70 街中での生活
「──ティアレット・クラリエスっていうのは……まぁ、簡単に言うと奥様の恋敵の一人だな」
オレンジジュースで唇を湿らせながら、ペトラがゆっくりと語りだした。
「カルサス様の女癖が悪いのはイズミ殿も何度も聞いているだろう? たいていの人間はその身分の違いから『遊び』だってことを理解しているんだが、中には家柄が釣り合ってしまって本気になってるやつもいた。ティアレット嬢はそんな連中の一人で……それで、結果的には敗けたことになる」
イズミの家のリビング。そこに集っているのはイズミ、ペトラ、奥様──そして、ミルカとテオ。この家の中にいるのは正真正銘この五人だけである。
時刻はちょうど午後の初めごろと言ったところ。いつもならこの時間はカーテンを開放して陽の光を取り込んでいるが、今日は完全に締め切っており、室内の明かりは天井で輝くLEDのそれしかない。
昨日の夜までなら、窓の外が洞窟のような壁面だったからカーテンを開けようが閉めようが関係なかった。だけど今はこの家は屋外にあり、真昼間だというのにカーテンを閉め切るという少々おかしなことになっている。
「ただまぁ、このティアレット嬢がなかなかの曲者でさあ。癇癪持ちでヒステリックで、おまけに性格も悪くて執念深いと来た。家の権力をバックにやりたい放題で、何人もの恋敵を……ねえ?」
何があったのかは、私の口からはとても言えない……と、ペトラはわざとらしく体を震わせる。
そして、すぐに表情を引き締めた。
「今回の手口に、あまりにも早い情報収集。おそらく、私たちを……奥様を陥れようと動いていたのは、ティアレット嬢だ」
「あのお嬢さんならやりかねないでしょうね……。いきなり呼び出されたときはびっくりしましたけど、まさかこんなことになっていただなんて……」
──結局。頑として譲らないイズミ達と、同じく引く気持ちなど欠片も無い赤づくめの男、そしてあくまで法律に則った適切な対処を行おうとする騎士団との対話は平行線で終わることとなった。お互いに主義主張を受け入れられない、従うつもりがない以上、もはやそれ以上話し合っても無駄だという結論になったのである。
どのみちここから動けないイズミ達は、状況整理と休息も兼ねて、こうして建屋に戻って中に残っていたミルカと話していたというわけだ。
「アルベールさんやニーナさん……婦長さんたちが家に残っていなかったのは不幸中の幸いか」
「だな。私らの扱いは元々予想していたことだが、彼らは巻き込んでしまっただけなわけだし。現場に居合わせていないのだから、いくらでも言い訳はできるだろ」
ちなみに、騎士団は数人の見張りを残してチンピラたちをしょっ引くために引き上げてしまっている。赤づくめの男もまた、対応を考えるためかあの場からすぐに姿を消した。故に今は、ひとまずの休戦状態と言っていい。
問題があるとすれば。
「……奥様、大丈夫か?」
「……え、ええ」
明らかに大丈夫な様子でない、奥様の方だろう。
「気分が悪いなら、部屋で少し横になってきなよ。この家なら安全にゆっくり休めるって、奥様は誰よりも知っているはずだろ?」
「ありがとう、イズミ様。……でも、ここにいさせてくれませんか? その……一人は、嫌なの」
掠れるような声で呟いて、奥様は腕の中にいるテオをぎゅっと抱きしめた。不安そうに振るえる母親を見て自身も不安になったのか、テオがくしゃりと顔を歪めて泣きそうになっている。
「……そっか」
