54 新たなる流れ
「──甘いッ!」
鋭く放たれたペトラの声。まるで空気を切り裂くかのような雄叫びに、一瞬イズミの体は硬直する。子供の時分ならいざ知らず、齢三十も過ぎればこのように誰かから大声で怒鳴られることなんて普通は無い。ついつい身を竦ませてしまったのもある意味ではしょうがないだろう。ましてや、それが慣れ親しんだ相手からともなれば、なおさら。
が、そんな「しょうがない」がまかり通らないのもまた事実。
「い゛……っ!?」
本日何度目かもわからない、太ももへの痛烈な一撃。真剣だったら間違いなく致命傷となっていただろうが、幸か不幸か、今ペトラが手にしているのはそれっぽく仕立て上げただけの棒切れである。めちゃくちゃに痛いが、結局はそれだけだ。
「怯むなァ!」
「ぐッ!」
息をする間もなく繰り出された胴体への薙ぎ払いを、イズミは何とか受け止めた。ペトラのそれよりかはいくらか上等な木刀もどきを両手で握って、ただひたすらにそれを体に当てないように。
殺しきれなかった衝撃が両手をじんと痺れさせ、一瞬手の平からすべての感覚が消える。
少し前のイズミなら、この段階で泣いて喚いていたかもしれない。
が、今は違う。
「うぉらあッ!」
「!?」
木刀を捨て、イズミは低い姿勢のままペトラに体から突っ込む。反射的にイズミの顔面を突きで迎撃しようとしたペトラは、しかし瞬時にその行動を取りやめる。ほんの一瞬の逡巡の後、彼女の腹にイズミの肩がめり込んだ。
「んむッ!?」
「あ」
人の肉から空気が抜けていく奇妙な感覚が、肩から伝わってくる。ゆっくりと流れる時間の中、思った以上に勢いがついてしまったことに気づいたイズミは、地面に叩きつけられる衝撃を少しでも和らげようと、ペトラの体を引き寄せるようにして地面との間に割り込んだ。
そして。
「がっはァ!?」
「ぎッ……!」
動かない。体が物理的に動かない。物理的に空気が吐き出され、呼吸ができない。背中の痛みよりもむしろ、そっちの方がいろいろヤバい気がする……上に、どういうわけか腹部に奇妙な圧迫感があって、上体を起こすことが出来ない。
それもそのはず。
「──言ったはずだぞ、イズミ殿」
「……げ」
イズミの腹の上に、ペトラが跨っている。俗にいう、マウントポジションと言う奴だった。
「終わりの合図をするまでは、絶対に手心を加えるなと」
あまりにも硬く握った拳を、ペトラは振り上げた。たぶんその拳は彼女の意志を反映させるかのように硬く、そして青色吐息で抵抗できない人間の顔を潰すのには十分なものだろう。いくらペトラが女性と言えど、ポジションの有利に護衛として鍛え上げられたという実績もあれば、むしろ現代日本の男性よりも的確で驚異的な結果を残すに違いない。
──もちろん、その拳が振り下ろされることは無かった。
「今日はこんなところにしておこう。訓練とて、やりすぎは却って体に悪い」
「ちっくしょう……今のは結構いい線言ってたと思うんだけどな」
差し出された右手。イズミは少しばかり悔しそうにその手を掴み、体を起こした。
──イズミとペトラが行っているのは、見ての通り戦闘訓練だ。体はすでに十分に癒され、基礎的な体力も戻ってきたゆえに、イズミは次のステップへと進むことが許されたのである。
内容はそのまま、戦闘技術の向上を目的とした対人訓練だ。イズミは今までに何度も魔獣の類を倒してきているが、そのほとんどがクマよけスプレーで無力化した後だったり、動く死体のように知覚されない状態であったりと、本当の意味での戦闘であったとは言い難い。当然、現代日本で真っ当な武術を学んでいるはずもなく、経験の割には動きが素人のそれとほぼ変わらないという所があった。
それを解消するためにペトラが提案したのが、互いに武装しての模擬戦闘訓練である。
「動き自体は悪くないと思う。ただ、武器に対して少々腰が引けているというか、対処にあぐねているような印象を受けるな」
