57 ペトラの疑問
滴る汗。荒い息。獣のように瞳をギラつかせた彼──イズミ殿の手には、私が適当にでっち上げた木剣が握られている。
剣術の指南──正確には戦闘の訓練を始めて、もうどれだけ経ったことだろうか。午前の探索の後、気が向いた時だけ午後にやっているだけだから、意外とまだそこまで回数は重ねていないはずだが、イズミ殿の動きはけっこうそれっぽい感じに仕上がっている。
「お、らぁ!」
「あまいッ!」
とはいえ、それも「初心者にしては」という言葉が頭に着くレベルの話ではある。曲がりなりにも正式な訓練を受け、何より何年も剣を握ってきた私に敵うはずがない。元よりイズミ殿は私相手に無意識的に手を緩めるところがあるから、そういった意味でも私に負ける要素はなかった。
「ちくしょう、これもダメか!」
「狙いは悪くないが、わかりやすすぎるな」
弾き飛ばされた木剣がくるくると回り、そして地面に落っこちた。当然のように、イズミ殿の首には私の木剣が付きつけられている。
参ったと言わんばかりにイズミ殿は両手を上げ、そしてどかりとその場で腰を下ろした。
「ちょっとはマシになってきたと思ったんだがねえ……」
「最初に比べれば、見違えるようだよ。だいたい、イズミ殿は今まで剣なんて握ったことが無かったのだろう?」
「そりゃ、そうだけどさ」
それでも、こうも毎回力の差を見せつけられると意外とヘコむんだ……と、本気なのか冗談なのかわからない言葉。どうにもイズミ殿は、私のことを奥様の護衛というよりも、守るべき婦女の一人と思っている節がある。女子供と見くびっているわけでは決してないのだが、それでも庇護対象にボロボロにされるのが情けない、と思っていないと言えば嘘になるのだろう。
まぁ、女扱いされるのは悪い気はしない。それに、そういう所がイズミ殿の良いところであり、好感の持てるところだ。
……だからこそ、ちょっと気になる。
「なぁ、イズミ殿。ちょっと休憩にしよう」
「おう……おう?」
イズミ殿の隣に、私もまた腰を下ろした。ちょっと休憩する……にしては、いささかおかしい距離感であることは否めない。
「ど、どうしたんだよ、ペトラさん」
「いや……その、ちょっと雑談?」
「知ってる、これただの雑談じゃない奴だ」
意外とカンが良いというか、なんというか。イズミ殿はちょっと身構えながらも、話を聞く態勢になってくれた。
「私、バカだからはっきり言おうと思うんだけど」
「うん」
「──なんで、こんなにも助けてくれるんだ?」
イズミ殿は、面食らった顔をした。
「なんで、って……」
「ああ、ちょっと質問が悪かったかも。……イズミ殿は、つまりは自らの意志に関係なくこの世界へと流れ着いて、そのままのんびりと暮らしていたわけだろう? 水も、食べ物も、住むところにも困ることなく……自由に外に出られるわけじゃないが、それなりに楽しく過ごしていたわけだ」
食べても翌日には補給される食糧。傷ついても翌日には修復される道具類。魔物の攻撃を絶対に通さない家の結界。流れ着いてしまったのが帰らずの森というのが致命的なまでに最悪だが、ただ暮らしていくだけなら限りなく良い条件。
そんな良い条件なのに。
「なのに、どうして……危険を冒してまで、奥様と私を助けてくれたのかなって。今もまた、こうして森から出るのに協力してくれているのかなって」
元より、イズミ殿は荒事とは無縁の生活を送っていたという。それは、私がこうして剣術を教えていることからも明らかだ。イズミ殿の世界では……少なくともイズミ殿が生活している範囲では、剣も魔法も殴り合いも、おおよそ暴力的な行いはほとんど見られないらしい。護身のためにナイフを懐に忍ばせていたら、それだけで捕まってしまうほど平和で治安が保たれているというから驚きだ。
おまけに、武装どころかもっと生活をするうえで普通なこと……鳥や獣を捌くことも普通の人間はしないらしい。こっちでは子供でもそんなことできるというのに。
「……イズミ殿の感覚からすれば、生半可な覚悟じゃないはずだろう?」
剣も魔法も使わない。鳥を捌くことだってしない。およそ暴力的なすべてが日常から排除され、血を見る機会なんて全く失われているイズミ殿の世界。
そんな世界の人間が、いったいどうして……魔獣が跋扈する森を踏破し、結果的とはいえ動く死体の蠢く塔の攻略なんかに乗り出してくれたのか。安全なこの家から外に踏み出して、血生臭い道へと進む覚悟を決めてくれたのか。