無理もない、とイズミは思った。ついさっきまで奥様は本気で命を狙われて、刃物を持った悪党に追いかけ回されたのだから。精神的に参るのも無理はなく、そしてそれ以上に、かつて……自身が捕らえられてしまったときの記憶を呼び起こしてしまっているのだろう。トラウマを与えるものとして、それは十分に衝撃的な出来事であったはずだ。
怖かったので聞いたことは一度も無いが、イズミの見立てでは奥様はせいぜいが二十過ぎかどうか、といった年頃である。口調こそ上品で大人っぽいものの、儚げで少々幼い雰囲気もあるから高校生でも通用してしまうレベルの……言ってみれば、小娘だ。加えて言えば、この世の汚さなんてまるで知らずに育った、箱入り娘ならぬ箱入り巫女である。
そんな「子供」であれば、精神的にショックを受けてしまうのも不思議はない……いや、むしろそれこそ正常と言えるだろう。兵士上がりのペトラが特別なだけで、年頃の女としてはそれが当たり前の反応なのだ。
イズミは少しだけ、自分を図太い神経で生んでくれた母に感謝をした。
「それでイズミ殿、どうする? さっきはああ言ったが……おそらく明日になれば自動車だって元に戻るだろう? 強行突破で脱出することもできなくはない、と思う」
「いや……それは止めておこう。そんなことしたらもう街に入れなくなっちまう」
脱出することはおそらく可能だ。なりふり構わず自動車のアクセルを踏み込めば、おそらくイズミ達を止められるものは誰もいない。そのまま地平線の向こうまでドライブすれば、馬を使っても追いつくことはできないだろう。
しかしその場合……もう二度と、この街に入れなくなる可能性が高い。そしてそれは、イズミ達の目的とは反することである。
となれば、取れる手段は一つしかない。
「こうなりゃ徹底抗戦だ。領主が戻ってくるまでここに居座って暮らしてやる。いくら領主がぼんくらでも、自分の嫁さんを見間違えたりすることは無いだろ」
「ティアレット嬢がこのまま黙っているとは思えない。まず間違いなく何らかの妨害工作をしてくると思うが……それについては?」
「むしろ歓迎だ。そもそも奥様を陥れたのがその性格の悪い嬢ちゃんだってんなら、今のこの状況は最悪に近いものだろ。罠に嵌めて殺したはずの人間が生きていて、しかもほったらかしにしていたら町で一番偉い人間に真実を話してしまう……自分が捕まる可能性がめちゃくちゃ高い」
「む……」
「つまり、そいつは領主が来るまでに何とかして俺たちをどうにかしないといけない。でも、俺達がこの中にいる限りは絶対にどうにもならない。どうにもならずに焦って焦って……そうすりゃ自ずと、嬢ちゃんの方が自滅してボロを出すだろ」
無論、そこまで上手くいくかどうかはわからない。だが、いずれにせよ領主が来てさえしまえば奥様自身の本人証明は可能となる。死人に口なしであることないこと言いふらされている現状に対し、本人の口から真実を伝えることが出来れば、大きな一歩となり得るだろう。
「そんなわけだから、まぁ……」
ミルカ、ペトラ、奥様……そしてテオ。みんなの顔を眺めてイズミは言った。
「いつも通り、普通に暮らそうや」
▲▽▲▽▲▽▲▽
「うーん……」
翌朝。いつものように他のみんなより早起きしたミルカは、昨晩のうちに仕掛けておいた洗濯物を干そうとして、ふとあることに思い至った。
──アレが賢者が張った結界、ねぇ。
──なんかようわからんけど、でっけぇなぁ。
──水の巫女様がいるって、ホントか?
