55 彼の傷痕
そして、翌日。諸々の準備を整えたイズミ達は玄関へと集っていた。
まだ日が昇って二時間経ったかどうかといったところ。体感的には朝の八時かそれくらいだろうか。朝食も着替えもすでに終わっており、ここが日本であったとしても、文字通り戦場に行くのにちょうどいい頃合いである。
日本のそれと違うのは、イズミ達の出で立ちがスーツや通勤のためのカバンなどではなく、プロテクターに登山用リュック、殺虫剤やら忌避剤をふんだんに染み込ませた魔よけのマントに、さらに各々鉈やナイフで武装している所だろう。
「水よし、ガスよし……っと、これはする必要が無いか」
「……ええ、私がここに残りますから」
どことなく不安げな表情で、それでもミルカが決意したようにうなずく。
武装しているのは三人。イズミ、ペトラ、そして奥様だ。言わずもがなイズミはこの森を脱出するのに最も重要な人物であり、そしてペトラは替えが利く護衛としての役割がある。奥様は道中の魔法担当であり、同時にまた治療担当としての役割のため一員として抜擢されたのである。
「ですが、鍵は忘れないでくださいね?」
「ああ、もちろん」
ポケットの中に鍵があることをしっかり確認して、改めてイズミは宣言した。
「今日は初日だ。そんなに無理するつもりはない。どんなに長くても、昼くらいには切り上げる」
以前のミルカの話。地理的に推測されるこの森を突っ切るまでの物理的な距離は、歩きでおよそ七日間ほど。【元々あった家の場所から四日程度の、森の比較的浅いほうにあるガブラの古塔】という情報を鑑みると、多少の誤差はあれど、元々の家は森のほぼ中央くらいにあったはず。
つまり単純に考えて、イズミ達がガブラの古塔へやってきた方向の反対側へ行けば、森を抜けることが出来るはずである。
では、どれくらい歩けば森から出ることが出来るのか?
物理的な距離関係から簡単に計算すれば、一日か二日も歩けば森から出られるということになる。しかし、森は平地に比べて歩きにくく、方向を見失って迷いやすい。加えて、平地に比べて暗くなる時間も早くなると考えると、自ずと一日当たりの活動時間も短くなる。
人間の歩く速度はおおよそ時速4kmと言われている。一日六時間歩くものだと仮定して、ざっくり計算で25km。二日間かかる距離だとすると、ここから森の出口まではおよそ50kmほどだというのがイズミの見立てだ。
歩く時間が一回当たり三時間。時速4kmなんて都合のいいペースで進めるわけが無く、道中の魔物との戦闘やそれを回避するための迂回を考慮して時速2kmと仮定。そうすると、一日当たり6km進めることになる。
つまり、無理せず半日だけ歩く……を繰り返すならば、八日から九日程度でこの森を脱出することが出来るというわけだ。
「イズミ殿、あえて今一度、確認させてもらうが……」
「……うん」
「──何かあったら、真っ先に私を見捨てろ。自身と奥様が最優先だ。体を張るのは私だけでいい」
「……」
昨日の夜の段階で、ペトラが主張していたこと。この道中は常に自分が先頭を進み、迫りくる敵はすべて一身に引き受ける。そこは譲れない絶対条件とのことだった。
「私がどんなに大怪我を負おうとも、奥様が無事ならきっちり治してもらえる。イズミ殿が無事なら、ここでゆっくり休むことが出来る。だが、逆はそうはいかない。奥様が負傷されたら、自身の魔法で傷を癒す余力が無い。この家に帰ってこられても、持つかどうかがわからない」
「……」
「無論、イズミ殿の負傷も致命的だ。ここに帰れないのはもちろん、帰れたとしても……イズミ殿は、癒しの魔法の効きが悪い」
「……わかってるよ。でも、だからって進んで犠牲になるようなやり方はやめてくれよな。これ、家主命令だぞ」
「私からも、同じ【お願い】をするからね?」
「ええ、もちろんですとも」
