58 森を抜けて
「……あれ?」
「うー?」
午前中。一通りの家事が済み、テオと遊んでいたミルカはふと、違和感を覚えた。
窓から差し込んでいた陽の光が、少し強くなっている。どうやら外の風景が切り替わったらしい。それすなわち、探索に出ていたイズミたちが一区切りをつけ、ミルカを──いいや、この家をその場に呼び出したことにほかならない。
それ自体は、もう何度も体験していることだ。何の前触れもなくいきなり部屋の明るさが変わるこの感じも、既にミルカは慣れてしまっている。
問題なのは。
「ねえ、テオ」
「だう?」
「イズミさんたちが出かけてから……まだ、そんなに経ってないよね? いつもなら、もっと後に呼び出す……よね?」
「う!」
ちら、とミルカは時計を見た。
いつもだったら、イズミ達が探索を切り上げるのは十一時から十二時といったところ。いくらかばらつきこそあるものの、ちゃんとお昼前には切り上げている。
が、今日は。
「まだ十時にもなっていない……」
イズミ達が探索に出かけてから、まだ二時間も経っていない。仕事を切り上げるにしては、あまりにも早い時間だった。
「まさか……」
嫌な予感が、ミルカを包む。探索が終わっていないのに家を呼び出すということはつまり、よっぽどの緊急事態……それこそ、三人掛かりでも倒せない魔獣に襲われたか、あるいは。
「……探索を打ち切らざるを得ないほどのケガ人が出た、の?」
「だー!」
思案している間にも、ミルカの体は勝手に動く。いざって時のための救急箱を手に取り、そして流れるようにお湯を沸かして。清潔なタオルも準備しつつ、テオを抱っこして玄関へと向かい──
「み、ミルカさんっ!」
「イズミさん!」
扉に手を掛けようとしたところで、慌てた様子のイズミが現れた。
「なあミルカさん、来てくれよ! おう、テオも一緒だ!」
「ちょ、ちょっと……」
興奮冷めやらぬ様子のイズミに少々たじろぎ、しかしその顔に浮かぶ喜色にとりあえず不幸な事態ではなさそうだ……と、ミルカはほっと息をついた。
「どうしたんです、そんなに慌てて」
「見ればわかる!」
サンダルを履いて、テオを抱っこしなおして。
イズミに言われるがままに玄関の外へと出たミルカは、その光景に目を疑った。
「こ、れは……!」
「ああ……!」
鬱蒼と生い茂る背の高い樹々……ではなく。
どこまでも高く青い空に、白く雄大な雲。なだらかな丘に、ぽつりぽつりと生えた小さな木。足元に生える草は背が低く、人が歩くのに何ら支障をきたさない。可愛らしい小さな黄色い花と白い花が密集して生えていて、ちょっとした花畑のようになっている。
そう、ミルカの目の前には──牧歌的ともいえる広原が広がっている。
「──とうとう、帰らずの森を抜けたんだ!」
▲▽▲▽▲▽▲▽
「いやはや……脱出を試みてからちょうど二週間か。ちょっと時間はかかったが、途中で迷ったことを考えればこんなもんか」
心地よい爽やかな風と陽ざしを受けて、イズミはうーんと大きく伸びをする。目の前に広がるその光景はどこまでものんびりとしていて、そして温かい。薄暗い森の中ではとても味わえなかった解放感に、自然とテンションが上がってくるのをイズミははっきりと感じていた。
この広原の見通しはよく、周囲に障害物がないことも相まってかなり遠くまで確認することが出来る。まるでどこか外国のそういう田舎のようであり、同じ田舎でも日本のそれでは絶対に見ることのできない地平線が、殊更に物珍しい。
少し前まで、数十メートル先は全く確認できないような状態だったのだ。近くに潜んでいるであろう魔獣に怯えながら進んでいた森と比べれば、この広原はまさしく天国のようであった。
「ふむ……まだ昼前だってことを考えると、ちょうどここは帰らずの森の東に当たるところになるな」
「ってことは……ガリア街道とか、ユニエラ平原のほう?」
「そうなりますね。おそらく、もっと東に進めばガリア街道が見えてくるかと」