──ミルカからのお願いってだけで、そこまでしてくれるものなのか。
何の打算も報酬も無く、たったそれだけで命を懸けることが出来るのか。
「今だから、こうして聞くんだけれども」
もしかして、私の知らないところで別のやり取りがあったのではないか。
「その辺の理由を、知りたい」
私はどうしても、知っておきたい。
「ふーむ……『助けたいと思ったから』じゃ、たぶん納得のいく答えにはならないんだろうな」
「うん……こう、私も上手く言えないんだけど、そうじゃあないんだ」
「いや、なんとなく言いたいことはわかる。俺の行動はつまり、ペトラさんたちにとってあまりにも都合が良すぎるわけで、普通ならたったそれだけの理由で動いてくれるはずがない。何かしらのきっかけというか、それ相応のなにかがあるはずって、まぁ普通はそう思うわけだ」
「そう……そうなんだよ。もちろん、今更イズミ殿の善意を疑うわけではないんだ。ただその、こう……」
上手く言葉が出てこない。別にイズミ殿を疑っているわけではないんだが、こう……ああもう、剣ばかり振ってないで、もう少しまじめに勉強をしておけばよかった。
「無理すんな、ペトラさん。言いたいことは伝わっている……というか、はっきり言っていくれてむしろありがたい。それに、実は似たようなことは以前にも聞かれたことがあってだな……」
「そうなの?」
「ああ。──他でもない、ミルカさんにな」
やっぱり、ミルカは聞いていたのか。あいつ、結構打算的と言うか……貸し借りや恩義についてはかなり気にするタイプだしな。ましてやあんなことがあった後に、無償の善意なんて信じられなかったのだろう。
「しかしまぁ、なおさらどう答えればいいものやら……」
「……言えない、か?」
「うーん……少なからず、ミルカさんのプライベートというか、あまり喋るべきでないだろうことを話さないと説明できない気がする」
「……ほほう?」
それ。
そういう所を、たぶん私は聞きたかったのだと思う。
「そうじゃないと、話に説得力が出ない……と、思う。結局のところ、客観的に見れば俺は都合の良い善意の塊でしかない。それじゃペトラさんへの説明にならないとなると、その説明をしないといけないんだが……」
イズミ殿は、けっこうマジな感じで悩んでいる。眉間にしわを寄せて、ウンウンと唸っている。
「……私バカだし、イズミ殿の人柄を知っているからこそ、言おうと思うんだけど」
「おう。変に隠すよりはそっちの方が俺は嬉しい」
「……今、割と下卑た想像をしている。古今東西、何も持たない女が男にお願いをするときはそれしかない」
もし、私の目の前にいる人間がイズミ殿でなければ、間違いなくそうだったと思う。ミルカの意志云々に関わらず、こうまで都合よく面倒を見てくれるだなんて、そういう経緯があったとしか考えられない。
が、イズミ殿はそういう感じの人間ではない。それは、短いとはいえここしばらくの生活で十分に判断できるものだ。
だけど。
私たちが来る前の生活がどうだったかなんて……そこはちょっと、わからない。
わからないからこそ、気になる。
「……やっぱり、そういう考えに行きつくんだな?」
「そりゃあな。私が同じ男だったらどうしたんだろうって考えると……まぁ、大体の人間は同じところに辿り着くだろ」
「ふむ……まぁ、しょうがないところもあるんだろうな。確かに、そっちから見れば都合が良すぎて逆に胡散臭いか。なんかこう、色々あったみたいだし」
「そうそう。あと……やっぱり、なんだかんだ言っても、こうまでしてもらっておいてなにも返せないのは気が引ける。だから、イズミ殿が望むのであれば……」
今だから言える、こんな冗談。
「私の体くらいだったら、好きにしてもらってもいいんだが」
「滅多なこと言うもんじゃないぞ、女の子が……」
本気四割、冗談六割。奥様と坊ちゃんを助けてくれた恩義に報いれるのであれば、私の体の一つや二つ、どうなろうとかまわない……と言うのは紛れもない本音だ。おまけに現在進行形で、イズミ殿は無一文で寄る辺も無い私たちを養ってくれている。飯風呂ベッドをすべて提供してくれているとなると、むしろ私の体程度ではとても払いきれないと言っていいだろう。
まぁ、こんな傷だらけでゴツい女に興味なんて湧くはずないだろうけれども。それでもこうして女の子扱いしてくれるのはちょっとうれしい。
……風呂上がりの時とか、割と結構視線を感じるのはうぬぼれではない、はず。男のサガってのは愚直なまでに悲しいものだ。