──大罪人が潜んでるって聞いたんだが。
石塀の向こうから確かに聞こえてくる、そんな声。恐れているというよりかは、単純に興味津々で気になっているといった様子のそれ。朝早い時間だからか……いや、こんな朝早い時間だからこそ、この街のもの好きがこぞってこの広場に立っている家を見に来たのだろう。
「ただの結界が、こんなに長く保つとは思いませんものね……」
なんだかんだで、昨日はずっと騎士団かクラリエス家に雇われたと思われる人間がこの家の周りを見張っていた。だから、何でもないやじ馬は近づくことが出来ず、せいぜいがこの広場を通過するのを許されるくらいだった。
だけどこんな早朝ともなれば、邪魔立てする人間はどこにもいない。というよりも、まさか一晩経ってなお普通に残り続けているとは思わなかったのだろう。
「……どうしましょう」
しかし、今のミルカにとって切実な問題なのは、見張りの騎士団でもクラリエス家でもない。
「さすがに、この広場のど真ん中で洗濯物を干すのは……」
普段は庭にある物干しざおにそのまま干している。それが一番おひさまとそよ風の力を存分に受けられるからだ。ろくに外出しないとはいえ、大人だけで四人……アルベール達もいれば六人分もの衣服をいっぺんに干すのは、そこくらいしかできなかったというのも理由の一つではある。
しかし、それも人のでまるいない大自然の中での話である。こうも簡単に人目につく往来のど真ん中で自分たちの服を干す度胸は、ミルカには無い。
下着を内側に入れて干すにしても限度がある。自分のはもちろん恥ずかしいし、水の巫女である奥様のともなればもっと事態は重大だ。
「……しょうがない、部屋干しするか」
──この家には浴室乾燥機が付いていることをミルカが知ったのは、朝食の席でのことだった。
▲▽▲▽▲▽▲▽
「う、わ……」
午前の早い時間。朝食を終え、一息ついたイズミは窓の外の光景を見て思わず声を漏らした。
さっきから、なんとなく外が騒がしいような気はしていたのだ。でもそれは、今まで森の中に住んでいたのにいきなり街の中に移ったから、そういう風に感じているだけだと思っていたのだ。
ところが、実際は違う。
街中だから騒がしいんじゃなくて……実際に、家の周りに人が集まっている。
「ほぉん……なんかみょうちきりんな家だねえ」
「でも二階建てとは豪勢なもんじゃないか。やっぱ賢者様は稼いでんのかね」
「噂には聞いたが、この規模の建物を一瞬で建てるとはどういう仕組みなのやら」
石垣から十歩ほど離れたところで、何人もの人が集まっている。この家が物珍しくてたまらないのだろう、北の方から家を眺めては今度は南に移って……と、まるで観光名所に訪れる観光客のような有様だ。
中には、本当にタダの暇つぶしとして見物に来ている者もいるらしい。散歩途中と思しき老人もいれば、子供を抱っこしてあやしている母親、さらには近所の子供たちまで勢ぞろいである。
「おうおう、見せもんじゃねーぞ! ちっとくらいはしょうがないが、あんたらだってジロジロ家を見られるのは嫌だろう?」
サンダルを履いたイズミは、門扉の近くまで行って声を上げる。まさかいきなり家から人が出てくるとは思わなかったのか、何人かがビビって広場の端まで逃げていった。
「とは言ってもよぉ。こんな広場のど真ん中じゃ嫌でも目に付くだろうよ」
「そーそー。むしろ見るなって方が無理だろ」
「……まぁ、そうなんだけどさぁ」
返ってきた正論過ぎる正論に、イズミはがっくりと肩を落とした。全くもってその通りなので、反論のしようがない。
「それよりよ、この家に水の巫女様がいるって……ホントか?」
集まった住人の一人が、そんな声を上げる。
その瞬間、その場の空気が確かに引き締まった。
「……それを聞いて、どうする?」
慎重に、イズミは問いかける。その男は、少しだけ真剣な表情をして語った。
