危害は加えないつもりだ」
「てめえよくもまあいけしゃあしゃあと……! 年端も行かねえ子供を人質に取って恥ずかしくねえのか!」
「人質? ……いやいや、凶悪犯の家に引きずり込まれそうになっているところを助けて保護しただけだよ。……遠目からはそう見えてもおかしくないだろ?」
ただの荒くれとはちょっと違うな、とイズミは舌打ちした。この一瞬の騒動の余波はしっかり広場に伝播しており、辺りにはいつもと違う種類のざわついた空気が満ちている。通行人や買い物客も遠目にこちらを伺っており、明らかに流血沙汰となっているこの現状を見て、さっと青くなって逃げ出すものもいるくらいだ。
少なくとも、現状をどうにかしようと近づいてくる人間はいない。
「バカが……絶好のチャンスでミスしやがって。片腕掴むところまでできたのに、なんでそこから先ができねえんだ?」
「悪い……そこの賢者が思った以上に肉体派だったから……」
「言い訳はいい。とっとと立て」
アイリスを人質に取った男は、小さくため息をついた。
そして、隠し持っていたのであろう小さなナイフを──これまたやっぱり、背後にいる群衆には見えないようにしてアイリスの首に突き付けた。
「あえて言う必要、あるか? お前たちの選択次第では、この娘は……俺達が保護した時にはもう、手遅れになっていたってことになる」
「てンめえ……!」
「水の巫女を出すか、この娘が死ぬか。二つに一つ……ああ、もう一つだけ選択肢はある。お前たちがこの門から外に出て、直接この娘を奪い返すってのもアリだ」
奥様をこいつらに差し出す。それは一番やっちゃいけないことだ。イズミたちは奥様を守るためにここにこうして引きこもっているのであり、そんなことをしてしまっては本末転倒である。
だが、その場合は人質になっているアイリスが危ない。
「……嬢ちゃん、一瞬だけ喋らせてやる。助けてって、命乞いしてみな」
ニタニタと笑いながら、その男はアイリスの口にかけていた指を少しだけずらした。
「……ぷはっ! ミルカさん! 旦那さん! 私のことなんてどうでもいいから! 絶っ対、ぜーったいこいつらの言うことなんて聞いちゃダメ──むぎゅっ!?」
「勇敢だな。見習いたいくらいだぜ」
「むーっ!?」
「……命乞いさせれば賢者様たちの気も固まると思ったんだがな。この娘の指を一本一本折って……いや、生爪を一枚一枚剥がしていく方が効果がありそうだ」
「「!?」」
「そこのバカとは違って、俺はやると言ったら確実にやるぞ」
今日の夕飯のメニューを決めるかのような気軽さで、その男はとんでもないことを口走った。
本気であることを示すかのように、ぴとり、ぴとりとアイリスの首筋を刃で優しく撫でて──薄皮一枚だけを裂いて、ぷっくりとした、しかし滴り落ちない程度の血の雫を作り上げる。
アイリスの目が、恐怖に引きつった。
「どうする? このまま黙って続きを見るか? それとも現実的な話……タイマン張ったほうがいいかい?」
「くそ……ッ!」
その男の目は、本気だった。ウソやハッタリなんかじゃあ決してできない意志の力が瞳にある。もしイズミ達が渋る様子を見せたのなら、次の瞬間にでもそのナイフがアイリスの首に突き立っているだろうと思わせるような──そんな、ある種の迫力を醸し出している。
正直に言えば、イズミとアイリスにそこまでの関係はない。奥様とアイリスを天秤にかけるとしたら、間違いなく奥様の方に皿は傾く。
だけど……だとしても、だからと言って目の前のこの少女を見捨てて良いともイズミには思えなかった。
「……アイリス」
意外なことに、動いたのはミルカだった。
「よく、よくお聞きなさい。私たちはいったい、何のために役目を果たしているかわかっていますか? あなたの役割は何のためにあるのか──神殿の人間として、本当になすべきことについては、わかっていますよね?」
「……」
「だとすれば、神殿の人間の一人として私が取れる選択肢は一つであり──あなたが望むべきそれも、私のそれと一致していると信じていますよ」
「ミルカさん……!? あんた、まさか……!」
イズミの方を一切見ず、ミルカは言い切った。
「覚悟を決めなさい、アイリス。そして私を信じなさい」
