66 静かに広がりゆく炎
「ふう……」
夜。自分の部屋でも、ましてや帰らずの森の中でもない──ちょっぴり豪華な装いの、宿の中。程よく膨れた腹を満足そうにさすりながら、イズミはベッドにゴロンと寝転がった。
さすがに家のそれほどの柔らかさはないものの、造り自体は上等でおひさまの香りがほんのりとする。いつもと肌触りも弾み具合も違うそれは、どこか別の宿に泊まっている……旅行に来ているのだということを思い起こさせ、なんとなくイズミをワクワクした気持ちにさせた。
「イズミさん……その、お次どうぞ」
「おーう……」
ほんのりと頬を赤らめ……そして、体から湯気が出ているミルカ。薄めのシャツとゆったりとしたズボンと言う、普段のパジャマでも旅館の装いでもないそれがどことなく新鮮な感じがして、イズミは思わずくすりと笑ってしまった。
「な、なんですか……私の風呂上りが、そんなに珍しいです?」
「なに、眼福だと思っただけだよ」
「……んもう! 普段から見慣れているくせに、そんなにからかうのが面白いですか?」
「いやいや、見慣れているからこそ、だ」
体を起こしたイズミの隣に、ミルカがちょこんと座る。それができるほどに、ここのベッドは広い──具体的には、ダブルベッドであった。
「飯が美味くて、ベッドも綺麗で、風呂までついている宿か……やっぱ、高い所なんだろうな」
「ええ、それはもう。ですが、馬車をしっかり預かってくれるところともなれば、高いのは当然ですよ」
あれから、神殿を後にして。当初の予定通り、イズミ達はこのオルベニオの街で宿を取った。より正確に言えば、ちょっとしたアリバイと実績作りのため、アルベールがオススメした【かなり高いけど確実に馬車を預かってくれる】宿に宿泊することに相成ったのである。
安宿はともかく、普通のそれなりのお値段の宿でもいいのではないか……とイズミは思わなくも無かったのだが、そこはアルベールが断固として否定した。自動車は無くてはならない存在であり、万が一にも盗まれたり壊されたりしたらその影響力も計り知れない。どのみち現金に執着が無いのなら、安全も兼ねて最高級グレードのそれに泊まるべきだ……と、アルベールはそう主張したのである。
「思えばこの世界に来て、身内以外が作った飯って初めて食べた気がする」
「あら。言われてみればそうでしたね。どうでした、初めての感想は」
「美味かったし、初めて食べるものもあって楽しかった……けど」
「けど?」
「毎日食べるなら、やっぱりミルカさんの飯だなって思った」
「はいはい、ありがとうございます」
冗談じゃなく、イズミの本心だ。しかし、ミルカはおかしそうに笑うばかりで本気で受け取っていない。これは少しばかりからかいすぎたかと、イズミは少しだけ過去の自らの行いを反省した。
「あとは……ここの主人が、気を利かせ過ぎなければな」
「……う」
「そりゃまあ、夫婦だったら一部屋が普通だし、同じベッドで寝るかもしれないけどさ……」
「い、今更ですからっ!」
イズミとミルカは、設定どおり夫婦としてこの宿を取っている。明け渡された部屋のベッドがダブルだったのも、ある意味では当然のことなのだろう。宿屋の主人はいつだってお客様のために気を配って、そして野暮なことなんてしないものなのだから。
「同じ部屋で寝るのなんて初めてじゃないし、森を進んでいた時は……それこそ、密着していたではありませんか」
「あの時は寝心地なんて気にしている余裕無かっただろ? いや、マジで冗談抜きに、嫌だったら俺はそこの椅子で寝るからさ」
「……イヤじゃないですよ、あなたなら」
「…………それって」
「……言わせないで、くださいよ」
「俺、襲われちゃうの? 変なことされちゃう感じ?」
「あなたって人はァ! あなたって人はァ!」
それっぽい空気に耐えきれなくなったイズミの方が、甘んじてミルカの鉄拳を受け入れた。
「口を開けばいつもいつもいつも! ええ、どうせ私はあなたの寝込みを襲った年増色ボケホクロババアですよ!」
「ごめん、ごめんって! いや、今回はマジでちょっとドキドキしていて耐えられなかったんだよ!」
「……ふぅん?」
「いや、ほら……出先だし、ホントの二人きりって初めてだし……」