「人を相手に打ち合ったことなんてないからな……。真剣じゃないとはいえ、どうしても躊躇っちまう」
「……本当なら、それは喜ばしいことなんだがな」
「そうも言ってられないのが現実ってか。……なんかごめんな、こっちからお願いしたのにこんなザマで」
「いやなに、それが普通の感覚さ。むしろ、今まで剣を握ったことなんてなかったのにあれだけ動けるんだ、それだけで十分すぎると思うぞ」
剣術としての武器の動かし方は、ひたすらに型稽古を繰り返すしかないとペトラは言う。何度も何度も同じ型を繰り返し、無意識でも最高に整った型を扱えるようになって、ようやく実戦で型としての本来の威力を発揮できるらしい。
剣術というのはコンセプトに基づいた最も効率の良い動きの体系のことであり、その力を十全に発揮するためには、型そのものを呼吸するように使いこなし、選択肢として反射的に行使できるレベルまでもっていかなくてはならない。果てしなく長い道のりではあるが、結局は地道な努力が重要なのだ。
「そう簡単に身に着くものじゃない。が、修練を続ければ、実戦の中で少しずつそれが使えるようになってくる。使うべきタイミングがわかるようになってきて、いつしか普通に使っている自分がいる」
「ふぅむ……やっぱり、ただがむしゃらに振り回すだけじゃダメか。目的をもって、やりたいことを明確にして動かないと」
「まぁな。とはいえ、時にはそのがむしゃらが大事だったりもする。技術や経験で負けているのなら、気合と体力という別の分野で勝負をしなくちゃならない。そういう意味では、さっきのイズミ殿の動きは及第点以上のものだ」
「……でも、あれだと仮に勝てたとしても相打ちになる。そもそも、ペトラさんが本気だったら押し倒す前に頭をカチ割られていた。だいたい……そうならないようにするための剣術の勉強なのに、本末転倒なんだよな」
「……と、咄嗟の判断に優れているということで」
引き起こしたイズミの体をポンポンと叩いて、ペトラは土を払う。イズミは何度もペトラに打ち倒されてボロボロだというのに、ペトラ自身は最後の一撃くらいしかまともにもらっていないから服もそんなに汚れてなく、余計に対比がはっきりとしていた。
何気にすごいのは、イズミをあれだけ打ちのめしてなお、後に残るような明確な傷を与えていないペトラの腕だろう。棒切れとはいえ、あれだけ本気で何度も打ちのめせば骨折や捻挫の一つや二つはさせてしまいそうなものだが、イズミのそれは見た目以外に大したダメージは無い。
「イズミ様、ペトラも! 鍛錬が終わったのなら傷の手当てをしないとですよ!」
「あ、お……いや、ママか」
「む……いえ、私もイズミ殿も奥様の手を借りるほどのケガはしていませんよ」
「ケガ自体はしているんでしょう? こういう時のための私だもの、役目の一つくらい果たさせてほしいな」
イズミとペトラの修練が終わったことに気づいたのだろう。リビングの掃き出し窓の所から、サンダルを履いて奥様がやってきた。ミルカに預けてきたのだろうか、いつもは抱いているはずのテオはいない。
「ほら、イズミ様……」
「あー、うん」
ここで断る理由も特にないので、イズミは素直にペトラから打たれた場所を指先で示す。右の膝と、左の脛と、胴は両側共で、そして最後にペトラをかばったときに地面に叩きつけられた背中。改めて考えてみると、本当にコテンパンにされたと言っていい。実戦だったら何度死んでいたのかわからないほどだ。
「ふむ……ちょっとお時間いただきますね」
奥様が胸の前で何やら印を切り、祈りのポーズをとる。魔法のことなんてさっぱりわからないイズミでも、なんとなく神秘的で荘厳に思えるその光景。ややあってから、ひんやりしているのにあったかく、心地よい風のような何か奥様の方からやってきた。
