53 確認
「イズミ様……」
「どうした、奥様。そんなに改まって」
「──今度から、私のことを『ママ』って呼んでくれませんか?」
とある日の朝。いつも通りの朝の食卓にて、奥様はいきなりそんなことを口走った。
「……どうしよう、俺、なんか疲れているのかも」
助けを求めるようにイズミがミルカの方を見てみれば、そのミルカも口をあんぐりと開けている。その隣にいるペトラはどうしているかと言えば、ミルカと同じように驚愕に顔を染め、口をぱくぱくと動かしていた。
どうやら、イズミの頭は正常であったらしい。奥様の腕の中でケラケラと笑うテオの声だけが、静まり返った食卓に響いていく。
「あ、あのさ……一応聞くけど、いったいどうして?」
普段の奥様からはとても考えられない言動。ミルカもペトラも再起動に時間がかかりそうだったので、イズミが代表して問いかける。実際、付き合いそのものはそこまで長くないイズミにとっても、清楚で純情で上品な……一昔前のアイドル像そのもののような奥様がこの手の冗談を言うとは、とても信じられなかったのだ。
「だって……!」
「だって?」
「だってぇ……! このままじゃ、いつまで経ってもテオが私のことを呼んでくれないんだもん……!」
目にじんわりと涙をため、堪えきれないとばかりに奥様はテオをぎゅっと抱きしめた。何が何だかわかっていないテオは、ぽふぽふとその胸を叩いて遊んでいる。
そんな光景から目をそらし、そしてイズミは思案した。
「あー……そうか、言われてみれば俺たちいっつも【奥様】って呼んでるもんな」
──ついこの前、ようやくテオが初めての言葉を覚えた。初めての【みー】というその単語が果たしてイズミのことを指していたのか、ミルカのことを指していたのか、今となっては一切不明ではあるが、ともかく言葉を覚えたのは事実だ。今ではすっかり、イズミやミルカが問いかけるたびにテオはみー、みーと笑って応えている。
そんな様子に奥様が憧れたのも無理はない。そして、今の現状ではどう頑張っても奥様が自身の名前を呼ばれることはない。
理由は至極簡単。
みんなが、奥様のことを【奥様】と呼んでいるからだ。
「私だけ……! 私だけ、名前で呼ばれないんですよ! イズミ様、一度でも私のことをルフィアって呼んでくれたことありますか!?」
「いや……それはなんか違うというか、畏れ多いというか。逆に奥様はそれでいいのかと思わなくもないような」
「名前を呼ぶのに良いも悪いも無いですよ……! それこそ、イズミ様だって!」
「うん?」
「イズミ様は私に雇われているわけでも何でもないんですよ? なのにどうして【奥様】だなんて……! そりゃあ、ミルカやペトラは外聞上そうしなきゃいけなかったかもですけど……!」
「あー」
言われるまでもなく、イズミと奥様の間に主従関係は無い。ここでの実態はともかくとして、めちゃくちゃに敬うべき偉い人って言うわけでもない。少なくとも異世界人であるイズミの立場からしてみれば、この世界のどんな人間だろうと地位や立場で敬う必要性は全くない。
すなわち、あえてわざわざ奥様のことを【奥様】と呼ぶ必要なんてこれっぽっちもない。ご近所のママ友的な意味で使うにしても、様付けするのは少々不自然だ。
だいたい、当の奥様自身がイズミのことを様付けで呼んでいるのだ。奥様からしてみればイズミは息子や友人、果ては自身のことを助けてくれた大恩人であるため、そうするのが普通……イズミの方こそ敬われるべき人間と言う認識がある。
「なんというか……ほら、ミルカさんもペトラさんも奥様って呼んでるし、じゃあそれでいいかなって……」
「『じゃあ』!? いま、『じゃあ』って言いました!? ミルカもペトラも名前で呼んでいるのに、私だけそんな理由なんですか!?」
「どうしよう、今日の奥様なんか怖い」
「悔しい思いをため込まれていたのでしょうね」
「元々、変に畏まったやり取りは好きじゃなかったからな……」
とはいえ、今更呼び名を変えるのもなかなか気恥ずかしいというのがイズミの正直なところだった。それに一般的な日本人の感覚として、人妻を下の名前で呼ぶのはどうにもアブナイ気がしてならないのである。子持ち既婚の婦女に馴れ馴れしく下の名前で呼びかけていたら、場合によっては不倫を疑われる可能性もゼロではない。