「いや……もし本当なら、たった一目でいいから元気なお姿を見ておきたくてな。……俺の故郷の村、水の巫女様のおかげで大規模な獣害から免れたことがあるんだよ」
「わ、私も! 神殿にはすっごくお世話になっていて……! 子供が生まれる時もすっごく助けてもらって、だから……!」
「俺もだ! 水の巫女様が亡くなられただなんて絶対嘘だと思っていたんだよ!」
男が告げたのを皮切り、あちこちからそんな声が上がる。過去に神殿に世話になったもの、奥様の予言により厄災を回避できたもの……そしてほんの数人とはいえ、奥様により直接治療をしてもらったものなど、皆がそんなことを口々に告げていく。
彼らは全員、水の巫女を慕っており──そして、あの優しくて慈愛に溢れる水の巫女が急に姿を消したことを不審に思っていたらしい。
そのことが何だか嬉しくなって、イズミは少しだけ心が軽くなった。
「……だったらなおさら、あんまりここには近づかないほうがいい。騎士団や性格の悪い嬢ちゃんに因縁つけられるぞ。そういうの、あんたらの知っている水の巫女様が喜ぶと思うか?」
「はん! 騎士団はともかく、たかだか一貴族の私兵が出張るなんておかしな話だろうが! やっぱり裏で暗躍している奴がいたってことだろ!」
「そうだそうだ! だいたい、あんたもそうだからこそ水の巫女様を助けたんじゃないのか? ……なあ、頼むよ。姿だけでも少しだけ……いや! 元気かどうか、それだけでも教えてくれないか?」
「……」
情報が錯綜している、というのが現状なのだろう。広場に突如として現れた謎の家と言う事実に、そこに籠る自称賢者とその一行。騎士団と貴族の私兵が彼らをそこから引っ張り出そうとしているという所までは本当だが、では一体どうしてそうなっているのか。いろんな噂に尾ひれがついて、きっと末端ではイズミが想像できないくらいに大きな話になっているのかもしれない。
となれば、イズミに答えられることはあんまり多くない。そして、できれば……この、奥様を心配している人たちに少しでも応えてあげたかった。
「俺は……俺達はただ、身を守っているだけだ。それでもって、悪党が俺たちを襲っている。どうして襲っているのかは、まぁ、そういうことだよ」
「それって……!」
「そんなわけで、全部カタが着くまでここにお邪魔させてもらうぜ。なるべく迷惑はかけないようにするつもりだが、巻き込まれるとヤバいからあんまり来ないほうが──」
「そりゃねえだろ、賢者様よぉ!」
イズミの声を遮った、ひときわ大きな声。なんだなんだと群衆が後ろを振り向けば、そこにいたのは一人の商人──ちょうど、イズミたちがこの街に来るときに一緒になった商人であった。
「よう! ……いったい何やったんだよ賢者様ぁ。賊に襲われたって話を聞いたと思ったら、実は大罪人をかくまっている極悪人だって話も出回ってきているぜ?」
今までと変わらない気さくな様子で、彼は石塀にずんずんと近づいてきた。
「……本当に極悪人かも知れないぜ?」
「極悪人は自分で極悪人なんて言わねえよ! それに一緒に酒を飲んだんだ、悪い奴なわけがない!」
彼我の距離、石塀を挟んでおよそ五歩。そこまで近づいてから、彼はイズミだけに聞こえる大きさでぼそっと呟いた。
「……かなりきな臭い状態だ。ラルゴとアルベールが動いている。迂闊に動くな、ってよ」
「……!」
「それはそうと賢者様よぉ! この広場って何の広場か知ってるか!? ……そう! ここは自由市! たとえ商人としての登録が無くても、誰でも好きに店を開いてモノを売れる場所さ!」
後ろの群衆にも聞こえるように、いっそわざとらしいくらいに大きな声で彼は言った。
「ただし、場所代を払えばって言葉が付くがね!」
「お前……」
ひょい、と手のひらを上にして伸ばされた手。彼はにこにこと笑いながらぐーぱーとその指を動かしている。直前の言葉を聞けばその動きが意味することは明らかで、それは間違っても犯罪者にやるようなことではなかった。
