7 クマ避けスプレー
「いちち……」
幸いにして、あの狼もどきとの戦闘でイズミは大きな傷を負わなかった。手こそ擦り傷だらけで大変なありさまだが、それ以外はプロテクターのおかげもあってせいぜいが多少打ち付けたくらいのものだ。二日三日休めば完全に癒えることだろう。
未だ血の滲む手のひらに赤チンを塗りながら、イズミは思案する。
「見間違い、なワケねぇよなァ……」
あの瞬間。イズミは確かに動けず、そしてあの狼もどきはそんなイズミに向かって飛び掛かってきたのだ。イズミは一瞬とはいえ死ぬ覚悟を決めたし、実際、あのまま普通に事が進めばそうなる可能性は決して低くは無かったはずだ。
が、実際はそうなってない。
飛び掛かってきた狼もどきが、なぜか途中で伸びていたからだ。
「……」
あの時、確かにイズミは何かが叩きつけられたような大きな音を聞いた。そして、それに一拍遅れて飛んできたそいつはあの狼もどきの牙の欠片に間違いなかった。そのうえで、狼もどきの鼻面がつぶれたようになっているというのであれば。
「何かがあいつにぶつかった……」
と、もう一つ。
「あいつが何かにぶつかった……」
そう、まるで透明なガラスに頭から突っ込んだように。
「さすがに、あいつの頭を潰せるほどの大きさのものが飛んできたら……わかるよな」
もちろん、イズミだってバカじゃない。伸びてる狼もどきに迅速に止めを刺した後は、その何かを探して周囲を調べたのだ。横やりか、あるいは助けてくれたのであろう誰かを期待して、周囲を巡ってみたのだ。
しかし、何もなかった。誰も見つけられなかった。
と、なれば。
「怪しいのは……門扉だよなァ」
疑問。飛来物の可能性を捨て、見えない壁があの時存在していたと仮定して、では、それはどこにあったのか。少なくともイズミはそれにブチ当たっていない以上、なんらかの条件かそれに類するものがあると考えてもいいはずである。
真っ先に思いつくのが、門扉だ。外の世界とこの安全な家の敷地を隔てる、文字通りの門。ちょうどあの時、狼もどきとイズミは門扉を隔てて相対していて、飛び掛かってきたあいつが何かにぶつかった(かもしれない)のはちょうどその敷地の境界線、門扉のところだったように思えてならない。
「招かれざる客は入れない……なんて、否定しきれないのが怖いな」
すでに十分に不思議現象に遭遇している以上、そんなチープで安っぽい、都合の良すぎる事態が起きないとも限らない。
「いずれにせよ、調べるほかないか」
となれば、話は早い。この近所にヤバい獣が出るとわかった以上、速いうちに検証して──いや、検証する前に家の周りをガチガチに固めて強化しないとならないだろう。
幸か不幸か、イズミのそんな考えはあっという間に杞憂となった。
「げ」
いる。
すでに門扉のすぐ向こうに、似たような狼もどきが三匹ほどうろついている。
血の匂いに惹かれてきたのだろうか。ちょうどイズミがそれの止めを刺したところに鼻面をあて、すんすんと何かを嗅ぎまわっている。所在なさげにうろうろとしていて、一向にここから離れる気配を見せない。
「見慣れないものに警戒している……だな」
いろんな意味で興味はある。しかし、警戒もしている。その様子から察するに、今までこの家に近づいてこなかったのは、この森にはあまりにも異質なこの建物に大いなる警戒心を抱いたからだろう。
しかし、こうなったらもう、奴らがこの家を警戒しなくなるのは時間の問題だ。それだけならまだしも、奴らを目当てに……もっと危険な生物がやってくるかもしれない。
「痛いだなんて、言ってられないなァ……」
解いたばかりの装備一式を再び身に纏い、今度は武器をしっかり準備してイズミは玄関の扉を開ける。さすがに音で気づいたのか、門扉のすぐ外をうろついていた三匹の首が一斉にイズミの方へ向いた。
──アアアア!