ペトラ曰く、この辺は比較的安全で魔獣の類も少ないとのことだった。街道沿いは定期的に騎士団が巡回しているため、盗賊や野党の類も少ないらしい。人通りはそれなりに多く、馬車同士がすれ違うことも珍しくないという。
「尤も、安全なのはあくまで街道を進んでいる場合だな。そこから外れれば、程度の差こそあれ魔獣は出てくる。特にこっちの……帰らずの森の方は近づこうとする人間もいない」
「じゃあ、油断はできないってことか」
「まぁ、な。ただ、それでも森の中に比べれば格段に安全だ。危ないというのもこの広原の中ではというだけで……平均的な冒険者なら、特に問題はない」
「そういう職業があるのか……まぁ、それはいいとしてだ」
森を抜けた。場所もわかった。
なら、次にやるべきことは。
「奥様達の街ってのはどっちにあるんだ?」
イズミ達の目標は、奥様の街に行くことだ。森を抜けるのはそのための中間目標でしかない。
「えっと……ここが帰らずの森の東だから……うん、ざっくりと北西のほうですよ、イズミ様」
「ちなみに、ここから南西の方向に元々私たちが逃げ込もうとしていたヴェルガル雷山公の街がある」
「ふむ……?」
帰らずの森を中心として北に奥様の街が、南に辺境領があるらしい。さらに付け加えると北東に山が一つ、南西に山がもう一つあり、ミルカがこの森に踏み入ったのは北西側とのことだった。
「ほら、あっちの方に山が見えるだろう? あれをくるりと迂回して北西に進めば目的地だ」
「あー……なるほど、確かに山があるな。あんまり高くないように見えるけど、高尾山くらいの高さかねえ」
ペトラが指さした方向には、なるほど確かに山脈ともとれるそれが見える。ただし、遮蔽物も無ければ空気の汚れも無いこの環境下故に、距離やざっくりの高さもわからない。空気が澄み切っているせいで、日本ならば見えない距離のものでも見えてしまっているのだ。
「ただ、イズミ殿。問題……というか、懸念事項がある」
「うん?」
「……素直に街道を進んでいいものかどうか。安全なのは間違いないが、確実に人とすれ違うことになる」
「あー……」
奥様もペトラも訳ありだ。かたや謎の失踪を遂げた水の巫女という超有名人で、もう片方は無実の罪とはいえ実質死刑にされた人間と来ている。ペトラの方はまだしも、奥様の方は下手をすると顔バレする可能性が無いともいえない。
それ以上に問題なのが、この家だ。
「さすがに街道でこの家を呼び出して寝泊まりしていたら、噂になるか」
「ああ。それに私たちの恰好は……その、旅装としてみるとずいぶん変わっているから」
登山用バッグに、プロテクターを含んだ装備一式。手持ちの武器は鉈や草刈り鎌で、およそこの世界の旅人らしい恰好をしていない。どうせすぐに家で休めるからと荷物はほぼ最小限であり、少人数で旅をするにはあまりにも不自然すぎるものだ。
「うーん……恰好がおかしいのは多少眼を瞑って進むにしても、家ばっかりはどうしようもないしなあ」
「そういう意味では、街道を使わずにこのまま森沿いを進んでいくのも手だろうな」
「しゃーない、ミルカさんとテオにはまだまだ引きこもり生活をしてもらうことになるが、一番安全なのは……ん?」
イズミはふと、気づいてしまった。
今まではずっと、森を歩いていた。鬱蒼とした樹々が生い茂る、昼間でもかなり薄暗い森を歩いていた。鉈を使わなければまともに進むこともできず、地面に張った太い樹々の根に四苦八苦しながら、歩きにくい獣道にすら劣るそこを進んでいた。
だけど、だ。
今は──これからは違う。
そう、イズミの目の前に広がっているのは、森なんかとか比べ物にならないくらいに見通しが良くて、歩きやすい広原なのだ。
「そうだよオイ、すっかり森に毒されていたぜ……!」
「い、イズミさん……?」
ミルカの声もなんのその。イズミは門扉の外──ではなく、そこを通り過ぎて。
「まさかこいつの出番が来るとはなぁ……!」
母屋の隣、屋根付きの車庫。