「癒しの魔法、か……。そう言えば、意識があるときに受けるのは初めてかも」
じくじくと残っていた痛みがすーっと引いていく。上等な湿布を貼った時よりもはるかに強力な効果。痛みが引いた後はちょっとしたむず痒さと奇妙な温かさだけがそこに残った。
「……本当はもっとこう、はっきりわかるほどに効果が実感できるというか、ある種の気持ちよさも感じるはずなのですが」
「うん? まぁ、気持ちいいと言えば気持ちいいけど……痛みが引いたからそう感じるだけのような」
「……やっぱり、イズミ様は癒しの魔法も通りが悪いです。これだけ力を込めているのに、痛みが引いて治るだけでしかないのですから」
「そうなのか?」
なんとなく気になって、イズミはズボンの裾を捲った。間違いなく痛々しい青痣ができていたであろう場所は、すっかりきれいになっている。棒切れでブッ叩かれたのだから腫れの一つでもありそうなものだが、赤くなってすらいなかった。
「一瞬でケガが治るんだから、十分にすごいと思うぜ」
「いえ……! ホントだったら、気力が湧き上がって元気いっぱいになるくらいに力を込めてるんですよ!?」
「またまた……いくらなんでもそれは大袈裟過ぎるだろう?」
「いや、結構マジだ。この威力なら元気いっぱいになるどころか、手足の一本や二本、千切れかけていても治せているな」
「ええ!?」
「水の巫女としての奥様の力はそれほどまでに強力ってことだ。……ほら、その証拠にイズミ殿にかけられた癒しの魔法の余波だけで、私の傷が治ってる」
「本当だ……さっきまで手の所、ちょっと擦りむいていたはずだよな?」
「普通の相手だったら、一瞬で治るな。……イズミ殿は感じないだろうが、今ここにはびっくりするくらいに濃密な奥様の魔法の匂いが漂っている。それだけ強力ってことだ」
「あー……やっぱ全然匂いなんてわかんねェや」
すんすん、すんすんとイズミは鼻を動かす。土の匂いや森の深い樹々の匂いはするものの、やはり魔法の匂いとやらはわからない。あとはせいぜいが自らの汗の匂いと、やっぱり同じように汗をかいたのであろうペトラの匂いが感じられるくらいだ。
「や……やめてくださいっ!」
「うん?」
「その……人の魔法の匂いを露骨に嗅ぐのは……そう、デリカシーに欠ける行為ですっ!」
「そうなの?」
イズミの問い。真っ赤になってうつむく奥様に代わって、ペトラが明後日の方向を見ながら肩をすくめた。どうせわかりはしないのに、乙女心ってやつは複雑なものなんだとイズミは心の中のメモ帳に新たな注意事項を書き加える。
「さ、さあっ! そんなことは置いておくとして、今度は手を見せてくださいっ!」
「あいあい」
生活に支障をきたすほどではないが、手の平にも相応のダメージが残っている。棒を全力で振り回しているだけでも、あれで存外負荷はかかるものだ。手相が擦り切れそうにもなるし、マメや血豆だってできることもある。最悪、手の平の皮がべろんと剥けることだってないことはない。
「ほー……見えないのに、何か来てるのはわかるんだよな」
目の前で自身の手が治療されていく。赤くなってヒリヒリしていたはずなのに、もうすっかりいつも通りの感覚だ。心なしか、治療前に比べて肌がツヤツヤで若々しくなっているような感じもする。
もし、もっと派手なケガをしていたらどんなふうに治療されるのか。早送りで再生するような感じになるのか、それとも魔法の不思議パワーでなんとなく治ってしまうのか。興味半分、怖さ半分くらいの気持ちがイズミの心に沸き上がる。
「魔法がそこに在るのはわかる。今この手の平で実感している。……奥様ほどの強力な魔法使いの匂いってんだから、才能の無い俺でもちょっとは感じられると思うんだけどな」
「なるほど、言われてみれば……だが、テオ坊ちゃんの魔法の匂いもわからなかったんだろう?」