道中の確認はこれくらいだろう。極端に言えば、三時間程度森を進むだけのことなのである。準備しすぎるということはないだろうし、油断も決してするわけでもないが、逆を言えば注意することはそれほど多くはない。
「ミルカ、テオをよろしくね?」
「ええ、もちろん」
「ああ、あとシャマランのやつも家から出さないようにな。一応、念のため」
「心得ております」
アー、アーと部屋の奥の方でシャマランが鳴く声がイズミ達の耳に届く。空に羽ばたけなくて不満なのか、それとも自分だけ話し相手も宛がわれずに室内で足にひもを括られているのが不満なのか。なんにせよ、一時期に比べてずいぶんと健康的になったことをイズミは何となく嬉しく思った。
「うー……」
「あん? なんだテオ、お前、今にもベソかきそうな顔しやがって」
「だーう……」
ミルカの腕の中にいるテオに、イズミは優しく笑いかける。当然のごとく、今回はテオはお家でお留守番だ。そのためにミルカがこうして家に残っているわけで、そもそも赤子を連れて危険な森を突破するという前回の試みが無謀過ぎただけである。
「帰ってきたらいっぱい遊んでやるから、笑って送り出してくれよ」
「みー……」
「……アレか、ママの抱っこの方がいいってか? ったく、贅沢な泣き虫だよなあ」
ちら、とイズミは奥様へとアイコンタクトを送る。それとほぼ同時に、ミルカはテオを奥様へと差し出した。
もはや本能的に腕を伸ばしていたテオは、奥様にしっかりと抱きとめられた。
「ふふふ、テオは甘えん坊さんなんだから。……大丈夫、ママもイズミ様もペトラも、みんな無事に帰ってくるから」
「……んま?」
「ええ、本当よ。だから、ミルカの言うことをきちんときいて、お利口さんにして待っていてね?」
テオが奥様のほっぺにぺちぺちと触れる。最後にぎゅっとその身を抱きしめた奥様は、名残惜しそうにしながらもミルカに愛息子を託した。
「……じゃあ、行ってくる」
「……行ってらっしゃい!」
玄関の外。門扉の手前ギリギリ。イズミ達の背中が見えなくなるまでミルカはそこを動かず、ただひたすらに無事を祈った。
▲▽▲▽▲▽▲▽
「……もうそろそろ、だと思うのですが」
イズミ達が出発して約三時間。リビングにて、ミルカはぽつりとつぶやく。
「うー?」
「いえ、なんでもないのですよ」
ぽーん、とミルカはボールを投げた。空いている時間に余った布で作った、野球ボール大の布製のそれだ。布製だから投げたところであまり遠くまで転がらず、そしてぶつかったところで物を壊したり誰かをケガさせる心配も無い。テオ用のおもちゃとしてはこれ以上に無いものであり、そしてハイハイを覚えたばかりのテオの最近のお気に入りであった。
「んま!」
「はい、えらいえらい」
よちよちと一生懸命ハイハイして、テオはそのボールを取ってくる。ほめてくれと言わんばかりにぱあっと顔を輝かせ、期待した眼差しでミルカを見つめていた。
「はい、今度はあっち!」
再びミルカがボールを転がす。にこーっと笑ったテオは、夢中になってそのボールを追いかけていった。赤ん坊らしさが残る大きな尻を振って、少々たどたどしく動くさまは、こんな時でもなければ思わず顔が綻んでいただろうとミルカは思う。
「……そろそろ、ですよね?」
時間的にはそろそろのはず。最近時計の読み方を教えてもらったから、ミルカは壁時計のそれを読み取ることが出来た。イズミの話では本当の時間はわからないし、いくらかズレがある……とのことだったが、イズミが普段つけている腕時計とリンクが取れていること自体は確認している。つまり、お互いの指標として役立つのは間違いない。
イズミ達が出発した時、リビングの壁の時計は八時十五分を示していた。今は、ちょうど十一時を示している。
「奥様にペトラもいる……滅多なことが起こるはずがない。何かあったら、すぐにでもイズミさんが家を呼び出すはず……」
もう何度目かもわからないが、ミルカはちらりと外を見る。窓の外の景色……石垣の外には未だにガブラの古塔があった。