この世界に来て以来、一度も目覚めることのなかったそいつの灰色のボディをポンと叩く。
「イズミさん、それは……?」
「ああ、そういやミルカさんは……というか、みんな知らないか」
くっくっく、とイズミは心底嬉しそうに笑った。
「森じゃ使えなかったからすっかり忘れていたけど……俺の世界で最もメジャーな移動手段。田舎じゃこれが無きゃ生活できないって程の必需品。間違いなく、この世界じゃ絶対にお目にかかれない……オーバーテクノロジーの塊だ」
スタイリッシュさよりも、カッコ良さよりも。
なによりも機能性と積載量、そして馬力を追求した……実用性を最重要視した、武骨なワゴン車がそこにある。
「なぁ、テオ」
「うー?」
イズミは、テオの頭を優しくなでた。
「お前、ぶーぶーは好きか? 一緒にドライブしようぜ!」
「きゃーっ!」
▲▽▲▽▲▽▲▽
「よーし、準備はいいか?」
そして。
時間にしておよそ十分後、イズミ達は車の中へと移動していた。もちろん、その中には普段はお留守番をしているミルカとテオも含まれている。
「な、なんか微妙に息苦しいというか、独特の雰囲気がありますね……なんだろ、この匂い」
「あー……シートの匂いか何かかな。まぁ、後で窓をあければいいさ」
助手席にペトラ。後部座席にミルカと奥様。さすがにチャイルドシートの用意はないので、テオは奥様の膝の上にしっかりと抱かれている。異世界には交通ルールを律するための信号も何もないが、逆に言うと事故の原因となる他の車両もないため、スピードさえ出しすぎなければそこまで問題は無かろう……というのが、イズミの考えだった。
「座り心地は……悪くないな。馬車なんかに比べたらずっといい」
「ええ、本当に。見た目よりもずっと広々しているような気もするかも」
「そいつはよかった。一応、そのシートは位置を変えたり倒したりできるから、後で適当に調整してみるか」
そしてイズミは、エンジンを点ける。
ヴヴヴ、と車体が大きく唸り、特有のエンジンの駆動音が社内に響き渡った。
「ひゃっ!?」
「う、唸った!?」
「きゃーっ!」
計器の針が瞬間的に振れ、そしてセンタークラスター付近のボタンやライトが一斉に点灯する。さすがにGPSも異世界までは対応していないため、ナビゲーションはずっと【現在地探索中】のまま動かないが、そこはまぁ諦めるほかない。
「な、なんかずっと震えてますけど……!? だ、大丈夫なんですよねこれ……!?」
「だいじょぶだいじょぶ……ほら、発進!」
「わっ!?」
シフトレバーをDへと動かし、アクセルをゆっくりと踏み込む。ぐん、と加速が発生しそのワゴン車はゆっくりと進み始めた。
「う、動いてる……! 本当に、馬も無しに動いている……!」
「しかも、魔法の匂いもなにもない……もう、どうなっているのやら……」
「きゃーっ! きゃーっ!」
「て、テオ……! そんなにはしゃがないで……!」
門扉を越えて、とうとう敷地の外へ。真っ当な道じゃないからか少々ハンドルの手ごたえが重いような気もするが、しかしこの程度なら問題ないレベルだとイズミは確信する。幸いなことに道は限りなく平坦で、走行の邪魔になりそうなものは視界の範囲には見受けられない。
「じゃあ、もうちょっとスピードを上げるぞ!」
「だー!」
後ろから聞こえてきた威勢のいい声に気分を良くして、イズミはさらにアクセルを踏み込んだ。ただっ広い光景に思わずスピード感覚がマヒしそうになるが、スピード-メータを見て30km/h程度に抑え込む。久しぶりのドライブとしてはずいぶん物足りないスピードであることは否めないものの、未舗装の道を赤ん坊を乗せて走るのだからこれくらいが限度だろう。
「こ、こんなに速いのか? この感じ……たぶん、駆足くらいの速さだと思うが」
「遅い方だぞ? 出そうと思えばもっと出せる。それ専用の道なら……そうだなぁ、これの三倍以上の速さで走るし」
「三倍……!? 駿馬の襲歩より速いのか……!? この、鉄の塊が……!?」