「結論から言うとだな」
「あ、うん」
なんか割とあっさり、イズミ殿は話を切り替えてきた。
「俺みたいなおっさんになるとな……女の子からのお願いってものに弱くなるんだよ。でもって、赤ちゃんってのは例外なく可愛いもんだ。それがミルカさんとテオだってんなら、より一層そういう思いが強くなるのは当然だろ?」
「……逃げたな?」
「いやいや……異世界の女ってのは、みんな現実的と言うか、結構打算的なところがあるんだなって改めて思っただけだ。いや、たぶん俺が知らなかっただけで、俺の世界でも同じなんだろうな」
「……ふむ?」
「納得できないって言うのなら」
「お」
イズミ殿はごろんと寝そべり……胡坐をかいて座っている私の膝に、頭を乗せてきた。
俗にいう、膝枕ってやつだろう。
こんなにも汗臭くてゴツい枕で、なんだか申し訳なくなってくる。私が男だったら、膝枕の相手はもっと選びたいところだ。
「今はこれを、報酬とさせてもらおうか」
「ま、いいけどさあ」
適当にぐしゃぐしゃと、イズミ殿の頭を撫でてみる。世間ではこれでときめく婦女子が多いと聞くが……やっぱりどうにも、私の心は動かない。
私に普通の婦女子としての感覚がないからか、それともお互いポーズだってわかっているからか。初膝枕がイズミ殿でよかったと思う反面、どうせならもっとそれらしいドキドキを味わってみたかったと残念にも思う。
「誓って言うが、俺は何もしていない……これ以上は、ミルカさんに聞いてくれ。ミルカさんが話していいと思ったのなら、俺はそれで構わない」
「じゃあ、そうしてみる」
「……一応、周りに誰もいないところで聞いてあげてくれよ?」
「そりゃあね」
──その後。
休憩のお茶を持ってきてくれたミルカが、イズミ殿を膝枕する私を見てお茶を落とした。その顔には、思ったよりも絶望の表情が浮かんでいるように見えないことも無かった。
▲▽▲▽▲▽▲▽
「ふーむ……」
きめ細やかで滑らかな肌。艶やかでサラサラの髪。惜しげもなく晒された裸体には雫がついていて、それがなんとも扇情的だ。
女の私でさえそう思うってことは、男から見ればもっとすごいってことだろう。こんなにも素晴らしいものをこんなにも間近で……金も払わず独り占めしている私は、もしかしたら世界で一番幸せなのかもしれない。
「な、なんですか……そんな、ジロジロ見て」
「ミルカ……お前さあ」
ちょっとびっくりするくらいにデカい胸。肉付きのよく掴みがいのありそうな尻。だというのに腰のところはきゅっと細くて、太もものあたりは良い感じにむちむちでぷるぷる。
「ホントに、いいカラダしてるなあ!」
「ペトラ……今日のあなた、ちょっとおかしいわよ」
夕暮れ、風呂場。呆れたようなミルカのため息が、ちょっぴり狭いそこにぼんやりと響いた。
「昼間はイズミさんとあんなことしてたし、今だってこうして一緒にお風呂に入りたいだなんて……なんですか、遅れてきた甘えん坊期ですか?」
「いーじゃん、女の子同士一緒にお風呂に入りたい……ってのは、よくあることなんだろ?」
「お互い、女の子って言える年齢ではないでしょうし、女の子って言えるほど純真でもないでしょう? 十分に擦れきっていて……何より、そんなのはお貴族様の作り話の中だけって、あなたは誰よりも理解していると思うのですが」
イズミ殿の話では、十七歳は十分に女の子の範疇になるらしい。まだまだ親元で庇護を受けるのが普通で、結婚して子供を持つものもほとんどいないというから驚きだ。少なくとも名目上は子供であり、事実として結婚して一人前と認められるようになるのは二十歳を過ぎてから、とのこと。
その理論で言えば、私も十分に「女の子」になれる。つくづく、イズミ殿の世界は最高だ。
「ちょっとよけてくださいな」
「ん」
ミルカが声をかけ湯船に入ってくる。テオ坊ちゃんはともかく、大人二人が入るのは少々厳しい……が、やってやれないことはない。忘れそうになるが、こんな贅沢なものを独り占めなんてしていたら、逆に罰が当たってもおかしくないだろう。
ふにゅ、と柔らかい感覚が腕に。ふわり、となんか甘い匂いが鼻に。
「ミルカ……お前……」
「はい?」
嘘偽りのない、私の本音。
「なんかこう……丸くなったよな」
「え゛」
慌てたように、ミルカは自らの二の腕や脇腹を確かめだした。
「そ、そんな……! いえ、確かに最近ちょっと食べ過ぎと言いますか、おやつを奮発したりしていますが……! 決して、決してそんなことは……!」