「……ちょっと、なんでそこで赤くなってもじもじしてるんですか」
紳士なんだかそうでないんだか、ホントにわからないんだから──と、ミルカは呆れたようにつぶやいた。どうせもう、この人に変に気を使うだけ無駄なんだと開き直り、ならばもう一切なにも気にしないで過ごしてやる……と、自分で自分に言い聞かせる。
果たしてホントにそれが上手くいくかは、この段階ではわからない。
「んもう……いいから、早くお風呂に入ってくださいな」
「や、もうちょっと待ってくれ。ちょっと食いすぎて腹が重い」
「しょうがないですね……と、せっかくなので膝でも貸してあげましょうか?」
「お、悪いね」
何のためらいもなく膝に頭を乗せてきたイズミを見て、ミルカは本当に何もかもがどうでもよくなってしまった。
「……そういや、ミルカさんさ」
「なんでしょう?」
イズミの頭を軽く手で梳きながら、ミルカは応えた。
「神殿で……なんで、正体をバラすような真似したんだ?」
「ああ、アレ」
手元に感じた僅かな違和感。ミルカは、ろくに見ることもせずイズミの枝毛を引っこ抜いた。
「野イチゴとラズベリーの焼きたてパイ……かつての私の一番の好物です。それを聞けば、真っ先に私のことを連想するでしょう」
「ふむ?」
「焼きたてのパイを届けたい……つまり、訪れるのは午前の軽食か、午後の軽食のどちらかの時間。聞く人が聞けば、きっと気づいてくれるはず」
「そうかもしれないけど、あの子……アイリスって言ったっけ? あの子にもバレちまったんじゃ?」
ぺしん、とミルカはイズミの額をからかうように叩いた。
「大丈夫、あの子はそこまで頭は回りませんよ。良くも悪くも、真っすぐな子ですから」
「……そうかも」
ちょっとそそっかしくて見ていてハラハラする──というのが、イズミが持つあのアイリスという少女の第一印象だった。そしてミルカがこう断言するということは、それは決して間違っていないということなのだろう。
「でも、だとしたらあの子をメッセンジャーにしてよかったのかな」
「その日あったことはきちんと報告するように教えていますから。他の人ならともかく、婦長や大神官が今日のことを聞けば……私だって、気づいてくれるはず」
「その心は?」
さすさす、とミルカはイズミの額をあやすように撫でた。
「神殿にタオルを寄付するなんて、そんなことする商人がいますか? 普通だったらお金か、もっと見栄えのいいものを寄付しますよ。タオルもタオルケットも……あまりに実用的で、俗世間的すぎるのです。およそ、神殿に寄付するようなものじゃないですね」
「なるほど……普通じゃありえない寄付で、それは内部事情を知っているからこそのもの。となれば、嫌でもミルカさんのことを思い出して……少なくとも、無下にあしらおうとは思わない。そんなことをしたやつを、一目見ておこうと思いたくなる」
「引っ張り出すことさえできれば、私たちの目的は達成されます。……普通の商人だったら、会うことはできませんから」
会うことさえできれば。それなりに地位の高い人間に、実情を知らせることが出来れば。そうすればイズミ達の目的は達成されたことになるわけで、その後のことはその後に考えればいい。今考えてもしょうがないことは、考えないに限るのだ。
「さ、もうそろそろいいでしょう? あまり夜更かししてしまうと、明日の朝が辛いですわ」
「そうだな。……膝、ありがと」
「いえいえ、これくらいなんてことないですよ」
そしてイズミは服に手をかけつつ、風呂場へと向かっていく。やっと一人になれたミルカは、ここでようやく──膝枕をすることで隠し通していた、いつまで経っても元に戻らない赤くなった頬に手の平を添えた。
「なぁにが二人きりでドキドキしている、ですか……そんなの、こっちだって同じだもん……」
膝枕をして、頭を撫でていたわけじゃない。単純に、顔を見られないようにそれとなく手で押さえていただけだ。
「自覚があるんだか無いんだか……子供扱いばかりするくせに、こういう時だけ大人扱いして……ホントに、ずるいんだから」