「そうなんだよなあ……。聞けば、ミルカさんが魔法を使った時よりも、テオの垂れ流しになっている魔法の匂いの方が強いって話じゃんか。奥様とテオだったらどっちが強いんだ?」
「ん……何もしていない時だったら微妙にテオ坊ちゃんの方が強い……と、思う。魔法を使った時だったら、さすがに奥様の方がはるかに上だ」
「……今すぐ手の平嗅いだら、なんかわかるかな?」
「どうだろうな?」
奥様に手の平を治療してもらいながら、イズミは顔だけを近づけて鼻を動かす。すんすん、すんすんと何度も試してみるものの、やはり汗と木刀の匂いしかしない。間違ってもこれが奥様の魔法の匂いのはずが無かった。
「おく……じゃない、ママ。もうちょっとばかり魔法の威力を強めてもらったり……」
「案外足掻くな、イズミ殿は」
「いや、なんだかんだ言いつつも俺だけ仲間外れは……なあ? ほんのちょっとでも可能性があるなら、全部試してすっぱり諦めたいんだよ……ん?」
イズミは気づいた。
さっきまで匂いを嗅ぐなと言っていたはずの奥様が、まるで反応していない。こうも露骨にそれをしているというのに、咎めるどころか声の一つすら上げていない。
いいや、それ以前に。
「……奥様?」
「──」
奥様の瞳には、何も映っていない。目の前にいるはずのイズミではなく、もっと別の、得体のしれない何かに見入ってしまっている。
そう、それは……例えるなら、魂が抜けたかのような表情であった。
「……おいっ!」
イズミが慌てて奥様の肩を揺さぶろう……として。
「待ったッ!」
その手を、ペトラが止めた。
「視てるんだ! 下手に刺激を与えるな!」
「え……!?」
イズミの腕をぐいっと引っ張り、ペトラは奥様から距離を取る。何が何だかわかっていないイズミは、言われるがままにするしかない。
「大丈夫、すぐに元の奥様に戻る」
「お、おお……例の、予知のアレ?」
「ああ。奥様は今、まさに運命の流れそのものを読み解いている。たまたま奥様に流れ着いてきたそれを感じ取り、今この瞬間を基準として流れのその先を見ているんだ。下手に干渉して集中力が切れると……」
「切れると?」
「なんかこう……すごく悔しい気持ちになるらしい。演劇の最高に盛り上がったところで急遽公演中止になったかのような」
「あ、そう……」
テレビの良いところでコマーシャルが入るのと同じようなものなのだろうか。いずれにせよ、この感覚は世界でただ一人、奥様にしかわからないことだ。
ひとまず、危険なことは何もないと言うのでイズミはペトラと共に奥様の様子をうかがう。顔の表情が死んだ状態でぼーっと突っ立っていて、何より目が虚ろであるから、何も知らなければちょっと心配してしまう光景であることだけはたしかだ。もし日本で同じ状態の人を見てしまったら、おそらく十人中六人くらいが然るべき機関に連絡を入れることだろう。残りの四人は厄介ごとに関わりたくないとばかりにこそこそと見なかった振りをするに違いない。
「……あ」
「お」
時間にして、およそ五分ほどだろうか。始まりと同様、何の前兆も前触れもなく奥様の瞳に光が戻り、止まった時が元に戻ったかのように奥様に動きが戻った。
そして。
「イズミ様……」
「おう、何が視えたんだ?」
「──移動しましょう。できれば、明日か明後日にでも」
奥様の口から、そんな言葉が紡がれた。
▲▽▲▽▲▽▲▽
「そうですか、奥様が予知を……」
「おう。だから緊急会議ってわけだ」
あれから。すぐさま片づけを行い、風呂に入ってさっぱりしたところでイズミ達はいつものリビングに集っていた。いつもならこの時間は家事をしているミルカも、緊急事態と言うことで普通にここにいる。ちょうど都合よく、テオがお昼寝しているのだけが幸いであった。
「奥様、おさらいだ。予知の内容っていうのは」
「ええ……数日後、このガブラの古塔で魔物の群れの争いが起きる、といったものです」