ましてや、今は曲がりなりにも同棲中なのである。現代日本の倫理観に照らし合わせれば、間違いなくアウトだろう。事実上の絶縁状態(?)であるため疚しいことなんて何もないはずだが、どうにもイズミの中の良心がそれを咎めるのだ。
「とはいえ……オルベニオさん、って呼ぶわけにもな」
「みー?」
「ああ、お前のことじゃないぞ、テオ」
「うーい!」
「私も、今は……イズミ様にその名で呼ばれたくはないです。いいじゃないですか、ルフィアかママで」
「いやでも……んん、ルフィアさんは嫌じゃないのか? 俺みたいな関係ない男にママって呼ばれるのは」
「嫌なものですか! それに全然関係なくないですもの! ……テオだって、そう思うよねー?」
「きゃーっ!」
一般的な家庭ではどうなんだろうとイズミは何となく思う。恋人期間の時は下の名前で呼び合っていたとして、結婚したあともおそらくそれは変わらないだろう。おそらく、子供を授かったあたりからなんとなくそんな意識をするようになって、子供が生まれてからは自然と互いに【パパ】、【ママ】呼びとなり、特別な時だけ以前のような名前呼びになるのだろう……というのがなんとなくのイズミの予想だ。
悲しいことに、そのほとんどが推測でしかない。イズミが断言できるのは、恋人期間のときくらいだ。
「……やっぱり、私はこの子にママって呼んでほしい。ママって呼ばれたい。……この子の口から一番多く紡がれる言葉が、私であってほしい」
「……ま、そりゃそうか。正直奥様をママって呼ぶのは気が引けるが……何とか頑張ってみることにするよ」
「ふふふ、イズミさんったら。そう言ってる傍から、奥様になっていますよ」
「……他人事のようにしているけれど、ミルカもペトラもママって呼ぶんだからね?」
「えっ」
「だって、イズミ様一人がやっていても意味が無いでしょう? それに、この帰らずの森の中……それを咎める人なんていないもの!」
「そらそうだわな。それに【ママ】の言うことは絶対だろ」
──とりあえず、なるべく善処します。
そう言って、ミルカとペトラは逃げに入る。果たしてどれだけ効果があるのか、そもそも本当にテオが奥様のことを呼んでくれるようになるのか。それはまだ、この段階ではわからないことであった。
▲▽▲▽▲▽▲▽
「そう言えばお……いや、ママさ」
「はいはい、なんでしょう?」
朝食後。食後の紅茶をゆっくりと飲み干したイズミは、思いついたように奥様に語り掛けた。
「例の、未来視っていうやつ? あれって能動的にはできないんだよな?」
「ええ。こう……あくまでも、ある日突然びびっ! って閃く感じですが……」
同じように食後の紅茶を楽しんでいたミルカとペトラも、今更一体何を言い出すのか……とでも言わんばかりの表情でイズミを見てくる。もし逆の立場だったら、イズミだって同じことをしただろう。
「いやさ。いきなりなんだけど……今日、少し外に出てみようかなって。吉と出るか凶と出るか、わからないかなって思ったんだ」
「残念ながら、占いのようには使えないのですが……でもまた、急な話ですね。たしか、予定ではもう少し体を鍛えて、ペトラとの訓練をしてからという話ではありませんでしたか?」
無論、イズミとてバカじゃない。考えなしで物事を話しているわけじゃない。
「そう思ってたんだけど……ちょっと懸念と言うか、気になることが」
「はて?」
「──俺の能力。この家を呼び出す力のことを、今のうちに確かめておきたいんだ」
奥様を助け出したあの日。ヘビの毒に朦朧としながらも奥様によって呼び出されたイズミだけの力。この異世界と言う常識も物理法則も違う場所において、唯一イズミが振るえる不思議な力。使い勝手は酷く限られるが、魔法が存在するこの世界においても他に類を見ない、魔法のような謎の力。
そんなイズミの力は、実を言うとあの日以降一度も使われていない。
「この場所から移動することは必須。当然、この家を呼ぶ俺の能力が大前提だ。実際、俺も……俺たちは、それを頼りに今後の計画を立てている」
「え、ええ……。少なくともこの場所に留まる意味はないから、今後の身の振り方を考えるにしても、森の浅い方に移動するってことになりましたが……」