「アー!」
「あっ」
ふと見れば、シャマランがボールをその丈夫な前脚でがっしりと掴んでいた。どうやらテオが遊んでもらっているのを見て、興味を持ったらしい。地面を歩くのはそこまで得意でないはずなのに、器用にもちょこちょこと歩いて自慢げにそれをテオに見せつけている。
「あらまあ。負けちゃいましたね」
「う……」
「あっ」
まずい、と思ったときはもう遅い。
「うわあああああん!」
先を越されたのが悔しかったのか。それとも単純に、やりたいと思ったことが出来なくて悲しかったのか。それはもう盛大にテオは泣き出した。
「うわあああん! うわああああん!」
「もう、テオったら……シャマランだって、一緒に遊びたかっただけですよ」
「アー! アー!」
「こら、あなたも……って、鳥に言っても伝わるわけないか」
テオが泣いているなんて知らないとばかりに、シャマランはボールを掴んだままその周囲をちょこちょこと歩く。あるいはそれがシャマランなりのテオの励ましだったのかもしれないが、所詮は鳥だ。どうしてテオが泣いているのか、自分が何をしているのかもよくわかっていないらしい。いや、むしろわかる方がおかしいだろう。
「シャマラン。わかりましたから、ボールを返してくださいな」
「アー! アー! ア……グェッ」
「あ」
ほんの、一瞬の出来事だった。
泣きわめいて腕を振り回していたテオが、偶然にもシャマランの首をガシッと掴んだのである。
「……ま?」
「グェ……」
「……んま?」
「……」
じたばたと抵抗するシャマラン。さすがに赤ん坊だからか、首を掴まれていると言っても締まっているわけではないらしい。鳴くことはできていないが、ケロリとした表情でバサバサと翼を動かしている。
「……きゃーっ!」
「ダメです」
新たなおもちゃを見つけてしまいそうになったテオを、ミルカはさっと抱き上げた。流れるようにテオの手を外し、自分に抱き着かせる。掴み心地はこっちのほうがいいだろうと、自身の結った髪をテオの手のひらにそっと押し付けた。
「そんなことをしたら、シャマランが苦しいでしょう?」
「……ま?」
「めっ、です」
今はまだ、シャマランの方が「遊んでやってる」ので問題ない。動物としてのカンからか、シャマランはどうにもテオを下に見ている節がある。それは決して悪い意味だけではなく、面倒を見るべき弟分として扱っているのではないか……というのがミルカの推測だ。
だが、いつしかテオが成長し、もっと力が強くなったら。同じことをした瞬間に、シャマランは本気で抵抗してテオを突いて実力をわからせることだろう。そうなる前に止める自信はあるが、情操教育として、やっていいことと悪いことをテオに教える必要がある。
「みんなで仲良く遊びましょう。そうじゃなければ、ボール投げはもうやってあげません。……わかった?」
「……あい!」
「アー!」
「よろしい」
──今度から、ボールをもう一つ増やしたほうがいいかもしれませんね。
そんなことを思いながら、ミルカがボールを転がした……まさに、その時だった。
「……ッ!?」
部屋がいきなり暗くなった。
いや、暗いと言っても真っ暗ではない。先ほどまではお日様の光が降り注いでいたのに、いきなり日陰に来たかのような感じだ。
「まさか……!」
慌てて窓の外を見てみれば、そこには。
「移動、している……!」
石塀の外に深い森の樹々が広がっている。見渡しの良いあの広場ではなく、鬱蒼とした……一番初めに家があった場所とよく似た雰囲気のそれが広がっていた。
「ミルカさーん、今帰ったぞーっ!」
「イズミさんっ!」
テオを抱き上げ、洗濯物を干すときに出入りする掃き出し窓の方へ。ちょっぴりぶかぶかなサンダルに慌てて足を通したミルカは、今の自分が出せる全力で門扉の方へと回った。
「よ。そっちも問題なかったみたいだな」
「ああ……!」