高鳴る心臓を落ち着かせるように、ミルカはゆっくりと深呼吸をする。下手に裸を見られるよりも、このドキドキを知られてしまうほうが、なんだかとっても恥ずかしい──そんな気がしたのだ。
「……今日、ちゃんと寝られるかな」
決意に満ちたミルカのつぶやき。
その余韻がまさか数秒で壊れることになるだなんて、いったい誰が思ったことだろう。
「ミルカさぁーん……」
「イズミさん? お風呂に行ったんじゃ……きゃっ!?」
備え付けの風呂場の入口。ほぼ全裸──下半身だけをタオルで隠したイズミが、なんとも情けない顔をして立っている。
「あ、ああ、あなたって人は! なんて格好で出てきてるんですか!」
「いや……その、ここの風呂、お湯はおろか水も出ない……っていうか、出し方がわからないんだよ……」
「ええ? そんなこと……あ」
ミルカは思い出す。備え付けのこの浴室にあるのは、イズミの家にあるような捻るだけで水もお湯も出てくる便利な蛇口じゃない。いや、世間一般からしてみれば間違いなく便利なのだが、ことイズミが使う場合に限って言えばただのポンコツに成り下がってしまうものだ。
「ここの、魔道具式だった……!」
「だ、だよな……? 頼む、お湯出してくれよ……!」
「……ホントに、締まらないんだから」
──その日の夜。風呂場で見てしまったイズミの引き締まった肉体と、すぐ隣に感じる程よく硬いその感触のせいで、ミルカはほとんど眠ることが出来なかった。
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「不味い酒ね」
その女は忌々しそうに顔を歪めて、ちろりと舐めただけのグラスを机に置いた。ギロリと使用人をにらみつけ、さっさと下げろと必要以上の威圧感を持ってそれを促す。無意識のうちにしていた舌打ちは体に染みついており、十人がいれば十人が広いというであろうこの部屋全体にしっかりと響いていく。
とはいえ、これでも機嫌が良いほうだったりする。普段だったらグラスごと床に放り投げるし、視線で促すのではなく癇癪を起したかのように怒鳴り散らす。ついでに『自分に無駄に言葉を発せさせた』といちゃもんを付けて使用人を蹴り上げるくらいは普通にするのだから。
「あの女が消えて気分が良いのに。なんかこう、景気のいい話は無いのかしら」
消えたんじゃなくて、消したんだろう──と、グラスを下げながら使用人は心の中だけで突っ込みを入れた。
忘れもしない、数か月前の雨の日の夜。普段だったら雨が降ったことに癇癪を起こして切れ散らかすこの令嬢は、まるで別人と見紛うほどに上機嫌で帰ってきて、そしてこの屋敷に勤める人間全員に最上級の酒とご馳走をこれでもかと振舞ったのだ。
すわご乱心したか、明日はきっと天から槍が降ってくるぞ、いやいやようやく高貴なるものの自覚に目覚めたのだ──と彼を含めた使用人一同はうすら寒いものを感じながらも、勤続以来初めてとなる主の心づくしに感謝したものだが。
まさか、翌朝に水の巫女が賊に襲われ行方不明になったという報せを聞くことになるなんて、いったい誰が想像したことだろう。いくら恋敵とはいえ、この街の──ひいては国に無くてはならない人物を害するだなんて、誰が信じられたことだろうか。
無論、証拠なんてどこにもない。彼らはあくまで使用人であり、やっているのはこの家の管理と主たちに尽くすことだけで、それ以外のことはほとんどわからない。
けれど──あの主があんなにも上機嫌だったというその事実が、彼らの中では絶対の証拠として他ならないものであった。
「景気のいい話かい? それなら面白いものがあるんだけど」
部屋の陰からぬうっと出てきた、赤づくめの男。服も赤、髪も赤、そして瞳も赤というなんとも奇妙な出で立ちをした線の細い男。さすがに肌の色は赤じゃないが、逆にそれが全身の赤を際立たせてしまっている。
癇癪持ちの主とはいえ、なんでこんな不気味な男を傍に置いているんだろう──と、この屋敷の使用人たちはみんなそう思っていた。
「何よ、それ」
「最近噂の、賢者の黄金酒。手に入れるの、苦労したんだ」
「賢者ぁ?」
男が片手に持っているのは、この世界には存在するはずのない缶ビール。ろうそくの火に照らされて、その銀と金がキラキラと妖艶に揺らめいていた。
