6 狼さんに出会った
硬直は一瞬であり、そして始まりも一瞬であった。
──アァァァッ!!
突然動き出したからくり人形のように、その狼もどきはイズミに襲い掛かってきた。低い態勢のまま、鋭い牙をむき出しにして……狙ってきたのは、すべての生き物の弱点である首筋。まともに喰らえば、見事な血飛沫を吹き出すことになるのは疑いようがない。
「……こンのっ!」
──ア゛ッ!?
イズミが動けたのは、半ば偶然に近かった。
ヤバい奴が襲ってきた。動かなかったら死ぬ。咄嗟にそれを感じた本能が、その時にできる最適解を弾き出したに過ぎない。
具体的には、片手に持っていた鉈を狼もどきの顎を又裂きにするように叩き込んだのだ。
「くそッ! くそッ! くそッ!」
──ア、ア、ア
不意打ちのカウンター気味に入ったそいつ。がちゃりとした手ごたえから、どうやらそいつの顎が外れたらしい。あるいは砕けたのかもしれないが、ともかくだらしなくだらりとしているのは確かだ。
そんでもって、その程度で野生の獣がどうにかなってくれるはずがないことを、イズミはよく知っている。
──ア、ウ!
「ちィっ!」
鋭い爪の一払いを紙一重で避けて、イズミは鉈をそいつの頭蓋に強かに打ち付けまくった。
「このッ! このッ!」
なまじ、中途半端に手傷を負わせてしまったのだ。こうなったらもう、こいつが途中で逃げ帰るなんてありえない。あとはもう、殺すか殺されるかでしかない。
イズミはそのことをよく知っている。現代日本でも、野生が死滅したわけではないのだから。
ふとした拍子にばったり出会い、一触即発の空気になった雄の鹿。同じく家の裏手を我が物顔で歩いていたそこそこの大きさの猪。さすがにクマに出会ったことは無かったが、野生の世界に生きるそいつらと対峙した瞬間の空気を、イズミは体で覚えている。
──最初の対応が悪かったのだ。互いに無事にすませたかったら、あの時どうにかするべきだったのだ。
目が合ったとき、固まるべきでなかった。相手に最初に動かせるべきでなかった。それ以上に──接近を知らせる物音を、聞き逃すべきでなかった。
「いいかげんッ! しつこいッ!」
全身全霊の全力。渾身の力をもって、イズミは狼もどきの頭だけに鉈を叩き込んでいく。赤いものや、白い破片や、赤でも白でもない妙に粘着質な液体や、丸い何かがぴしゃぴしゃと飛び散り、木々を汚していく。
手ごたえは、ぐにゃりとしている。いや、意外と硬い。硬いフレームが入った革袋を強かに打ち付けているような、そんな感じ。
そして、無性に臭い。血と臓物と獣の匂いに、目の前がくらくらする。
「くそッ! くそッ! くそッ!」
──ア
イズミの手は止まらない。止められない。相手に余裕を与えたら、相手に動く機会を与えたらいけないと知っているから。やるなら息をつかせず一気に仕留めるべきだと、そう教わったから。獣の命の灯は、最期に強く燃え上がるのだと理解しているから。
「ああああッ!」
ぼきり、と大きな音がした。
どさっと、何かが倒れる音がした。
血まみれの草の上には、ぐしゃぐしゃになった狼もどきの頭蓋と、イズミにマウントを取られ、胸部が若干へこんだ胴体が横たわっている。
「…………」
頭蓋陥没。首の切断。これだけやってなお動く獣はそうそういない。
「くそ……勢いでやっちまった……ッ!?」
──アアアアッ!!
「もう、一匹……ッ!」
左腕と左肩に違和感。血圧測定器をうんとキツくしたような圧迫感。吐きたくなるほどの獣臭さがほぼ面前にあって。
そして、この距離だと鉈を振るえない。
でも。
「日本の技術を……舐めんじゃねェ……ッ!」
プロテクターが、イズミの体を守ってくれている。めちゃくちゃ痛いし気分だって最悪だが、爪も牙も体に通っていない。
ならば。
「おらァ!」
──ギャアッ!?
噛みつかれた腕ごと、あえて狼もどきの頭を抱え込む。そのまま体当たりするように樹々に叩きつけた。
「こんのッ! こんのッ!」
一回、二回、三回。着実にダメージは与えているが、しかし致命傷にはなっていない。
体勢が悪いのか、それともこの狼もどきがタフなのか。おそらくその両方だろう。しかも悪いことに、腕の圧迫感がますます酷くなっている。
やるなら、きっちりやらないとならない。
「……!」
鉈はダメだ。この状況じゃ満足に振るえない。同じ理由で、鎌も金属バットも使えない。
クマよけスプレーもダメだ。そもそもリュックから取り出せない。
首の骨を折る? 片手じゃ絶対に無理。
結論。まずは体勢を立て直せ。
「ふンぬッ!」
イズミは走った。それはもう全力で走った。具体的には、我が家の門扉のほうまで走った。
50mもない距離。あそこまで行けば、十分な空間がある。左腕に余計なお荷物があっても、全力で走れば十秒もかからない。
門扉の前まで行ければいい。そこまで行ったら、全力で腕を振り回して狼もどきを引き離す。あとは鉈を叩き込んでもいいし、敷地内に逃げ込んで門扉を閉め、石垣の上からクマよけスプレーをお見舞いしてもいい。
そんなイズミの打算は、あとちょっとのところで打ち崩れた。
「あっ……」
──アアアア!
何かに躓いた。木の根か石か、あるいはただの凹凸か。
結構な勢いで躓いたから、イズミの体はすっ飛ぶようにして門扉に叩きつけられた。物理法則の当然の帰結として、イズミは強かに体を打ち付けながらも、敷地内に倒れ込むこととなる。
幸か不幸かわからないのは──その勢いで、狼もどきも吹っ飛んでしまったことだ。
「げっ──!」
野生の感覚、とでも言うのだろうか。スローになった世界の中で、そいつはきれいに足から着地した。地面に倒れ伏して未だ立ち上がれないイズミとは対照的に、開きっぱなしになった門扉一つを隔てて、すでにイズミに飛び掛からんと足をたわませ力を溜めている。
「くっそ!」
──ガアア!
片手をついて立ち上がる。
否。
片手をついた段階で、そいつは牙をむき出しにして飛び掛かってきていた。
「避けられ──!」
目と目が合う。鋭い牙。運がいいのか悪いのか、ちょうどいい高さ。右にも左にも避けられそうにない。
──ギャアッ!?
「──ない?」
からからと砕けて転がってきた何か。何かが強かに叩きつけられたような音。
飛び掛かってきたはずの狼もどきが、白目をむいて伸びていた。