イズミもペトラも奥様も、無事な姿だ。ケガをしている様子も無ければ、具合が悪そうな様子も無い。程よい運動をしてきたかのように表情が晴れやかで、装備についても朝と全く同じ様子だった。
「いや、久しぶりに歩いたけど、部屋で体を動かすのとはまた違うな!」
「ふふ……こんなふうに冒険するのなんて、初めてで楽しかったですよ」
「好きな時に、絶対に安全な場所で休めるこの安心感……旅の根底が覆るな」
ただ、少しだけ言わせてもらうとするならば。
「……あの」
「うん、言いたいことはよくわかる。正直俺も、自分自身でちょっとどうかと思ってる」
イズミも、ペトラも、奥様も。
尋常じゃないほどに汗まみれで、肌の露出している部分にはびっくりするほどべちゃべちゃになっていた。
「……正直舐めてた。めっちゃ暑い。暑いと思って水を飲んだら汗がすげえ勢いで噴き出てきた」
「これでもちょっとは土だの泥だのを払ったんだがな。元々がべとべとしているものだから、大して意味も無かった」
ミルカの体感的にはそこまで暑いわけでもなかったが、あの重装備の状態で森を進めば、蒸し暑くなるのも当然だ。加えて、三人は補給が自由にできるのをいいことに遠慮なくガンガン水分を取っている。体温調節機構として、汗が出るのはもはや必然と言っていい。
「それで、その……」
「ええ、湯船の準備はできています」
「あー、俺はいいから先に奥様達が入ってくれ。さすがにこれは忍びねえや」
「そ、そうさせていただきますぅ……! テオ、抱っこはまたあとでね……!」
いつもなら遠慮する奥様が、顔を赤らめながら装備を解いて風呂場に向かっていく。おそらくそれほどまでに服の下は凄惨なことになっていたのだろう。同じ女として、ミルカはその気持ちがよくよくわかった。
「じゃ、私もお言葉に甘えるとしよう……装備の点検は午後にやるから、ここに置きっぱなしでいいよな?」
「おう。俺に気にせずゆっくりさっぱりしてくれよ」
ペトラもまた、鉈やリュックをその場において風呂場へと向かう。とりあえず手持無沙汰も何なので、ミルカはイズミと共に外に置いておいていい荷物を洗濯物干しの近くまで運んだ。門扉から十数歩、ぐるっと家の側面に回るだけの簡単なおしごとである。
「調子はどうでした、イズミさん」
「びっくりするほど順調だったな」
こんな状態で風呂にも入らず家に上がりたくない。そう主張したイズミは縁側の所にどっかりと座り、今日あったことを語っていく。もちろん、その片手にはミルカが用意したキンキンに冷やした麦茶があった。
「魔獣と遭遇したのは二回だけだったな。それ以外は以前森を進んだ時と大して変わらない。先頭がペトラさん、その後ろを俺と奥様が付いていく感じだ」
「ふむふむ」
イズミのグラスがあっという間に空になったので、ミルカは追加の麦茶を入れた。どうせこれだけでは足りないことがわかりきっているので、ここにはピッチャーごと持ってきている。
「最初の遭遇は、こっちからケンカを吹っ掛けた。なんかこう……狼っぽいやつだったんだけど、ちょうど風上だったからさ。ペトラさんがクマよけスプレーを吹き付けながら突っ込んで、それで終わりさ」
「うわあ」
残量を気にせずクマよけスプレーを使えるなら、こういった戦法もとることが出来る。匂いがバレる不利な位置取りにあるのなら、いっそそれを利用してしまえばいいというあまりにも力技過ぎる方法。効果的だというから余計にタチが悪かった。
「二回目は、ちょっとした集団だったな。この前のオークに似たやつが五匹くらいだったかな?」
「え……さすがにそれは、対処するのは難しかったのでは?」
「おう。だから迂回しようと思ったんだが……ここで奥様が」
「……あ!」
「そう、魔法を使った。……いや、すごい水の魔法が使えるってのは話に聞いていたけど、あれほどまでとは……」