「と、取るのか? こんな事態でも俺から金を取るのか!?」
「商人組合もたくましいよな……。あんたたちの話を聞いた瞬間、出てきた言葉が『場所代回収しないと』だぜ? それでもって、厄介ごとに関わると嫌だからって顔馴染みである俺を指名してきて……」
「いいのかよ、それ……」
「罪が確定していないうちは罪人じゃない。罪人じゃないなら金は取る。いや、罪人であろうと金を毟るのが上の連中のやり方さ」
──その代わり、金さえ払えば組合で守る口実ができるってラルゴが言ってた。
そんな言葉をこっそりとだけ呟いて、やっぱり彼はわざとらしく手のひらを動かす。周りから見れば、顔見知りからでさえも金を毟りに来た典型的な悪徳商人にしか見えないが、その実それこそが彼の──というか、ラルゴたちの狙いなのだろう。
さすがにイズミでも、ここまで露骨であればその意図に気づくことが出来る。
「ああわかったよ! いくら払えばいいんだ!?」
「この広さだし、銀貨十枚って所だな……あと、危険を顧みず交渉人をしている俺のために危険手当分として……」
「そっちは組合のボスに言ってくれ! ビタ一文たりとも増やさねえからな!」
──手渡された小袋の中に入っていたコインの枚数が、通達されたそれよりちょっとだけ多かったのは、イズミと彼だけの秘密である。
▲▽▲▽▲▽▲▽
「出てこいやゴルァ!」
「男なら逃げるんじゃねえぞ卑怯者がァ!」
午後。ようやっと好奇の目にも慣れ始め、外からの人の声や視線……今まではまるで感じることの無かった人の気配に慣れたころ、唐突にそんな怒声が響き渡った。
「な、なんでしょう……!?」
「大丈夫、ですよね……?」
ミルカと奥様が不安そうに声を震わせ、拳一つ分ほどイズミに体を寄せてくる。ミルカの方は割と遠慮なくイズミの腕をぎゅっと握っており、そして奥様は片手で遠慮がちにイズミの服の裾を掴んでいた。
無論、もう片方の腕にはテオが抱かれている。
「だうー……」
奥様の震える腕があまりお気に召さないのか、それともせっかくの心地よいお昼寝時に騒がれたのか不快だったのか。テオの眉間にはしっかりと皺が寄っており、これ以上ないくらいに不機嫌さを表したシブい表情になっていた。
「ある意味懐かしさを覚えるような声だな……イズミ殿?」
「ああ……まさか、街中でこんな音を聞くことになるとはな」
ガンガン、ギンギンと特有の音が家に響いている。ちょっとだけ待っててくれ……と、ミルカと奥様に優しく笑いかけたイズミは、この事態にまるで動じていないペトラを伴って玄関の外に出た。
──予想通り、昨日と似たような雰囲気の人間が都合六人ほどで門扉を叩いている。それも、訪問を伝えるためのノックではなく、剣やハンマーを用いた文字通りの「叩いている」であった。
「ガタガタガタガタうるっせぇぞゴラァ! てめェ、人の家に何やってんだコラァ!」
腹の底から、イズミは怒鳴った。こんなにも性格の悪そうな人間たちが自分の家の周りにいるのも腹立たしいし、その上門扉をぶっ壊そうとしているともなれば怒鳴らない理由がない。
加えて、こいつらのせいでミルカや奥様が不安を感じていて、そしてテオは不機嫌になってしまっている。正直に言えば怒りの理由の九割方はこちらのほうであった。
「てめェがこの結界を解かないからだろうが! 疚しいことが無いってんなら、今すぐ解いてここから出てこいや!」
「人の家の門扉をぶっ壊そうとしている奴が、何寝ぼけたことほざいてやがる! そのハンマーでてめェの頭をカチ割ってやろうか!?」
「おーおー、やれるもんなら今すぐやってみろ! ホレ、じっとしといてやるからこっちまで来いよ!」
「誰が行くかバーカ!」
石塀越しに繰り広げられる罵りあい。チンピラども──より正確に言えばクラリエス家の私兵たちは口汚く罵りながらもその手を止めず、何度も何度もハンマーや剣を振るって門扉を壊そうと試みている。