「駿馬の襲歩がどんなものかは知らないけど、馬よりよっぽど聞き分けもいいし運転するのも同乗者もラクだ」
喋っている間にも車はどんどん進む。エンジンを轟かせ、目の前の草を踏みつぶして。ふと、イズミがバックミラーで後方を確認してみれば、どこまでも遠くまでタイヤの跡がはっきりと残されていた。
「あっ、わかった! きっとこの速さを維持するのはかなり難しいとか、一日の使用制限があるんでしょう!」
「んー? 奥様、得意なところ申し訳ないが、燃料さえあればいくらでも走り続けるぞ。この速さだったら一日中走らせていても問題ないだろうな」
「えっ」
「もちろん、荷物の多さで燃費は多少変わるが……こいつは生き物じゃないから、基本的に休憩とかは要らないんだ」
「……ねえペトラ。もしこれが馬車だったら」
「ええ。こんな速度で走らせていたらすぐに馬が潰れます。人を乗せるだけの騎馬であっても、かなりこまめに休憩を取らないとなりません。優秀な軍馬だったら、スピードだけなら追いつける可能性がほんのちょっぴりあるかもしれませんが……」
「……」
「追いつけるだけで、すぐにスタミナが切れますね。走り続けるというその点では間違いなく勝てない。運べる荷や人への負担を考えたら、もうどうひいき目に見てもこれに勝てるはずがない」
「私個人としては、速さよりも揺れがないことのほうが驚きですけどね……。クッションも無いのにお尻が全然痛くならない……」
青い空。白い雲。輝く太陽。絶好のドライブ日和であることはもちろん、煩わしい信号も渋滞も何もない。隣ではペトラが外の景色に釘付けになっていて、後ろでもミルカや奥様が窓に張り付くようにしているのがイズミには見えている。
「ちょっと窓から離れてくれるか?」
「え? ……わっ!? 勝手に窓が落ちた!?」
「せっかくなら風を感じたいだろ? あんまり乗り出しすぎないようにな」
「相も変わらず、凄まじい技術というか、無駄に凝っているというか……。開くのならまだしも、窓が落ちるってどういう仕組みなんだか」
「ほかにもいろいろあるぜ? エアコンも搭載しているし、音楽も聴ける。こっちじゃ使えないが目的地までのナビゲーションに、コンセントとかも」
「ほー……この変なレバーやボタンは押すとどうなるんだ? 武器が飛び出したり弓矢を発射したりするのか?」
「絶対触らないでくれ。操作ミスって事故ることになる」
「げ」
シフトレバーを指で突こうとしていたペトラが、慌てたように手を引っ込める。後ろでは同じように、窓の縁をペタペタと触っていたテオの腕を奥様が全力で引き戻していた。
なるべく動かないように……と全力で体を強張らせる同乗者たちを見て、イズミは何となくおかしい気分になった。
「なぁに、そこまでガチガチになる必要はないさ。普通にしてれば問題ないよ」
「その普通ってのが、私たちにはわからないんだよ……!」
「ホントにヤバいのはそこの二つのレバーくらいか? こっちのはサイドブレーキって言って車を止めるもの。当然、走行中にいきなりブレーキを掛けたらヤバい。こっちのシフトレバーは……モードを変えるものだな」
「もーど、ですか?」
「おう。前に進むのと後ろにバックするのと……あとまぁ、速度よりも馬力を出したりみたいな、そんな感じだよ」
「よくわからないですけど、触ったら大変なことになるというのはわかりました」
運転席の窓から心地よい風が吹き込む。濃い草の匂いと土の匂い。ほんのちょっぴり混じる排気ガスの匂いは、ここ数か月間は全く感じなかったもの。たったこれだけで、イズミはここが異世界ではなく、地球上のどこか……例えばアフリカのサバンナかどこかを走行しているような気分になった。
「まぁでも、難しいことはないんだぜ。基本的には前に進むアクセルと動きを止めるブレーキ、あとはこのハンドルで進行方向を決めるだけだ。少し傾ければその分方向がずれて、ぐいっと一気に回せばしっかり曲がる……と」
「わ、わ!?」