帰りを気にしなくても良くて、守ってくれる人がいる。じゃあ、私もそれに応えないわけにはいかない……と、奥様は敵の集団を目の前にして、自らの魔法を使った。
大きな大きな水の塊が現れて、津波とウォーターカッターを足して二で割ったような水の暴力が連中を森ごと押し流していったのが、イズミの瞼の裏には未だに残っている。それは個人が振るえる力としてはあまりにも大きすぎて、この世界がファンタジーであると改めてイズミに思い知らせるほどの物であった。
「みー! み!」
「テオ……お前のかあさん、すっげえんだな……。あんなヤバそうな魔物が一発でくたばってぐっちゃぐちゃだ……。森ごと押し流すって、どんだけすごいんだよって話だよ……」
「水の巫女ですからね。そこらの魔法使いとは比較になりませんよ」
「いや、まったくその通りだな。なんだかんだで癒しの魔法もミルカさんの風の魔法も目に直接見えるわけじゃなかったし……こう、魔法らしい魔法を初めて見てビビったというか」
「まぁ、私のような風魔法は攻撃手段としてはあまり使われませんからね。あと、奥様ほどの魔法の使い手はそうそういないので、それよりすごい光景はめったに見られないと思いますよ?」
「アレが魔法使いのスタンダードだったらそっちのほうがびっくりだ。……でも」
「でも?」
「テオはもっとすごい魔法を使える素質があるんだろ? ……ホント、将来が楽しみだな!」
「うーい!」
よほど喉が渇いていたのであろう。イズミのグラスはまたもや空っぽになっている。こいつは氷も入れたほうがいいと判断したミルカは、さっとそのグラスを回収して氷を入れた。立ち上がったついでに、イズミのグラスに手を伸ばして手をぐーぱーしていた──麦茶に興味を持ったテオのために、あえてわざわざ別に作っておいた薄い麦茶と小さなコップも準備する。
片手でグラスを握り、ぐいっとそれを呷るイズミ。小さな両手をいっぱいに広げ、くぴくびと可愛らしくそれを飲むテオ。全然違うはずの二人の仕草が、なぜだかミルカにはそっくりに見えた。
「なんにせよ、順調なようでよかったです」
「んー……実は、ケチが無かったかと言うとそういうわけでもなくてな。距離自体は予定よりかなり稼げたと思うんだが、若干迷っている疑惑がある」
「あら」
「たまに見る太陽の傾きがどうにも計算と合わない。マーキングしながら歩いているから、方向を間違えることはないはずなんだが……」
「元々迷いやすいところですし、真っすぐ進めないのはしょうがないですよ」
「そこは諦めるしかないか。とはいえ、ガブラの古塔から遠ざかっているのは間違いない。すでに十分離れられたはず……だと思う」
「それは何よりですね」
またもやイズミのグラスが空っぽになっている。四つほど入れた氷も見当たらない。はて、こんなに早く溶けてなくなるなんておかしい……とミルカが訝しんでいると、バキッ、ゴリッというなんともワイルドでたくましい音が聞こえてきた。
そして。
「……ミルカさん」
「は、はい?」
いつになく真剣で、まじめなイズミの表情。ちょっぴりドキッとしたのはミルカだけの秘密だ。
「悪ぃ。……もう、耐えらんねえ」
「は、はい……えっ!?」
すっくと立ちあがったイズミは、それが自然なことであるかのように、豪快に服を脱ぎだした。
靴を脱いで、上着を脱いで、肌着も脱ぎ散らかして。かろうじてパンツだけは残っているが、木漏れ日の下に程よく鍛え上げられた、汗が噴き出てつやつやと輝く男の裸体が晒される。
ふわりと漂う、男の匂い。汗と土と人のそれが混じった一種独特の匂い。それは決して快いものではないはずなのに、不思議とミルカはそれが気になって気になって、悪いもののようには思えない。落ち着かないのに落ち着くような、良い匂いではないはずなのになぜかドキドキして気になってしまうような。その匂いは、ミルカにはそのように思えてならなかった。
「えっ……その、い、イズミさん……?」
これはもはや、覚悟をする時が来たのか?