曰く、先日のオークのような魔物の集団と、狼のような魔獣の集団がこの広場で争っている光景が見えたらしい。その数は互いに百は下らないとのことで、見えなかった範囲にもいることを考えると、その倍は見積もっておいた方がいいとのことであった。
「幸いにも、私たちの誰かが傷つくといった未来は見えませんでした。しかし……」
「文字通り、ここから動けなくなるってか」
「ええ……ちょうど、ここか戦場の中間地点に当たるみたいで。この周りをずっと囲まれるので、決着がつくまでずっと……決着がついても、たぶん……」
「場所が完璧に割れている以上、放っておいてはくれないわな」
おそらく、元々このガブラの古塔がこの森の中の縄張りの境界線だったのではないかとイズミは推測する。動く死体たちという互いにとっての脅威を挟むことで森の中でのバランスが取れていたが、しかしそいつらは他でもないイズミ達が駆逐した。もう、誰もその役目を果たさない。
「案外、ここ数日襲ってきた魔物どもは、互いの群れの斥候みたいなものだったのかもしれないな……」
「十分あり得る話だろうな。あの類の集団行動を行う魔物……とりわけ人型の物であれば、程度の差こそあれど珍しいことじゃない」
そんな斥候(?)たちも、イズミたちはしっかり駆除しているのである。
「……互いに、相手方にやられたと思ってブチ切れている可能性もあるわけか」
「それより、もっと話すべきことがあるはずでは?」
発散しかけていた会話の流れを、ミルカが引き戻す。
「今回の予知は、間違いなく回避すべきもの。だとしたら、このままではいけません」
「だな。ちょいと予定は早まったが移動しよう」
「……どちらへ?」
「ん?」
「……どちらへ、移動するおつもりですか?」
「む」
ミルカが言っていること自体は単純だ。言葉の裏に隠された意味なんてあるはずがない。問題なのは、その先にある選択肢の方だ。
「以前の予定通り、森の浅いほうに……移動するだけして、森からは出ずに留まりますか? それとも、この際ですしもっと森の奥まで引きこもりますか? あるいは……」
森から出て、外の世界に行くか。
「……なんでまた、改まって?」
「そういう選択肢もある、ということを確認しておきたかったのです。……イズミさん、本当は外の世界を見てみたかったりしませんか? 確かにこの家は便利で快適ですが、だからといってこんな脅威が蔓延る森の中に住む理由はありません。移動した先でも、また同じように魔物の群れに襲われる可能性だってある」
「……」
「もちろん、外の世界でも同じことは言えますが……でも、この森よりかははるかにマシでしょう」
「でも、それだと……」
処刑されたはずの奥様とペトラが再び人の目に晒されかねない。死んでいるであろうミルカもまた、それは同様だ。確実に始末したと向こうが確認していれば問題ないが、もし、何かの拍子でそうではないことが明らかになってしまったら。
「……私たちに、遠慮してほしくないんですよ」
イズミが何かを言う前に、ミルカがにこりと笑った。
「私たちが再び危険に晒されるかもしれない……なんて、思っていたでしょう? 元よりそのつもりと言いますか、たとえイズミさんが外の街に行ったとしても、私たちは人目につかないように家の中に引きこもらせて頂く所存ですよ?」
「いや……それはなんか、申し訳ないというか」
「いえいえ、何を仰るのですか。こうして養ってもらっている段階で、私たちの方こそイズミさんに申し訳ない気持ちでいっぱいですよ」
「いやいや、俺だって一人じゃ寂しいし、ミルカさんたちがいてくれて助かっている。だからもう、それについてはお互い言いっこなしってことにしただろ……あ」
「そういうことですよ」
つまりミルカは、すべての判断をイズミに委ねる……否、イズミの自由にしていいと言っている。たとえそれでどんな不利益や不自由があろうとも、全くそれで構わないと言っているのだ。