「ゆ、揺らさないで下さいよ!」
「きゃーっ! きゃーっ!」
「あっはっは!」
からかうように、イズミはほんのちょっぴりだけハンドルを揺らす。蛇行というにはあまりにも振れ幅は小さいが、それでも初体験となる奥様達にとってはそれなりに衝撃的だったらしい。三人ともが必死にどこかにしがみついて、けらけらと笑って興奮しているのはテオだけであった。
「まぁ、冗談は置いておくとして……。何かあった時のために、簡単な操作くらいは覚えておいてほしいかな?」
「操作? ……ねえイズミ様、それって私にもできるんですか?」
「ああ。見えないだろうけど、俺の足元にあるペダルを踏めば進む。反対にあるペダルを踏めば止まる。ハンドルで向きを変えて、そこのシフトレバーで進むか戻るか停車するか決める。基本的にはこれだけだ」
「へえ……! それだけで動くなら、本当に便利……! 馬の手綱だと、練習しないとまともに扱えないですし……私のように体力のない人でも、誰でも扱える!」
「あ、いや……ホントは誰でも扱えるってわけじゃないんだ。ちゃんとそういう学校に行って、きちんとルールと技術を身につけないといけない。免許証を貰って初めて、コイツを動かす権利を貰えるんだよ」
「え……じゃあ、イズミ様の世界でないとその資格は得られないってことですか……?」
不安そうな奥様の声。イズミは、笑いをこらえながら言った。
「いや、ここで乗るのに資格なんて要らないよ。取り締まる警察もいないし、守るべき交通ルールも無いんだ。文句言う人なんて、誰もいないんだよ」
そもそも本当の昔は免許なんて存在しなかった、車の利用者が増えてきてルールを定める必要が出てきたから導入されたんだ──と、イズミは軽くうんちくを語る。実際の所、信号も標識も横断歩道も無いのに守るべきルールなんてあるはずがない。そもそも交通ルールとは自動車同士の通行を円滑にし、事故を防ぐためにあるもののわけで、他に自動車が存在しないこの世界においては全くの無用の長物であった。
「なるほど……確かにこれだけの速さの乗り物を、村人全員が乗り回すとなればそういう仕組みも必要か。我々も、馬車がもっと一般に広がればそういう仕組みができるのかもな」
「そうかもしれませんね……というか、改めてこの速度は本当にすごいですよ。こんなに安定して、ずっと同じ速さで走り続けることが出来るだなんて……もしかすると、街に着くのは思った以上に早くなるかも」
「たしか、街から辺境領まで迂回ルートで馬で十五日って言ってたっけか? その馬の速度はこんなもんで、しかもそれを維持できるのはわずかだって言うなら……」
「いえ、その計算はあくまで幌馬車で移動したときのものですよ。歩くよりちょっと速いくらいの速度で休憩を挟みつつ一日中移動して……ってやつです」
「……全力で駆けさせた場合はどうなるんだ?」
「うーん……その場合、途中の村ごとに馬を乗り換えて駆けていくことになりますが、この街道付近でそういったことをした例は聞いたことが無いですね」
「よし、よくわからないことがよくわかった」
どうせ急ぐ旅でもない。寄り道も回り道も上等で、なにより理論通りに物事が進むはずもない。きっと車じゃ通れない道もあるだろうし、もしかしたら何かしらのトラブルに巻き込まれる可能性もある。現在地だって概算でしかないのだから、難しいことは考えないに限る。
イズミにとってはそれよりも、久々のドライブを楽しむことの方が重要だった。
「まぁ、気楽にいこうぜ。こんなにいいドライブ日和なんだ、楽しまなきゃ損だろ……だよなぁ、テオ?」
「うーい! うーい!」
「はっはっは! そうか、テオもドライブは好きか!」
奥様の膝の上で手と足をぱたぱたと動かしてはしゃぐテオ。バックミラー越しに合った顔にはこれでもかというほどの喜びが表れていて、その笑顔はいつも以上にぱあっと輝いていた。
「よーしよしよし、それじゃあちょっとサービスしてやるかね……!」
「きゃーっ! うーっ!」