それだけ言って、ミルカは家の中へと引っ込んでいく。
「……あくまでこの娘を無視して、安全地帯に引きこもるってことでいいかい? あの嫁さん、引っ込んじまったけど」
「そんなわけあるか!」
実際、その言葉通り──ミルカはすぐに、玄関から戻ってきた。
ただし、奥様を連れているわけでも、ペトラを連れているわけでもない。さっきまでと同じ格好で、しかしその手に持っている物だけが違う。
「うう……重い……」
「なん、だ……それ」
赤みの強いオレンジを基調とした、何処にでもよくあるタイプのチェーンソー。いつ魔物が襲ってきても対処できるように、玄関の所に常備するようになったそれ。イズミやペトラが振り回すことはあってもミルカがそれを持つのは初めてのことであり、構え方は少々拙い。
そしてこの世界には存在しないもののため、その男の目にはそれが武器であるようには映らない。
埋まった両手の代わりに、エプロンのポケットにクマよけスプレーが突っ込まれていた。
「よくわからないが、水の巫女を引き渡すつもりはないってことだな? 俺から直接この娘を奪い返すっていう……そういうことであっているんだよな?」
ぴと、とその男はアイリスの首に改めてナイフを突きつけた。
「ふん。元より、奥様をあなたに引き渡すつもりは毛頭ありません。だとすれば、あなたの言う所の三番目の選択肢……戦って奪い返すほかありません。……アイリス。努力はしますが、巻き添えを食らうかもしれません。そのときは……許して」
ぶんぶんぶん、とアイリスは猛烈な勢いで首を縦に振った。下手に自分がダシに使われるよりかは、そっちの方が何倍もいいと思ったのだろう。黙って敵の言うことを聞くくらいなら、足掻けるだけ足掻きたいと思うのがアイリスと言う少女の性分であった。
「ミルカさん……!」
「イズミさん。いつもと同じです。いつもと同じように……よろしくお願いしますね?」
渡されたクマよけスプレー。それが意味することは、ただ一つ。
「ああ……もう、何度もやってきたことだもんな。そういうミルカさんこそ、腕は鈍ってないだろうな?」
「うふふ、あなたったら。むしろ、加減をするのが難しいくらい……私も悪魔じゃありません。魔獣どもの時とは違い、三分の一くらいに薄めようと思います」
ただならぬ雰囲気。何か良からぬものを悟ったクラリエス家のその男は、理由もわからぬまま三歩ほど門扉から距離を取る。
チェーンソーが武器だったとして、門を開けて切りかかるまでに……攻撃が届く距離に近づくまでにワンアクションと数歩ほどかかる。接近戦においてそれだけ時間的な猶予があれば、対処法などいくらでも考えつくものだ。
そして今日にいたるまで、イズミやこの家の住人が弓矢や魔法など、何かしらの飛び道具を使って牽制してきたことは一度もない。
以上の判断から距離さえとればまず問題ないと──その男は、そう思ってしまった。
「なんだか知らんが、そっちがやる気だって言うのなら──!」
もし。
もしも。
クマよけスプレーの存在が知れ渡っていたのなら、この後の結末は少し変わっていたのかもしれない。
「アイリスっ! 目をぎゅっと閉じなさいっ!」
「!!」
イズミがクマよけスプレーを噴霧する。瞬時に噴き出されたその緋色の霧は、ミルカの風の魔法に乗って薄く広がり──アイリスに当たることなく、男の顔面だけを包んだ。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!?」
効果は、覿面だった。
「ぎゃああああ!? 痛い! 痛い! 痛い痛い痛いぃぃぃ!!」
粘膜という粘膜が、ものすごく痛烈に刺激されているのだろう。恥も外聞も捨てて……もちろん、アイリスを人質に取っていたということすら忘れて、そいつはあまりの痛みにもんどりうってひっくり返り、狂ったように地面を転がっている。
「あああああああああ!!」
当然、その程度でクマよけスプレーの痛みから逃れるはずがない。風の魔法によって薄まったとはいえ、元来はクマに使うための恐ろしい程の劇物なのだ。地面を転がろうが水で流そうが、しばらくはその痛みが続くのである。
「お……おい! いったいどうしたんだよ! 何をそんなに……ぎゃっ!?」