「そういう意味じゃないんだけど……」
こいつ、何をこんなに焦っているのやら。
「いや、そういう意味でもあるのか? 良い感じに肉付きは良いし、お肌もぴっちぴちのぷるぷるだ」
「……何してるんですか」
「いや、やっぱり実感を伴っておきたいなって」
胸。特に胸。ふとももも脇腹も良い感じだけど、特に胸が凄い。こんなにも柔らかくふにふにしていて、そして触り心地のいいものなんて……それこそ、テオぼっちゃんのほっぺくらいしか私は知らない。何よりこいつのは、鷲掴みしてなお手から零れる。こいつはすごい。
「真面目な話、性格の方だよ。前までもっとこう、ツンツンしていて棘がある感じだったんだけど」
「そうですかね? 身内相手だったら、今も昔も変わらないと思うんですけど」
「うーん……そうじゃなくてこう……。ちょっとしたときの笑顔とか、ちょっとした仕草とか……あるいは、何気ない気配りとか」
「ふむ」
「……いわゆる、『女らしくなった』ってやつだ」
ほんのりとミルカの顔が赤くなっているのは、果たして風呂に入っているからだろうか。
「良いもの食べて健康的な生活を送っているから……ってだけじゃ、説明できないくらいに綺麗になった。それ以上に、何気ない部分ですごく……すごく、女らしくなった。自分じゃ気づいていないだろうけど、私でさえもちょっとドキッとときめくようなことがあるぞ」
「どうしたんですか、ホントに……あなた、そういう冗談言うタイプでしたっけ?」
「冗談じゃないんだけどね」
少し前のミルカは、身内以外にはもっと刺々しい感じがした。とにかく油断や隙を見せないように動くから、立ち居振る舞いは凛々しくてどこか距離感を覚えるようなものが多かった。決して、可愛いとか親しみ深いとか、そういう感じではなかったはずだ。
でも、今は違う。
見た目がすごく良くなっているのもそうだけれど、何気ない動作が女らしい。
で、女がそんな風に変わるって言うことは、つまり……。
「……イズミ殿と、何かあったりしたのか?」
俗っぽいが、恋をした時……ってやつなのだろう。
「なるほど、それを聞きたかったがために……いえ、それにしては少々回りくどい。私とあなたの仲なんですから、はっきりと言ってくださいよ」
「いや、実はさあ……」
昼間、イズミ殿に聞いたことをそのまま話してみる。まだ私と奥様がこの生活に混ざる前、イズミ殿とミルカだけがこの家に居た時に何かあったんじゃないか……と。何かしらの出来事があったのは間違いなくて、それはミルカのプライベートに関わるからイズミ殿の口からは言えなかった、ということを。
「なるほど、あの人らしい」
くすりと……自虐しているようにも見える感じで、ミルカは小さく笑った。
「まぁ、みんな考えることは同じですよね。お金も信用も無いタダ飯食らいが……それも、明らかに厄介ごとの匂いがぷんぷんする人間が、命の恩人に『命を懸けてほしい』だなんて図々しすぎるお願いをするんですもの。断られるのが当然で、それでなお要求を突き通すためにできることなんて」
「……あ、ホントにそんな感じなの?」
「ええ。あなたの想像通り、誘惑しましたとも。そうするしかないじゃない」
「……そっか」
なんとなく、わかってはいたけれども。それでもこうして、はっきりと言葉にされると……なんだろう、この気持ちは。すごく胸がもやもやして、なんとも言えない気分になる。
「まぁ、同じ立場だったら私もそうしたさ。テオ坊ちゃんと奥様を助けるためなら、何だってするよ」
「……ペトラ、あなた少し、勘違いしていませんか? イズミさんは誓って何もしていないと仰ったでしょう?」
「え?」
改めて。
ミルカははっきりと……悔しそうにも、嬉しそうにも見える何とも言えない表情をした。たぶんあの顔は、今の私にはどう頑張ってもできないものだと思う。
「ええ、断られました。ベッドの中で、服まで脱いだというのに」
「マジで?」
身内ってことを差し引いても、ミルカはかなり綺麗な顔立ちをしている。割としょっちゅう男からは言い寄られていたし、熱っぽい視線を向けられていることも多々あった。中身については好みの問題があるかもしれないけれど、少なくとも見た目だけならこれ以上に無い逸材のはず。
そんなミルカの誘惑を断ったってのは、ちょっと想像ができない。男ってのはもっとこう、女なら何でもいいような人種だと思っていたのだけれど。