「実際の移動時に上手く家を呼べなかった……じゃ、話にならないからな。練習しておきたいんだ」
家を呼び出すのにどれくらいの時間がかかるのか。呼び出す回数に制限はあるのか。魔力的なものを使うのか、それとも気合だけでなんとかなるのか。呼び出した時に家の中の状況はどうなるのか。
そんな諸々一切合切が、今のところよくわかっていない。これは実に由々しき事態である。
「イズミさん、仰ることはわかりますが……そうなるとやはり、一瞬とはいえこの家から出ることになります」
「つまり、魔獣に襲われる可能性も出てくる……私と剣術の訓練をしてからの方がいいんじゃないか? 何も、今やる必要はそんなにない……と思う」
「……って、俺も思ってたんだけどさ」
安全地帯に引きこもって、十分に強くなってから外に出る。イズミもその考えには大いに賛成であり、出来ることならそうしたいと思っている。
「ペトラさんも言ってただろ? ある程度時間が経てば、この周囲にはどんどん魔獣がやってくる。だからこそ、俺達は移動を決めた」
「ああ、その通りだ」
「……もし」
「うん?」
「……もし、俺の能力に何かしらの制限があったとしたら? 何らかの理由で、発動できないってことがあったとしたら?」
「……あるのか?」
「……無いと思う。自分の力だから、発動できるかできないかは何となくわかる。でも、断言ができない。……一回しか使ったことが無いからな!」
故に、これは本当にただの確認事項のつもりなのだ。
「だから、まだ魔獣が本格的に集まってきていない今……ガブラの古塔の目の前にいる今、能力を確かめたい。これだったら、万が一俺の能力が不発に終わったとしても、あの最上階の部屋でしばらくはやり過ごせる」
「あ──!」
ガブラの古塔の最上階。奥様達にとっては思い出したくも無い場所だろうが、しかしあそこはこの帰らずの森の中で唯一と言っていい安全地帯である。石の騎士が倒された今、あの部屋に施されていたのであろう魔よけの効果まで残っているかは疑問だが、家を呼べずに森の中を彷徨うよりかははるかにマシな場所だろう。
「単純に、あの塔自体が引きこもるにはもってこいだ。動く死体もほとんどいなくなったし……わざわざあんな所にまで入り込む魔獣もいないだろうしな」
「ん……たしかに、そう考えると良い条件なのかもな。どのみちやらなくてはならない以上、今が理想ってわけだ」
「前とは違って私の魔法も使える……万が一があったとしても、しばらくはなんとかなる……」
「むしろ、下手に魔獣が増えないうちにやっておくべき……ですかね?」
「……決まり、だな」
それからのイズミ達の行動は早かった。午前中の間に食料と魔よけのマント、および旅のセットの一式を整え、何があってもいいようにする。別段能力が使えなくなるとは思っていないが、もし万が一があった場合はガブラの古塔で過ごすこととなるのだ。これくらいは必然だろう。
元より、旅の支度自体はぼちぼちと行っていた。魔よけのマントもばっちり四人分、ミルカがこさえていたのである。
「旅の支度のほかには……」
「家を呼び出すことで消耗品とかが復活するのか確認しておきたい。朝飯に使った食材、記録取っといてくれ」
「イズミ殿、持ち出し品はどうする? 例えばフライパンなんかは消耗品ではないだろうが……こいつを外に持ち出した状態で家を呼んだら、外にあるものと家の中にあるものの二つに増えるのか? それとも、外にあったものが家の中に戻るのか?」
「どうだろうなァ……良い機会だ、それも確かめておくか」
そして、午後。四人は旅支度をしっかり整え、玄関に集った。リュックにマントに、傷つけることで増やしておいたクマよけスプレーを各自二本。イズミとペトラは鉈で武装し、ミルカと奥様は包丁を懐に忍ばせて。ちなみに諸般の事情により、テオはミルカが抱いている。
「水よし、ガスよし、電気よし」
出かける時の恒例行事。すぐに戻る予定とはいえ、指さし確認は欠かせない。
「──鍵よし」
右手に鍵を持ったまま、イズミはそのまま門扉のほうまで歩いていく。ミルカたちが後ろについてきていることを確認し、そしてイズミは深呼吸した。
「……行くぞ」
「……ええ」
門の取っ手にイズミは手をかける。