しかし、あまりにもタイミングがおかしくないか?
もっとこう、ムードというものを考慮すべきでは?
そもそもここには、テオがいるはずでは?
いや、そんなことが考えられないくらい、頭が茹だってしまっているのでは?
「えっ、と、その……うん」
誰もいない森の中。年頃の娘が一人と、パンツ一枚だけの男がいるという現実。そういう話がないわけでもなかったという事実に、イズミの人間性と言う実績。今までのいろんなことが頭に巡って、いろんなことを天秤にかけて。なんとかミルカが弾き出した言葉は、質問にもなっていないようなありふれたものでしかなかった。
そして、イズミは。
「ミルカさん」
「は、はいっ!」
「──そこにホース繋いで、上から水ぶっかけてくれ。やっぱ暑くて耐えらんねえわ」
庭の端、外に備え付けられているホースを指さした。
「……どうせそんなことだろうと思いましたよ」
麦茶を飲んだからだろうか。今この瞬間もイズミの体からは汗が吹き出し続けている。木漏れ日の下で輝く肉体と言えば聞こえはいいが、あまりキレイなそれでないのは確かだ。心なし、なんか周りの空間がむわっとしているような気さえする。
小さくため息をついたミルカは、言われた通りにそこにホースをつないだ。そして、ろくに力加減もせずにグイっと思いっきりその蛇口をひねった。
「ああー……」
「気持ちよさそうですねえ」
「うん、最高」
ホースの先端を指で潰し、少々手首をゆらゆらと揺らして。程よく上から水が拡散するようにして、ミルカはイズミの頭から水をぶっかける。
「……婦女の前でいきなり脱ぎ出すとは。もっとこう、デリカシーとかそういうのは」
「なんだよ、全裸じゃないしいいじゃんか。それに今更だろ」
「そういうわけではないと思いますが」
「……言わせるのか?」
「治療行為はノーカンでしょう!? それにあれはお互いさまってことで納得済みのはずですっ!」
「あ、そっち?」
「それ以外に何かあるんですか!?」
「……夜中にベッドに忍び込んできて、紳士の前でいきなり脱ぎだしてきた人が俺の目の前にいるんだが」
「~~~~っ!」
ミルカは全力で蛇口をひねった。水の勢いが数段強くなってイズミを襲う。
「お、良い感じ」
「あなたって人は! あなたって人はァ!」
「おーおー、赤くなっちゃって。……何なら一緒に水浴びするかい?」
「んもう! んもうっ!」
「きゃーっ!」
庭に煌めく水しぶきに、テオが楽しそうにぱたぱたと手を動かす。心地よさそうに水にぬれるイズミが楽しそうに見えたのだろう。自分も仲間に入れてくれと言わんばかりに、テオはイズミに向かって手を伸ばしていた。
「よう、テオも混ざるか?」
「だーう!」
「……ま、この気温ならば風邪を引くこともありませんか。たまには水遊びもいいでしょう」
「そうこなくっちゃ!」
テオをすっぽんぽんにひん剥き、そしてイズミはテオを抱っこする。この歳だからこそ許される、モロ出し状態。同じことをイズミがやったら、警察に通報されてしまうことだろう。
「きゃーっ! きゃーっ!」
「ふふふ。楽しいねえ、テオ」
「やっぱ水遊びとかが好きなのかな。今度時間を見つけて、子供用プールでも作ってみるかね?」
「子供用プール、ですか?」
「おう。……こう、広くて浅い桶みたいのを想像してもらえれば」
「んー……よくわかんないので、今度パソコンで教えてください」
手首を揺らして、水を撒いて。あくまでテオには直接当てないようにしつつ、それなりの満足感が出るように。何より大変なのは、テオが飽きないように常に新しいパターンを考え続けることであった。
「楽しいなあ、テオ?」
「だう!」
「ミルカさんも混ざればいいのにな?」