剣が結界を叩く音も、ハンマーが門扉を叩く音もまるで止まる様子はなく、何のためらいもなく往来で武器を振るうその姿に、近くにいたはずの群衆たちはこぞって逃げ出してしまっていた。
もちろん、その程度でこの家が、結界が壊れるはずもない。彼らがしている無駄な努力に少しだけ留飲が下がったイズミだが、しかしそれで現状が良くなるわけでもない。
「解けねえ結界なんてあるわけねえ! いいか、ずっと続けていれば必ずいつかほころびができる! そもそも、こんな広範囲の結界を維持し続けるのだって不可能に近いんだ!」
「わかってる! 何人かに分かれて別々の所を攻撃するぞ!」
そう言って、男たちは何手かに分かれて石垣や謎バリアに向かって攻撃を続ける。イズミの集中力を削るためか、お互いにほぼ真反対の位置についていた。
普通の結界であれば概ね正しい対処法と言えるだろう。熟練の魔法使いでも二か所以上も同時に気を配る……集中して結界の強度を保つことは難しく、複数個所を集中して攻撃されれば、必ずどこかで弱くなる部分が出来てしまう。広範囲の結界であればなおさらの話であり、だからこそ範囲をなるべく小さめにすることでその欠点を補うようするのが、結界を使う上での常識である。
ただし、これは普通の結界ではない。
イズミ本人でさえその仕組みを理解していない、この家そのものに備わっている絶対不可侵の謎バリアなのだ。
「ちっくしょう……ビクともしやがらねえ……!」
「昨日からずっと張り続けているってのに、息一つ乱れていない……!」
「お前らとは鍛え方が違うんだよ! 一生やってろ!」
荒く息をつく私兵たちに向かって、イズミはせせら笑うようにして罵る。正味な話、イズミは確かに善性の人間ではあるが、かといって聖人君子と言うわけではない。人並みにキレるし苛立てば口も悪くなる。ウィンカーも出さずに前を横切る車には舌打ちするし、信号を無視して飛び出す自転車にはフロントガラス越しに思いっきりにらみつけることだってある。
そんなイズミなのだ、明らかに敵対行動をとる人間たちが目の前にいれば──まぁ、日本での価値観から見れば少々過激な物言いになってしまうのもある意味ではしょうがないことであった。
「イズミ殿、イズミ殿。……あんまり大きな声で叫ぶと、坊ちゃんと奥様が怯えるぞ?」
「う……それは困る」
ペトラに注意され、ようやくイズミは口を閉じた。顔面を十発ぶん殴られることよりも、テオや奥様に怯えられる方が何倍も堪える……というのが、イズミの嘘偽りのない本音であった。
「でも、どうするんだよペトラさん。こんなにうるさいの、さすがに放っておけないだろ」
いくら絶対に破られることの無い結界とはいえ、さすがにずっとガンガン叩き続けられるのはイズミの意に反することである。音がうるさいし、何より気分がよろしくない。
「石でも投げるか?」
「手ごろなものがこの敷地にあるか? それに、さすがに避けられるだろ」
「じゃあ、やっぱり塩か?」
「なにが“やっぱり”なのかはわからないが……一番手っ取り早い方法があるだろ?」
ほら、とペトラがイズミに高枝切狭を手渡した。
「どこからどう見ても正当防衛だ。向こうは往来で武器を振り回し、こちらの家に乗り込もうとしてくるんだ。返り討ちにされても文句は言えまいよ」
「……」
「……それともやはり、まだ人は切れないか? なに、イズミ殿が無理でも私がやる。別に初めてでもないしな」
人を切る。生き物を切るという意味では、イズミはすでに何度も体験している。この世界に来てからはクマよけスプレーでもがき苦しむ魔獣どもを、もう何匹も切ってきた。いまさらその程度のことにためらいはないし、何だったら日本に居た時もそれなりに多くの害獣どもを締めた経験がある。
「……最初は動けなくなるくらいまでで済ませる。でも、次に襲い掛かってきたら、その時は」