「不思議なもんだろう? 金銀に煌めいているのに、金でも銀でもない……どころか、重さを考えると金属かどうかすら怪しい。魔力も感じないものだから、この僕でさえこれの正体がわからない」
「正体なんてどうでもいいわ。それが本当にお酒だというなら飲ませなさい」
「もちろんだとも。こいつは思いっきり冷やして飲むのが美味いらしい。ついさっきまで水に漬けていたから、きっと今は最高に飲み頃になっているはずさ……うん?」
「なに?」
「いや、これってどうやって開けるのか……ははは、全然わかんない!」
「ぶん殴られたいの?」
ああ、怖い怖いと赤づくめの男はへらへらと笑う。頼むから主の機嫌を逆なでするようなことだけは止めてくれと、使用人の彼は心の底から祈った。
「まぁいい──開けば何でもいいんだ」
男が呟いた瞬間。
ぼう、と赤くて熱い大きな炎が男の手のひらで燃え上がった。部屋全体が眩むほどにその炎は強く、そこそこ離れていても確かな熱量が伝わってくるほどである。
「ほぅら、開いた」
「……あんたの頭、灰が詰まってるの? 部屋の中でやるなって、何度も言ったでしょ……!?」
「まぁまぁ。敬愛なるご主人様に、一刻も早くこれを飲ませたかったんだよ」
缶ビールの、上の所だけが跡形もなく燃え尽きている。まるで最初からそうだったかのように──そこには何もない。
「キミ、新しいグラスを」
癇癪持ちの主人がいるため、予備のグラスはいくらでもある。使用人の彼は、グラスに注がれる黄金酒を見て、思った以上に黄金色をしていることにほんの少しの驚きを覚えた。
「へえ! 透き通っていて綺麗じゃないか! さすがは黄金酒だね!」
「……」
「味の方も申し分ない! この深い香りに爽やかなのど越し! 酒精はちょっと弱いけれど……ああ、いくらでも飲めてしまいそうだよ!」
「……」
「……我が主の舌は、満足させられなかったのかな?」
「これが冷たかったらどれだけ美味しかったんだろうって、そう思ってるの。どこかの誰かさんのせいで温くてクソ不味い」
何のためらいもなく投げられたグラス。赤い炎が閃光となって部屋を照らし、叩き割れるはずだった哀れなグラスは灰も残さず燃え尽きた。
「ああもう、本当に忌々しい! あの女がいなくなったっていうのに、どうしてこうも毎日毎日イライラばかりするの!」
「そりゃー、せっかく忌々しい巫女様を始末したのに、肝心のカルサス様とはまるでお近づきになれないからじゃないですか?」
「うっさい!」
「タイミングが悪いよねえ、近づこうにもカルサス様はお仕事で他所の領地を巡っている。……あはは、キミ知ってる? 我が愛しのご主人様、あれからすぐに可愛い攻めの勝負下着を買ったのに、結局一度も使えてないんだ」
「……ッッ!!」
そんなこと、気軽にこっちに振ってくるんじゃない……と、使用人の彼は本当の本当に心の底から強く願った。現に、愛しのご主人様は視線だけで人を殺しそうな顔でこちらをにらんでいる。
黙っているのは、爆発寸前であるからではない。すでに十分ブチギレていて、感情に肉体が追い付いていないだけだ。
「しかもしかも? さらに健気に自分磨きを続けて……そう、もっと可愛くてすごく過激な下着を見つけたんだよ。最近いきなり有名になりだしたやつでさ、数も少なくて出所不明な怪しさ満載な奴なんだけど、ド素人の僕から見ても三世代は先の技術とデザインが使われるってわかる、そりゃもうすごいやつなんだ」
一応は従者のはずなのに、なんでこいつは主のそんなプライベートを知っているのかと、使用人の彼は呆れを通り越して驚きすら覚えた。ついでに、たとえ相手がこの主でなくとも、男がそんなことに精通しているのはいろいろ問題があるんじゃあないかと思った。
「もちろん、質が良いだけあって末端価格もすさまじいことになってるんだけどね。……前のも使ってないのにあんなにバカ高いものを買う余裕があるだなんて、これはいよいよ我々の将来も安泰ということですなあ」
頼むから、頼むから巻き込まないでくれと使用人の彼は思った。赤づくめの男はすごく気さくに自分の肩を叩いてきて、まるで酒場で友人と語るかのような雰囲気すら醸し出している。