「こっわ」
ガンガン、ガシャガシャと特徴的な金属音。そいつらが門扉を打ち破ろうとひっかくなり体当たりなりしているのだろう。さすがに金属製だからちょっとやそっとのことでは壊れたりしないだろうが、蝶番のあたりをやられるとちょっと心配しなくもない、というのがイズミの正直なところだった。
──ちょうど、風は後ろから吹いてきている。実にタイミングが良かった。
「そォら!」
大体どこの家にも一本ある必需品──クマよけスプレー。またの名を唐辛子スプレーだとか催涙スプレーとも言うそれを、イズミは門扉を隔てて暴れる三匹に噴霧した。
──ッッッ!?
「思ったより効くなァ」
オレンジの霧に包まれる三匹。効果は覿面であった。
まず、ものすごい痛みを感じているらしい。顔を押さえ、狂ったようにもんどりうっている。そのたびにオレンジ色の刺激臭のする液体が跳ねて、近くの地面にショッキングな斑模様を施していた。
そして、目が開かないらしい。粘膜に超刺激物を突き付けられたのだから、当然のことだろう。痛みと涙と、両方の意味でやられているものだから、まともに前も見ていない。
止めとばかりに、呼吸すらうまくできていないようだった。狼よろしく大きな口に、明らかに舐めちゃいけないものが吹き付けられたのだ。直に肺に吸い込んでしまっているのかもしれない。いずれにせよ、感覚が鋭敏な場所を直接攻撃されたら、痛みと涙とその他もろもろで、呼吸なんてまともにできるはずがない。
結論。
死の覚悟さえさせられた危険生物でも、日本の技術力で先手を取って追い込めば、あまりにも簡単に無力化することができた。
「さて……」
痛みと呼吸困難に苦しむ、目の見えない生き物。いくら牙とか爪が驚異的と言えど、そんな生き物に後れを取るほどイズミは耄碌していない。
門を開け、そいつらに近づく。
「ふんッ!!」
後頭部に、全力の鉈の一撃。無防備なところにそんなものを叩き込まれたら、たまったものじゃない。あっという間に二つの遺骸が晒されることになった。
「……」
門を開けたまま、イズミはじりじりと最後の一匹との間合いを測る。こちらからはすぐに対応できるけど、向こうじゃ対応できない……そんな、ぎりぎりの距離。見極めるべきは、まさにそのわずかな間合い。
「ほれ!」
──ガアアアアッ!!
ちょちょん、とイズミはからかうように鉈で狼もどきを突く。当然、激昂したそいつが反応して苦し紛れに爪を振るうが、適当に無茶苦茶に振るった攻撃が当たるはずがない。
というか、イズミはとっくに間合いから出ている。完全なヒット&アウェイを決め込むつもりだ。
「ほれ! ほれほれ!」
ちょん、と突いては二歩下がり。
ちょちょん、と突いては三歩下がり。
じりじり、じわじわ。相手がまっとうに動けないことをいいことに、イズミは少しずつ位置取りを誘導していく。
そして。
「そぅら!」
最後の一撃。
ちょこんと小突いて、そして開けっ放しの門扉を通り越し、敷地内へと逃げ込んだ。
「こっちだ、こっち!」
右手に鉈。左手にスプレー。万が一の準備はばっちり出来ている。
あとは──
──ギャアッ!?
「……っ!」
イズミの目の前で、見えない何かが狼もどきの爪を弾いた。
「くっ……くくくっ……!」
ガンガン、ギャリギャリと妙に硬質な音がイズミの耳に届く。
狼もどきが、ちょうど家の敷地と森の境界線──門扉のところで、見えない何かに阻まれている。そこには何も見えないというのに、まるでそこに壁があるのだと言わんばかりに、爪を突き付けたり牙を突き立てようと暴れている。
もし目が見えていたら、不思議がってその行動を止めただろうか。それとも、そんなの関係ないとばかりに見えない何かを壊そうと暴れ続けただろうか。
イズミにとっては、もはやどうでもいいことだった。
「俺は通れた。でも、お前は通れない……やっぱ、何かがあるんだろうな」
何かなんて、わからない。
でも、それだけで十分だった。
「おらァ!」
見えない壁は、イズミの動きは妨げない。絶対に安全な場所からの、あまりにも卑怯すぎる一撃。
血まみれの鉈が、真正面から真っすぐ狼もどきの顔に吸い込まれていく。
「──ふう」
──家から出なければ、殺されることもなくなったと確定した瞬間であった。