「ん、それでいいと思う。マジに命の危機があるときならともかく、この状態で最初からそうするのは……奥様が良い顔をしない。それに、イズミ殿の手はあんまり汚れてほしくないしな」
元より、ペトラはあまりイズミを戦わせたくなかったのだろう。そう言うのは自分の仕事だと呟いて、そしていつもの鉈を片手に持った。プロテクターの類を一切つけていないのは、この程度の相手ならつけるまでも無いという自身の現れにほかならず、そして私兵たちもそんなペトラの気迫を感じたのか、動きを止めて出方を伺っている。
「イズミ殿は外に出ず、それで援護してくれ。私はちょっと外に出て──引き取ってもらうよう、お話ししてくるよ」
「一人で大丈夫なのか? やっぱり俺も一緒に……!」
「いいや、一人こそがいいんだ。家を背にすれば前だけに集中できるし、一歩下がればすぐこの安全地帯に戻れる。二人もいたら、そうはいかないだろう?」
そうして、ペトラが門扉に手をかけようとした……まさに、その時だった。
「何をしてるんだ貴様らぁぁぁぁ!!」
「あ」
びりびりと腹の底に響くような怒声。遠目から見てもはっきりとわかるくらいに顔を真っ赤にした騎士団が、凄まじい怒気と共に広場になだれ込んできていた。
おそらく、この騒ぎを誰かが通報したのだろう。街中で武器を振り回していれば、それも当然の話であった。
「そこのお前らはクラリエス家のものだな!? 街中で武器を振るうだなんて何を考えている!?」
「これはこれは、騎士団の皆さん! 私らはただ単に、この結界を壊して罪人を引きずり出そうとしただけで……結界を解除しようとしているのは、騎士団の皆さんも同じでしょう?」
「ええい、減らず口を叩くな! 街中で騒ぎを起こしておいて言い訳なんてできると思うなよ!」
「騒ぎ? 広場に不法に設置されたものを撤去しようとしていただけですが、それの何が問題なんですか? 私たちがいつ人に武器を向けたというのです? 私たちのそれが罪に問われるというのなら、鍛冶屋や大工も罪に問われなければいけませんねえ?」
「なんだと……!?」
「だいたい、殺意剥き出しで刃物を持っているあちらのほうでしょう?」
そいつが指さした先にいるのは、もちろんペトラとイズミである。
そして、イズミ達の言い分もまた決まりきっていることであった。
「正当防衛だな。家をぶっ壊そうとしてくる不届き輩がいたものだから、それに対抗しようとしたまでだ。よもや騎士団が、黙ってそれを受け入れろなんて……そんな世迷言を言うまいな?」
はぁ、とその騎士は大きな大きなため息をついた。双方互いに譲らないことは明白で、そして少なくともこの街の法律に則る限り、どちらの言い分も通ってしまうことが彼にもわかってしまっているのだろう。
それはつまり、どうにもならない泥沼であることを示している。
「昨日も言われただろうが、キミたちの安全は我々が保証する。だからどうか、この結界を解いて我々の庇護下に入ってくれないか?」
「気持ちはありがたいが、断る。……昨日しょっぴいたやつも、もう無罪放免なんだろう? だから今日もこんな連中がここに来たわけで……そして、やっぱり厳重注意くらいしかできないんじゃないか?」
あるいは、圧力とかがかかっているのかもしれないが……という小さなペトラのつぶやき。騎士の彼が顔を歪めたのは、果たしていったいどういう理由なのか。それは誰にも分らない。
「──とりあえず、武器を振り回していた六人は連れていけ。言い分は詰所で聞く。私は……今しばらく、こっちの説得を試みる」
へらへらと笑いながら、クラリエス家の私兵たちが騎士たちに連行されていく。全くもって焦っていないところを見ると、やはりすぐに放免されることを確信しているのだろう。法律的に問題ないのか、あるいはバックについている権力の力を使うのか。その両方と言う可能性も高いから、始末に負えなかった。