「私は、イズミさんの好きなようにしてほしい。外に行くでも、さらに引きこもるでも、このまま留まり続けるであろうとも……ええ、イズミさんについていきますよ」
「奥様の侍女として、その発言はどうなんだ?」
「私は、奥様とイズミさんを信じていますから」
にこりと笑いかけ、ミルカは紅茶の入ったカップを手に取る。それは、もう話すことは何もないと言外に伝えるポーズであった。
「まったく、ずるいぜ」
「ええ、女という生き物はそういうものなのです」
となれば、残りは。
話始めてからずっと、うつむいていた銀髪の頭にイズミは問いかけた。
「奥様は……どうしたい?」
返ってきた答えは。
「……わからない、です」
「わからない、かあ」
そりゃあそうかもしれないな、とイズミは心の中だけで思う。見たところ、奥様の年齢は二十代前半くらいといったところ。子持ち人妻であるという事実と、ミルカの前例から考えてこの推測はおそらくそうは違っていないことだろう。
つまり、イズミから見ればまだまだ子供の小娘に等しい。見るからに箱入りで育ってきたような感じであり、誰かの指令で重大な役目を務めたことはあっても、自らの意志と責任の下重大な判断をしたことはないだろう。
それなのに、自身のこれからと、恩人の目線で考えたこれからを決める判断をしなくてはいけないのだから。
「わからない……わからないんです。普通に考えれば、こんな森にいるよりも外の安全で栄えた場所の方が絶対に良い。イズミ様にとっては、間違いなくそれが最善の選択のはず」
「かもな」
「でも……! 現状、この森の中で十分に安全に暮らしていけてる……! 外の世界への繋がりを絶ち切ってしまえば! 単純に私たちだけが生き続けるだけなら、この森の中にいるほうが絶対に良い! 不確定要素が無くて、テオが脅かされる心配も無い!」
「俺もそう思う」
「でもそれは、必然的にイズミ様をこの森に閉じ込めてしまうことになる……! 死ぬはずだった私たちは別にそれでもいい! でも、恩人であるイズミ様までそんな目にあわせるのは……! そして、そんな綺麗ごとを語る口の一方で、頭の中の私はイズミ様よりもテオのことを……! 自分のその願いのためだけに、イズミ様から離れるわけにはいかないとも思っている……!」
「いやァ、母親としては百点満点の理想的な答えだと思うぞ」
森の中に残れば、全体として絶対に安全で平穏な日常が続く。しかしそれは、この先一生森の中に閉じ込められるのとほとんど変わらない。処刑されたとされ、下手に出歩くわけにはいかない奥様達はそれでもいいが、しかしイズミがこの森で過ごさなくっちゃいけない理由はどこにもない。
森の外に出れば、もっと安全なところに住むことが出来る。どこかの国を観光するのも、旅をするのも自由自在だ。そしてきっと、それはこの森で過ごすよりもずっと有意義で楽しい一生を過ごすことにもつながるだろう。だがその場合、奥様達のことが何らかの拍子に露見した場合、「敵」からイズミまでつけ狙われる羽目になる。
では奥様たちとイズミで別行動をとればいいのではないか。そうすれば少なくともイズミ視点からの問題はすべて解決する。
が、奥様はテオの安全という自身のエゴのためだけに、それはしたくないと自覚している。だから、そこで考えが行き詰まり、どうにもこうにも結論が出ない。
結局のところ、どの選択をしてもどこかで誰かが貧乏くじを引きかねない、というのが問題なのだ。
ただまあ。
──正直、俺は一生引きこもっててもいいんだよなァ……。
それは、【イズミの幸せが外の世界にある】という前提での話である。すでに森の中での生活に慣れてしまっているイズミは、この四人が隣にいてくれれば森だろうと砂漠だろうと、それこそ極寒の吹雪の中でも問題ない……というのが正直なところであった。