「キミ、娼館とか行ったことある? その下着を身に纏えば、あそこのプロの綺麗なおねーさんたちなんて負けないくらいにお手軽に魅力的になれて……どんな男でも落とせるって専らのウワサさ! なんと、こう……背中の方の肉を前に持ってきて寄せて上げることで、普通に使っているだけできれいに見せることができるらしい」
いよいよもって、癇癪持ちの主の顔が大変なことになってきている。顔は赤を通り越してうっ血したかのように黒ずみ始めているし、ぎゅっと握り込んだ拳はこの距離でもはっきりわかるほどに震えている。
いざってときはこの赤づくめを盾にしようと、使用人の彼は覚悟を決めた。
「そんな流行最先端の魅惑の下着! バカ高い金を出してようやく手に入れたそれ! なのにいざルンルン気分で着けてみようとしたら、下着の方がはるかに大きくてぶっかぶか!」
あっはっはっは、と赤づくめの男は心底おかしそうにおなかを抱えてゲラゲラ笑った。
今日が自分の命日なのだなと、バシバシと背中を叩かれている彼は悲痛な面持ちとなった。
「……あれ? あんまりおもしろくなかった? 大きいのは態度だけだ……っていう、裏の意味もあったんだけど」
同じくらいにこの赤づくめも態度がデカいし面の皮も厚い。何より怖いもの知らずで、そして人の気持ちを慮るということが決定的に出来ていない。
「おっと、それとももしかして、僕が不敬にもレディのそういうことをあげつらう人間だと思って引いている? レディの前でともすれば尾籠ともいえる話を嬉々として語る常識の無い人間だと思っている?」
赤づくめの男の口は、止まらない。
「……安心して! この下着の出所を探せと僕に命じたのは、他でもない我が主なのだから! なんかごちゃごちゃ言い訳してそれっぽい理由を付けてきたけど、こういう所は実に普通の女の子らしくて健気だよね!」
「ああああッッ!!」
癇癪を爆発させた令嬢が、直接その赤づくめに蹴りかかってきた。無論、使用人の彼は反射的に三歩ほど彼から距離を取っている。
「あんたってやつは! あんたってやつは!」
「ああ、痛い痛い! でも、これならグラスを投げられる方がもっと痛いかも!」
「~~ッッ!!」
「ちなみにご命令通り、出所は見つけたよ! これでちゃんとオーダーメイドができるね! しかもしかも驚くことに……なんと、作っていたのは噂の賢者様だ! お酒だけでなく服飾にも明るいとか、さすがは賢者様と言うべきだろうね!」
ああ、だから黄金酒を持っていたのかと使用人の彼は部屋の片隅で納得する。同時にまた、どうしてこの赤づくめは知り得た情報をそのまま普通に報告することができないのかと頭が痛くなった。
「さらにさらに! いつもは街の外でしか活動しないその賢者様が、今日になってこの街にやってきたんだって! チラッと聞いた話だと、駆け出し商人のお嫁さんがようやく独り立ちを認められたらしくて……これはいよいよ、この街に本拠を構えて本格的にやっていくつもりなのかな? だから──」
赤づくめの男は、にこにこと笑いながら言った。
「パトロンになるなり、弱みを握るなり……あるいは、力を使って屈服させるなり。手段はともかく繋がりを作れば、お酒も下着も好きな時に好きなように楽しむことが出来るようになるかもしれないね? お金ももーっといっぱい稼げるかもよ?」
どうたい、景気が良くて面白い話だろう──と、赤づくめの男がウィンクする。
どうして、余計なことをせずに最初からそれだけを言わなかったのか──と、使用人の彼は深い深いため息をついた。
「どうする、可愛い可愛い我が敬愛すべき主様?」
眉間に深い深いしわを寄せた令嬢は、荒い息を漏らしながら絞り出すように言った。
「無礼で不敬なあんたに……! たった一回だけ、チャンスをあげるわ……! ご主人様のためにするべきことを、確実にしてみせなさい……!」
「ふむふむ。ちょっと様子を探って、いかなる手段を持ってしても引き入れてこいってことだね」
「いいからさっさと行けッ! これ以上私に無駄に言葉を使わせるなッ!」
「はいはい、御意のままに」
現れた時と同じように。
その赤づくめの男は、暗闇に掻き消えた炎のようにその姿を晦ました。