魔獣がどんなに攻撃しても傷一つつかなかったその門扉は、あまりにも呆気なく開いた。
「何日ぶりの外だろうな……」
右を見て、左を見て、もう一度を右を見て。近くに魔獣の姿は見えず、それらしい気配も感じない。前方にはガブラの古塔があの日と変わらずにそびえており、ちょっと離れたところでは例の石の騎士の鎧の残骸があの時のまま放置されていた。
「魔獣さえいなければ、秘境の遺跡みたいでなかなか情緒深いもんなんだが……さて」
「まずは普通に使えるかの確認、ですよね?」
「おう。一応離れていて……いや、俺が向きを変えればいいだけか」
イズミの後ろには、今出てきたばかりの我が家がある。前方にはガブラの古塔があるとなれば、まずは試しに右手方向へ家を呼び出してみるべきだろう。
何の変哲も無いはずの家の鍵を手のひらにしっかり握り、そしてイズミは心の中でその呪文を唱えた。
──【House Slip】
「わ……!」
それは、あまりにも一瞬の出来事だった。
何の前兆も脈絡もなく、確かにあったはずの家が跡形もなく消え失せ、それとほぼ同時にイズミの目の前に家が……より正確に言えば、家が敷地ごと現れたのである。
昨今のゲームやファンタジー映画よろしく、キラキラと光があふれ出たり、あるいはうすぼんやりと半透明になっていく……と言ったそんな演出は一切ない。本当に、すぐに消えてすぐに表れた。何も知らない人がこの光景を見たのならば、自分がぼーっとしていたせいで元々あった場所を見間違えたのだと思ったことだろう。
「……できたな、普通に」
「イズミ様、どこか疲れたり、気怠い感じはありますか?」
「いんや、特に何も」
今の家のすぐ隣、家があった跡地をよく見てみる。
「ん……表面がちょっとばかり抉れているのか? 明らかにここに何かあったって感じの痕跡が残るんだな」
「門の内側……庭の土質とこの場所の土質は違うから……この深さまでがイズミ殿の敷地、即ち家と言う認識なのだろうな」
建屋や門扉、敷地内にあった自動車……土地の上にあったものは当然として、イズミの能力は土そのもの、即ち土地そのものさえも移動の対象としているらしい。跡地は今までそこに何かがあったことを彷彿とさせるように全体が薄くくりぬかれており、ちょっとした窪みになっている。
目視でざっと確認したところ、その深さは膝小僧よりは高く、腰よりは低いといった程度。階段が無くては上り下りが少々不便だが、逆に言えば不便としか思えない程度のものである。
「しかしまあ……じっくり見たのは初めてですが、本当にそっくりそのまま移動するんですね」
「おう、俺もびっくりだ。……とりあえず中の様子を見てみるか」
ひとまず問題なく能力が使えたことを確認し、一同は家の中へと入る。どうせまたすぐ外に出て検証をするため、装備はそのままだ。
「食料は……さっきの状態と変わりありませんね。消耗品も変わっていません」
「あえて残しておいた熱いコーヒー……うん、さっきと同じままだ」
「補充し直されてるわけじゃないってか……そういやペトラさん、フライパンは?」
「リュックの中にあるな。台所には戻っていない」
「んむむ……持ち出した備品はそのまんま……ね」
状況だけを見れば、本当にただ家が移動しただけ。それからどんなに調べても、イズミ達はそれ以上の結論を得ることが出来なかった。文字通り、家を移動させる前後で違いなんてまるでなかったのである。
「んじゃ、次行くか……ええと」
「今度は『森の中でも家を呼び出せるのか』ですわ」
「おう、それそれ」
「だー!」
再び周囲を警戒して外へ。ガブラの古塔の広場のギリギリにまでやってきたイズミは、森の中へと向かって能力を発動する。
瞬き一つの時間の後、まるで最初からそこに在ったのだと言わんばかりにいつもの家が目の前にあった。
一瞬遅れて。
「……! 離れて!」
バキッ、ブチッ、ガサガサ……という特徴的な音。イズミが警告する前にその場にいた全員がその音の正体を察し、さっとその場から距離を取る。
ややあってから──数本の樹々がどしんと倒れ、イズミ達の足にちょっとばかりの震動を伝えた。
「樹々があろうとおかまいなし、なんですね」
「うお……石垣の端の所、ちょうど樹の幹の半分の所にめりこんでる……なのにあくまで敷地内には倒れないのか」