「あ、あああ、あああッ!? あち、あつ、熱い! 熱いんだよ! げほうぇっ!? がフっ!?」
もはや涙と涎の判別もできないほどに、その男の体はいろんな汁に塗れて大変なことになっていた。無理に擦ってしまったのだろうか、その痛がり方も尋常じゃない。少しでもその痛みを和らげようと顔を掻きむしったせいで、かなり激しく出血してしまってさえいる。
あえて語るまでもなく。その大絶叫は広場全体に響き渡り、気が狂ったかのように苦しんで暴れまわる男のその姿を、群衆は嫌でもばっちりとその目に焼き付けてしまっていた。
「な……何だよあの苦しみ方! 尋常じゃあないぞ……!?」
「い、いったい何をやったの……!? 何をどうすれば、人があんな風に苦しんで暴れまわるの……!?」
「まるで地獄の業火に焼かれたような……まさか、あの緋色の霧のせいか?」
かひゅー、かひゅーとかすれたような息の音が、しんと静まり返った広場に響く。血と涙と涎でぐちゃぐちゃのその顔が群衆に晒され、そのあまりにショッキングな光景に何人かの人間が顔を青くして下がっていく。
叫びすぎてその気力も尽きたのか、それとも根性で痛みをごまかしているのか。おそらく前者だろう、叫びたくとも叫べないのだろうと見当を付けながら、イズミは少しばかり冷静になった頭でミルカに話しかけた。
「ミルカさん、第二射の準備だ。すぐには撃たず、上に留めておく感じで」
「承知しました」
しゅーっと、さっきより長めの噴霧。ミルカの風魔法はそれを漏らすことなく絡め取り、球状の竜巻のような形でイズミ達のほんのすぐ上に留め置く。あくまでガスをその場に留めるだけの……風の流れとしては弱いものだから、制御としても難しくないものであり、合図一つで展開することもできる状態であった。
「もしかしたら、家の周りにまだ透明の奴が潜んでいるかもしれない。さっきこいつ、やたらと俺とタイマンすることを嗾けてきてたし」
「なるほど……人質を持っているのに、あえてそうする理由なんてありませんものね。その可能性には気づくべきでした……それで、この後は?」
「もちろん……二度とこんなことをする気が起きないよう、説得する」
既に、最初にミルカの腕を掴んだ男はすっかり戦意を喪失している。クマよけスプレーをかけられた人間のあまりにも凄惨なその姿を見て、戦意を保てというほうが難しいだろう。もはやぐったりと倒れる男を助ける気力も無ければ、逃げ出す気力もないらしい。単純に足腰が立たないだけかもしれないが、そこまでは流石にイズミにはわからない。
イズミは、ミルカが足元に置いていたチェーンソーを手に取った。
「おい、お前」
「ひっ!?」
「ウチの嫁さんの手ぇ掴んだり、そこの娘にナイフ付きつけたり……正直俺ァはらわた煮えくり返ってるんだ。だけど、お前だけは無事に返してやる」
ただし、とイズミは続ける。
「お前はメッセンジャーだ……この先起こることを、余すことなく雇い主に伝えろ」
そして、チェーンソーのスターターロープを引っ張った。
「ひぃっ!?」
高速回転する刃。耳障りな金属音。周期的に響き渡る独特のうねりは広場全体に響き渡り、その場にいる人間全員の注目を集めた。
ヴヴヴ、と言うこの特徴的な音をどう表現するべきか。重低音とは違うし、金切音ともまた違う。駆動音であることは間違いないが、モーター的な意味での駆動系はまだこの世界には存在していない。
故に、何も知らないイズミ達以外の人間からしてみれば──その音は、この世のものとは思えない得体のしれない不気味な音にしか思えなかった。
「ミルカさん、何でもいいからそこら辺の材木を取ってくれ」
「はい」
ぽん、と目の前に放られたそれ。幸か不幸か、門の前で震えるその男は、それが何のためのものかわかってしまった。
「普通の剣って勢いと重さで叩き斬るものなんだよな。だから、刃にちょっと触れた程度じゃ物が切れることは無い。どんな名剣であろうと包丁の代わりには使えないし、斧代わりにスパっと木を切る……なんてことができるはずもない」
ただの事実確認作業。本来なら意味の無いはずのそれは、今この場では凄まじいまでの意味をはらんでいる。
「で、この剣は」
イズミは、材木にそっとその刃を触れさせた。
──ヂィィィィ!