「混ざれませんよ、もう……」
そうして、どれだけ遊んでいたことだろうか。やがて、ミルカは後方よりどたばたとした気配を感じた。
「テオ、イズミ様、おまたせ……きゃっ!?」
外へと顔を出した奥様、一瞬でかあっと赤くなる。自分のほっぺを押さえるようにして顔を隠して、そして指の間からちらちらとこちらを窺っている。あまりにもそれらしすぎるその反応に、イズミは苦笑を隠せなかった。
「どうした、奥様?」
「そ、その……ちょっと、目のやり場が……!」
やはり、全裸でないとはいえ、奥様は男の裸体に免疫がないのだろう。これくらいだったら水着とさしてかわらないし、露出としては多いかもしれないが、別に恥ずかしがるようなものでもない。もしこれがペトラだったら、普段通りにあっけらかんとしていたはずだ。
果たして、ホントにこの人は人妻なのだろうか──という疑念がイズミの中に湧きあがってくる。イズミの知っている一般的な女性像に対して、奥様はあまりにもウブ過ぎるのだ。
「アレが普通の反応なのかな?」
「私も、最初はそんな感じだったんですけどね」
「そうかぁ? なんかもう、すっかり見慣れていて動じないイメージしかないんだけど」
「あ、あなたがあまりに適当な格好でうろつくから! 奥様がいる時は気を使うのに、私の時だけ!」
主に風呂上がり。奥様がいると解っているときはちゃんとシャツを着るイズミだが、ミルカしかいないと解ってるときは面倒くさがって上裸で出てくることが少なくないわけではない。別に殊更深い意味は無いのだが、以前の慣習に則っているだけである。
「や、その……ミルカさんだし、べつにいいかなって……」
「どういう意味ですかッ!」
ピタッと水を止め、ミルカは元々持ち出していた汗拭きタオルをイズミに投げる。どうせこの後すぐに風呂に入るのだから、最低限の水気が取れればそれでいい。もっと言えば、純情な奥様が変な世界に染まらなければそれでよいのだ。
「お、お気になさらず……わ、私は別に大丈夫だから……」
「いや、さすがに奥様の前でだらしない恰好はできないよ。……でも、多少は免疫つけさせとかないと心配だな」
「……箱入りにしすぎて起きた実例もありますしね」
何とかそれに慣れようと、奥様は必死にイズミの体を見ようとしている。顔を背けないように、手で顔を覆わないように。その努力自体は認めるものの、真っ赤になってチラチラ見るくらいなら、開き直ってガン見したほうがいいとイズミは心の中だけで思った。
「あ……イズミ様、それ……」
「ん?」
テオの体を軽く拭いて、ミルカに背中を拭いてもらって。ついでに必殺のおひげじょりじょりでテオと戯れていたイズミのある一点を見て、奥様が声を上げた。
「首の所……痕になっちゃってますね……」
「あー……」
首の所。例の、毒蛇に噛まれたところだ。青痣と言うわけではないが、そこだけやや赤く変色して腫れたようになっている。そこまで大きくないので殊更に目立つというほどでもないが、気になると言えば気になる……そんな、絶妙の大きさである。
よくよく見れば、その赤い部分の中央部にちょっとした小さなキズが残っていることに気づけるだろう。かなり顔を近づけて、指で触れてようやくわかるかどうかといったキズだ。
「なんか知らないけど、ここだけは完全には治らなかったんだよな」
異界の毒蛇による一撃だ。ただの擦り傷、切り傷とはわけが違う。元々癒しの魔法自体がイズミに効きにくいこともあり、こうして傷痕として残ってしまうのもある意味しょうがないところがある。むしろ、ここまで小さく抑えてくれたことに感謝すべきだろう。
「あら、ホント……。触ってみると、感触が違う……典型的な古傷って感じですね」