「あっ、でも……敷地の外に生えている樹の、枝だけは普通に石垣の中に入っていますね?」
「我ながらよくわからんなぁ……」
わかったことその二。どうやらこの家を呼び出す能力は、呼び出される場所に何があっても問答無用で家を呼び出すらしい。中途半端に敷地に被っていた樹は抉るようにして折られている。これならば、多少そこがデコボコしていようがぬかるんでいようが全く問題とならないだろう。
「ま、悪いことじゃないな。家が建てられるような開けて整った場所じゃないと使えない……なんてなったら、移動どころじゃなかったし」
「ですね。個人的には、坂道だとか小川の上とかになるとどうなるのか気になるところですが」
「そこはおいおい、だろうな」
能力の発動はできる。森の中程度であれば場所を選ばず家を呼べる。これだけわかったなら、次は。
「距離とラグだな。とはいえ、ラグは無いと思ってもいいようだが」
「距離はどうする? ここから……とりあえず、塔の反対側まででいいか」
「だな」
くるりと踵を返し、やっぱり周囲を警戒しながらイズミ達は広場を横切っていく。元々家があった場所を過ぎ、ガブラの古塔を過ぎ、さらにその反対側のほうまで。歩いてなんだかんだで三分もかかっていないことを鑑みると、どんぶり勘定のざっくり計算でおおよそ200mと言ったところ。
「ほいほいっと」
鍵を片手に、軽いノリでイズミは能力を行使する。
やっぱり、一瞬で家が目の前に現れた。
「この程度の距離じゃ大して変わらないかもしれないですが……ですが、イズミ様の能力に距離は関係ないと言ってもよさそうですね」
「普通、魔法ならばその規模に応じて溜めや集中が必要だったりするのですが……というか、普通の魔法だったらこれだけ離れた距離での行使はまず不可能ですよ」
「じゃあやっぱり、これは魔法じゃないんだろうな」
200m離れたものを、一瞬で目の前まで呼び出す。詳しい原理なんてわからずとも、距離が長くなればなるほどその分負担がかかりそうだ……というのは感覚的に何となく予想できることだろう。実際、魔法だったら遠くまで干渉させようとすればするほど、負担は増えてくる。
が、イズミの体には何の異常も無い。息切れも無ければ、体が疲れたような感じすらしない。正真正銘、全く変わらない。
「そう言えば、鍵を持って呪文を唱えるのではありませんでした?」
「や……心の中で唱えるだけだよ」
「何故に心の中だけなんです?」
「だって……なんか、恥ずかしいじゃんか」
「……よくわからない感覚ですね。年頃の魔法使いは、格好よく呪文を唱えたがるものですが」
距離も問題なさそうで、いわゆるMP的な制限もなさそう。呼び出す場所の制限もないとなれば、あと残るのは。
「……家に人がいた場合、どうなるかだな」
家に人がいる状態でイズミが能力を使ったらどうなるのか。一緒に呼び出してくれるのか、その場に一人ぽつねんと取り残されるのか。それとも……考えたくはないが、家の移動という時空間のねじれに巻き込まれて、消え去ってしまうのか。
物だったら問題ない。それはすでに確かめられていることだ。だが、人は……イズミの家の中には元々無かったもので、そしてあちらの世界のものではない。イズミの能力が【家をそっくりそのまま呼び出す能力】である以上、その呼び出す対象に異世界の人間が含まれるのかはかなり怪しいところだ。
「でも……万が一を考えると、こればっかりは確かめるわけにもな」
「そうですか? すでに答えは出ていると思いますが」
「え」
ミルカからの思わぬ言葉。はて、いったいどういうことかしらん……とイズミが頭をひねっても、それらしい結論は思い浮かばない。そもそもこの能力は今検証している最中であり、そして以前にはたった一回きりしかつかっていないのだから。
「人ではないですけど、最初に使ったときは……シャマランが家にいたではないですか」
「あ」
奥様達を救出しにガブラの古塔へ向かったときは、イズミ、ミルカ、テオの三人だった。三人全員で森の中を進んでいたのは間違いないが、だからと言って家に誰もいなかったわけではない。
イズミはすっかり忘れ去っていたが、その時家には……ケガをしたシャマランがいたのである。