「ひっ──!?」
文字通り、何かを無理やりに掻き毟って切り裂く独特の高音。ほんの少し触れられただけのはずのそれが凄まじい勢いで木屑を吹き出し、刃は普通じゃ考えられないくらいの勢いで突き進んでいく。
斧で叩きつけて切るのはわかる。あれだけ重いものを、あの勢いで振り下ろしているのだから。でも、それでも数回はかかるというのに、イズミが手に持つそれは……力を入れた様子もないのに、むしろ自ら食い漁るようにして獲物を切り裂いていく。
「あ……悪魔……! 悪魔の剣……! 悪魔が、悪魔が獲物を食らって叫んでる……!」
「だとしたら、どうする?」
材木をすっぱりと切り落としたイズミは、門扉に手をかけた。
「ミルカさん。俺の作業中に邪魔が入るようなら家の周り全体にそれを……いや」
イズミは、大きく息を吸った。
「人様の家をコソコソ伺う奴にろくな奴がいるわけねえッ!! 今すぐやっちまえッ!」
イズミの合図に合わせて、ミルカが頭上のそれを開放する。緋色の霧はじんわりと、しかし確実に広がっていき門扉を超えた。そのまま家を中心に放射状に広がっていって──
「じょ……冗談じゃねえ! 付き合ってられるか!」
「あ、あんなのがあるなんて聞いてない! 簡単な仕事って言ったじゃないか!」
虚空からその姿を滲ませた男たち……都合七人ほどが泡を喰ったように逃げ出していく。どうやら本当に、このすぐ近くに姿を消して潜伏していたらしい。緋色の霧に飲まれたらたまらないとばかりに、後ろを振り返ることも無く全力で広場を走っていた。
その瞳は恐怖に染まりきっている。仲間があれだけ苦しみのたうち回る姿を見て、まともでいられる方がおかしいだろう。仲間を見捨てて逃げ去るのは道徳的に不味いことかもしれないが、生物の反応としてはむしろ正常と言っていい。
「……これで、邪魔されることも無くなった」
「え、あ……」
門扉に手をかけ、ゆっくりと踏み出し。数日ぶりに家の敷地の外に出たイズミは、腰を抜かして呆然とする男の前に立ち、掠れる吐息のまま今尚苦しみ倒れる男に向かってチェーンソーを突き付けた。
「さっきこいつ、指の一本一本を折るって言ってたよな。じゃあ俺も、こいつの指を一本一本やっちまってもいいよな」
「……ッ!?」
「どうしてもって言うなら、お前が代わりになってもいいぞ」
絶対に、殺しはしないから。小さく小さくつぶやかれたその言葉は、紛れもなくイズミの本心だ。しかしそれは、殺しはしないがそれなりに痛い目にはあってもらうぞ──という、もはや今更語るまでもない意味も含まれている。
「覚悟しろ。歯ァ食いしばれ」
イズミは、チェーンソーを振り上げた。
「おねがい……もう、やめて」
振りあがった腕が、ぴたりと止まる。
正面を見据えたまま、イズミは後ろの方へ──いつの間にか家の外に出てきていた奥様に問いかけた。
「いいのかい? こいつらは奥様の命を狙っていて、ミルカさんを拐かそうとして、でもってこのアイリスって娘を人質に取って殺そうとしたんだぞ。少しくらい痛い目にあわせても誰も文句なんて言わないし、そうでもしないとまたやらかすぞ」
「だとしても……もう、十分すぎます。それに私は……これ以上、イズミ様のそんな顔は見たくない……! これ以上、誰かが苦しむ姿は見たくない……!」
「……」
「ごめんなさい……! 本当に、本当にごめんなさい……! 何もかも私のワガママだってことは、わかっています……! イズミ様が私のためにやってくれているってことも、わかっています……! イズミ様の方が正しいってことも、わかっているんです……! でも、それでも私は……!」
振り上げた腕を、イズミはゆっくりと降ろした。
「……ま、奥様に言われちゃしょうがねえよな。それに、俺の知っている奥様がこんなの見過ごすようなら、俺はしばらく人を信じられなくなっちまうぜ」