イズミの背中を拭きがてら、ミルカがその傷に指を這わせる。くすぐったくって背筋がぞくぞくするのを何とかイズミは我慢した。
というか、そもそもとして。
「別に、俺はこんなの気にしないよ。膝小僧には子供の頃に派手にコケた時の傷が未だに残っているし、実は肘の所にも似たようなのがある。これが女の子なら気にしたんだろうが……男にとっては、勲章だ」
田舎の悪ガキの例に漏れず、イズミの体にはあちこちに似たような傷がある。そんなキズがたかだか一つ増えたところで、別に気にするはずがない。
「ですが……やっぱりそこは、結構人目につく場所です……」
「こんなところ、いちいち見る人なんていないと思うけどな。別に疼くわけでも何でもないし、ホントに気にしなくったっていいんだぜ」
「あの、その、そうなのですが、つまり……」
はて、おかしいなとイズミは訝しむ。なんだかちょっと、奥様の様子が先ほどまでとは違う。赤くなってチラチラとこちらを見ているのは同じなのだが、そこに含まれている雰囲気がどこか違うのだ。
それはまるで、恥ずかしいものを見てしまった……のではなく、自分の口から恥ずかしいことを言わなくてはいけない、かのように。
その答えを出したのは、ようやく身支度を整えたのであろう──部屋の奥からやってきた、ペトラだった。
「違う、違うんだよイズミ殿。奥様が言いたいのはつまり……」
なんでこの人、途中からやってきたのに的確にそんなことがわかるんだろうとイズミは思った。
「──それ、キスマークにそっくりじゃないかってことさ!」
首元にある赤い古傷。あまりにも特徴的な場所にある、特徴的すぎるそれ。色合い的にも大きさ的にも、言われてみればその通りであった。
「ぺ……ペトラぁ! せ、せっかく言葉を濁していたのに!」
「伝わらなければ意味がないでしょう?」
ウブなくせに、そっちの知識だけはある。奥様がそんな想像をしたことに、イズミはちょっぴりショックを覚えた。まるで仲の良かった姪っ子がいきなり彼氏を紹介してきたような、そんな感じの衝撃だ。ちなみにイズミに姪はいない。
「でも、あながち間違いでもないんだよな……。ミルカさんに結構ガッツリ吸われたし」
「す、吸う!? あ、あれは医療行為でしょう!?」
「うん。でも吸ったことには違いないよな? でもってそれは、キスマークそのものだろ」
今度こそ本当に、ミルカが真っ赤になった。視線がゆっくりとイズミの首元に動いて、さらにさらに真っ赤になった。いつからこの人こんなにからかいやすくなったんだろうと、イズミはなんだか楽しくなってくる。
「そうなるとやっぱり、こいつは消すわけにはいかないな。男として最高の勲章だろ」
「一生残るキスマークがあってたまるものですか! 奥様、今すぐ全力でアレを癒してくださいっ!」
「おっと、そいつは困る。……それともなんだ、新しいのを付けてくれるならいいけど」
「あ、あなたって人は! あなたって人はァ! そんな馬鹿なこと言ってないで、さっさとテオと一緒にお風呂に入ってきてくださいましっ!」
──ちょっとからかいすぎただろうか。
なんだかんだ言って、相手はまだまだ十七の小娘。ここが現代日本なら、下手すると事案になりかねない案件。少なくともイズミは、プライベートであの年代の娘と喋る機会なんてまるでない。せいぜいがコンビニのバイトのそれくらいだ。
でも。
「俺がこんなのお願いするの、ミルカさんだけだよ」
「~~っ! んもう、わかったからさっさと行ってくださいッ!」
「うぇーい」
「きゃーっ!」
テオをしっかり抱き上げて、イズミは今日の疲れを癒すべく風呂場へと向かった。