「そういやそうだった……。あいつ、昼間は外に行っていることが多いから忘れていたぜ……」
「まぁ、私が外に寝床を作ってからは家の中に入ることもめっきり少なくなったからな……さて、一応念には念を入れておくとしようか」
「おい!?」
一人で家の中に入っていこうとするペトラの腕を、イズミは思わず掴んだ。
「なんだ、イズミ殿。ずいぶん情熱的じゃないか」
「あのなあ! ……もし、万が一があったらどうするんだよ。別にわざわざ確かめる必要もないだろう?」
「……いや、そんなことはない。もし人が中にいても問題なく移動ができるなら、実際にこの森を抜けだすとき、坊ちゃんの安全は確保される……そうだろう?」
「……」
「ミルカか奥様が坊ちゃんと一緒に家に残り、私とイズミ殿が森を進む。危険があったらすぐに家を呼び出して、奥様の癒しの魔法で治療してもらう。坊ちゃんを連れて全員で森を進むより、そっちの方が絶対いい」
「……そりゃ、そうだけどさ」
「忘れないでくれ、イズミ殿」
いつになく真剣な顔で、ペトラは断言した。
「この中で、一番命の価値が軽いのは私だ。私は戦うことしかできない……体を張ることしかできない、いくらでも替えの効く人間だからな。私はそうやって役に立てるのを何よりも光栄に思っているし、当然、イズミ殿にもそのように扱ってもらいたく思っている」
「……でも、俺は」
「なに、心配しなくていいさ。シャマランという前例もあるし、イズミ殿のことは信頼している。私だけダメってことは無いだろうよ」
ポンポンと、まるでぐずる子供をあやすようにイズミの肩を叩いて、そしてペトラは家の中へと入っていく。ややあってからリビングの窓の所から顔を出したペトラは、安心させるかのようにこちらへと大きく手を振っていた。
「さぁ、いつでもいいぞ!」
「……わかったよ」
ペトラがそれだけの覚悟を示したのだ。自分だけがへっぴり腰でいられるはずもない。
絶対に成功させて見せるという決意をもって、イズミは手のひらの中の鍵を強く握る。温かくて柔らかい手が、イズミの背中と肩に添えられていた。
そして。
──【House Slip】
家が消えうせ、イズミの目の前に家が現れた。
「ほらみろ、なんともなかっただろ?」
さっきと同じように、ペトラが窓から顔を出している。にっこり笑って、たいそう自慢げな様子だ。ケガをしているわけでも、時空間のねじれに迷い込んでいるわけでもない。正真正銘、さっきと同じペトラがそこにいる。
「……よかったよ、ホントに」
「心配しすぎだ、イズミ殿は……まぁ、その、その気持ちが嬉しくもあるんだが」
「ペトラ、実際の所はどうでした? 外からでは、本当にそっくりそのまま家ごと移動したようにしか見えなかったのですが」
「ん、こっちも……一瞬で石垣の外の景色が切り替わったようにしか見えなかった」
浮遊感も、酩酊感も、魔力酔いなる謎の感覚も、文字通りなにも無かったとペトラは言う。
「決まりだな。イズミ殿の能力は、文字通りそっくりそのまま家を移動させる能力だ。それも、好きなように好きなだけ、何の制限もなく」
「家の中の物が元に戻ったり、家そのものに張られている結界は……イズミさんの能力と言うよりかは、この家そのものが持つ特性なんでしょうね」
「……今更ながら、もうちょっとこう……炎を操ったり、ドラゴンを召喚したりするような華々しいのでもよかったと思わなくもないような」
「そうですか? 私はとっても素敵だと思いますけれど」
ミルカは、にっこりと笑って言った。
「家に帰るための力……イズミさんらしい、優しくて温かい力ではありませんか」
▲▽▲▽▲▽▲▽
こうして、イズミの能力の検証は終わった。この不思議な異世界に流れ落ちたイズミにもたらされたのは、正真正銘【家を呼び出す能力】。華々しい魔法でも、天地を揺るがす異能でもない、唯々家に帰るためだけのその力。
「でも、これで……問題なく、森を移動できるってわけだ」
「……ですね」
【家に帰るためだけの力】をどう使うのかは、イズミだけが決められること。そしてたったそれだけのことであるはずのそれは、この世界では他に類を見ない【大いなる力】の一つでもある。
イズミがそのことに気づくのは、おそらくもっと後のこと。
──動き出すまで、あと少し。