広場には静寂が満ちていた。ついさっきまでは、緊迫したその状況に誰もが言葉を発せられなかったために生まれたものだったが、今となっては別の理由で──奥様が姿を現したことで生まれた静寂だ。
苦しむ男を、得体のしれない剣のような何かで傷つけようとした賢者。その賢者を止めたのは、死んだはずの水の巫女。噂が否定され、本来ならあり得ないその光景が本当になったことで──動揺にも似た何かが、その光景を固唾を飲んで見守っていた群衆に広がっていく。
「で、どうするんだい?」
「イズミ様……」
「言っただろう? 俺は奥様の味方だよ。元々奥様絡みの話なんだ、奥様の好きにやっていい」
きぃ、と奥様が門扉に手をかけ、敷地の外へと出る。
そして、倒れる男の下で膝をついた。
「あ……!」
惚けたようにアイリスが呟き。腰を抜かした男ももまた、眼を見開き。そして──かなり遠くから見ているはずの群衆でさえ、あまりの強さのそれに背筋をぞくりと震わせ、信じられないような顔をして目の前の光景をただそのまま見つめている。
「これで……少しは楽になるはず……」
奥様の方から感じられる、温かく柔らかな風。神秘的に発光しているように見えるのは、それだけ強い魔法を使っているからか、それとも単純にそれだけ慈愛に満ちた光景だったからか。魔法の感知能力がまるでないイズミには、その詳しいところはわからない。
唯一はっきりわかるのは……男の掻き毟られた顔の傷が見る見るうちに消え、呼吸が穏やかなものになっているということだけだ。目鼻の刺激やショックからはさすがにまだ回復しきれていないが、少なくとも外傷だけは完全に消えてなくなっている。
「なぁ嬢ちゃん。今の奥様の癒しの魔法って……」
「と、とんでもなく上級のものですよ……! 魔法の匂いが一瞬でぶわーって広がって……! こんなの、めったに見られないくらいにすごいやつ……! ほら、余波だけで私の首元の傷も!」
「おー、きれいさっぱり無くなってるな」
ついでに、腰を抜かしている男の方の──イズミが思いっきり締めて捻り上げた時の傷もきれいさっぱり無くなっている。奥様の癒しの魔法の余波はそれだけに留まらず、周りを囲んでいた群衆たちの傷さえも癒していたりするのだが、今のイズミ達にはそれを知る由もない。
「やっぱり、水の巫女様だ……! 本当の本当に、水の巫女様だ……!」
アイリスのその歓喜に満ちた声が、広場全体に伝わっていく。外見だけでなく、その魔法の強さが、その魔法の匂いが……そして水の巫女を水の巫女足らしめるその慈愛が、野暮ったいジャージ姿のその女性が水の巫女であることの何よりの証明であった。
「ねえ、そこのあなた……」
癒しの魔法を使い終えて。安らいできた男の額を軽く撫でてから、奥様ははっきりと言った。
「私は……水の巫女はこの家にいます。こうして姿も見せました。だから……だからもう、関係ない人を巻き込まないで。私はただ、もう一度あの人に会いたいだけなの。それ以外に望むものは無いって……そう、伝えてもらえる?」
「おっと、追伸も頼むぜ」
奥様とアイリスをかばうようにして立ち、イズミは震える男の腕を取って無理矢理に立ち上がらせた。
「奥様はともかく、次にまた同じことをやられて黙っていられるほど俺は優しくない。もう二度と顔を合わせないほうが、お互いにとって幸せだろう。……奥様が止めなければどうなっていたのか、最初からお前らを害する気があったらどうなっていたのか……そこのところもよく伝えておいてくれよ」
ぶんぶんと、もげるのではないかと心配になるほどに首を振り、その男は倒れたそいつを引きずるようにして逃げ去っていく。
仲間を見捨てないだけマシなやつだったんだな……と場違いにもそんなことを思ったイズミは、視界の端に広場に突入してきた騎士団の姿を見て、大慌てで奥様の手を取って敷地内へと引き返した。
※人にクマよけスプレーをかけてはいけません。
※クマでさえ無力化できるものを人に使ったら大変ヤバいです。
※絶対に真似しないでください。