「……あなたの言う通り、良いものを食べて、ふかふかのベッドで寝られて、そしてお風呂に毎日入れる。このシャンプーとリンスのおかげで、髪だって今までにないくらいに艶やかで、肌の張りと潤いも比べ物にならないくらい」
「うん」
「肉付きもだいぶよくなった……というか、かつてない程だと自分でも思っています。あの時だって、今ほどでないにせよ十分にコンディションは整っていました……今更ながら、なんか腹が立ってきましたね」
ぴく、とミルカは器用にも額に青筋を立ててみせた。
「ねえ、ペトラ」
「な……なに?」
「結局のところ、イズミさんは……私の中にある気持ちを見抜いて、純粋たる善意で動いてくれることとなりました。それはもう、間違いのない事実です。自分で言うのもアレですけど、私が迫ってなお手を出さず、それでいてお願いを聞いてくれたのですから」
「まぁ……目の前にぶら下げられたご褒美にも食いつかなかったってことは、そういうことなんだろうけど……」
イズミ殿のことだから、たぶん。
そんな、自己犠牲的な感じのそれは求めていないって断ったんだろう。ミルカへの好意云々はともかく、そんな気持ちでそういうことはしたくなかったってことなんだろう。言い換えれば、ミルカの気持ちそのものを尊重したのかもしれない。
「実際、イズミさんは……結構危なかった、私の泣きそうな顔を見なければ踏みとどまれなかったと仰っていました」
「ほお」
「ですが、理由はもう一つあると……あの人、なんて言ったと思います?」
答えが浮かばず黙った私を見て、ミルカは吐き捨てるように言った。
「──『さすがに子持ち人妻に手を出すのは人としてやっちゃいけない』、と」
「ひ、人妻ぁ!? お前が!?」
「ええ。あの人、よりにもよって……私ことを、二十七、八くらいの経産婦だと思っていたんですよ!? テオを連れていたっていうそれだけの理由で!」
いや。いやいやいや。さすがにいくらなんでもそれはないだろう。
そりゃあ、確かにミルカは同年代に比べて大人っぽいほうだけれど……それでもせいぜいが二十過ぎってところだろう。テオ坊ちゃんとミルカは全然似ていないし、親子と思うには無理がある。少々嫁ぎ遅れ気味ではあるが、それにしたって経産婦扱いするのは失礼が過ぎるような。
……いや、ある意味一部だけ見ればそう思えるのも仕方ない、のか?
「……ちょっと、どこ見てるんですか」
でもさすがに、実年齢より十も上に見られたのはかわいそうだ。私が同じ目にあったら、少なくないショックを受けると思う。
「いや……しかし、ずいぶんと紳士と言うか、道徳観念がしっかりしているというか。それに逆に言えば、子持ち人妻だと思われてなかったら……ってことだろ?」
「うふふ……普通はそう思いますよね?」
今のミルカには、後ろ暗いところは何もない。そして、子持ち人妻だという未婚の乙女に対してあまりにも失礼過ぎる誤解は解けた。そういう意味では、その気になればミルカはいくらでもイズミ殿に攻撃を仕掛けることが出来る。いや、むしろイズミ殿の方がミルカに攻撃をすることができる。
だというのに、現状そうはなっていない理由。
「あの人……今度は、十七歳は子供だから対象外だって。十七歳は法律上子供だから、手を出したら捕まると」
「うわあ」
そっかあ、対象外かあ。法律で禁止されているなら仕方ないかあ。
「子持ち人妻だからダメ、まだまだ子供だからダメ……ええ、まっとうな人間として、これ以上に無い判断でしょう。どこかの誰かさんに少しでも見習ってほしいくらいです。ですが、それはそれとして……」
「ババア扱いされたのも悔しいし、ガキ扱いされたのも悔しい、と。結果的に良かったとはいえ、かなり自信のあった誘惑を拒まれたのは女としてのプライドが傷ついたってわけだ」
「……まぁ、そんなところです」
恋愛感情的な気持ちが無かったとはいえ、確かにそれはかなり腹立たしいというか、なんというか。後から振り返ってみれば、これ以上に無いくらい馬鹿にされているように思わなくもない。しかもそれが純粋な善意から来るものだとなれば、余計にタチが悪いような気もする。
ミルカが女らしくなったのは、そんなイズミ殿を見返してやるためか。あるいは、今までのイズミ殿の行動に本当に惚れ込んだからか。
なんとなくだけど、おそらくきっと。いろいろがっつりその辺を問い質したいところだけれども、ここは一つ、友人のためを思ってあえてスルーしておくとしよう。ミルカ自身が自分のことに気づいているのか……いや、いないのか?