「い、イズミさん? なにもそんな揺らさなくても……! それに、スピードはもう十分では?」
「何言ってんだミルカさん、時速三十なんて俺の地元じゃ遅すぎて周りに文句言われるレベルだぞ」
「え、ええ……?」
「大丈夫大丈夫、こんななにも無い所で事故なんて起きるはずが……」
──そう、調子に乗っていたのが悪かったのだろうか。
ほんのちょっと。
そう、ほんのちょっとイズミが視線をミルカへ──バックミラー越しに後方を確認したまさにその瞬間。
「あっ……!」
どん、と少なくない衝撃が車体に走り、ハンドル越しに嫌な感覚がイズミの手に伝わってきた。
「な、なんですか今の!?」
がくんと跳ねた車体。さすがに異常が起きたのだと気づいたのだろう。ミルカと奥様が真っ青になって、運転席の方を覗き込むようにして顔を出してくる。一方で、すべてを見てしまっていたペトラは何とも言えない表情をしていた。
「いや……その」
「……」
ゆっくりとブレーキを踏み、イズミは車を止める。
「やっべ、やっちまった……!」
外。フロントバンパー。明らかに今着いたばかりの小さな凹みと、赤い痕。
「イズミ殿、あそこ」
同じように車から降りてきたペトラが、ある一点を指さした。
──そこには、形容するのがちょっと憚られる状態になった野兎の死骸がある。
「まさかこんなものが突っ込んでくるとは、夢にも思わなかったんだろうな。逃げる素振りすら見せなかったよ」
「お、おう……」
なんとことはない。単純に、進行方向にいたそいつを轢いてしまったというだけである。田舎や山道では、別に珍しくもない日常の一つだ。
当然、イズミも出合い頭の不慮の事故でこういったことをしてしまったのは初めてじゃない。いきなり飛び出してきたイノシシとぶつかったことだってあるし、夜の道でヘビやカエルを轢き潰してしまったことなんてもう片手じゃ数えきれないくらいにある。
だから別に、それそのものには慣れている。
ただし。
「いや……なんか、ミルカさんや奥様、テオが一緒にいるのにやっちまったのは……その」
なんというか、罪悪感が凄まじい。不慮の事故だし、何ならここでは取り締まる法すらないのだが、それでも気分のいいものじゃない。野生の動物を轢いてしまった経験こそあれど、それを是として開き直れるほどイズミは落ちぶれていない。
「すまん、ちょっと埋めてくる。せめてそれくらいは……」
「あら! なんだ、野兎でしたか」
「え」
いつの間にか、ミルカが車から降りている。奥様もテオを抱きかかえて外に出てきているが、何が起きたのかを察したのか、さっとそっちの方向から目を背けていた。
一方で、ミルカは。
「状態も悪くないですね……せっかくですし、捌いて今日の夕飯にしてしまいましょう」
一方で、ペトラは。
「そうだな、久しぶりに兎肉の煮込んだ奴を食べてみたい。いや、家の食材の方が美味しいんだが……こう、なんだか無性に食べたくなってきたというか」
二人ともが顔色一つ変えることなく、今日の夕飯について思いをはせている。シチューにしてしまおうだとか、できればもう一匹いれば十分に全員に行き渡るだとか。イズミの行いに眉を顰めるどころか、ルンルンと鼻歌さえ歌い出しそうな様子である。
「……」
それもそうだろう。だってイズミとは見えているものが違うのだから。イズミにとっては野兎の轢死体でしかないそれは──彼女らにとっては、狩りの成果、今日の夕飯のおかずでしかないのだ。
「イズミさん? どうしたんです、そんなにぼーっとして……。移動ついでに狩りまでできたのだから、もっと喜んでくれてもいいんですよ?」
「いやー、馬じゃこうは上手くいかないな。当たり所がよかっただけかもしれないけど、弓矢も使わず逃げ足の速い野兎を狩れるって相当だぞ!」
「は、はは……」
──そういえば、ここって日本じゃないんだった。
嬉々として野兎を捌く二人を見て、イズミは引きつった笑みを浮かべることしかできなかった。