「……それで、どうしても出てくるわけにはいかないのか? 我々とて、その……水の巫女様が無事に戻られたというのなら、それほど嬉しいことは無い」
「あなたが個人の感情を優先する愚かな騎士なら、その言葉を信じられる。だが、そんな騎士の庇護下に入っても安全とは言えまい。そして、個人ではなく組織を優先する優秀な騎士なら……たとえどんなに理不尽なものであろうと、上からの指示に従うだろう?」
「……」
「悪いな、こればっかりはこちらも譲れん。なに、報告書にはありのままを書けばいいさ。それで上がどんな指示を出そうとも、こっちとしては問題ない」
「一つ忠告しておくが、この家の結界を破れるとは思うなよ? マジでただの時間の無駄でしかないからな」
「……はい、そうですか──と頷くわけにもいかんのだ。こちらも仕事なんでな」
──結局、騎士の説得は夕方遅くまで続いた。もちろん、そのすべてが徒労に終わったことは語るまでもない。
▲▽▲▽▲▽▲▽
「森で暮らしていた時よりも、なんかグッと疲れるな……」
夜。夕食を食べて一息ついたころ。ソファにだらしなく体を預けたイズミは、誰にともなくつぶやいた。
なんだかんだで一日中、誰かしらがこの家の周りに集っていたのだ。近所の住民が遠巻きに見ている分にはまだマシなのだが、クラリエス家の私兵や騎士団など、直接的に介入しようとしてくる相手だと、それ相応に気力も使う。絶対安全の領域とはいえ、神経が磨り減ることには間違いない。
「ずっと誰かが見ていると思うのも、あまりいい心地はしませんものね……」
「カーテンで中は見えないようにしているが、うるさくされるのは敵わないよな」
ミルカも奥様も、家から出ていないとはいえやはり相当気が滅入っているのだろう。二人ともがいつも以上に疲れた様子を見せており、表情もいつもに比べて幾許か暗い。平然としているのはペトラくらいだ。
「アルベールさんたちが動いているって話だから、そのうち何か進展はあると思うんだが」
「あまり過信はしないほうがいいぞ。あいつらはあくまで商人で、貴族をどうこうできる力は持っていないんだ。それに……危険を冒してまで私たちを助ける理由、もう無いだろ」
「まぁ、そうだよなあ。逆に、下手に危険を冒すくらいなら裏切ってくれた方がまだ気分がいいや」
イズミ達の安全は確保されている。一方で、アルベール達はそういうわけではない。身を守る術も無ければ、明確な後ろ盾があるわけでもない。ついでに、この街に来るまでイズミ達とつるんでいたということは周知の事実であるため、下手をするとイズミ達以上に厳しい目が向けられる可能性もある。
だったら、自分たちの身を守るために情報でも何でも好きなだけ流してほしい……というのが、イズミの考えだった。
どうせ知られたところでこちらには何のデメリットも無いし、向こうがどうにかできるわけでもない。何より、アルベール達とはそれなりに長い間寝食を共にしているのだ。そんな親しい相手が傷つくくらいなら、情報をリークしてくれる方が何倍もいい。
「あとは婦長さんや大神官さんのほうだが……あっちは大丈夫かね?」
「多少の聞き取り調査くらいはあるだろうが、平気だろう。むしろ、下手に暴走して暴れ出さないことの方を祈るべきだな」
ゆったりと過ぎていく時間。昼間とは違い、しんと静まり返った夜の街。さすがにこの時間に訪れるような奇特な人間はいないらしく、今この瞬間だけはいつもと変わらない空気がこのリビングに満ちている。
「……数日もしたら、向こうも飽きるしこっちも慣れるだろ。最初はちょっときついかもしれないが、それまでの辛抱だ」
「……ええ」
──街での暮らしの一日目は、イズミのそんな言葉を最後に終わりを告げる。
何事もなく、普通に暮らす。それはとても大変なことで、そしてそれこそがイズミ達が今できる唯一にして最大の攻撃であった。