なんにせよ、このまま放っておくのが一番いい。
「でもじゃあやっぱり、イズミ殿は本当の善人ってことなんだろうな。そんな人間がいるなんて、ちょっと信じられないくらいだよ」
「ええ、それについては心から同意します。ちなみに……イズミさん本人は、隠し事をするくらいなら本音を打ち明けてほしい、もっと積極的に頼ってくれる方が嬉しいって仰っています」
「ふむ。女の子に頼られるのも嬉しいって言ってたな」
「そうですね、あとは……そう、テオと私の三人でお昼寝したいとも言っていました」
「それだけ?」
赤ん坊を含めた三人でお昼寝、か。イズミ殿がミルカのことをそういう対象として見ているのかいないのか、どうにもよくわからない。この前のパソコンのアレを鑑みるに、女に興味がないってことは無いだろうけれども。
「……それなりに長い間森の中で一人暮らしをして、そのあと私とテオが迷い込むことになって。三人の生活の楽しさを知ったから……もう、一人には戻れないとも言っていました。だから、傍にいてくれるだけでいいんだって」
「……」
もしかしたら。
イズミ殿は、何よりも……今の関係が壊れるのを恐れているのかもしれない。今のこの当たりさわりのなく安心できる関係が、変わってしまうのを恐れているのかもしれない。
「そういう人なんですよ、あの人は。……だからきっと、礼節をもって本音を晒すのが一番なんでしょうね。そうやって平和にいつも通り過ごすことを、おそらく何よりも望んでいるのだと思います。ほんの少しでも、こっちに気を使わせたくない……むしろ、あえて向こうから対価を作ることで、こちらの気を使わせないようにしている」
「……そう言えば、あの膝枕もそんな感じだったかも」
「貰った恩は、膝枕や料理、添い寝なんかじゃとても返しきれないんですけどね……もっと大きな要求、してくれてもいいのに……」
「……そうしたら、今度こそきっちり誘惑してみせるってか?」
「……ばかぁッ!!」
ばしん、とミルカは私の背中を叩き、話は終わりだと言わんばかりに立ち上がる。私より後に入ったくせに私より先に出るとは、いったい何を考えているのか。そんなことにさえ気づかずほどに取り乱していることに、あいつ自身は果たして気づいているのやら。
「話してくれて、ありがとな。おかげでいろいろ……うん、なんかいろいろすっきりしたよ」
「ホントにもう、調子が良いんだから……」
イズミ殿の考えもわかった。ミルカの気持ちもなんとなくわかった。今までにいったい何があったのかもわかって、これからのことも……なんとなく、わかってきたような気がする。
ああ、そうだ。これからだ。
大事なのは、これからのことのほうだ。
「なあ、ミルカ。最後に聞きたいんだけど……」
「なんです?」
テオ坊ちゃんは毎日すくすくと成長している。奥様も今までにないくらいに笑顔が増えて、坊ちゃんとの時間を大切にしている。ミルカはミルカで変わり始めていて……そしてイズミ殿は、まだまだこれからこの世界を知っていくという楽しさがある。
「これから、どうしたい? 今こうして自由になって……お前は、何を願う?」
ミルカは、今度こそ本当に──心の底から、笑って言った。
「この平和な生活がいつまでも続くことを……私たち家族みんながいつまでも笑顔でいられることを、私は何よりも願っていますよ」