もちろん、外の世界に行くことにも何ら抵抗はない。例え「敵」に見つかったとしても、全力で抵抗しようと思っている。この家さえあればそれが可能だし、なによりも。
──今更もう、見捨てられるわけないだろ。
イズミの中で、この四人は家族と同等……いや、それ以上の存在になっているのだから。
「……奥様さ」
「……はい」
「じゃあ、俺の判断に従ってくれるってことでいい……のか?」
「……イズミ様が決めてくださるのなら、私はそれで」
諦めるような、縋りつくような、そんな瞳。
それを見て、イズミの判断は決まった。
「俺は……」
自分には特に目的も理由もこだわりも無い。
なら、大切な年下の意図を汲むのが大人としての役目だろう。
「俺は……外の世界を見てみたい」
ここまでは言わば前提。本当に言いたいのは、ここからだ。
「そうさな、せっかくだし……奥様達が元々住んでいた街に観光に行きたい」
奥様は、少しだけ目を見開いた。その言葉が信じられなかったのか、確かめるようにしてイズミの顔を見上げている。
「それって……!」
「──逃げる時、身近な人たちに挨拶の一つもできなかったんじゃないか? ……死んだと思われている今なら、ちょっと行ってサッと挨拶するくらいはできるだろ」
たぶん、奥様の心の奥底にある本当の理由はそうではないだろう。それが何なのか今のイズミにはわからないが、しかしそれに触れずにそっとしてあげる程度の良識とデリカシーはあった。
「そりゃ、ずっと居座るのは問題あるかもだけどさ。もう何か月か経っているはずだし、ガブラの古塔に送られて戻ってきたやつはいなんだろ? 変装とかして目立たないようにすれば、数日くらい大丈夫だ」
「まぁ……死んだはずの人間が街を歩いていたとしても、普通はそっくりさんか何かだと思うだろうな」
「そうそう。あと、個人的に買い物とかしておきたい。奥様たちがこの家の中のものに驚いたように、俺もこっちのものはめっちゃ珍しく感じるはずだから。使えないだろうけど、魔道具だって興味がある。あと……」
「あと?」
「ミルカさん、ずっと俺のパンツ履いてるだろ。そろそろ自前の欲しいんじゃないか?」
「ぱっ!? ……あ、あなたって人はぁっ!」
真っ赤になって割とガチな感じで肩を叩いてきたミルカを、イズミは甘んじて受け入れる。この年にもなれば、女子高生の年頃の娘が本気で対応してくれること自体がありがたい話であるのだから。
「い、いいんですか……? それだとイズミ様が危険に晒されることになりかねないんですよ……!」
上手く話題を逸らしたつもりでなお、奥様は食らいついてきた。無駄な犠牲としてしまったことをミルカに心の中で謝りつつ、イズミは答える。
「いいんだよ、それは。俺がそうしたいってんだから、それは奥様達じゃなくて俺自身の責任だ。……その証拠に、これはすごく個人的なことなんだが」
「はい?」
もうすでに、イズミの中では街に行くことは決定している。そして、街に行くならできればしておきたいということがたった一つだけあった。
果たしてこれは奥様に言っていいのかという気持ちが半分。ふざけてこの空気を何とかしようという気持ちが残りの半分。そのさらに残り……即ち、全体の四分の一ほどが、イズミの超個人的な理由……というよりも、ぶちまけてしまいたい純粋なる私怨に近い感情。
「目に入れても痛くないくらいに可愛いテオと、こんなにも守ってあげたくなるような綺麗な奥様を泣かせた……」
後にペトラは、「それは魔獣と相対した時と同じ顔だった」と語った。
後に奥様は、「正直ちょっと身の危険を感じてしまった」と語った。
後にミルカは、「テオの教育に悪いから、アレはやめてほしい」と語った。
そんな、獰猛な顔でイズミは笑った。
「クソ旦那のツラぁ拝んで、場合によっては一発ぶん殴っておきたい」




